映画の主人公の様に、ハデなアクションスターになってみたい。漫画の主人公の様に、幻想的な世界で冒険してみたい。テレビドラマの主人公の様に、心踊る恋愛をしてみたい。
誰もが思い、誰もがそう願うだろう。この薄汚れたちっぽけな世界より、その方が素晴らしい人生を、有意義な人生を送ることが出来るだろう。
こんな腐った世界なんて、消えて無くなってしまえばいい。
嗚呼、人生にリセットボタンがあったら良かったのに。
*
冷蔵庫に入っていたのはスポーツドリンクではなく、後味の悪い牛乳だった。ひんやりとした冷気に風呂上がりの火照った身体を冷やされながら暫く考えた挙げ句、扉を閉めて水道の蛇口を捻った。コップにたっぷりと注がれた水道水を少し口に含み、独特の臭みに顔をしかめる。それでも半分ほど飲んでから残りは棄てた。
リビングでは妹の佳奈が今流行りのテレビドラマを視ていた。
「面白いの?ソレ」
食い入る様にテレビに夢中になっている妹に声を掛ける。
「うん」
「何処が?」
「検事役の人格好良いし。ヒロインと最初は険悪〜な感じなんだけど、段々分かりあって……」
と、ここで妹の言葉は止まってしまった。視線はテレビに向いたままだ。
「で?」
「分かりあって……ってお兄ちゃん、今いい所なんだから後にしてよ! あっ、ほら見てよ! この人がね〜はぁ、良いなぁ〜」
うっとりとテレビに釘付けになる妹に、佳哉は溜め息一つ落とすと、自室へと戻った。くだらない、と佳哉は思う。テレビドラマなんて所詮は架空の出来事。視聴者が夢中になれる要素を散りばめて、最後はハッピーエンド。お決まりのエンディングだ。
そうやって架空の世界にハマって何が面白いと言うのだろう。現実の世界は、こんなにもつまらないと言うのに。
佳哉は学校指定鞄からノートを取り出した。表紙はカッターナイフで刻まれボロボロになっている。歴史用に纏めたノートの中身にまで傷は深く、油性マジックで書かれた『死ね』『消えろ』『ウザイ』の文字たち。つい油断して机の上に出しっぱなしにしておいたのがいけなかった。少し席を離れた隙に、この有り様。
佳哉はそのノートをゴミ箱へと投げ棄てた。テレビドラマだと、熱血教師がやって来ていじめは解決、そして仲直り? 佳哉はふんと鼻で笑った。そんなの、有り得ない。有り得る筈がない。
テレビのスイッチとゲーム機のスイッチを押し、昨日からの続きをしようとゲームソフトを立ち上げた。主人公の名前は『カヤ』。自分と同じ名前にした。『カヤ』はファンタジーの世界で自由奔放に冒険を続ける。出逢う仲間を引き連れて、敵と戦い、勝利し、アイテムを手に入れる。
「あ……」
ジャンと音がして『カヤ』が倒れた。佳哉は直ぐ様リセットボタンに手を伸ばす。『カヤ』は死なない。無敵なのだ。不死身なのだ。だから、どんな事だって出来る。
佳哉はゲームをやっている時だけは学校の事を忘れられた。いじめの事を忘れられた。全て、忘れたかった。
『カヤ』は言う。「僕が助けに行こう」と。村人たちは勇者の言葉に驚喜し乱舞する。
「勇者さま。ありがとうございました。これはほんのお礼です」
村一番の美女が飛び切りの笑顔で『カヤ』に寄り添い、村長がお礼の金品を手渡す。『カヤ』の知名度は上がり、評価も上がり、やがては世界を救うべく国王から声が掛かる。
「勇者よ、あの森の魔物を退治してくれ」
『カヤ』は仲間を引き連れ森に入り、何度も迷い苦戦しながらも魔物を倒す。魔物は奴ら。腐った世界に蔓延るゲスな奴ら。ノートをカッターナイフで切り刻む奴ら。油性マジックで下卑た言葉を綴る奴ら。上履きに画鋲を仕込む姑息な奴ら。机や椅子に彫刻刀でゲイジュツを刻む奴ら。
「死ね」
佳哉の言葉が『カヤ』に反映され、それは行動に移される。バタバタと倒れていく魔物たちに佳哉は口の端を持ち上げた。
見て見ぬふりをする奴らも同罪。
明けて欲しくない夜が明けてしまう。
佳哉は目覚まし時計が鳴るよりも早く目が覚めた。身体はダルく、頭は鉛の様に重い。こめかみあたりがじんと鈍い痛みを発し、手足に金縛りにあった時の様な痺れを与える。
ピピピと目覚まし時計の音が鳴り、しばらく鳴った所でようやく佳哉はそれを止めた。ゆっくりとベッドから身体を起こし、両手を後頭部から肩に当て首をゆっくりと回す。まだ痛みと痺れは残ってはいたが、行かない訳にはいかなかった。学校に。
