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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕 が含まれています。

スプートニク・サマー

作者:座木春
僕の師匠は魔法使いで絵描きだ。名前は知らない。
教えてくれない。

「私を名前で呼んでもよいのは、この世でたった一人だけだよ」

師匠はよくそんなことを言う。だから僕は彼をただ師匠、とだけ呼ぶ。
師匠曰く、魔法使いにとって名前は心臓と同じ意味を持つのだそうだ。
だからそれを教えるということは、自分の命を相手に捧げてもよいということらしい。
難しいことは分からないが、師匠にとって僕はそういう相手ではない。
それだけはよく分かっていた。

夏の朝、師匠と僕は夜明けと共に起き出す。
そして藤のバスケットにガラスの小瓶を幾つも詰め込みアトリエを出発した。
もちろんお弁当も忘れない。
ポットに詰めた熱いほうじ茶。ピーナッツバターのサンドウィッチ。
最後に葡萄も二つ入れる。師匠は紫、僕は緑。

「今日こそ見つかるといいのだけれど」

くるくると癖のある鳶色の髪を風に遊ばせ、師匠が呟く。
目指すは海岸。目的は「特別な青」。
眺めるだけで心が蕩けてしまいそうな、そんな青を師匠はずっと探し続けている。

僕の師匠は魔法使いの絵描きだ。
だから絵の具も特別製。魔法の絵の具。師匠の手作り。
師匠は世界の色を絵の具に日々作品を描いている。

杖の代わりに絵筆をかかげて師匠は今朝も海を一撫で。
すると筆の先が青く染まり、じきにポタポタと滴ってくる。
僕は慌てて小瓶を出すと滴る青を受け止めた。ガラスの中には冷たい青。
まるで海の水を煮つめたような。
朝日にそれをかざしてみると小さな影がチラチラと中で動いている。
大方、早起きの魚達が魔法に巻き込まれたのだろう。

けれど師匠はそれをチラリと見るなり「違う」と悲しそうに呟いた。
今朝もどうやらハズレのようだ。けれど、僕は少しホッとする。

「でも素敵な青だよね。持って帰って朝顔の花にでも使おうかな」

小瓶を僕に預けると、師匠はとってつけたようにそう言った。
そのまま浜辺に打ち捨てられ、ひっくり返ったボートに座る。
そして集めた流木でたき火を起こすと、師匠は僕に「朝ごはんにしよう」と笑った。

僕の師匠は魔法使いだけれど、元は普通の人間だった。らしい。
いや、普通の人間というのは語弊がある。
師匠は最初、魔法使いではなかったけれど大変素晴らしい絵描きだったのだから。
師匠の筆は魔法を覚えるずっと前から、魔法の杖も同然だった。
彼の手にかかるとキャンバスの上で花は香り、鳥は歌った。比喩ではなく、現実に。

人が命を生み出してしまう。
その、神をも恐れぬ大それた才能故に、師匠は人間を辞めざるを得なかった。
そうして師匠は魔法使いとなり、長い時を生きている。

師匠は大抵のものを絵筆で生み出すことができた。
かくいうこの僕もまた、元を辿れば師匠の手によって生み出された存在だ。
森羅万象、あらゆるものに師匠の筆は命を与える。

けれど、そんな師匠にもひとつだけ描けないものがあった。
それは師匠のかつての恋人。青い目をした優しい男。
二人は師匠が人間だったころに出会い、死が二人を別つまで共にあると誓い合った。
しかし彼はある夏の日、波に攫われ師匠の前から消えた。

以来、師匠は己の持てる力の全てで彼の絵を描き続けているらしい。
けれどいまだにそれは完成してはいないようだ。
というのも、彼の瞳を描くための青を師匠はまだ、見つけることができないからだ。
師匠の話によると、彼の瞳は「眺めるだけで心が蕩けてしまいそうな」それは素晴らしい深く美しい青なのだという。

