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S・レディ・アプリカント

作者: えりじうむ

 静まり返った廊下には、一種殺伐とした緊張感が漂っていた。壁際の腰掛けにずらりと居並ぶリクルートスーツの女たち。彼女らの視線はすべて、『面接室』と張り紙のされたドアに注がれている。

 そのドアを隔てたフロア、三〇坪ほどの部屋の奥に壮年の男がひとり立っていた。

 アラヘックス生命、人事部長、阿久津孝三である。

 阿久津は生保レディ最終面接を目前に控え、斬り合いに臨む侍もかくやと精神を統一し、集中力を極限まで高めていた。

 生保レディ、すなわち保険外交員という職につくためには、ほかの一般的な業種に比べるといささか面倒な手続きを踏まなくてはならない。加えて、生命保険業界トップに君臨するこのアラヘックス生命においては、よりいっそうの困難をきわめる。二次面接までを通過し、オリエンテーションを数日受講したのち、適性試験、学力試験を経て、ようやく最終面接を受ける資格が与えられる。従って、ドアの外で待機している女たちは、狭き門を潜り抜けてきた選りすぐりの精鋭と言える。

 そしてその最終面接を一手に引き受けるこの男、阿久津孝三もまた、並外れた辣腕家であった。くびキラー、飛ばし屋、などの異名を持つ彼の存在は社内外で恐れられていた。自らが左遷した社員を指して、「見ろ、人がゴミのようだ」と言い放った悪逆無道はいまだ語り草である。


「プルル、プルル、プルル……」

 内線の呼び出し音が、面接室の静寂を破る。窓越しに虚空を見詰めていた阿久津は厳めしい面構えで振り返り、おもむろにデスクへと近づき受話器を取った。

「……うむ、では始めるとしよう。一人目の候補者を部屋に通してくれたまえ」

 阿久津は受話器を置くと、松かさ模様のネクタイをキュっと締め直し、プレジデントチェアにどっかと腰を下ろした。眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、射るような視線をドアに向ける。

「コン、コン」

 ドアをノックする乾いた音が部屋の中に響いた。

「どうぞ」

 低く抑制された、しかしよく通る声で阿久津が言うと、

「失礼いたします」

 ややハスキーな声が答え、一人目の女が部屋に入ってきた。

 女を見るなり、阿久津はわずかに眉を上げた。かつて、五年仕えた部下が企業スパイであることをすっぱ抜いた時でさえ、眉一つ動かさなかったこの男が、女を一瞥しただけで眉を上げたのである。女はそれほどに、奇天烈な格好をしていた。

 阿久津がまず視線を奪われたのは、女の股ぐらである。相当な切れ込みのハイレグであった。黒く艶めくラバーレオタード、あるいはボンデージスーツと言うべきか。すらりと伸びた筋肉質の脚は網タイツに包まれ、足もとは黒エナメルの編み上げピンヒールである。円錐形のびょうが並ぶ禍々しいデザインのアームウォーマー、その手にはなぜかアダディスのスポーツバッグが持たれていた。そして顔。目もとを覆う毒々しいまでに色鮮やかな仮面。いかがわしい舞踏会などでよく見かける、アレである。

 端的に言えば、場違いきわまりない格好であった。さしもの阿久津も怪訝な表情をちらと見せたが、コンマ五秒ほどで沈着な面持ちを取り戻した。身なりがどうあれ最終面接までたどり着いた人材である。このように奇抜な装いをするのも何らかの理由があるに違いない。

 女はデスクを挟んで阿久津の向かいに立ち、恭しく頭を下げた。

「本日はよろしくお願いいたします」

 どぎつい香水の匂いが阿久津の鼻をついた。

「……どうぞ、お掛けください」

 女は再度一礼してから椅子に座り、白い封筒を阿久津の前に置いた。

「履歴書でございます」

「うむ、拝見させていただこう」

 阿久津は封筒から三つ折りの履歴書を取り出し、デスクの上に広げた。

「エスメラルダ……。これは本名ですかな?」

「ええ」

 阿久津は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、上目遣いにギロリと女を見やった。

 どう見ても、女は日本人であった。

「……年齢の欄が空白、職歴もいっさい書かれておらんが、これは?」

 一〇秒ほど待ったが、女は何も答えなかった。

「失礼だが、貴女の推定年齢からすると職歴が何もないということはあり得んだろうし、そもそも、」

「おだまり」

「日本人にしか……え?」

 阿久津は履歴書から女へと視線を移した。

 仮面の奥にある切れ長の瞳からは何の感情も読み取れない。阿久津はずり落ちた眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、軽く咳払いをした。