着替えを済ませリビングに降りて来た時にはもう既に佳奈は起きており、母親が作ってくれた朝食を頬張っていた。
「おふぁよ、佳哉」
「おはよ」
佳哉も席に着くと母親が温かいスープを運んで来てくれた。
「おはよう、佳哉。良く眠れた?」
「ん」
適当に相槌を打ち、スープに口をつける。空っぽの胃袋に温かいスープはじんわりと染み込み、身体全体を目覚めへと導いて行った。
「今日から期末試験でしょう? 勉強は大丈夫? まぁ佳哉なら心配無いわよね。佳奈は? 貴女昨日遅くまでテレビ見てたでしょう?」
「大丈夫だもーん。赤点取らなきゃ良いって」
「赤点なんて嫌ぁよ、お母さん。恥ずかしいもの。ご近所でも噂されちゃうわ。吉岡さんの娘さんは赤点だったんですって、なんて。ほら、2つ隣の山崎さん、噂好きで有名なんだから。直ぐに広まっちゃうわ」
「だから大丈夫だってば」
「そう? なら良いけど、でもね……」
母娘の話を聞きながら、佳哉は黙々と朝食を口に運んだ。彼女は世間体しか考えていない。人からどう見られるか。どう見られているか。そんな事ばかりを気にしている。
例えば自分が今時流行りのいじめにあっていると言ったならば、母はどんな反応を示すだろうか。きっとそんなに大きくもない眼をカッと見開いて、そしてこう言うだろう。
『息子がいじめられてるなんて嫌ぁよ、お母さん。恥ずかしいもの。ご近所で噂されちゃうわ』
そんな様子を想像し、佳哉はふんと鼻を鳴らした。
「行ってきます」
母親の顔も見ずにそう告げると、佳哉は足早に外に出た。
まるで一寸先も見えない暗闇の中を歩いているようだ。
佳哉は通学路を重い足取りで歩く度に思う。視線を足元に落とし、極力周囲の目を避けながら、佳哉はゆっくりとその道を歩く。少しでも油断しようものなら、足元を掬われて転がってしまいそうだ。無数の蔦が足に身体にまとわりつき、これ以上の進行を阻む。
行きたくない。そんな感情が顕著に表れている結果だ。
暗闇の森。そう、ここは暗闇の森なのだ。
暗闇の森はまだ続いている。学校の校門を抜け、下駄箱へ向かう。案の定、上履きは無かった。仕方無いのでいつもの様に外来者用のスリッパで代用だ。歩く度にペタリペタリと音がするのが不快で堪らなかったが、画鋲が落ちている可能性もあるのだから仕方無い。
未だ足取りは重く、教室までの道程はまるで森の中の獣道だ。なかなか前へと進まない。
「よ・し・お・か」
ポンと肩に手が置かれた。身体が硬直する。脳裏に声を掛けて来た人物が浮かび、バクンと心臓が飛び出る程の音を響かせた。全身の血は下へと降り、硬直したままの身体が微かに振動する。
恐怖による震え。
「あれぇ、どうしちゃったのかなぁ? 上履きなくしちゃったの? 仕方無い子だなぁ」
嫌味ったらしい声が耳元で響いた。
「イイコの吉岡君でも忘れ物しちゃうんでちゅねぇ〜」
クスクスとその後ろから別の声が降りかかる。
『仲尾学』と『加川健二』が交互に佳哉の耳元で囁く。
「歴史のノートは忘れてないよねぇ〜」
「吉岡君は優秀でちゅからねぇ〜」
囁く声とクスクスと笑うその声が、まるで地獄から響いて来たかの様だ。それは徐々に佳哉の身体を、精神を蝕み、やがては喰らい尽くす。
ポンポンと二回叩かれて、二人は佳哉を残して教室へと向かった。振り返ってこちらを見るその顔はニヤニヤと、悪魔の様に見えた。
自らの境遇を嘆いた事はなかった。ただ、くだらない。それだけ。
いつもの一番後ろの窓際の席へと座る。今日は机も椅子も汚れてはいなかった。
「……ッ……」
代わりに小さな剃刀が一つ、机の中に忍ばせてあった。佳哉はその丁度尖端に触れてしまい、ぷっくりとした血の玉が人差し指に作られた。そんなに深い傷ではなかったが、ズキンズキンと心臓が脈打つたびに傷んだ。利き腕の右人差し指だった為に少々難儀するかも知れない。
佳哉は小さく、誰にも悟られない様に溜め息を吐いた。
「あっ、怪我してる。はい、絆創膏」
差し出された傷テープに、佳哉は面食らった。佳哉の右側が窓。左側に席はあったが、誰も座っていなかった筈だ。そこに人懐こい笑顔の少年が座っていた。
何組の奴だ?
