【競演】 方舟の雨
第四回SMD様主催【競演】参加作品
今回のお題は【雨】でございます。
夏……ということで、ホラー仕立ての短編に仕上げてみました。
楽しんで頂ければ幸いです。
何も、その日は突然訪れた訳ではない。
そう、例えるなら家の軒下に溜まった汚泥が土台を腐蝕させ、汚染し、そして最後には地盤もろとも崩し去るように。
緩やかに、そして着実に僕たちの背後に這い寄っていた。
僕たちはただそれに気づかなかっただけだ。
皆、最初は他人事だった。
週刊誌の端にあるスペースを埋める、その為だけに存在するような本当に他愛のない噂話。
「ねえ、知ってる? 雨の日に人が消えるって話?」
「え? 何それ。知らない」
「なんかね。雨が降ると人が居なくなるんだって、ネットでうわさになってるの見たのよ」
「へー、まったく良く考え付くよね、そんな変な話」
「だよねー。まあもうすぐ夏だから、オカルトにも花が咲くんでしょ?」
そんな会話が示す通り、誰も危機感を覚えない。いや、一考するにも値しないくだらない噂……のはずだった。
そう、あの日、
梅雨……という、正真正銘の悪夢を迎えるまでは。
止むことなく列島に降り続いた雨は、それまでの全ての状況を一変させた。すでにボロボロに腐食していた土台と屋台骨を、一息に押し潰すように。
政府が発表した梅雨入りから二日たった頃、ようやく人々は異変に気づき始めた。
家族が突然失踪した。
恋人が連絡もせずに消えた。
友人と連絡が取れない。
同僚が会社に来ない。
テレビや新聞、その他報道機関が発表する行方不明者のニュースは、連日降りやむ予兆をみせない雨に比例して、異常なほど増加の一途を辿った。
―――雨の日に忽然と人が消える。
その事実を誰もが認めたときには、すでに遅く。すぐ背後にまで忍び寄っていたそれは、今やどんな手よりも強い力で僕たちの肩を掴み、そして……首を締め上げていた。
街中の壁という壁、電信柱を隙間なく埋め尽くす、消えた家族や知人縁者の安否を求める張り紙。
耳を塞ぎたくなるほどの大音量で街中に響き渡った雨天警報。
テレビやラジオから流れてくる警報を前に、僕たちはただ震えることしかできず、見えない恐怖に対して全く抗う術を持たなかった。
頻発する凶悪犯罪。暴動、略奪、強盗、殺人……次に消えるのは自分かもしれない、その不安は周囲の人間への不信と敵意を生み育て、良心と理性を麻痺、崩壊させた。
人は正常に、常軌を、
逸していった。
けれどそんな狂気も長くは続かなかった。倫理が抑制したわけでも、道徳に目覚めた訳でもない。たったひとつの揺るがない事実が僕たちに泣くことも喚くことも、絶望する権利すらも許さなかっただけだ。
雨の日に人が消失するという抗えない現実が。
人は消え、消え続け、
うまずたゆまず地球上に深く根を下ろしていた人類は、
―――滅亡した。
* * * *
照りつける日射しが眩しい。
ようやく太陽が直上から地平線に向けて移動をはじめた午後二時過ぎ。彼、真鍋宗太はアーケード街の中央を歩きながら、周囲の様子を眺めていた。
視線の先に見える商店の荒廃ぶりは、とても一言では表せない。あるがままの自然は尊いが、人の手によって整頓された町並みの方が落ち着く宗太である。
”……ここも、そろそろ限界か”
などと、こぢんまりとした思考を巡らせながら、歩を進める。
背中には見るからに丈夫な軍用リュックサック。手には猟銃を下げ、服装から一見するとおおよそ自衛隊員かそれに付随した職業……に見えるが、その実、彼はただの一般人である。
第一目的とした食料の調達が、ある理由から断念されてしまったので仕方なく周辺の探索もかねて市街地を歩くことにした。
コンビニもスーパーマーケットも食料品店も、目ぼしい場所にありそうな食料はすべて壊滅だった。
なにより余裕があると思っていたスーパーの備蓄缶詰が、保管状態の悪さから根こそぎ腐っていたのが痛い。
捕らぬ狸の皮算用とはこういう事で、もはやこの近辺で食料を確保する事は難しいだろう。
”……せめてもの救いは飲料水があったことだけど、どちらにしても近いうちに次の行き先を考えねばなるまい”
「……さて、陽が暮れる前に戻るか」
そんな結論に達し、それじゃあ、と宗太は背負っていたリュックを下ろしてCDプレーヤーを取りだしてスピーカーをセットした。
放浪の果てに辿り着いた名も知らぬこの街は閑散としていて、駅前にあるこのアーケード街もそれに倣うように侘しい。
人はいない。
どこにもいない。
人が居なければ生み出される物はない。
あるといえばアスファルトを突き破って、そこいら中から芽吹き始めた緑と綺麗な空気だけであり、現実的に言えば都市機能のマヒであり、もっと現実的に言えば自分が生きるのにはなんの役にも立たないゴミである。
以前は綺麗な町並みだったのだろう、だが流通のない世界にとって町並みなどなんの意味を持つというのだろうか。
秋も深まる快晴の下、宗太は最大音量で音楽を流し始めた。曲は彼の好きなビートルズのナンバーだ。
こうして音楽をかけて歩いていれば、生き残っている誰かがこちらに気付くかもしれない。そんな微かな希望を抱いて、リュックを背負いなおした宗太は淡々と帰路についた。
かくて、人類は雨によって緩慢な死を迎えようとしている。
緑を育み、大地を潤す……恵みの象徴だったはずの雨は、いまや絶望の象徴へと変わった。
発端がなんであれ、原因がどうであれ―――
それが現在の地球という世界だった。
気が付けば、人だけがこの世界から消えていた。
原因を究明しようにも、すでにその方法はない。無線も電話もネットも通じなくなり、水道も電気もガスも使えなくなった。生活水準が石器時代と大して変わりなくなったわけだ。とはいえ、多少なりにでも文明の残り香がある分、マシなのだろうが。
雨によってほぼ世界中の人が消え去ってから、宗太は残った僅かばかりの人達と助け合って生きていく道を選んだ。
皆、それが延命に過ぎないと判っていても。雨が降ればまた、誰かが消えていく事も、分かっていた。
きっと最後は誰も残らないのだろう。疲労はとうにピークの筈だ。なのに、誰もそんな素振りもみせないでしっかりと生きている。
弱音を吐かない、のではなく。意志の弱かった者がまっさきに脱落したにすぎない。雨の日に消息を絶った人もいれば、雨を待たずに自ら命を絶った人も当然いた。だが影も形も残さず消える雨と違い、自殺は亡骸が残る分、残った人々にやるせなさを募らせる。
今いるのは、そんな理不尽を前にしてもまっすぐ、精一杯に生きている人たちだ。生きる、というただそれだけの目的に立ち向かっている彼らを見ていると、漠然と自分の中途半端さを考えてしまう。
今まではただ必死にきたけれど、もし最後のひとりになってしまったのなら、その後はどうするのだろうか、と。
それを思うと、心は暗い影に覆われる。
自分は皆のような、明確な生きる意志がもうないような気がするからだ。
……親しい人が消えていくたび。
僕の心の糸は断ち切れて、二度と戻ることはない。
糸の切れた凧は、風に流されていくだけだ。自分では行き先を決められず、いずれ空の青にまぎれて、消えてしまう。
”……ああ。便利な物は何もかも無くなってしまったけど、本当に大切なものは―――”
こうして町を歩くだけで、失われたものの大きさを思い知る。
何度も繰り返してきた自問。どれだけ自分に問いかけたところで気持ちは晴れるどころか、重くなっていく一方だった。
でも、もしかしたら。
己の脆弱さを嘆くほどには、いつか、希望らしきものが手に入ると縋っているのだろうか……?
