小人は、枕の下にいる
それは私が食後のコーヒーに口をつけ、その苦味で先ほど食べた鳥肉の脂を洗い流している時のことだった。
「最近ね、心愛の様子が変なの」
妻、美咲がいった。心愛とは、四歳になる娘のことだ。カップの中で揺れる水面を見ていた私は、まず視線だけを美咲に向けた。
眉間に皺を寄せ、悩ましげな目で私を見つめている。両手で大事そうに抱え持ったカップには、口をつけようとする様子がない。
私はここでようやく顔を上げ、聞いた。
「どうしたんだい?」
美咲は少し、言い淀んだ。どんな言葉で説明しようか考えているようだ。
彼女はあまり、頭が良くない。だが、そこが彼女の良さだと思っている。人を信じこみやすく、疑うようなことをしない。結果、騙されやすい。別の言い方で表現するならば、純粋なのだ。
また、人に嫌われることを極端に怖がる。だから何かを言うような時には、こんな風に悩む。オブラートで何重にも、包み込もうとする。やきもきすることもあるが、その人の悪い所を許せてこそ、人間関係は成立するのだ。
私は美咲の次の言葉を待つ。再びコーヒーに目をやる。彼女にプレッシャーを与えないように……。
「変なモノが見えてるみたい」
やっと彼女が、口を開く。
「変なモノ?」私は繰り返した。
「ウン。おばけみたいな……」
思わず私は、鼻で笑ってしまう。カップから一定量で昇り続ける湯気の気流が、乱れる。
「寝室からね、声がするの。最近、毎晩よ。心愛をベッドに八時に連れていって、『おやすみ』っていうでしょう。でも、十時頃にね。トイレに行こうとして寝室の前を通ると、声が聞こえてくるのよ。誰かと楽しそうにお話をするような声。それで私、今日気になって心愛に聞いてみたの。『夜、何をお話しているの?』って。そうしたら……」
何口目かのコーヒーを飲み込み、私は聞く。「なんて?」
「……『小人さんとお話しているの』って」
美咲を見る。――泣きそうな顔をしている。
私は吹き出してしまう。
「笑い事じゃないの!」
美咲の、整った顔が歪む。その顔が見たくって、つい虐めてしまう。
瞳が潤みだしたのを見て、私はネタばらしをするように、いった。
「大丈夫。それはね、『イマジナリーフレンド』というやつだよ」
「いまじなりー……フレンド?」
美咲はキョトンとした顔で、私を見る。
「うん。『イマジナリーフレンド』。心理学用語さ。『空想上の友人』って意味。私達大人だって、頭の中のもう一人の自分に問いかけたりするだろう? それと同じさ。よくあることなんだ。人間関係に慣れてない、子供時代にはね。寂しい時なんかに、自分の創った友人とコミュニケーションをとって、紛らわせたりする。君も経験ないかい?」
「う〜ん……」。そういって、美咲は首を傾げる。
「私にはある。私も子供の頃、あの寝室でよく、『イマジナリーフレンド』と遊んだものだよ。人によってその姿は違うみたいだけど、私のそれも『小人』だったかな。姿は思い出せないけど、懐かしい……。やっぱり親子だな」
「大丈夫。成長するにつれて、それは見えなくなるよ」。そう続けると、ようやく美咲は安心したようだった。笑顔をみせると、カップに口をつける。
「私は風呂に入るよ」。そういって、ネクタイを外すとリビングを出た。腕時計に目をやると、文字盤は見えなかったものの、針についた蛍光塗料のお陰で時間がわかった。二十二時半。冷気が、足元を流れる。
一瞬通った寝室の前で、声を聞いた。
微かな、娘の内緒話。
私は少し笑って、風呂場の扉を開けた。
*
日曜の午後。窓から射す陽光に包まれてうとうとしていると、
「パパ」
声がして、袖の辺りを引っ張られた。
見れば、心愛がニコニコと微笑みながら、立っている。
「なんだい?」
そういうと、心愛は左手にした紙を差し出してきた。
「ココちゃん、小人さん描いたんだよねぇ」
リビングで紅茶をすする美咲が、フォローをする。
心愛はウン、と頷いて見せた。私は、手渡された画用紙を広げた。
クレヨンで描き殴られた、赤い三角帽をかぶった人。異常に大きい、頭と手。
――突如、強烈なデジャヴが、頭を揺さぶった。フィルムの切れ端のような、場面場面が頭の中でフラッシュバックする。