佳哉の眉間に皺が寄る。素直に見ず知らずの他人から親切を受ける気になれなかった。奴らの新手の嫌がらせかも知れない。
躊躇している佳哉に、少年は小首を傾げ、次に満面の笑みをこちらに向けた。
「HRで挨拶したんだけどな。聞いてなかった? 僕は野山秀一。秀でるに数字の一で秀一。今日転校して来たばかり。だから教科書もまだ揃ってないんだ。見せてよ」
『野山秀一』は不思議な男だった。ころころと良く表情が変化する。笑ったり口を尖らせたり目を見開いたり。笑顔にも数種類あって、それらはどれも自分にはないものだった。
「吉岡のノート、よく纏められてて見易いね。今度貸してよ。あ、次歴史だっけ。歴史のノートも期待大〜」
ニヤッと白い歯を見せて笑うその顔には嫌味の欠片もなく、実に爽やかなものだ。佳哉は久しぶりに見た気がする何の裏もないその笑顔に暫し見入った。
彼は何故こうも笑顔を見せられるのだろうか。
野山秀一が話している時、笑顔を見せている時、佳哉の顔の筋肉は動く事なくただ申し訳程度に相槌として数回頷いただけだった。
「歴史のノートはない」
野山秀一の顔を見ずに佳哉は言う。ある訳がなかった。ボロ雑巾の様になってしまったソレは昨夜自室のゴミ箱へと葬られたのだから。
野山秀一は一瞬不思議そうな、困った様な顔をしたが、それは直ぐに消えた。そしてまた笑顔を見せる。
「教科書届くの明後日なんだ。明日も宜しくな」
それから、自分の事は『秀一』でも『秀』でも良いと言った。代わりに『佳哉』と呼ばせて欲しい、とも。佳哉は承諾も拒絶もしなかったが、次の会話(と言っても秀一が一方的に話し掛けているだけなのだが)では既に『佳哉』と呼んでいた。
今まで家族以外に呼ばれた事のない名前で呼ばれ、むず痒さと不思議な困惑が佳哉の中を駆け巡った。だが、悪い気はしなかった。
次の日も確か歴史の授業があった筈だ。秀一の為にと言うわけではないが、佳哉は今夜中にノートを纏めておこうかと思った。
今日はまだ『仲尾学』『加川健二』の攻撃は受けていない。朝の様子からして、何か仕掛けて来てもおかしくはなかったが、机に忍ばせた剃刀で今日の『いじめ』は気が済んだとも取れる。右手の人差し指には秀一から貰った傷テープが巻かれていた。
放課後、秀一の姿は既になかった。転校して来たばかりだ。他の人達とも話しているのだろう。あの人懐こい笑顔の彼の事だ、直ぐにクラスに馴染むに違いない。佳哉は少しだけ焦燥感の様なものを感じだが、それだけだった。
帰宅後は夕飯を適当に済ませ、歴史のノートの作成に取り掛かった。今朝母親が今日からと思っていた期末試験は明後日からだった。妹の佳奈は今日からだから、それと勘違いしたのだろう。佳哉は机の上に広げたノートに目を落とした。真っ白だったページは黒い文字と色とりどりのペンで装飾されている。作成した歴史のノートはきっと秀一の役に立つだろう。そう思うと何故か頬の筋肉が緩んだ。
最悪だ。
佳哉は口の中で呟いた。目の前には『加川健二』の不細工な顔がある。その傍らには『仲尾学』が腕を組んで此方に見下す様な視線を向けている。
朝一番で彼らと会ってしまったのは、とても運が悪い事だった。しかしそれは偶然ではなく必然で、彼らは通学路の途中で佳哉を待ち伏せしていたのだ。
「野山秀一君は俺らの友達だから」
口臭を撒き散らしながら『加川健二』は言う。佳哉は反射的に顔を背けた。
「そーゆう事だから。わかったぁ? 吉岡君」
『仲尾学』が歩み寄り、佳哉の肩をポンポンと叩く。そしていつものニヤニヤとした気味の悪い笑みを浮かべる。
成程、と佳哉は思う。昨日の放課後に秀一の姿が見当たらなかったのは、彼らが呼び出していたからなのだろう。一体秀一は彼らと何を話したのだろうか。大体の予想は付いた。吉岡と関わるな。そんな事だろう。もしかしたら『いじめ』に加担する様にも言ったかも知れない。
佳哉は無駄になってしまった歴史のノートの事を思った。
暗闇の森はいつまでも暗闇のままで、一筋の光さえ射し込んではくれない。ようやく見付けた小さな光の粒も、森の暗闇には勝てなかった様だ。
佳哉は歩く。今日もまた、暗闇の森の中を。
佳哉は自分の席へと着いた。上履きは未だ見つからず、今日もスリッパだ。
隣の席を見てみるが、秀一はまだ来ていないようだ。佳哉は机の中を覗き込み、剃刀の有無を確認する。隅々まで確認した所で、紙切れが入っているのに気付いた。恐る恐るその紙を広げる。
『死ね』
飛び込んで来た文字。黒い筆ペンの様なもので書かれた一言。
佳哉はしばらくそれを眺めた。誰が書いたのか。誰が机に入れたのか。詮索する気にはなれなかった。
佳哉は紙をくしゃりと丸めると、そのままゴミ箱へと投げ入れた。
いつからこんな事が『日常』になってしまったのだろう。
佳哉はぼんやりと考え、そしてそれが明確な答えが浮かぶ間もなく暗闇の森の中へと堕ちて行く。
どうでもいい。考えても無駄な事。
彼らが何故いじめるのか。以前はそれも考えた事があったかも知れない。だが、もはや今はどうでも良かった。
「おはよう、佳哉」
右側から掛けられた声に振り向いた。そこには口元に傷テープ、頬には湿布を貼り、左目の下を赤紫色に染めた満面の笑みの秀一がいた。その様子に佳哉は思わず目を丸くする。
「それ……」
「あ、これ? 酷ぇだろ? 帰りに自転車で転んじゃってさぁ」