「――――――はあ」
自分の弱音に呆れて、宗太は足を止めた。
ふと空を見上げると、白い雲が一つ、青空の中を悠々と泳いでいる。
ここ数週間ほど、雨は降っていない。
「――――――」
なるほど。結局のところ誰かの強さを見ていなくては、自分の弱さを嘆くどころかそれに気づきすらしない。
”まったくだ。それにいま悩むのは食べ物の問題だろう”
弱音を振り切って、リュックを背負い直し背筋を伸ばす。鈍くなった精神に活を入れて、宗太は前へと踏み出した。
* * * *
食料調達……というには徒労に過ぎた結果からキャンプに戻った、三時過ぎ。
そろそろ陽も傾きはじめようかという頃、仲間たちとキャンプ代わりにしている一軒家の庭先で、ひとりの女性が宗太に背中を見せる形で腰をかがめ、なにやらしきりに組み立てていた。
「吉田さん。ただいま戻りました」
その背中に声をかける。と、名前を呼ばれた女性はハッと後ろを振り向いてから、すぐににっこりとほほ笑んだ。宗太と違い、彼女は宗太に気づいていなかったようだ。
「おかえりなさい。真鍋君」
細い手足と、若干日に焼けた健康的な肌。安心感を与える柔らかい笑み。宗太よりも深い、混じりのない黒髪。暖かい色をした瞳で、しずしずと宗太を見上げている。
白いTシャツに桃色のパーカーを腰に巻き、七分丈のカジュアルパンツが柔らかい物腰の彼女によく似合う。
吉田浅香という名前の、宗太を含めて四人いる共同生活者の中の一人。
彼女はどうやらレンガを積みなおして、かまどを作っていたらしい。その証拠に手がススで真っ黒に染まっていた。
「お疲れさまでした。これから夕食の準備をするところですから、少し待っていてくださいね」
言って、浅香は慣れた手つきでかまどの横のポットに火をつけてお湯を沸かし始めた。
「それで、収穫の方はどうでした?」
「ええ、それが駅前にあった商店街もスーパーも、食料は全滅でした」
宗太の報告に浅香の手が止まる。心なしか表情が曇ったようにも見える。
「最近は……どこに行っても似たような感じですね」
「ほんとにそうですね。……一応、周辺の探索もかねて色々と周ってはみたんですが、生き残っている人も見つけられませんでしたし。……まあそれでも、ペットボトルの飲料水が見つけられたのは幸運でした。その分こっちは持てるだけ持ってきましたよ」
相当の重量があったのだろう。やっとのことでリュックサックを降ろした宗太が、ぐるぐると腕を回して凝った肩をほぐす。
「いつもご苦労様、真鍋君」
「いえ、これも自分の役目ですから。あ! それより吉田さんが欲しがっていた固形燃料も見つけました」
宗太がリュックの中から固形燃料を取り出して浅香に手渡すと、彼女は安堵したように礼を述べた。
「……良かった。食料はまだ備蓄に余裕があるから大丈夫なんですけど、燃料の方が少し心許なくなっていたので、助かります」
「確かに有ると無いとじゃ、火を起こす手間がずいぶんと違いますからね」
「そうなんですよ。それじゃすぐに食事の支度をしちゃいますね」
再びレンガの山に向かい合う浅香の背中に、宗太は思い出したように声をかけた。
「そういえば吉田さん。早瀬さんと純一さんは?」
「亜紀ちゃんならまだ寝てるんじゃないかな? 今日から夜の見張りはあの子の番だから。それと霧島くんなら二時間くらい前に戻ってきて、ガレージに行きましたよ。車の修理に使えそうな部品が手に入ったって喜んでました」
言って、浅香は額の汗を拭って、庭とは家の反対方向にあるガレージの方を指差した。
人が消え絶える以前。残った人達の間で残り少なくなっていく水や食料の奪い合いが頻発した。もちろん理由はそれだけではないが、当然のように二十四時間、昼夜問わずに警戒が必要なほど治安は悪化していた。
だから夜間の見張りが置かれるのは当然の事だった。人がことごとく消えてしまった今となっても、その習慣は続いている。
早瀬亜紀が就寝したのは朝方だ。であれば起こさなければまだしばらくは寝ているだろう。
「判りました。じゃあ僕は純一さんの方を何か手伝いができないか聞いてきます。何かあったら呼んでください」
部品が手に入ったのなら、もしかしたら手を必要としているかもしれない。そう考えた宗太は、ガレージに向かうことにした。
そうしてガレージへと歩き始めた宗太を浅香が呼び止めた。
「あ! それなら三十分ぐらいしたらでいいから、亜紀ちゃんを起こしてきてもらってもいい? それくらいで支度ができると思うから」
「ええ、別に構いませんよ」
「それじゃお願いしますね。玄関に一番近い部屋で寝てるはずですから」
* * * *
薄暗いガレージ。シャッターをくぐると、広い室内の中央に軍用車両かと思うほど大型の車両が鎮座していた。
ジャッキで持ち上がっているその車体の下から、ガチャガチャとせわしない音が聞こえてくる。
「純一さん、何か手伝いますよ」
「おお、宗太か。助かる、ちょっとそこのレンチ取ってくれ」
宗太がその音に声をかけると、滑るようにして車体の下から体格のいい男性が現れた。
ジーンズのつなぎに、鍛えられた身体つき。短く刈りそろえた髪がこんな世界にあって頼りがいある印象を与える、身長の高い男だ。
彼の名は霧島純一。以前は車の整備士として働いていたらしい。
差し出された汗と油まみれの手に、宗太がそばにあった工具箱からレンチを取って手渡すと、彼はすぐにまた車体の下に滑り込んだ。
「どうですか、直りそうですか?」
「ああ、問題ねえ。幸い近くのスタンドに交換用の部品が残ってたからな。それにしたってまだ一年も走ってねぇのに、あちこちガタがきやがって……こう頻繁にぶっ壊れてちゃ堪んねえよ」