魔法使いとなってからというもの、師匠は世界中を旅してその色を探し続けた。
けれど、どこに行っても見つからなかった。
悩み苦しみ、悲嘆にくれた末、師匠はふと思いついたそうだ。
彼の瞳の青はきっと、彼の消えたあの海から取り出せるに違いない、と。

それからすぐ、師匠は悲しい思い出の残るこの海岸にアトリエを建てて暮らし始めた。
助手兼話し相手として僕を一人、生み出して。
そして恋人の死んだ季節が巡って来るたびに海の色を取り、青を探し続けている。
恋人の瞳を描くにふさわしい、「心が蕩けてしまいそうな」美しい青を。

こんなことを言ってはいけないのだろうが、僕は時々、師匠の探して続けている特別な
青が永遠に見つからなければよいのにと思ってしまうことがある。
もし、いつかその青が見つかって師匠の大切な人が完成してしまったら。
そのとき、僕はお払い箱になってしまうかもしれない。

僕は師匠を愛している。
それは雛鳥のすり込みのように産みの親に対する思慕なのかもしれないけれど。
だとしても、僕は師匠のことが好きだ。好きで、好きで、堪らない。
師匠は可愛らしい人だ。花びらを浮かべたミルクのように白い肌。翡翠のような緑の瞳。
ツンと摘まんだような鼻梁にはパラパラとそばかすが浮かび、笑うと少し八重歯が覗く。
真夜中に怖い夢を見ると泣いてしまうし、コーヒーもお酒も煙草も飲めない。
そんな子供のような師匠のことを、僕は真剣に愛していた。


ある日の午後だった。
その日も朝からハズレを引き、師匠は疲れたのかアトリエの庭の二本のトネリコの間に
ハンモックを吊ると、午後の昼寝をし始めた。
僕はというと、一人で屋根裏の物置の整理をしていた。

物置はさながら師匠のアルバムだった。
黄色い原稿用紙に綴られた日記に、チョコレートの缶に入れられた幾つもの貝殻。
海藻の標本を集めたスクラップブックがあったかと思えば、虹色のガラスペンもある。
埃を被り、けれどきっと師匠が捨てられずにとっておいた思い出の欠片。
そのひとつひとつを僕は整理し、ていねいに箱へとしまい直す。
僕の知らない師匠の思い出を眺めるのは、少し後ろめたい気もした。

「……?」

そのとき、僕はふと物置のすみに置かれた奇妙な包みを見つけた。
黒い布に包まれた平べったいそれは、おそらくキャンバスの類だろう。
首を傾げつつ、僕はそれを手に取った。
師匠は描いた絵をこんな風にしまい込む人ではない。
では、これは何なのだろう。

そのとき、僕はほとんど直感的に理解した。
これはきっと師匠の恋人の絵だ。師匠の作品で唯一、未完成のもの。
いつだったか師匠は、瞳以外の全てはすでに描き終わっていると言っていた。
多分、特別な青が見つかるまでしまっておくつもりだったのだろう。

僕はチラリと窓から外の庭を眺めた。
水色のタオルケットをかけ、師匠はスウスウと赤ん坊のように眠っている。
僕は一瞬だけ迷い、けれどすぐに絵を片手にアトリエを抜け出した。
そうしていつもの海岸まで走ってゆく。
真夏だというのに僕は自分の考えの恐ろしさに背中が冷たくなっていた。

「……」

打ち上げられ、乾いた流木を集めると僕は絵の包みの上に積み上げた。
そしてドキドキしながらマッチを擦ると、そのまま流木に火を点ける。

――驚くほど簡単に、絵は燃えてしまった。

「……なにを、しているの」

すっかり燃えてしまったキャンバスの残骸を僕がぼんやり眺めていると、背後から突然
師匠の声がした。のろのろと振り返ると、そこには息を切らせた師匠が立っている。
色褪せたジーンズに、生成りのエプロン。
師匠は僕の顔をじっと見つめたあと、僕の足元のたき火跡を見た。
そしてもう一度、穏やかな声音で「どうしてこんなことをしたの」と言った。