白い歯を剥き出しにして、屈託の無い笑顔を見せる秀一。痛々しいその顔に、佳哉は思わず目を反らした。奴らがやったんだ。そう思った。自転車で転んだにしては腕も脚も怪我していない。怪我をしているのは殴られたと思われる顔だけだ。昨日、彼らに何があったと言うのだろうか。
「それよりさ、今日の帰り、寄り道してかね? ファーストフードでも良いや。まだ何処に何があるかわかんないんだよね。案内してよ」
秀一は相変わらず笑っている。痛々しい顔の傷などお構い無しに。
「……歴史の……ノート……」
佳哉はどう答えて良いかわからず、昨夜纏めた歴史のノートを机の上に出した。
「おっ!」
秀一は直ぐに食い付き、佳哉が纏めたノートをパラパラと捲った。そして満足気に頷く。
「やっぱ凄ぇな、佳哉は。わかりやすー」
満面の笑みを浮かべる秀一。その様子を見て佳哉は何故だか頬が少し緩んだ。
放課後は、秀一と一緒に帰る約束をした。それは佳哉にとって初めての事だった。高校に入学してから一度も、誰かに誘われた事はなかったし、勿論自分から誘った事もなかった。そんなのは面倒なだけだと思っていたし、必要ないと思っていたから。
焼却炉までゴミ袋を運び、佳哉は額の汗を拭った。
「あとはこれをこん中に入れるだけか」
隣で同じ様にゴミ袋を抱えている秀一が言った。元来、ゴミ捨ては佳哉の役目だった。掃除当番でも何でもないが、『仲尾学』に押し付けられたのだ。それを秀一が何も言わずに手伝ってくれていた。
焼却炉の蓋を開けると中ではもう火が燃え上がっており、熱風が二人を襲った。佳哉がゴミ袋をその中に放り込む。次に秀一が。焼却炉の蓋を閉めて、一息吐いた時だった。
ドサッという音と共に身体に何かが覆い被さり、それと共に悪臭が立ち上った。それは佳哉の髪や制服を汚しただけではなく、秀一の制服までも汚してしまった。
上を見上げると、何階かの窓から男子生徒2、3人がゴミ箱片手にこちらを見下ろしていた。奴らがこのゴミを佳哉と秀一の上にばらまいたのだ。
「よーぅ、ゴミ共! 悪ぃなぁ! ゴミ箱と間違えちまったぜ!」
上から降って来たその声は、『加川健二』のものだと直ぐにわかった。
「……ごめん……」
佳哉はか細い声で秀一に謝罪した。そうだ、自分の所為なのだ。自分と居る事で、秀一に迷惑をかけてしまう。
「……ごめん……」
佳哉はもう一度謝罪の言葉を述べた。視線を落とし、ぎゅっと両手で拳を作る。
秀一はどんな顔をしているだろうか。どう思っているだろうか。きっと、自分とはもう話してはくれないだろう。
初めて悔しいと感じた。今まで一度も抱いた事がない感情だった。ノートを切り刻まれた時も、上履きを隠された時も、机に落書きされた時も、トイレで水を掛けられた時も、腹を殴られた時も、背中を蹴られた時も、悔しいとは思わなかったのに。
佳哉はぎゅっと下唇を噛み締めた。
「何がさ?」
全く予期していなかった言葉に、佳哉は顔を上げた。そこには何も変わらず微笑む秀一がいた。
「ほら、行こうぜ。お腹空いたぁ〜!」
秀一は佳哉の背中をポンと軽く叩いた。それだけで、佳哉の心は救われた。
帰りは約束通りファーストフード店へと行った。通学路からは少し離れた所にある店だ。学校が終わったら直帰する佳哉も存在は知ってはいたが、入るのは初めてだった。しどろもどろで注文を済ませると、秀一も同じ物を注文し、席に着く。店内は通学路から外れているという事もあってか、そんなに混雑してはいなかった。
佳哉は初め何を話して良いか解らなかった。友人と帰りに寄り道をし、この様に向かい合って座り、話をした経験がないからだ。だがそんな佳哉の様子を知ってか知らずか、秀一の態度は学校で話す態度と全く変わらない。ころころと変わる表情も、何種類もある笑顔も同じままだ。
「俺には妹がいるんだ。佳哉も? 偶然だなぁ。やっぱ可愛い? あは、やっぱたまに憎らしいよな」
話すのは専ら秀一で、佳哉は聞く専門だ。相槌を打ち、時々言葉を返す。その一つ一つが佳哉にとっては新鮮だった。
秀一には妹がいる。妹は佳哉の妹、佳奈と同い年らしい。兄もおり、こちらは三つ上。母親と父親と兄妹とで五人暮らし。兄は有名大学に通っており、母親は妹には甘い、等々、秀一の口からは休むことなく言葉が飛び出した。
父親の話になると、秀一の顔が一瞬陰った。それを見た佳哉は無理に聞き出そうとはしなかった。佳哉も自分の父親に対してははあまり良い印象を抱いていないからだ。海外赴任が多い父親とは滅多に顔を合わせる事がない。合わせたとしても父親から出る言葉は決まっていた。『良い大学へ行け』それだけだった。佳哉はその言葉に逆らわず勉学に励んだ。そのお陰か、学内では常にトップクラス。全国模試の結果もトップクラスだった。だが、そんな佳哉を父親は一度も誉めた事がない。笑った顔さえ見たこと無いのでは、とも思う。
「そう言えば」
佳哉はふと感じた疑問を口にした。
「何で今の時期に転校を?」
年度始めや学期の始めならまだ解る。だが、秀一はキリの悪い、明日から期末試験が始まるというこのタイミングで転校して来たのだ。何か特別な事情でもあるのだろうか。
「え……あ、うん、家庭の事情。あ、現国のノート貸してくれない? 俺苦手で」
「いいよ」
「あ、そしたら佳哉が勉強出来ないか」
「大丈夫」
佳哉は人差し指でトントンとこめかみ辺りをつついた。