それは擦り切れた記憶よりも鮮明で――頭にプラグを直接刺されて、画像データを見せられているようだった。瞼の裏の闇に、投影される。はるか昔にこの目で確かに見た――景色。
「アイ……」
自分の声に、ハッとする。録音された自分の声を聞いた時のような不快感が、耳に残った。
二人の方を見る。二人とも一瞬驚いた顔をして、それぞれ、対照的なものに変わった。
「アイちゃんしってるの⁉︎」
心愛は顔を輝かせて、腕を引っ張る。美咲は怪訝そうな顔で、いう。「アイ……?」
「こびとさん、アイっていうんだよね!」心愛が続けた。そう、この小人の名前は『アイ』。
数十年前に、私がつけた名だ。――どうして、忘れてしまったんだろう。
アイの姿が、頭に浮かんだ。共働きで忙しく、構ってくれなかった両親。兄弟もいなく、友人もおらず、寂しかった日々。
常夜灯に照らされた薄暗い室内が、怖かった。そんな時、私を励まし、慰めたのは――
枕の下に住む、アイだった。
ふいに涙腺が、緩む。「そう。アイ……」
「アイ。心愛も、見えているのか……」。見ると、心愛は嬉しそうに笑っている。「うん!」
「親子揃って、同んなじ『イマジナリーフレンド』を見たっていうの⁉︎」
美咲の方を見ると、疎外感からくるのであろう、少しの寂しさを顔に浮かべながら――それでも微笑んでいた。
「不思議ね。親子の繋がりって……」
オカルトは信じないタチだが、流石にこれは奇跡としか思えなかった。
幼い頃、私にだけ見えていた幻の友人。もちろん誰にも話したことなどなかったし、描き記したこともなかった。自分自身ですら、忘れてしまっていたことなのだ。
遺伝子に、『イマジナリーフレンド』の情報が焼き付いていたとでもいうのだろうか……。
私は柄にもなく、心愛を抱き寄せ、笑った。
*
私は、病院の廊下を走っていた。硬い革靴のソールがリノリウムを弾いて、高い音が響く。看護師達の制止を無視し、指定の場所まで走る。
向かい合った座椅子に、四人が分かれて座っている。右側には見たことのない、夫婦。
左側には、美咲と心愛。二組は、お互いが正面に来ないよう、ずれて座っていた。
私に気付いて、美咲がこちらを向く。泣いているのが、遠くからでもわかる。心愛は、ずっと下を向いている。
私は美咲や向かいの夫婦と言葉を交わしながら、頭を整理しようとして、それでもしようとすればするほど散らかっていくのを感じながら、頭を下げ続けた。
まさか、心愛が友人を、プールに突き落として――
殺そうとしただなんて
貧血を起こした美咲を一人、病院に残して、心愛と私は家へと帰った。
心愛の友人は、未だ意識を取り戻していなかった。後部座席に座った心愛は、帰るまで、一言も声を発さなかった。
「どうしてあんなことをしたんだ?」
家に着くなり、私は心愛に視線を合わせるために膝立ちになり、小さな肩を両手で掴みながら、聞いた。
心愛は無表情のまま、淡々といった。
「だって、パパだってそうしたでしょ」
――‼︎
刹那――。頭に場面が浮かぶ。濃い緑色の水面。浮かぶ枯葉と、小さな身体。
私は咄嗟に、両手を離した。心愛が今日見た映像が、肌を通じて、頭の中に流れてきたのだと、一瞬、思った。
――違う。
違う。――気付いた。気付いてしまった。そんな――。
いつか夢で見たそれのような、朧げな映像。水面は凪。灰色の空。私は一人、プールを後にする……。
私自身が、見た、景色――。
「アイちゃんがいってたの」
心愛がいう。
「パパもやったことあるから。だいじょうぶだ、って」
「違う!」
違わない。
それは自分が何より、わかっていた。
「黙れ! 何もいうな!」
――手が震える。息が荒くなる。
全身を流れる血が、冷たい。冷えた血を、心臓が全身にまわす。
氷の海を、漂っているような感覚。
私は暴れる心愛を抱きかかえると、押し入れに閉じ込めた。近くにあったゴルフバッグからクラブを一本抜き取ると、心張り棒にした。
心愛の声を無視し、私は台所へ向かう。手が震え、一度落とした包丁を逆手に握り直し、寝室へと向かう。
扉を開け、そこに目をやる。
遺伝子ではない。そこにいる。そこに住み着いている。
小人は、枕の下にいる。
私は心愛の枕を左手でめくると――
「やめて!」
全身の体重を乗せ、突き刺した。