第一章 最初の四人 第二部 二人目 松岡芽衣歌(まつおか めいか)
終業を告げるチャイムが鳴り響く。生徒達は三々五々教室から退室していく。
松岡芽衣歌も他の生徒と同じように、通学鞄を片手に持ち、無言で教室から出る。
後ろから、数人の女子生徒が芽衣歌に声をかけてきた。
「ねーねー、芽衣歌。帰りにスタバ寄ってかない?」
"スタバ"というのはもちろんコーヒーストアのスターバックスのことだ。
「悪いけど、私忙しいから」
芽衣歌はそう言ってさっさと歩いていく。
「ちょっとー、たまには少しくらい羽のばしたっていいじゃない」
「私、あんた達みたいに暇じゃないの。じゃあね」
芽衣歌は女子生徒達を引き離すように歩を早めた。後ろから女子生徒たちの話し声が聞こえてくる。
――相変わらずつきあい悪いわね。
――所詮あたしたちとは違うのよ、って言ってるんじゃない? あの子の家ってお医者さんでお金持ちなんでしょ?
――うわー、なんか嫌味。何様って感じ?
言いたければ好きなだけ言えばいい。そんなものは知ったことではないし、かまってなどいられない。
暇がないのは本当の事だ。帰れば休む間もなく二つの塾の掛け持ち。帰宅するのは深夜。それから塾や学校の課題・宿題をこなし、ベッドに入るのは午前二時過ぎ。そして六時には起きてまた通学。
休みの日は早朝から一日中塾の掛け持ち。ここ数年のんびり休んだ事など無い。テレビも朝の準備の間に流れているニュースを聞き流すくらい。読むのは通学中の電車の中で読む参考書と、わずかな空白の時間に目を通す新聞くらい。それだって読むのは一面と社会面・政治面、入試の時事問題に出題されそうな範囲だけ。
あんたたちお気楽な連中とは根本的に違うのよ、家庭環境から何からね。
時々声を大にしてそう言ってやりたくなる。
芽衣歌の家は両親と十歳年のはなれた兄の四人家族。両親も両方の祖父母も揃って医者という、いわゆるエリートの家系である。
両親はもちろん、二人の子供にも自分たちと同じ道を歩む事を望んだ。芽衣歌は幼い頃から塾に通い、勉強に打ち込む兄の姿を見て育った。そして、芽衣歌自身も幼い頃からいわゆる英才教育を施されていた。
それでも、両親の期待がどちらかというと兄の方に向いていたため、幼い頃の芽衣歌はそれなりに友達と遊んだりもしていたし、時には家族で旅行に行った事もあった。
そんな芽衣歌の家庭の環境が大きく変わったのは五年前の事だった。
両親の期待通りに国立大学の医学部に合格した兄が、突然進級をやめると言いだしたのだった。
『陶芸家になりたいんだ』
と、兄は言った。
兄が昔から陶芸や彫刻に興味を持っていた事は芽衣歌も知っていた。実際粘土細工や木工細工は上手く、手作りの筆立てや紙粘土の人形をプレゼントしてくれた事も何度かあった。
兄は卒業旅行で仲間と訪ねたある陶芸職人の作品に魅せられ、大きな感銘を受けたのだった。そしてその衝動を抑えられなくなり、ついに決断したのだった。
当然息子が医者になるものと思っていた両親は猛反対した。しかし兄の決意は堅く、一晩中父親と激しく言いあった挙句、家を出て行ってしまったのだった。
『あんな馬鹿息子は金輪際勘当だ!』
翌朝父親が激昂してそう言っていたのを覚えている。
それから、両親の期待の全ては芽衣歌に注がれた。塾の時間は増え、休む事も友達と遊ぶ事も許されなくなった。
勉強して有名私立中に進学し、親の期待通りに医者になる事。それがいつしか芽衣歌の将来の夢となっていた。
しかしそれは言うなれば使命――自分で決めた夢ではなく自分に課せられた夢であった。
正直、本当に自分が医者になりたいのかどうか、芽衣歌にはわからなかった。
しかし、芽衣歌に出きるのは両親の期待にこたえる事だけだった。もし芽衣歌が医者以外の道を歩みたいと言ったら、おそらく両親は芽衣歌のことを捨てるだろう。かつて兄に対してそうしたように。
あれから五年、兄は一度も家に帰ってきていない。両親もあれ以来ひと言も兄の事を口にしなくなった。まるで、二人の子供は初めから芽衣歌一人だけで、兄等最初から存在しなかったかのように。
――嫌だった。あんな両親でも、たとえ芽衣歌に将来を押し付けるような親でも、芽衣歌に愛情をそそいでくれる両親には違いない。その両親に捨てられるのは――兄のように二人の中から存在を抹消されるのは絶対に嫌だった。
だから芽衣歌は一生懸命勉強する。ただ両親の指示どおりに。そして両親の望みどおりに医者になる。それが今、芽衣歌にできる全て――のはずだった。
――小包ですーっ!