「ここに入ってる」
暫くの沈黙があった後、二人は同時に吹き出した。何が可笑しかった訳ではない。こうして冗談を言い合う事が嬉しくて、楽しくて仕様がないのだ。
昨日初めて会った秀一を、佳哉は信頼していた。信用していた。いつもは用心深く、他人に深入りしない佳哉であったが、秀一に関しては違った。いや、佳哉が望んでいた事かも知れなかった。
『親友』と呼べる存在を。
佳哉は秀一に現国のノートを貸し、数2の勉強を少ししてから家路に着いた。実に充実した一日だった、と佳哉は思う。学校ではゴミをかけられはしたが、そんなのは大した事はない。秀一と寄り道をし、ハンバーガーを食べ、家族の話をし、共に勉強をした。佳哉にはそれで十分だった。
ただいま、と言いかけて佳哉はギクリと身を堅くした。玄関のタタキに大きな革靴が置いてあったからだ。
帰って来ている。父親が。
そう思った途端、さっと血の気が引いた。それは『仲尾学』や『加川健二』と対峙した時の感覚に似ていた。それが恐怖によるものだということに、佳哉はその時初めて気付いた。
先程までの秀一と過ごした楽しかった時間が嘘のようだ。居間からは談笑が聞こえる。母親と、佳奈と、そして。
「あら、お帰りなさい」
恐る恐る居間の扉を開けた佳哉に、 母親が先に気付き声をかける。父親はこちらをちらりと見、
「こんな時間まで何処へ行ってたんだ」
先程までの談笑は消え、重苦しい気配が辺りを支配する。息苦しい。逃げ出したい。佳哉は父親を直視する事が出来なかった。
「ちょっと……友達と寄り道してて……」
俯いたままで答える。
「帰ってきたらまずは『ただいま』だろう」
「……ただいま……」
この重苦しい空気を察知してか、佳奈はそそくさと自室へと戻って行った。母親は佳哉の夕飯を食卓に並べる。このまま食卓に着くと、父親と対面する形で夕飯を食べる事になる。それは堪らなく嫌だった。
また、あの森に居るような感覚に襲われる。あの、暗闇の森の中に。早くこの場から逃げ出してしまいたかったが、部屋の雰囲気がそれを許してはくれない。
佳哉は諦めて目の前の夕食を口に運んだ。味は等は感じられない。意識の全ては次に投げ掛けられるであろう父親の言葉に集中していた。
「学校はどうだ?」
父はいつ帰宅したのだろう? 質問を受けながらもそんな事を考える。
「まあまあ……」
父はいつ次の赴任に行くのだろう? 曖昧に答えながら考える。出来ればずっと海外に行っていて欲しい。
「まあまあか」
父親は佳哉の言葉を反芻した。微かに溜め息も混じっているように感じられる。
「勉強はどうだ?」
「……明日から期末試験……」
「そうか」
そこで会話は途切れた。だが、無言でも佳哉には父親の言いたい事が解った。
『良い成績を取れ』
父親の無言の威圧だ。解っている。言われなくとも。
佳哉はいつもより早いペースで夕食を平らげ、顔を伏せたまま自室へと逃げるように戻った。そして、やっと息が出来るのだった。
期末試験初日。今日は物理、歴史、数2の三科目。物理や歴史等の暗記を基本とする問題は、佳哉は得意だった。数2も昨日秀一と勉強したお陰で、苦戦を強いられる問題はなかった。最も、秀一との勉強が無かったとしても苦戦を強いられる事などはなかったであろうが。
本日最後の科目を終えると、佳哉はうんと両手を上に上げて伸びをした。ずっと机にかじりついていた所為で、肩や背中が痛い。少し身体を捻ると、ボキッと骨の鳴る音がした。
隣の席では秀一が机の上に突っ伏している。
「……疲れた……」
精魂尽き果てた様子で秀一がくぐもった声で呟く。その様子に佳哉は苦笑した。
「あ、佳哉、これ。サンキューな」
昨日貸した現国のノートを差し出す。明日は現国と理科、英語のテストが待っている。
「いいよ、明日、現国あるし。明日返してくれれば。まだこっちの範囲に慣れてないでだろ?」
「それじゃ、佳哉が勉強出来ないじゃん?」
「俺は……平気」
佳哉は肩を竦めて見せた。他に言い様がなかったからだ。秀一の役に立ちたかったし、ノートが無くても大丈夫なのは事実だ。
秀一は少し考えた後、ありがとうと現国のノートをまた鞄へとしまった。
その日も佳哉と秀一は寄り道をし、英語の勉強をした。秀一がいた学校と今の学校では英語の範囲がかなり違うらしく、秀一はしばし頭を抱えては唸った。結局英語のノートも秀一に貸す事にした。
佳哉には苦ではなかった。寧ろ自分が必要とされている様で嬉しいのだ。秀一は佳哉に感謝の記しとしてその日に寄り道したハンバーガーの代金を奢ってくれた。
佳哉にはその一つ一つが嬉しかった。
秀一と別れて帰り道、急速に足が重くなったのを感じた。家に父親が居ると思うと、憂鬱な気分になった。
今まで学校に行くのが憂鬱で仕方がなかった。だが、それは秀一のお陰で少しは和らいだ。いや、相当和らいだ。だがしかし、その代わりに家までの道程が暗闇の森へとなったのだ。
幾つもの蔦が足に絡み付く。耳の奥がキーンと鳴り響き、不快にさせる。こめかみ辺りがズキンズキンと痛む。
家の前までなんとか辿り着くと、大きく息を吸い、そしてそれの全てを吐いた。これから暗闇の森の奥深くへと行く。佳哉は家の扉を開けた。
家の中には父親が居た。解っていた事だったが、自然と身体が硬直した。
