第四章 異世界その2 第一部 獣人の国 その2
外に出てみると、たしかにサイズはでかいが、そこが診療所である事がよく分かった。
どうやら、石積みの外側に白い漆喰か何かを塗りこんでいるらしく、全体に白一色の味も飾りもない建物がそこにそびえていた。
建物の入り口にはそこが診療所である事を示すかのように、龍也の世界でもよく見かけるあの十字のマークが描かれた看板が提げられていた。――ただし、十字マークの模様は龍也の世界のような赤ではなくて、その辺の草と同じような緑色だったが。
このままこの場所からさよならする方法もなくはなかったが、ここの地理がよく分からない以上あまり勧められた手では無かった。なにより、ガイアのいう事が本当ならその女の子を助けてやらなければならない。
何気に龍也はそういう場合放っておけない性分なのであった。
建物を回りこんで裏手へ向かう。ガイアの言う事に嘘がなければ、その先に広がる裏山に女の子は逃げ込んだはずだ。
遠めに眺める山肌は、龍也の世界のそれとあまり大差ないように見えた。裏山というだけあって標高はそれほど高くない。せいぜい三〜四百メートルといったところだろうか。
ちょうど診療所の真裏当たりに、そこが山道の入り口なのか、細い草をかき分けたような道が山に向かって伸びていた。
龍也は細い道を山へ向けて分け入っていく。近くで見ると生い茂っているのはどれも見た事がないような形状の植物ばかりだ。渦巻状につるが巻いたまるで蚊取り線香のようなやつや、花の中にもう一つ花がさいているのやら、とにかく龍也の世界ではあり得ないような物もそこらじゅうにはびこっていた。
勾配のついた道は途中で別れる事もなく、ただまっすぐ続いていく。
まさか、このまま山を越えてしまうんじゃないだろうな――。そんな事を考えながらさらに先へ進んでいく。
歩いているうちに勾配はだんだんときつくなっていく。頂上がだんだんと近づいているということなのだろうか――。
さらに進んでいくと、急にところどころ岩肌の露出している斜面に出た。そして一気に視界が開ける。
どうやら、そこが頂上らしかった。なだらかな丘状の地面のあちらこちらに岩が露出している。そして、その岩を取り巻くような形で花が咲いている。ふもと付近で見た花とは全く別な種類で、綺麗な顔が風に揺れて泳いでいるかのようだった。
丘の一番高い場所に立って見渡してみると、前方にさっきの診療所らしい建物が見えた。そしてその向こう側に広がる小さな集落も――。
ガイアのいった通り、かなり小さな集落だ。家の数は数軒ほどしかない。中央の広いスペースを取り囲むように立っていて、煙突のような細長い部分から煙を吐き出しているところもある。その外側を畑のような整地された土地が取り巻いていて、その当たりでうごめく人影のような物も見える。
龍也は首を振った。
そんなことより女の子を探さなければ――。
そして、改めて周りを見渡してみる。
ここまでの道は一本道で、脇にそれられそうな場所は無かった。
それに、道はそれなりに勾配があって、龍也の足でも走って登ろうとすれば結構きつかった。
女の子の足ならそんなに速くは進めないはずである。――だとすれば、そろそろ追いついても良さそうな気がするのだが――。
しかし、周りには女の子どころか人の気配すらしない。
先に行けそうな道も見当たらない。
仕方なく、龍也は来た道を戻りながらさらに注意深く捜索して見る事にしたのだった。
といっても、道はずっと一本道だしそれほど捜索するような場所も見当たらなさそうではあったが――。
ゆっくりと来た道を戻りながら、道の左右に伸びる植物をかき分け、その向こうをチェックする。
山の中腹辺りまで戻ってきた時、道の外側からうめき声のようなものが聞こえた気がした。
気のせいかと思いつつも、声らしきものが聞こえた方向の草をかき分けてみる。
その向こうは、道のすぐ外側から切れ込むように落ち込んでいた。水のせせらぎが聞こえるので、どうやら沢になっているらしい。
聞こえてきたのはせせらぎの音かと思って戻ろうと下が、ふと下をみるとそこに奇妙な跡がある事に気づいた。
二本の浅い溝のような跡が、落ち込んだ沢の方へ向かって続いている。
外側に向かって淵の盛り上がったその形状は、ぬかるみで滑った時によくできるあの跡だった。
龍也は、滑らないように気をつけながら慎重に沢を下っていく。
途中何度か足を取られそうになりながら下っていくと、果たしてそこに探していたと思しき人物がいた。
身を包む寝巻きらしい洋服は、すっかり泥で汚れてしまっている。柔らかそうな髪も泥と埃でバサバサだ。
女の子は龍也に気付くと、怯えたような表情になって立ち上がろうとしたが、すぐに顔をしかめてその場に崩れてしまう。それでもなお身体を後ずさりさせて逃げようとする女の子の右足は、青黒く腫れ上がっている。多分足を滑らせて沢に落ちた時にくじいてしまったのだろう。
