第四章 異世界その2 第二部 拳と少年 その2
今日も草原の真上に広がる空は青く晴れ渡っている。
しかし、そんな空の青さとは裏腹に、二人の間にはなんとなく気まずい空気が漂っていた。
朝から――、というよりは昨日の晩のあの出来事以来、龍也と沙紀の間にまた少し壁ができてしまったような、そんな感じだ。
少しでも沙紀の緊張を解こうとしてした、家族の話題が逆効果になるとは思ってもみなかった。
まさか沙紀が特殊な家庭環境を抱える存在だとは思わなかったからである。
もちろんそんな事を察知しろというのが土台無茶な話ではあるが、龍也のミスであった事に変わりはない。
さてどうしたものか――。
この先どれだけ旅が続くか分からないわけだし、距離や壁云々は置いておくとしても、意志の疎通くらいはできるようになっておかないと何かと不便である。
そうでないと、いざという時に支障が出てしまう。場合によっては沙紀を守りきれない可能性だってある。
そういう事態は避けたかった。
――いや、別に龍也が沙紀に惚れているわけではないが、なんとなく年上という立場上守ってやらなければ――、そういう感情が龍也の意識の中にあるだけなのだが――。
結局いい策が思い浮かばないまま行軍は続き、太陽は徐々に高くなっていった。
太陽がちょうど真上あたりの位置に来た頃、ようやく前方に山脈らしい稜線が見えてきた。
あの距離だとまだ二日くらいかかるんじゃないか――?
龍也は内心そう思ったが、とりあえず言葉には出さずに歩き続ける事にした。
結局稜線を眺めながらの行軍は続き、そのまま二日目の夜を迎える事になった。
昨日同様にキャンプを張り、二人はたき火を囲んで夜に備える。
稜線は昼間よりも大分大きくなっていて、問題の山はもう少しかな、というくらいの距離に思えた。
「明日はいよいよ山越えかな――」
龍也はなんとなくそう言った。
が、やはり沙紀はうつむいたまま何も言おうとはしない。
「山道大丈夫か? 足、痛くなったらいつでも言ってくれていいからさ――」
努めて明るく呼びかける。
沙紀は何の反応も示さない。ただ黙ってうつむきながら、たき火をじっと見つめている。
再びその場に沈黙が流れ、それはしばらくの間その空間を支配する。
目の前ではたき火の炎だけが、パチパチと音をたてながら揺れ、龍也と沙紀の顔を照らし出す。
揺れる炎を見つめながら龍也は考える。この状況を打開するにはどうすればいいか。沙紀の心を解きほぐすにはどうすればいいか――。
そして、龍也は決心した。
やおら立ち上がると、ゆっくりと沙紀の方へと近づいていく。
沙紀はびっくりして後ずさりしようとしたが、龍也はそれよりも早く沙紀の目の前に移動すると、いきなり膝を突いて正座の体勢になると、その場に深く頭をこすりつけた。
「ごめん!」
開口一番、大声でそう言った。
驚く沙紀を尻目に龍也は言葉を続けていく。
「昨日はあんな話題ふって、本当ごめん! ――ただ、これだけは信じてくれ。俺はただ綾戸に少し安心してほしかっただけなんだ。お前、ずっと怯えてたからさ。けどまさか親がいないなんて思わなかったから――。だから、許してくれなんて言わないけどさ、こんな状況で無理かもしんないけど、元気出してほしいな、って――」
なんだか支離滅裂である。
沙紀はしばらくその様子を見つめていたが、不意に身体を大きく折り曲げた。
「お、おい――」
体の具合でも悪くなったのかと龍也は慌てたが、どうやら違うらしい。
沙紀は身体を丸めて肩を震わせながら、一生懸命何かをこらえているようだった。
やがて辛抱がたまらなくなったように沙紀は上半身を跳ね上げた。その表情にはこらえきる事のできなかった笑いが宿っていた。
沙紀は声をあげてひとしきり笑っていたが、龍也の視線に気がつくと慌ててまた視線をそらした。
そして少しだけ視線を戻すと小さな声で、
「ごめん」
と、言った。
その意味が分からず、龍也は思わず聴き返そうとしたが、それより早く沙紀は言葉を続けた。
「あの――、怒って、ないから――」