「走行距離がだいぶかさみましたからね。仕方ないですよ」
宗太の言葉に「まあ、そりゃそうなんだが」と同意をした純一だが、どこかその声は晴れない。
「どうかしたんですか?」
「……いやな、宗太。ここだけの話、俺にはどうもそれだけじゃねえ気がするんだよ」
「それだけじゃない? ……っというと?」
その言葉に、宗太は首を傾げた。
純一は、いったん手を止めて車体の下から顔を出すと、辺りを窺うように視線を送ってから、口を開く。
「ゴムとか金属部分の……腐食っつうのかね、全体的にありえん傷み方をしてるんだ。こうしてちょくちょく触ってるから分かるんだが、普通は二~三年持つはずの部品でも、不自然なくらい劣化してんだ」
「ありえないくらいの傷み方、ですか? それってやっぱり、雨の影響ですかね?」
「……かもしれん。いや、多分そうだろうな。……っと悪い宗太、そこのクラッチカバー取ってくれ」
すぐ傍に置いてあったクラッチカバーを手渡し、再び作業に戻った純一を目で追いながら、宗太は彼の言葉に深い実感を覚えていた。
この一年間、各地を歩き回って自分の目で見てきたからこそ分かる。道路のアスファルトやガードレール、建物の塀、壁といったコンクリート。はては信号や看板などの金属に至るまで、人工物で腐食や劣化をしていない物を見たことがない。それがここ最近では目に見えて顕著になっていた。
いくら清掃や整備をする人間がいないとはいえ、とても一年やそこらで風化するような物でもないはずだ。にも関わらず、どこも状況は悲惨の一言に尽きる。
「……なあ宗太よ」
車体の下から、一段トーンの下がった純一の声が響いた。
「考えたくはねえけどよ。もしかして雨ってやつは人間だけじゃなくて、俺達の手で造られたもんはなんもかんも消しちまおうとしてるんじゃねえかな……」
「……ほんと、考えたくないですね」
「まったくだ。我ながら行き過ぎた考えかとも思うけど、あながちこんな狂った世界じゃ何が正しいかなんて分かったもんじゃねえしよ。……ああそうだ、そういや何時だったかは憶えてねえが、雨のことをノアの方舟にでてくる洪水に例えてたやつがいたっけな」
「ノアの方舟……ですか。旧約聖書にでてくる話ですね」
ノアの方舟。
神が地上に増えた人々の悪行を見て、洪水で滅ぼすと決めた。それを「神と共に歩んだ正しい人」であったノアに告げ、彼に方舟の建設を命じる。その後、洪水は四十日四十夜の間降り続き、地上に生きていたものを全て滅ぼし尽くした……という、旧約聖書の「創世記」に記されている有名な話だ。
「へえ、そうなのか。俺はそういうのにまったく興味がなかったから全然分からねえけどよ。つってもあれだ、テメエで人間をこしらえといて、今さらになって全部水に流しちまおうなんて、神様ってのはまったく救い様がねえ自分勝手だと思わねえか? まあ、実際に神様ってもんがいるならって話だけどよ」
純一の意見に宗太は同意した。
言われてみれば今の状況とさして変わりない気がする。でも仮にこんな悪夢のような雨が洪水なのだとしたら……。
そこから逃れるための方舟がはたしてどこかにあるのだろうか。
「ほんと、嫌な世の中になっちまったもんだぜ」
「ええ、僕もそう思います」
純一の言葉ではないが、本当に嫌な世界になったと思う。
今日を無事に過ごせるのか。明日は本当に来るのか。自分は何の為に生きるのか。
そんな事を考える必要がなかった平和な時代が懐かしい。まさかこんな、生きる事そのものが目的になるだなんて想像もしていなかった。
食べ物にも飲み物にも困らない。当たり前のように朝がきて、学校や仕事に出かけて、その日が何事もなく終わり、また次の日が来る。そんな普通の日常が続くことが、どれほどの幸福だったか。自分が今という時間を生きていて、明日も変わらずに生きている。そこに不安を感じなくて済む人生がどれほどの幸福だっただろうか。
しかし、例えこんな世界であっても僕たちはこうして生きている。生きていかねばならない……はずだ。
今はただ、僕たちは何事もなく明日が来ることを望んでいる。
「……っと。よし、こんなもんだろう。これで当分は大丈夫なはずだ」
「すみません、大した手伝いもできなくて」
「いいって、これは俺の仕事だからな。それにそんな暗い顔してんじゃねえよ。俺達は消えねえ。何が何でも生き残ってやろうぜ、そうだろ?」
「はい、僕たちは生き残るんです。でないと、これまで消えて行った人たちにあわせる顔がありませんから」
「そうよ、その意気だ宗太。お前はまだ若いんだからしっかりやれや」
立ち上がった純一がガハハと大声で笑いつつ、宗太の肩をバシバシと叩く。
いつもながら豪快な人だと思いながら、宗太は同時に彼のこの笑顔と底抜けの明るさにいつも救われていることを再認識した。
「それじゃ純一さん、そろそろ夕食の準備ができると思うので、先に庭へ行っててください。僕はちょっと早瀬さんを起こしてきます」
「おう、そうか。任せたぜ」
そうして、宗太と純一は並んでガレージを後にした。
* * * *
「早瀬さん、起きてますか?」
玄関から入って一番手前の部屋。そのドアの前で声をかけるが返事がない。念のためにもう二度ほど声をかけながらドアを叩くが、返答がないので宗太は部屋へ入った。
どこにでもある一般的なフローリングの洋室。その窓際に置かれたベッドの上で、寝袋にくるまって寝ている人がいた。
その紺色の芋虫……もとい、早瀬亜紀に声をかける。
「早瀬さん」
「――――――」
一向に起きる気配の見えない亜紀に、宗太は思わず吹き出しそうになった。神経が図太いのか、何処に居ても寝入りが良く、しかも一旦寝てしまうと中々目覚めないのが彼女の特技だ。