「待て、怖がるなよ。――俺もお前と同じ人間だよ」
龍也はそう言って女の子を何とかなだめすかそうとした。
女の子はなおも後ろに下がろうとしたが、次の瞬間手を突いたところの地面が崩れ、川の方へ落ちそうになった。
龍也は慌ててその女の子を抱えて、岸の方へ引き戻す。柔らかい少女の身体が龍也の両の腕に触れ、同時にひんやりとした感触が伝ってくる。
流れる小川のせいか、沢のあたりは上の道と比べてもかなり涼しい。そのおかげで、少女の身体はすっかり冷え切ってしまったようだ。
女の子はくしゅん、とかわいらしいくしゃみをした。
「えっと――、これ着ろよ」
龍也はそう言って、着ていた学生服を脱いで女の子の肩にかけてやった。そして、怯える女の子の身体を背中に乗せあげる。
女の子は最初嫌がるように身体をむずがったが、やがておとなしくなって龍也の背中にしっかりとしがみついた。――それと同時に、龍也の首筋に温かい感触が伝う。
右も左も分からないこの場所にいきなり放り出されて、相当心細かったのだろう。多分、龍也の背中を感じた事で、緊張の糸が切れてしまったのだ。
龍也は道のある沢の上を見上げた。
人ひとり背負ってここを登るのは流石に無理か――。結構斜度はあるし、地面は滑りやすそうだ。多分一人でもここを登るのはかなりきびしいだろう。
そうなると道は一つだ――。
沢伝いに山を下るしかない。沢を下っていけば、とりあえずこの山を抜け出す事はできるだろう。
なにせ川は上から下へ流れる物なのだから。
龍也は女の子を背に負ぶったまま、慎重に沢の下流へと歩きだした。
何しろ、細い谷間の上に下を流れる沢のせいで足元はかなり滑りやすい。気をつけて歩かないと即すっころんでしまう。
自分が尻餅をつくのは構わないが、背中に負ぶっている女の子を落とすわけにはいかない。
一歩一歩、確実に足元を固めながら龍也は進んでいく。
ゴツゴツした剥きだしの岩肌のせいで、足場はかなり悪い。しっかり踏ん張らないと体勢を保つのが難しい。かといって、力を入れすぎると今度は濡れた岩で滑りそうになってしまう。
絶妙のバランスを保ちながら、ゆっくりと――本当にゆっくりと進んでいく。
沢は大きく右方向へ曲がりながら伸びていく。行きに歩いた道はどの位置にあるのか、もう全く判らない。おまけに、この沢がどこに出るのかも分からない。
それでも龍也は歩き続けた。
背中には怪我をしたか弱い一人の女の子がもたれかかっている。しかも自分達がいるのは右も左も分からない異世界。なおさら、何もせずにとどまっているわけにはいかなかった。
誰も自分達の事を知らない世界で、誰が助けに来るわけもない。自分達が異世界にいるなんて家族や友達が考えるわけなどもっとあり得ない。
つまり、現状自分の力で動くしか方法はないのだ。
今の龍也にできる事は歩くこと。歩いて歩いて、歩き倒して山を抜け、ガイアの待つ診療所へ戻る事。
背中の上の彼女を守る事。
それが最優先すべき事なのだ。
沢は徐々に幅を広げ、流れる水の量も多く激しくなってきた。
ふもとが近いのかどうかは分からない。なにしろ、周りの景色はさっきから全くといっていい程変化無しなのだ。
今自分はどの辺りを歩いているのだろうか。それすらも分からない。
ただ、川幅が広くなっているという事は、順調に下流に向かっているということだ。それだけはまごうことなき事実であり、確信を持てる事だった。
さらに谷間を踏ん張りながら歩いて行く。途端に少しよろけそうになり、慌てて体勢を取って踏ん張りなおす。
足場の悪い谷底を女の子を背負いながら、長時間踏ん張りながら歩いて来た事でかなりスタミナが削られてしまったようだ。足が小刻みに震えだし、力が入りづらくなってきた。
その後も何度か足を取られそうになりながら歩き続けていると、急に目の前が大きく開いた。
どうやら、ようやく山を抜ける事に成功したらしい。川幅は広くなり、すぐ側に道らしきものも見える。先ほど山の上から見えていた民家は見当たらないので、方向はかなりずれてしまっているようだが――。
ともあれ、後は簡単だ。診療所は山のふもとにあったのだから、山をぐるりと回り込んでいけばいつかは診療所にたどりつく。
龍也は気合いを入れなおすと川岸から道に登り、そのまま山を回り込むように茂みの方へと入っていった。
茂みを覆う草はそれほど高くなく、比較的見渡しはいい。龍也はそのまま山伝いに歩き始めた。
谷底を歩き続けたおかげで、足腰にはかなり疲労が来ている。が、それでも龍也は立ち止まることなく歩き続けた。
山を抜けてからさらに三十分近くも歩いただろうか。ようやくのことで、目の前右手に先ほど山の上からみた集落が浮かび上がってきた。
左手山肌の方を振り向くと、先ほどの診療所の建物がようやく見て取れた。
診療所まで後少しだ――。そう自分に言い聞かせると、龍也は再び一歩一歩足を前に動かし、診療所の白い建物を目指して進んでいったのだった。 |