いつものように帰宅し、塾に行くまでのほんの僅かな時間を自分の部屋の机ですごしている時、インターホンからその声が響いてきた。
父さんも母さんもこの時間は病院の方にいるので、今家には芽衣歌しかいない。
玄関にでて小包を受け取る。宛名には芽衣歌の名前が書いてあった。一体誰が何を送ってきたのだろう? 差出人をチェックして芽衣歌はあっ、と思った。
差出人の欄には"松岡宙睦"と書かれていた。それは他でもない兄の名前だった。
芽衣歌は慌てて小包を自分の部屋に運んだ。小包は二十cm四方くらいの立方体の箱だった。
包みを解いて中身を取り出してみる。中からでてきたのは陶器で作られた一体の人形だった。
あどけなく微笑む小さな女の子の人形。顔はありふれたような作りだったが、その人形の洋服には見覚えがあった。
"メゾピアノ"の薄いピンク色のトレーナーと揃いの柄のプリーツの入ったスカート。それは兄が家を出て行った前の日に芽衣歌が着ていた洋服と同じ物だった。
箱の中にはさらに、何枚かの写真と手紙も納められていた。写真にはどこかの工房のような場所で黙々と作業をしている兄や、焼きあがって窯から出てきたばかりであろう陶器を、子供のような笑顔で掲げ喜んでいる兄の姿が写っていた。どの写真に写っている表情も、家にいる時には見せた事のない表情だった。
次に手紙を読んでみた。久しぶりに見るあの少し右肩上がりのクセのある字が並んでいた。
――拝啓、芽衣歌様。
――なんてな。元気でやってるか? 芽衣歌。
俺は今、陶芸家の渡碧堂先生に弟子入りして、先生の窯で修行を積んでいる。
今までは修行に精一杯で手紙の一つも寄こせなかった。悪かったな。
その代わり俺は今すごく充実してる。多分家にいたままじゃこんな充実は得られなかっただろうな。
芽衣歌には悪い事をしたと思ってる。黙って家を出ちまったし、お前に全部押しつけちまったからな。
お前は今どうしてる? って、やっぱり親父とお袋の期待にこたえるために医者を目指してるんだろうな。
芽衣歌は昔から素直で優しい子だったからな。
でもさ、こんな俺が言うのもなんだけど、自分が本当に医者になりたいかどうか、一度は考えてみた方がいいと思う。
嫌々自分の将来を決めたって、きっとロクな人生は待ってないと思う。
芽衣歌が本当に医者になりたいのなら、それはそれでいい事だと思うしモチベーションにもなると思う。
だけど、もしそうでないのなら……。その時は自分で自分のやりたい事、したい事を見つけなきゃだめだ。
だから、一度自分と向き合って考えてみてほしい。そして親父やお袋と向き合ってほしい。
俺は馬鹿だからあんな方法しか思いつかなかったけど、芽衣歌は俺なんかより賢いからもっといい解決方法が見つかると思う。
色々大変だと思うけど、頑張ってくれな。
あ、そうそう。
一緒に贈った人形は、芽衣歌をモデルに作ったんだ。
といっても、俺が知ってるのは五年前の、俺が家にいた頃の芽衣歌だけだからあまり似てないかもだけどな。
今はまだまだこんな下手くそなのしか作れないけど、いつかもっとすごい作品を作って見せる。
その時は真っ先に芽衣歌に見せるからさ、いつになるか分からないけど、まあ期待しててくれよ。
お互い頑張ろうぜ。それじゃあな。
――宙睦
久しぶりに見る兄の字。芽衣歌の頭の中に兄の顔が浮かんできた。同時に手紙の一節が芽衣歌の頭の中をグルグルと回る。
――自分は本当に医者になりたいのか?