こんな世界にあって熟睡できるというのは長所というより他にない。
とはいえ、気持ちよさそうな寝顔には申し訳ないが、特別な理由がない限り夕食は全員で摂る決まりになっている。
「早瀬さん、そろそろ起きてください。夕食ができますよ」
宗太が寝袋に包まれた肩をゆすると芋虫がもぞもぞと動きだし、のっそりと宗太へ顔を向けた。
「……ん、んん。うーん。……そーた?」
「はい、真鍋宗太です」
「……おー、……どうしたの? んー、……ああ、さては夜這いか」
「さては夜這いか。じゃありません、寝惚けないでください、違いますよ。吉田さんに起こしてくるように言われて来たんです。第一、いまは夜じゃなくて夕方です」
「あー、起こしに来てくれたのね。あんがとさん」
寝袋から這い出た亜紀が、「んー」とショートの髪を揺らして大きく伸びをする。起き抜けの瞼が少し腫れぼったいが、しなやか肢体をタンクトップと短パンに包んだ活発そうな可愛らしい女性だ。
「いやあ、まだ生きてるんだねぇ私達。いま何時?」
「幸か不幸か、まだしぶとく生きてますよ。時間は四時になるところです」
「おー、もうそんな時間なのね。さてさてー、それじゃ起きるとしますか」
亜紀はベッドから立ち上がり、もう一度大きく伸びをしてから寝袋を片付け始めた。
その様子を見やり、「それにしても―――」と宗太が話しかけた。
「早瀬さんってどこにいても熟睡しますよね。いや、別に厭味とかじゃなくて、羨ましいなって」
宗太の言葉に、亜紀はわずかに笑みを向けた。そして寝袋を小さくまとめ終えた彼女はベッドに腰を落としてから人差し指を立ててこう言った。
「まあ前から似たような事は良く言われたね。でもさ、考えてもごらんよ。ジタバタしたところで何か事態が変化するわけじゃないでしょ? まあ、泣き喚いたり不眠になれば何かが変わるっていうなら、あたしもそうするけどさ」
「……前々から思ってたけど、早瀬さんって強いですよね、僕なんかと違って。やっぱりそういうのは覚悟の違いっていうんですかね」
「え? いやいや、そんなに買いかぶらないでよ。覚悟なんて大層なもんじゃなくてさ。ただ単にあたしは消えたくないだけよ? そうだなー、なんて言ったらいいのかな。ああ! なんかさ、消えるって、普通に死ぬより怖い事だと思わない?」
「死ぬより怖い……ですか?」
「うん。あたしが思ってるだけかもしれないけど、影も形も残らずに消えるってさあ、生まれてきた事とか、存在していた事を全部否定されたみたいで。あたしはそれが凄く怖いと思うし、絶対に嫌なんだよ」
「存在していたことの全否定、ですか。……なんとなく早瀬さんの言いたい事が分かる気がします。いまさらかもしれないけど、僕も自分の存在が否定されるのはとても怖いと思う」
「でしょ? それにさ、あたしは宗太が言うほど強くないよ」
言って亜紀は宗太を見やり、それからわずかに俯いた。
「……宗太はさあ、普段どんな夢を見る?」
「夢……ですか?」
どうだろう。当然夢くらい見ているが、あまり記憶に残っていた試しがない。それを亜紀に伝えると、彼女は逡巡してから顔を上げた。
「……そっか。うん、まあ普通はそうかもね。あたしはさ、しょっちゅうおんなじ様な夢を見るんだよね」
「同じような夢って、一体どんな夢ですか?」
「……うん。消えちゃったあたしの家族。父さんと母さん、それと良樹……って弟が居たんだけどさ、その三人が出てくる夢。いつも場面は違うんだけど、みんな揃って家で食事をしてたり、外で買い物してたりするんだ。そんでくだらない話とかで盛り上がっちゃったりしてさ」
「―――でもね」と、亜紀はそこで一度言葉を区切った。
「あたしそこでいつも「……ああ、みんなちゃんとここに居る。生きてる。……良かった、これまでのは全部悪い夢だったんだ」って心の底からホッとするんだ」
「…………、…………」
「もう何度も何度も繰り返し見てる夢なのに、目が覚めるたびに結構落ち込むんだよね。悪夢みたいなこっちが現実なのにさ」
バカバカしいかもしんないけどね、と苦笑いとともに付け加えた亜紀に、宗太は首を強く横に振った。
「……バカバカしいなんて、僕は全然思いません。それにむしろ羨ましいですよ」
「羨ましい? どうして?」
「だって、夢の中であっても家族に会えるなんて素晴らしいじゃないですか。僕なんて、会いたくても影も形もでてきちゃくれませんよ」
ちょっと肩をすくめて言う宗太に、亜紀が一瞬驚いたような顔を浮かべ、そして……クスッと笑った。
「アハハ……なるほど、そっか……そういう考え方もあるのか。うん、なんかそう考えると元気が出てくるね」
「それは良かった」
「…………宗太、あんがとね。なんかあたしらしくないね。こんな泣き言みたいな事言ってさ。けどあんたってば見かけによらずそうやって優しいからさ、ついつい愚痴を漏らしちゃうんだ」
「見かけによらずは余計です。それに、いいんじゃないですか? 泣き言くらい言っても。僕で良ければいくらでも聞きますよ」
「……うん。ありがと」
「さて、それじゃ僕は吉田さんの手伝いをしてきます。夕飯がそろそろできる頃でしょうし。あ、早瀬さん。お風呂場に水を貯めてありますから、顔はそこで洗ってきてください。夕食はいつも通り庭で摂ります」
「あいあい、りょうかい。すぐに行くよ」
そう言って出ていった宗太を見送る亜紀の顔は、どこか晴れやかだった。
* * * *
夕食を摂り終わった後、宗太達四人は焚火の前でインスタントコーヒーを片手に、今後の方針について話し合っていた。