「貴方が好きだから」

僕は震える声でそれだけ言うと、わっと泣き出してしまった。
いけないことをしたのだということは分かっている。
けれど、どうしても止められなかったのだ。師匠のことが好きで、好きで。
名前も教えて貰えないくせに僕は師匠を愛している。
彼に僕を見て欲しかった。作り物の命のくせに、おこがましいにも程がある。

「……そう。そうなの」

師匠は僕を叱らなかった。
ただ、何度も何度も「そうなの」と一人で呟きながら、うんうんと一人頷いていた。
僕は訳が分からなかった。分からないまま、いつまでもグズグズと泣いていた。

「とりあえず、帰ってお茶にしよう。かき氷を作ろう、菫のシロップで」
「バニラアイスものせて……?」
「そうだね。ついでに君の大好きな白玉も乗せよう」

師匠はそう言うと、僕の手を引き歩き出す。
ごめんなさい、という僕の呟きは波の音に消され、師匠には届かなかった。


僕が師匠の絵を燃やしてしまってから、一週間が過ぎた。
その間、師匠は絵のことに関しては一言も触れなかった。
けれど多分、描き直すつもりなのだろう。相変わらず、朝になると僕を連れて海岸へと
むかい、特別な青を探し続けていた。

多分、それが師匠の答えなのだろうと僕は思った。
どんなに好きでも、師匠の心の中にはたった一人しかいないのだ。
今後たとえ僕が何度絵を燃やしたとしても、そのたびに師匠は黙って描き直すだろう。
そうして恋人と再会する日をただ、待っている。
師匠の心に、僕の居場所なんて最初からなかったのだ。

「今日、見つからなければ……また来年になっちゃうね」

師匠は僕と連れ立って砂浜を歩きながらポツリとそう呟いた。
白く泡立つ波打ち際。時々貝殻を拾いポケットに入れつつ、師匠は絵筆で海を撫でる。
僕は「今日こそは見つかりますよ」などと心にもないことを言いながら、連れ立って、
師匠に手を引かれていた。

そうして単調な儀式を何度かくり返した後、不意に師匠が声をあげた。

「……これだ。これだよ!」

僕の手からガラス瓶をひったくると、師匠は弾んだ声でそう叫んだ。
そうして呆気にとられる僕を置いてきぼりにしたまま、ピョンピョンと浜辺を跳ねると
突然、ぱったりと砂の上に大の字に倒れ込む。慌てて駆け寄ると、師匠は泣いていた。

最初、僕は事態が呑みこめず、ただぼんやりとしていた。
けれど師匠の顔を眺めているうち、ついに恐れていた日が来てしまったことを悟った。
ああ、ついに見つかってしまったのだ。
師匠がずっと探し続けてきたもの。愛する人の瞳の色。
「眺めるだけで心が蕩けてしまいそうになる」世界で一つきりの、特別な青が。

「良かったですね」

僕は内心、泣きそうだった。
今にも心がねじ切られて、バラバラになってしまいそうな気さえしていた。
けれどもここは笑うところだ。やっと師匠の願いが叶うのだから。

師匠は心底、嬉しそうだった。
彼は僕の言葉に何度もうなずき、青を閉じ込めた小瓶にキスをする。

「そうだね。これでようやく、完成させられるよ」

唄うようにそれだけ言うと、師匠はエプロンのポケットから小さな絵筆を取り出した。
そのまま筆先を瓶に入れ、絵の具を浸す。

「すぐに済むからね」

師匠はそう言うなり、僕の両目を軽く絵筆で撫でた。
その途端、頭の中でパチパチと火花が散って一気に様々な記憶があふれ出してくる。

――ああ、そうだ。思い出した。
あの日、僕は子供が溺れているのを見て、思わず海に飛び込んだのだ。
そうして死んだのだ。波打ち際で恋人が泣くのを見つめながら。

僕はあの日、海に沈んだ。

「……思い出した?」

師匠が――否、愛する恋人がそう問うのに僕は深々と頷いた。
そうして花びらのような唇にキスを落とすと、僕は一言「本当にゴメンね」と言った。

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