――もしそうでないのなら、自分のやりたいことを見つけなきゃだめだ。
(私の……やりたい事?)
芽衣歌は頭をブンブンと振った。
(私は医者になる。父さんと母さんの期待にこたえるために。それが私の夢)
そして芽衣歌は、人形と手紙と写真をそっと机の引き出しの奥に隠し、塾に向かったのだった。
心の中にかすかな疑念を残しながら。
いつもなら無心でテキストに向かう塾の授業。
だけど、今日はどうやってもなんだか集中できない。
気がつくと頭の中には兄の手紙が浮かんでくる。兄の顔が浮かんでくる。
そのたびに振り払おうと頭を振るが、手紙のセリフも兄の顔も、消えるどころかますます大きくなってしまう。
なんだか身が入らない――気がつくと芽衣歌はもう一つの塾をサボって闇に染まった街をさまよっていた。
ネオンのきらめく町並みをあてもなく歩く。
(私は何がしたいんだろう――)
分からない。数学の公式や方程式なら簡単に分かるのに、全く分からない。
結局何も答えは出ないまま芽衣歌は帰宅した。
両親は芽衣歌が塾をひとつサボってしまった事には気づいていないようだった。
お風呂をすませ、自分の部屋へ。机に座ってみるが、やっぱり気分が乗らない。こんな事は初めてだった。
芽衣歌はそっと引き出しを開けた。そして人形を取り出してみる。
手の中の人形は相変わらず無邪気に微笑んでいた。まるで芽衣歌の感情が全て封印されているかのように。
(私のやりたい事――)
芽衣歌はもう一度つぶやいた。だけど、その疑問が頭の上をグルグル回るだけで、答えは出てこない。
結局何も手につかず、その日は久しぶりに早めにベッドに入ったのだった。
明けて翌朝。芽衣歌はいつもどおりに目覚めた。
夢の中に兄が出てきたような気がするが、思い出せなかった。
芽衣歌はまた引き出しを開けてみる。が、次の瞬間芽衣歌の顔色が変わった。
――無い!
引き出しの奥に隠しておいた人形と手紙と写真が無くなっているのだ。
芽衣歌は慌てて部屋を飛びだした。と、そこにちょうど玄関から歩いてきた父親がいて、芽衣歌はぶつかりそうになってしまった。
父親は芽衣歌の方をチラッとだけみていった。
「"あの男"の事は忘れろ。お前は私達の言う通りにしていればいい。いいか、金輪際"あの男"のことを口にする事は許さん。お前の机の中にあった物も処分しておいたからな」
最後まで聞く前に芽衣歌は走り出していた。玄関から飛び出してごみの集積所へ。
しかし、そこに既にごみは無かった。もう収集車が持っていってしまったらしい。
芽衣歌は愕然としてその場に座りこんだ。気づかないうちにその頬を涙が伝っていた。
そして、何かに取り付かれたかのように片付けられた集積所の周りに這いつくばった。
やがて芽衣歌は、集積所のコンクリートの上に何かのかけらが落ちている事に気がついた。
人形のかけらだろうか。芽衣歌はそのかけらを手にとって見た。
陶器のような金属のような不思議な感触の欠片。
欠片の片面にはアルファベットの"M"に似た形の模様が彫られていた。
それがあの人形の欠片で、"M"が芽衣歌の"M"なのかは分からなかったが。
芽衣歌はかけらを握り締めた。なぜか不思議な温もりが伝わってくるような感触がした。
その途端当たりにまばゆい光が輝いた。暖かいような優しいような不思議な光が当たりを包む。
光が収まったとき、その光と共に芽衣歌の姿は消えていたのだった。 |