まずは宗太が周辺一帯を探索した結果と、この地域ではこれ以上食料の確保が困難になったことを報告した。
他の三人は思い思いの表情でコーヒーを口にしながら黙ってそれを聞く。一通りの説明が終了したところで、純一がたばこに火をつけて一息吸い込み、それから意見を述べた。
「んじゃあ、この辺に生存者はいなかったんだな? なら別に悩むことはない、さっさとここから移動しようぜ。車の修理も終わってる事だしよ」
「はい。それにはついては僕も賛成です。問題はどこへ向かうか……ですが」
「そうですね。でも生き残りに心当たりがありそうなところは回ってしまいましたし……」
「分かってると思うけどさ、山とかマジで勘弁だからね。いきなり天気が変わる所なんて恐ろしくて近づけたもんじゃないよ」
亜紀の指摘に全員が頷く。
「うん。私も亜紀ちゃんの言う通りだと思う」
「山だけじゃねえ。そろそろ北の方もまずいだろ。雪が降り始めてもおかしくねえ時期だ」
「……となると、残るは南って事になりますね」
「まあ、それしかねえだろうな」
「うん。いいんじゃないの?」
「わたしもそれでいいと思います」
そうして大体の意見が出尽くした頃。
一戸建てにしては広く感じる庭の芝生の上で、宗太は心地よい満腹感にひたりながらぼんやりと夕闇に染まっていく空を眺めた。
直上の空には星明りがちらほらと見え始め、もうじき夜が到来することをつぶさに伝えている。
人が造りだす人工の灯りはもう存在しない。
車の排気ガスも工場から排出される有害な煙もない。
だから余計に星が良く見える。
……そして夜がくれば世界は完全な闇に覆われてしまう。
宗太は夜が嫌いだった。もう少し正確に言えば、嫌いになったと言った方が正しい。闇の中にいると言い様のない圧迫感に苛まれるからだ。
夜だろうが昼だろうが、そこにある物は何も変わらない事ぐらい、頭では理解できているつもりだ。けれど光がないだけで、ただ見通しが悪くなるだけで、心が押し潰されてしまいそうになる。
唯一の救いがあるとすれば、それはここにいる誰もが後ろ向きな意見を述べない事。
生きようとする前向きな姿勢が、辛うじて彼の精神を支えている。しかしそれは後ろ向きになった時が最後だと、誰もが言わずとも承知している表れであることは、宗太自身十分に承知している。
もしかしたら、自分達がこの地球で最後の生き残りかもしれない。そう考えてしまう事は一度や二度ではない。それでも、例えこんな綱渡りの世界であっても、彼らが居ればまだやっていける気がする。
自分はまだひとりじゃないと、そう思えるだけで明日に行く勇気が内に宿る。
結局人はひとりでは何もできず、生きていくことすら覚束ない。いうなれば、自己には他人という存在が必要不可欠だということ。他人を意識して、他人に自分を見られることでようやく己を保ち、前を向けるのだと。
「じゃあ、今日はもう休んで、明朝出発することにしよう」
宗太の提案に全員が了承した。
それが解散の合図となり、各々今日最後にやるべきことをこなし始めた。
純一はたばこを燻らせながら、持ってきた工具の手入れをはじめ、浅香と亜紀は明朝使うもの以外の調理器具を片付けはじめる。
「あー、それにしても夜の見張りってさ。ひとりだから暇なんだよねー」
「ごめんね亜紀ちゃん。ほんとは一緒に居てあげたいんだけど……」
「ゴメンゴメン、そういう意味じゃなくてさ。大体、みんな交代でやってる事じゃん。それより浅香は明日の準備もあるんだから、今日はちゃんと休みなよ? そういうのは任せたからさ」
「うん。ありがとね」
「ありがとうはお互い様だよ。……っと。さて、あと仕舞うのは浅香の前のやつで全部かな? 浅香、後は任せた。あたしちょっとトイレ行ってくるよ」
「うん、後はわたし一人で大丈夫だから」
「ほいほーい。ふんふふーん。ふふん~」
梱包し終えた段ボール類を再度丁寧に確認してから、亜紀は楽しげに意味不明な鼻歌をまじえて家の中へと消えていった。
夕闇が別れを告げ、夜の帳が下りてくる。
焚火の心地よい音と束の間の沈黙。
それからすぐ、作業を終えた純一が工具を片付けて立ち上がった。
「宗太、浅香ちゃん。悪いが俺は先に休ませてもらうぜ」
「あ、はい。御疲れさまでした」
「御疲れさまです。純一さ―――」
言うなり背を向けて歩き出した純一に挨拶を返した。その時―――
ポツン、と、
頬に、
何かが、
当たった。
「―――え?」
ふいに、何かが空から落ちてくるのが見えた。
「――――――え?」
宗太は停止しかかった思考でのろのろと、馬鹿のように空を見上げた。
衝撃。
背筋が凍った。ごくりと音を立てて息を呑む。全身から噴き出す冷や汗。喉の奥でヒュウヒュウと空気が漏れている。
―――信じられなかった。
無色透明の、黒い、鈍い、暗い記憶が、違う。これは夢じゃないと叫んでいる。
それは、星明りを遮るように腕を広げ。
それは、今やどんな手よりも強い力で僕たちの肩を掴み、そして……首を締め上げていたモノ。
おい…… 屋根の向こうから、
うそだ……ろ…… ゾッとする異物が、
やめろ…… ドスグロい雲が、
やめてくれ…… 髪を、肩を濡らす雨が―――
降った。
「――――――ぁああぁああああぁあああっっ―――!!」
……………………止まらない。
「い……いやあ……いやぁぁぁああぁぁあぁああ――――――!!」
すぐ隣で、浅香が悲鳴を上げた。その声を、僕は、まるで他人事のようにひどい金切声だな、と思いながら聞いていた。
少し離れたところで、金魚かなにかみたいに口をパクパクとしながら呆然と純一が立ち尽くしている。
雨が、降った……?