傍目には一家団欒のほのぼのとした食卓に見えるだろう。だが、香り漂う食事も、佳奈の笑顔も、絶え間無く話続ける母親も、佳哉の目にはモノクロのように見えた。父親が居る。たったそれだけの事で、佳哉の世界はこんなにも暗くなってしまうのだ。
佳奈は父親と話をするのが楽しそうだった。母親も同じだ。終始笑顔を絶やさない。長く家を空け、滅多に会えない所為もあるのだろう。思春期の娘にしては佳奈は父親になついていた。
「それで、今日のテストはどうだったんだ?」
話題が佳哉になると、途端に空気が重くなった。いや、重くなったと感じたのは佳哉だけだろう。その証拠に、母親も佳奈も先程と同じように食事を楽しんでいる。
「一番以外は許さないからな」
解ってる。
佳哉は心の中で言い、頷いた。
父親は、一番以外は許さない人間だ。男だから、長男だから、佳哉はその『一番』を幼い頃から強要された。幼稚園のお絵描きで銀賞を取った時、何故金賞ではないのかとその絵を破り捨てた。小学生の時、かけっこで二番になった時も、尻を叩かれて怒られた。テストで満点以外の点数を取った時も、怒鳴られ、部屋に閉じ込められた。
『勉強しろ』『一番を取れ』『良い大学に入れ』それが父親の口癖だ。だから佳哉は必死に勉強した。友達も作らず、辞書にかじりつき、図書館へ通い、寝る間も惜しんで勉強に励んだ。
しかし、一番を取っても、父親に誉められた事は一度もなかった。
「お前、殺人鬼に殺されるぜ」
にやにやとした顔で『加川健二』が言った。唐突なそれに、佳哉は目を丸くして黙るしかなかった。
「野山秀一は人を殺してるんだぜ?」
今度は『仲尾学』が言った。彼らは何を言っているんだろう?
彼らから呼び出しを受けたのは久しぶりの事だった。期末試験が終わり、しばしの期末休みの後、学校が始まって数日が経っていた。その間、佳哉は秀一と行動を共にする事が多かった。その秀一が、殺人鬼? 人を殺してる?
「しかも殺したの、実の父親だってよ。だから前の学校に居られなくなったんだ」
くっと笑う『仲尾学』。
秀一が実の父親を殺した?
佳哉の頭の中で疑念が渦巻く。確かに佳哉も父親を殺したいと思った事は何度もあった。だが、実行に移した事はない。そん勇気はなかったし、少年院にも入りたくはなかった。
そうだ。秀一が本当に父親を殺しているとしたら、今この学校に居られる筈はないのだ。
佳哉はその事に気付くと、二人を見返した。根も葉もない噂話。きっとこいつらは佳哉と秀一の仲を拗れるのを見たいだけなのだ。
「佳哉!」
タイミング良く秀一が現れた。
「おっと、殺人鬼のお出ましだ」
「殺されちゃかなわねぇ。くわばらくわばら」
二人は交互に佳哉の耳元で囁いてから去って行った。何か言い返したかったが、秀一が此方に駆けてくるのを見て辞めた。
「期末試験の結果、貼り出されてるから見に行こうぜ」
駆けて来たその弾んだ息のまま、秀一は言った。佳哉は笑顔で頷いた。
掲示板の前には生徒で溢れていた。各科目の順位が貼り出されている。佳哉は科目毎に順位の上から見て行った。名前は直ぐに見付かった。
『1位 吉岡佳哉』
その文字が並んでいる。当然だ、と佳哉は思う。一番でなければならないのだから。
「あっ」
秀一が掲示板を指差しながら佳哉の身体を揺すった。
「見ろよ、佳哉! やったぁ!」
歓喜する秀一。佳哉は秀一が示した掲示板に目を向けた。
『1位 野山秀一』
『2位 吉岡佳哉』
愕然とした。自分が一番ではない事にも驚いたが、よりによってその科目が秀一が苦手だと言っていた現国だったからだ。
「佳哉のお陰だよ〜! サンキュー!」
嬉しそうに佳哉の肩を引き寄せる秀一。はしゃいでる姿を見て、佳哉は何とも言えない苛立ちを覚えた。途端、無意識に秀一の手を払いのけた。
「……佳哉?」
「……」
佳哉は震えていた。それが悔しさから来るものなのか、怒りから来るものなのか、それとも別の何かなのか。佳哉には判断出来なかった。
「……殺人鬼のくせに……」
「……え……」
ついて出た言葉に、佳哉は後戻り出来なかった。
「殺人鬼のくせに! 父親を殺したくせに!」
秀一は目を丸くした。そしてその顔から一気に血の気が引いていくのが解った。
やはり、奴らが言った事は本当だったのだろうか。
佳哉は秀一から顔を背け、その場から走り出した。逃げるように。
その日から、佳哉は秀一を避けるようになった。その様子を見て、秀一も無理に佳哉に声を掛けようとはしない。互いに目を合わすのさえ避けるようになった。
当然のように、『仲尾学』と『加川健二』のいじめのターゲットは佳哉から秀一へと変わった。そして、『野山秀一は父親を殺した』という噂はあっという間に広がった。勿論、広めたのは『仲尾学』と『加川健二』に他ならない。
他の生徒も秀一を避けるようになった。ゴミを投げ付けられているのを見ても、見てみぬ振りをした。それは、佳哉の時のそれと同じだった。そして、佳哉はその見てみぬ振りをしている側へと回っていた。あんなにも憎んでいた、見てみぬ振りをしている側に。
そんな事が続いたある日の事だった。たまたま『仲尾学』と『加川健二』が秀一をいたぶる場面に遭遇してしまった。佳哉は咄嗟に身を隠し、その様子を伺った。
身体の至る所への暴行。彼が『殺人鬼』であると言う罵声。佳哉は動けず、その場に留まっているしかなかった。耳を覆ってしまいたかったが、それもかなわない。 何故彼はこんなにも酷い仕打ちを受けなければならないのだろう。ふともたげた疑問。そして、原因は自分にあると漸く佳哉は自覚した。