どうやら、"誤解"を与えたと思って"ごめん"を言ったらしい。
「あの、私――。人と話したりとか、苦手で――。その――、人と話そうとすると怖くなって――」
「わかった。だから、あんまり無理するなよ」
龍也はやんわりとそう言った。
あがり症か、またはそれ以外の精神的な要因なのか、とにかく沙紀は人と話す事が極度に苦手、ということらしい。
それが分かっただけでも、かなりの進歩である。
「もう遅いし、そろそろ寝ようぜ」
龍也は沙紀を気遣うようにそう言った。
沙紀も小さくうなずく。
二日目の夜は徐々に更けようとしていた。
自分達の世界とあまり変わらない月が、よぞらにぽっかりと浮かんでいる。
この世界に来てからもう一週間――。
最初は何がなんだか分からず、ただ恐怖だけが心の中を支配していたが、少しだけ慣れたのか今は多少落ち着けるようになった。
隣では龍也という名前の男の子が寝息をたてている。
この世界で知り合った男の子――。中学一年だといっていたから、自分より四つ年上のお兄ちゃん、ということになる。
龍也はいろいろと自分を気遣ってくれているように見えた。
だけど、自分は自分から話す事がどうしてもできなかった。
別に目の前で寝息を立てる少年の事が嫌いなわけでもないし、怖いと思っているわけでもない。
だけど沙紀は話す事ができない。――いや、正確には話す事が怖かった。
昔の沙紀はこうではなかった。どちらかと言うとおとなしい方ではあったが、普通に友達と喋る事はできたし、素直に笑ったりする事もできた。
その歯車が狂ってしまったのは、やはり一年前の両親の死がきっかけだった。
沙紀は両親の事が大好きだった(もちろんそれは特殊な事情がない限り子供なら誰でもそうだろうが)し、信頼していた。一人っ子だった事もあって割りと甘えん坊な方だったと自分でも思っている。
だけど、ある一つ前両親は沙紀の前から、永遠にその姿を消してしまった。
沙紀にとって唯一無二だった"家族"がたった一晩でいなくなってしまった。
その事実が沙紀に大きなショックと、いまだ癒えることのない深い傷を刻み込んでしまったのだ。
そのショックと傷は、沙紀の心に大きな変化をもたらしてしまった。
あの日以来、沙紀は率先して人と話す事ができなくなってしまったのだ。
人と話そうとすると、沙紀の心の中にいいようのない恐怖感が湧き上がってくる。
目の前の人と話がしたい。友達になりたい――。
けど、そしたらその人物はまた沙紀の前から消えてしまうかもしれない。
そうしたら自分はまたショックを受け、心に大きな傷を作ってしまう。
そんなのは嫌――。もう二度とあんな気持ちは――、悲しくて寂しくて怖くて――、自分の周りが冷たい闇で覆われていくようなあの感覚は感じたくなかった。
だから沙紀は人と話す事ができない。
人と話すことで自分とその人物との間に繋がりを作る事が嫌だった。
もう二度と失いたくなかったから。失わずに済むには最初から作らないのが一番だから――。
だから、できる事なら今後も龍也とは距離を開けたかった。
その方がいなくなってもショックを受けずに済むから。
だけど、龍也は沙紀の事を気遣い、沙紀に近づこうとしてくる。沙紀との距離を縮めようとしてくる。
私はどうすればいいの――?
一人で心細い思いはしたくない。だけど、温かさを失うのも嫌――。
それは正反対の思いであり、交わる事のない矛盾した感情である。
だけど、それは今の沙紀の素直な感情。自分を守るためのバリヤーによって生み出された相反する感情。
どうすればいいの――?
結論は出ない。――いや、今の沙紀に出せるはずはなかった。
今の沙紀に気持ちの整理をつけるだけの強さはまだなかった。
それを手に入れるには、まず沙紀の心の中に刺さったままの棘を抜き、彼女を捕えているものを乗り越えなければならない。
だけど、今の沙紀にはまだそれをできるだけの力がなかった。
流れ星が尾を引きながら夜空を滑っていく。
眠る事のできない夜は今日も続く――。 |