嘘だろ…… これじゃまた……
こんな突然…… ありえない……
だいたいさっきまでどこにも……
雨……雨……お前は、またそうやって僕から……何もかも……
奪うのか
襲い来る強烈な、発狂しそうな恐怖。脳髄を蛆虫が駆けずり回るような気色悪いかゆみ。バラバラになって歪んだ精神が、一度大きく震えて、目の前の悪夢によって再構築される。感情が掻き乱されて脳みその中で色と音と臭いと驚愕と倒錯と痒みが一緒くたとなり痒くて掻けなくて苦しくてそれよりも死にそうなほど気持ち悪くてぽつぽつぽつぽつと視界の隅に落ちてもまだ消えない。鼓膜の奥でぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつ聴きたくない水の落ちる音が大音響になって響き渡りそのせいで身体が痺れて止まれよこいつ止まれってばぽつぽつぽつぽつ止まれ止まれ止めろこの音を止めろぽつぽつぽつぽつ。
吐きそうだった。
気持ち悪い。頭が痛い。寒気がする。脳みそがグラグラ揺れる。震えが止まらない。震えながら、空を見上げる。冷たい。うすら寒い。足が動かない。
僕達が、こんな目に遭う理由が分からない。
「なんで降るんだよ……なんで……なんでだ……?」
―――、―――
震えながら、すがりつく目で見上げる僕達を、雨は見下していた。その存在はゾッとするほど寒気がして、人間の無様な姿を嘲笑っているようだった。そのずっと奥に、僕は、無慈悲な瞳を見たような気がした。
僕は心の底から雨という存在を憎悪した。後悔して、苦しくて、割れるかと思うほど奥歯を噛みしめて―――
おかげで、力が出た。
「いますぐ家の中へ走れっ!」
腹の底から溢れ出る怒りの泉の勢いにまかせ、浅香の手を引いて家に向かって駆け出した。
突然引っ張られてつんのめった浅香が我に返って、ぐっ、と堪えて走り出す。僕は立ち尽くす純一の胸ぐらをつかんで庭からリビングへ飛び込み、そのまま乱暴に窓を閉めた。
消えてたまるか―――
なにがなんでも、僕達は生き残るんだ―――
朦朧とした意識が、ほとんど本能だけで悪意から逃げろ、生き抜け、と叫んでいた。まるでここを開けろとでもいわんばかりに、ばらばらと音を立てて窓を叩く雨。僕は反射的にカーテンを閉めていた。外の状況を確認しよう、と冷静に考える余裕もなかった。そのまま地べたに座り込む。
振り返ると、浅香が床にうずくまっていた。そしてその傍でカーテンを見つめたまま微動だにしない純一の姿。
―――ちっくしょう、ちっくしょう、なんだって僕たちがこんな目に遭わなきゃならないんだ。ふざけやがって、ちくしょう―――
雨が降ったということはつまり……僕か、他の誰かか……もしくは全員が一片の痕跡も残さずこの世界から、消失する……
そこまで考えて、ふと気付く。
…………全員? 僕と純一さんと吉田さんと……
「……早瀬さん?」
ぽつりと、呟く。
「あ……亜紀ちゃん……?! 亜紀ちゃんはっ!?」
混濁から覚めた浅香が声を上げたのと、家の奥から聞こえた、突き刺さるような激しい悲鳴はほとんど同時で、
気が付いた時には、僕は何もかもをかなぐり捨てて、悲鳴のした方へ全速で駆けだしていた。
『―――いやぁああぁああぁぁあああぁああっっ!!!!!』
リビングを飛び出した時、再び早瀬亜紀の叫び声が響いた。廊下の途中、二階へ続く階段の真正面にあるドアの中だ。
「早瀬さん、ドアを開けてくださいっっ!!」
ドアノブを回すが、内側から鍵がかかっているのか開かない。
『―――ああ。―――ぁぁああ』
「早瀬さんここを開けてくださいっ!! 早くっっ!!」
『―――あぁあぁあああ、ぁあぁあああぁぁああぁっっ』
「早瀬さんっ! いますぐドアを開けるんだっ!!」
『いやぁあっ―――やめて……来ないで……来ないでぇえぇぇええぇっっ―――!!』
「早瀬ぇっ―――!! ここを開けろっっ―――!」
『―――ぁああぁ、ぁああぁあぁああぁあああ、ぁぁあああぁぁあああぁあぁぁぁああああぁぁあぁぁああああぁぁぁああぁぁぁあぁあぁぁああぁああぁぁあああああああ―――!!』
ドアの向こうで壊れたスピーカーのように声を上げ続ける亜紀。廊下の暗闇で、立ちはだかるそのドアを殴りながら、えんえんと響き渡る絶叫を聞いている。
なんなんだよこれ。どうなってんだ。なんで壊れねえんだ。ふざけんなっっ!!