秀一が殺人鬼である筈がないと、自分が一番良く知っていたではないか。ほんの短い間だったけれど、秀一と共に過ごした時間は嘘ではない。あんなにも幸せで、楽しかったではないか。
佳哉は激しく後悔した。今からでも遅くはないだろうか。秀一に話しかけ、謝罪をし、また以前のように楽しく過ごせるようになるだろうか。
佳哉は決心をした。明日、秀一に謝ろう。そして、また以前のように寄り道をし、ハンバーガーを食べ、色々な話をしよう、と。
次の日の放課後、佳哉は秀一の姿を探した。朝から秀一に何度か話しかけようとはしたが、その度に勇気が頭をもたげたり、『仲尾学』と『加川健二』に遮られたりしてそのタイミングを逃していたのだ。
「あの……しゅ……野山君、何処に居るか知らない?」
鞄はまだあった。だからまだ校内に居る筈だ。
佳哉は恐る恐るクラスメイトに話し掛けた。今まで自分を無視して来た人達だ。相手も佳哉が話し掛けてきた事に少々驚いた様子だったが、以前のように無視される事はなかった。
「ああ……野山なら仲尾に呼び出されて……確か屋上に行った筈だよ」
例を言い、佳哉は屋上へと向かった。何故だか解らないが、妙な胸騒ぎがしている。あの暗闇の森に居るような感覚。足が重くなり、呼吸が荒くなる。その自身の様子に戸惑いながらも、佳哉は屋上への扉を開けた。
屋上に、彼らは居た。フェンスの此方側に二人、フェンスの向こう側に、一人。
佳哉は息を飲んだ。秀一はフェンスの向こう側に立たされて居たのだ。そしてその様子を楽しそうに眺めるのは此方側に居る『仲尾学』と『加川健二』だった。
三人が一斉に此方を向いた。一人は獲物を見付けたような目で、一人は玩具を見付けたような目で、一人は覇気も生気もない目で、佳哉を見つめた。
佳哉は動けなかった。声を出す事さえ出来なかった。今のこの状況が、常軌を逸しているのは解っている。だが、身体が動かないのだ。ゴクンと佳哉は唾を飲み込んだ。
ふらりと『仲尾学』が此方へ歩いて来た。ゆったりと勿体振った歩き方で、目はしっかりと佳哉を見据えながら。
「これから俺ら、殺人鬼に制裁を加えようと思うんだ」
『仲尾学』は言った。
「殺人鬼は死刑。だよなぁ? なぁ?」
グッと胸ぐらを掴まれる。佳哉は息が出来なくなるのを感じた。身体中がぶるりと震え、鳥肌が立つ。うすら寒さを覚えたのに、何故か額からは汗が流れ落ちた。
『仲尾学』は佳哉の華奢な身体を強引に引き摺るようにフェンスの前へと持ってきた。目の前に秀一の顔がある。佳哉は何かを言おうとして口を開いた。だがその口からは言葉らしい言葉が発せられる事はなかった。
秀一はじっと佳哉の目を見据えていた。その目は哀しげでもあり、虚ろでもあり、また佳哉に助けを求めているようでもあり、佳哉は思わず目を背けた。後ろから『仲尾学』が佳哉の身体をフェンスに押し付ける。フェンスが揺れ、秀一の身体も揺れる。秀一の足元には一足分の太さの足場があるだけだ。
「殺人鬼が処刑される所、見たいよなぁ、吉岡クン」
『加川健二』が言う。
「飛び降りろよ」
冷酷且つ淡々とした口調で言い放たれた。
「父親殺しの罪悪感から野山秀一クンは飛び降り自殺をしました」
フェンスに掛けられた秀一の指に力が込もるのが解った。それは微かに震えていた。
佳哉の身体は尚もフェンスに押し付けられている。『仲尾学』は佳哉の髪を掴むと、無理矢理前を向かせた。また、秀一と視線が絡み合う。
「……秀一……が、殺人鬼な筈……ないじゃないか……」
呟くように佳哉は言った。身体中の力を振り絞って出した言葉だった。
「あん?」
ガシャンと今度は強く頭をフェンスに押し付けられた。佳哉の頬にフェンスの網目状の痕が付く。
「野山、お前の親父生きてるか?」
『加川健二』がニタニタと笑いながら問い掛けた。
秀一はじっと佳哉の目を見据えていた。その目は哀しげでもあり、虚ろでもあり、また佳哉に助けを求めているようでもあり、佳哉は思わず目を背けた。後ろから『仲尾学』が佳哉の身体をフェンスに押し付ける。フェンスが揺れ、秀一の身体も揺れる。秀一の足元には一足分の太さの足場があるだけだ。
「殺人鬼が処刑される所、見たいよなぁ、吉岡クン」
『加川健二』が言う。
「飛び降りろよ」
冷酷且つ淡々とした口調で言い放たれた。
「父親殺しの罪悪感から野山秀一クンは飛び降り自殺をしました」
フェンスに掛けられた秀一の指に力が込もるのが解った。それは微かに震えていた。
佳哉の身体は尚もフェンスに押し付けられている。『仲尾学』は佳哉の髪を掴むと、無理矢理前を向かせた。また、秀一と視線が絡み合う。
「……秀一……が、殺人鬼な筈……ないじゃないか……」
呟くように佳哉は言った。身体中の力を振り絞って出した言葉だった。
「あん?」
ガシャンと今度は強く頭をフェンスに押し付けられた。佳哉の頬にフェンスの網目状の痕が付く。
「野山、お前の親父生きてるか?」
『加川健二』がニタニタと笑いながら問い掛けた。
暫くの間、沈黙が支配した。風が髪を乱すように吹き抜けて行った。放課後の校庭からは部活動を行っている野球部の声が聞こえている。金属バットで爽快に硬球が打ち抜かれる音が響いた。
秀一はゆるゆると首を横に振った。
秀一の父親は生きてはいない?