ぎりぎりと歯を食いしばり睨みつけて、拳から血が飛ぶのも構わずドアをぶっ壊そうと殴り続けるのに、それは僅かなこゆるぎも見せない。
「どけ宗太っ! 俺が代わる」
「純一さん!!」
詰め寄った純一が、僕を押しのけてドアに体当たりを喰らわせた。
「くそっ、どうなってやがんだこいつ。びくともしねえぞ」
「亜紀ちゃん―――! ドアを開けて亜紀ちゃんっ! お願いっっ!!」
「ちっくしょう、ダメだ。おい宗太、俺は何かドアをぶっ壊せるもん持ってくる」
「お願いします!」
「ならわたしも何か探してきます!」
「駄目だっ!」
そう言ってリビングに戻ろうとした浅香を、純一が一喝した。怒鳴り声に浅香が立ち止まる。
「怒鳴って悪い。でも浅香ちゃんはここに残って宗太と居るんだ」
「……そんな」
「言うことを聞いてくれ、浅香ちゃん。今は何が起きてもおかしくない状況なんだ。分かってくれ」
そう言い残して純一が玄関へと走り去った。残った僕はどうにかドアを開けようと執拗にドアノブを回したり、殴ってみるも状況は何も変わらず……しばらくすると亜紀の声に変化が訪れた。
『―――は―――はは―――』
茫然とする僕の耳に、何かが壊れた音が聞こえた。それがドアの向こうにいる亜紀のスイッチだと気付くのに、時間はさして必要じゃなかった。
『……フははハ……ふひ……』
ドアを隔てた先からぶつぶつと、意味にならない、得体のしれない何かが聴こえてくる。
それは、
―――笑い声だった。
『……ふひ……フひ……』
『…………あひゃ……ヒぃ……ヒゅヒヒ……』
『……は…………うひェ……へじゃ……じゃへへへ……ヒッッ……――――――』
気がふれたように笑い続ける。焦燥に駆られて思い切りドアを殴りつけるのにびくともしない。扉は閉じられたまま。ただそこにあり続ける。決して届かない。
なぜなら、この世界が望むのは、消失なのだから―――
『……ぅあ、あ、あ、あああ、あああああ…………ソタ…………ソータ…………―――――――――』
「――――――っ!!」
「……亜紀ちゃん? あ、あっ……亜紀ちゃんダメェエエエッ!!」
『―――ぁは、あハ、あははハはは! あはははははハハははハははハ! あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!! ッハ―――――――――――――――――――――』
浅香の叫びも空しく、それを最後に声が―――ぱったりと途絶えた。
早瀬亜紀は―――
世界から―――
消失した―――
僕は、どれだけドアを殴っていたのだろう。
「真鍋君……止めて。もう……手が……」
腕が重い。誰かに腕を掴まれて拳をドアに押し付けた拍子に、ズルリと手が滑った。ドロッとした血が一面を染めている。それは温かくて生臭い。手がズキズキと痛む。
僕は何かぶつぶつと、言っている。
「……なあ……早瀬さん……ここを……開けてくれよ……鍵を……」
「……真鍋君」
「返事……してくれよ……僕は……助けたくて……」
ドアに拳を押し付けて俯いたままぶつぶつと独り言を言っている僕の肩に、誰かが触れている。
静寂が痛い。全身から力が抜け、考える気力もなく、頭の中では罪悪感と後悔がぐるぐると渦を巻く。
「どうして……こんな……また……僕は見殺しにして……」
「……いいから……もう、十分だから……」
誰かが言う。言いながら僕の硬直した指を包み、一本づつ無理矢理開かせて、引き剥がすようにしてようやく僕の手が開く。
バリバリに固まった血が、剥がれ落ちていく。
ややあって、身体が温かい何かに包まれた感覚がした。頭を抱きかかえられて、抵抗する気力もなくされるがままその場に崩れ落ちる。
また、助けられなかった。
助けるどころか―――ただ手をこまねいて見ている事しかできなかった。
やはりこの世界は人を完全に抹消しようとしている。人の運命は、そう確定してしまっている。
それに抗うなんて、最初から無理な話だったんだ―――
滑稽だ。何が「僕達は生き残るんだ」だ。生き残るどころか、なんの抵抗もできないじゃないか。この一年で、何人も、何十人も、大勢の仲間が―――
消えた。
「……無駄なんだ……なにをやっても……無駄だ」
気が狂いそうだ。心の底から、ぞろぞろとドス黒い吐き気が這い上がってくる。
「……全部、最初から決まっているんだ……みんな、消えるしかない……」
ちっぽけな虫けらをなんの労力のなく押し潰して殺す。僕たちの存在は雨にとってその程度のものでしかない。
震えが止まらない。ガチガチと歯と歯が噛みあわない音を立てながら、僕は呟き続ける。
「どれだけ、足掻いたって……何も変わらない……」
原因も理由も不明のまま、瞬く間に七十億の人口をたった一年弱で消失させた雨を、やり過ごす方法なんて存在しない。
わかってる。わかってた。そんなものがあるはずがないとわかってて、わずかな可能性を信じたがっていただけだ。
人はどうあっても消失する。
無駄。
あらゆる手を尽くしても、すべて無駄。誰であろうとこの結論を覆すことはできない。
のろのろと僕を包む何かを引き剥がし、床を見つめた。この一年というもの、嫌というほど思い知らされ、そのたびに死ぬほど悩みながら何度も何度も見た光景だ。そしてそのたびに絶望しては、まだだ、まだやれることはきっとある、と僕自身を奮い立たせてきた光景だ。
でも。もう限界。
「わかってたんだ……誰も残らないなんてことは……」
もういい。もう、疲れた。
この一年、片時も心が休まったことはない。ずっと寝ていないし、ずっと怯えているし、ずっと死にかけてる。
雨だけじゃない。人に殺されかけた事だって一度や二度じゃない。僕の中にはもうすり減る心なんてこれっぽっちだって残ってやしない。努力も希望も、何もかも使い果たした。
そして僕は、空っぽになったまま、つぶやく。
「……彼女が……何をしたっていうんだ」
この世界は悪意に満ちすぎている。毎日毎日誰かが死ぬ。生きていればいつか必ず死は訪れる。中には前触れもなく突然死ぬ人だっているだろう。けれどこの唐突な消失にはいったいなんの意味がある?
おかしいだろ。なんで早瀬が、ここで消えなくちゃいけない? この消失に何か意味があるってのか?
雨が人を消し去る。どれだけ抗おうとも逃れられない運命。いつかこうなることはわかっていた。彼女に限らず誰も避けられない。これまでの経験から、そんなことはわかりきっていた。
そう……わかりきってる。それでも……
「俺が……消えればよかったのに……」
「真鍋君!」
その時、ばちん、という鋭い音がした。最初はなんの音だかわからなかったが、すぐに、何かが僕の頬を強く叩いたのだと気付いた。
暗闇に慣れた目がぼんやりと誰かの顔を映し出す。
浅香だ。
きっ、と見開かれたその瞳から、とめどなく涙が溢れていた。真珠のような雫がぼろぼろと頬を伝い落ち、僕の頬はじんじんと熱を持った痺れが広がっていく。
浅香は僕の両頬に優しく手を添えて、まっすぐに僕を見つめた。
「真鍋君は、諦める人じゃないよ……わたしは、知ってる。こうと決めたら、絶対に最後まで諦めたりしない。これまでだって沢山の人が、もうダメだって、生きる事を投げ出しても、真鍋君は最後の最後まで諦めたりしなかった」
……彼女は、いったい何を言っている?
「覚えてる? 初めてわたしがここに来たときのこと。どうせもう助かる訳がないのにって、何もかもに絶望してふさぎ込んでたわたしに、真鍋君は、毎日話しかけてくれたよね。大丈夫だって、絶対に消えないからって、毎日毎日、諦めずにわたしの横に来て、わたしに話しかけて、呼びかけて、引っ張り続けてくれたよね……」
「……………………」
「真鍋君が最後までそばにいてくれたから……わたしはこれまで折れずに生きてこれたんだよ。誰が居なくなっても、生きてこれたんだよ。ね? だから真鍋君、諦めちゃ、ダメだよ……何があっても……絶対に……」
浅香の温もりが、僕を包みこむ。彼女の手から伝わってくる体温が、彼女は生きていると言っている。そのあたたかさにすがって、すべてを放り出して、このまま眠ってしまいたかった。
でも。
「……早瀬さんのこと、助けられなかった……」
耳朶に残る、彼女の悲鳴と絶叫と、そして狂ったような笑い声。その音が、まだ鼓膜の奥で響いている。
自分の手を見る。真っ赤な血に染まった手。乾き始めた自分の血で、がさがさになった手。これまで幾度となく伸ばしても、誰にも届かなかった手。
結果がこれだ。
手の震えが、止まらない。
現実はあまりに無情で、人はあまりに無力だ。そしてこれは、これまで好き勝手にやりたい放題やってきた人間に対する罰だ。
これはれっきとした代償であり、誰も救えない。少なくとも僕には無理だ。それはよくわかった。僕がやってきたことは、なにもかもが無駄だった……
「無駄じゃないよ」
「…………え?」
「真鍋君、あなたのしてきたことは無駄じゃない」
浅香が確信に満ちた口調でそう告げた。
僕は唖然としていた―――というより、よく理解できずに戸惑っている。この状況で、どうしてそこまでハッキリと言い切る事ができる。
分からない―――分からないけれど。
「……そう……だ」
なぜだろう。彼女の言葉に何かが自然とこみ上げてくる。さっきまで亜紀を見殺しにしてしまった自分を嘆いて、この世界すべてに絶望していたはずなのに。もちろん後悔は消えていない。こうしている今でも世界がとてつもなく憎い。だが同時に、腹の底からふつふつとしたものが湧きあがってくる。
「無駄じゃない。そうだ……絶対に無駄にしちゃいけない」
僕は立ち上がり、浅香の手を取った。
「……純一さんと……合流しよう」
「うん」
純一は玄関から外へ出ていった。きっとガレージに向かったのだろう。真っ暗闇の廊下を慎重に玄関へ進み、
最後に一度だけ振り返る。亜紀と僕を隔てたドアに、
「早瀬さん…………」
彼女の姿を、そして声を、早瀬亜紀という大切な人の存在を決して忘れまいと脳裏に刻み込んでから、僕は玄関の扉を押し開けて外へ出た。
外は予想以上のドシャ降りだった。濡れるのもかまわず、純一が向かったと思われるガレージへと進む。
だが、
「―――っ、…………」
「…………真鍋君」
ガレージに行くまでもなかった。
雨にさらされ、水浸しになってぽつんと転がる工具箱と、その周囲に散乱する無数の工具類。
「純一さん……」
もはや確認するまでもない。
人はあまりに、無力だ。
……そんなことはもう。とうに判り切っている。
「……戻ろう、吉田さん」
僕は浅香の手を引いて家へと戻った。
……それから、どれほどの時間が経っただろう。
再び外へ出たとき、すでに雨はやんでいた。
朝焼けに照らされた雨上がりの空が、憎らしいほどに美しくて。僕は車のキーをまわしてエンジンをかけた。
「ねえ、真鍋君。これからどこへ行くの?」
助手席の浅香が聞いた。
「そうだな……」
早瀬亜紀も霧島純一も消えた。もう彼らは戻ってこない。起きた事に取り返しはつかない。
つまりこれまで通り、雨は逃げ道を用意していないということだ。
このまま何もせず、不条理な消失を受け入れるか。
それとも、無駄とわかっていて抗い続けるか。
決断しなくてはならない。
他の誰でもなく、僕自身の意思で。
「方舟を探そうか。……浅香」
浅香は一瞬だけ驚いたような表情をして、すぐに微笑みを浮かべた。
「浅香。ふたりで方舟を探そう」
「……うん。貴方となら、宗太君となら……わたしはどこへでも行けるよ」
フロントガラスから差し込む朝日が、僕と浅香の影をひとつに重ねる。
永遠のように、影は、いつまでもいつまでも離れずにいた―――
作者あとがき
いつかサバイバルホラーを書いてみたい。というのが、以前からの僕の目標のひとつでした。
理不尽だったり不条理だったり、死が目の前に迫る極限の状態の中で、そこから「生きよう」とする人の輝きは美しく、また魅せられます。
それを自分の手で形にしてみたいと、ずっと思っておりました。
今回の競演のお題は【雨】だったのですが、このお題を提出された際、「夏といえばやっぱりホラーだよね? じゃあせっかくだし……」と、目標をこの際完遂しよう! と決心しました。
さて、いかがだったでしょうか。
感想など御座いましたら、ぜひお聞かせください。
次にお礼とお詫びを……。
第四回競演の開始からだいぶ日が経過してしまい、主催者様には大変なご迷惑をおかけしました。
そのうえ規定で1万文字となっているのですが、これもオーバーしておりまして、誠に申し訳なく思っております。
以上について、快く対応して下さいました主催者、唯野誠一様に謹んでお礼とお詫びを申し上げます。