パニックに陥りそうな精神をどうにか抑え、佳哉は秀一を見た。秀一は項垂れて、その表情は読み取れない。
また暫くの沈黙が辺りを支配した。駆け抜けた風に、身体がぶるりと震えた。
「……俺は……親父を刺したよ……」
項垂れたまま、秀一は言った。
「親父が憎かったんだ。憎くて憎くて仕様がなかったんだ」
フェンスに掛けられた指に力が込もる。秀一も、佳哉も。
佳哉も父親が憎いと思っていた。今でも憎いと思っている。殺してやりたいと思った事も何度もある。
「……秀一……」
佳哉には掛ける言葉が見付からなかった。秀一と父親との間に何があったのか、佳哉は知らない。
「殺人鬼が自白しましたぁ〜」
『仲尾学』がすっとんきょうな声を上げた。楽しくて堪らない、といった様子だ。佳哉は『仲尾学』を睨み付けた。それが何の効果も果たさない事は百も承知であったが、秀一を詰る『仲尾学』を許せないと感じたからだ。
「さぁ、仕置きのじかぁん」
『加川健二』がフェンスを揺らし始めた。
ガシャンガシャンと揺れるフェンス。それに合わせて秀一の身体も揺れる。一歩間違えれば足を踏み外しかねない。
しかし、秀一の父親が死んでいるというのは、何を意味するのだろう。もしかして、本当に秀一が殺したのだろうか。
佳哉は困惑した。秀一は項垂れたまま、フェンスにしがみついているだけだ。フェンスが揺れる度に秀一の身体が不安定に揺れる。
「……秀一……」
佳哉は呟いた。秀一は此方を見た。
「本当に……殺したのか……?」
一瞬、秀一の瞳が大きく見開かれた。途端、強風が彼らを襲った。目も開けられぬ強風に、佳哉も『仲尾学』も『加川健二』も半ば呻くように風から顔を逸らした。
その一瞬の出来事だった。たった一瞬の。
秀一の身体がふわりと浮いたかと思うと、フェンスからその指が離れた。本当に一瞬の事だった。
「秀一!」
叫んだ時には秀一の身体は視界から消えていた。
野山秀一は死んだ。校舎の屋上からの転落死。ほぼ即死だったそうだ。秀一死は不慮の事故と報道された。学校側の会見でも『いじめは無かった』と校長が禿げ上がった頭に脂汗を浮かべながら応えていた。そしてフェンスの高さが問題に上がり、1.5メートルから2.5メートルにすると発表された。
問題はそんな所にあるのではない。あの日現場に居合わせた佳哉を含む三人は事情聴取というものを受けた。『仲尾学』と『加川健二』は揃って『野山が勝手にフェンスを越えて度胸だめしをし始めた』と答えた。秀一は二人に挟まれ何も言えず、頷く事も答える事もしなかった。
秀一は父親を殺してなどいなかった。確かに秀一は父親を刺しはしたが、それは致命傷にはならず、警察でも大きな問題として扱われなかった。
そう、秀一は殺人鬼等では無かったのだ。
『本当に……殺したのか……?』
あの日、佳哉が秀一に最期に投げ掛けた言葉がそれだった。その言葉の所為で、秀一は最後の僅かな気力を無くしてしまったに違いない。佳哉は2.5メートルの高さになったフェンスな指を掛けた。秀一は此処から落ちて死んだのだ。死んだ者はもう戻っては来ない。放課後に寄り道する事も、一緒にハンバーガーを食べる事も、ノートを貸す事も、一緒に勉強する事も、もう無い。一生。
もし自分が映画の主人公なら、彼を助けられただろうか。もし漫画の主人公なら、もっと違う言葉を掛けられただろうか。もしテレビドラマの主人公なら、違うストーリーがあっただろうか。
こんな腐った世界なんて、消えて無くなってしまえば良い。そう思っていた。けれど、佳哉は知ってしまった。こんな腐った世界にも、温かな笑顔があった事を。細やかな楽しみがあった事を。
暗闇から這い出た無数の蔦は佳哉の足に絡み付き、腕を這い、心臓を突き刺した。
嗚呼、人生にリセットボタンがあったら良かったのに。
-了-
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