「ではエスメラルダさん、保険外交員のキャリアは全くなしということですな?」

「ございません。そんなもの」

 阿久津はひとまず履歴書の不備はさておくとして、二〇項目に及ぶ既定の質問を始めることにした。

 女は臆する色もなく、率直に、きわめて簡潔に答え続けた。ほとんどが即答か、でなければ返答なしであった。

 永年に渡って面接官を務め、時には型破りな人間とも渡り合ってきた阿久津である。あらゆるケースに対処し、いかなトラブルをも取りさばく、あるいはその豪腕でねじ伏せる、それだけの器量も経験もあった。しかしそんな阿久津をもってしても、エスメラルダと称する純日本人の女はどうにも捉えがたい存在であった。

 これ以上既定の質問を繰り返すのは無意味であると、阿久津はそう判断した。

「……ところでエスメラルダさん、そのアダディスのスポーツバッグには何が入っているのだろう。かなりパンパンに膨れ上がっているが」

 エスメラルダは鼻で笑い、

「営業アイテムでございます」

 と答えた。

「ほう、外交員業務で使うものを自前で用意しておるとは感心ですな。ちょっと見せてもらってかまわんかな?」

 エスメラルダは口角を片方だけ吊り上げ、阿久津を見据えたまま、膝の上にあるバッグのジッパーを開けた。そして、バッグから次々と『営業アイテム』を取り出してはデスクの上に並べ始めた。一見しただけでは用途の知れない、もの珍しい物体がデスクいっぱいに広がった。

 阿久津はその中の一つを手に取った。

「……これは、ロウソクですな。随分と大きなものだが」

 エスメラルダは鼻で笑った。

「このロープは……これも営業アイテムなのだろうか?」

「緊縛用生成り縄でございます」

「……よくわからんな。で、これはいったい? ムチのように見えるが」

「ムチでございます」

 阿久津はずり落ちた眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

「では、このアメリカンクラッカーのようなものは?」

「乳首クリップでございます」

「じゃあこれは?」

「固定式鼻フックでございます」

 阿久津は手に取っていた固定式鼻フックをデスクの上に放り投げ、プレジデントチェアの背に深くもたれかかった。おもむろに眼鏡を外し、胸ポケットから取り出したハンカチでレンズを拭き始める。

「率直に問おう。君はふざけているのか?」

 阿久津の声色がガラリと変わった。

 それまでも、対峙する者を萎縮させる威圧感を放っていたが、今の阿久津は獰猛な肉食獣を思わせる危険な気配すら感じさせた。そしてこれこそが、阿久津孝三という男が持つ生来の気質なのである。眼鏡を外したことによってか、はたまた照明の加減なのか、厳めしい顔立ちにいっそう深い陰影が加わった。

 そんな阿久津を前にして、エスメラルダはまったく悪びれた様子もなく、それどころかツンと取り澄ました笑みさえ浮かべていた。

「これらがすべて営業で使うものだと? 君は外交員という仕事を理解しているのか?」

 エスメラルダは鼻で笑い、見せつけるようにして脚を組んだ。

「何でしたら、実演してみせますけれど」

 仮面から覗く瞳がわずかに細められ、妖しげな光を放った。

 阿久津は泰然と構えたまま再び眼鏡をかけ、すさまじい形相でエスメラルダを睨めつけた。

 一触即発の張り詰めた空気が漂うなか、二人はひとしきり視線を交えた。

 双方の行く末を決せんとする運命の面接室に、重苦しい沈黙のとばりが下りた。



 ◆



 午後の顧客まわりを終え、佐藤一郎はアラヘックス生命本社ビルに戻ってきた。

 ビルのエントランスに入るなり、前方からぞろぞろと、リクルートスーツを着た女性の集団がやってくる。佐藤はぎょっとして身構えた。女たちは皆一様に憮然とした面持ちで、剣呑な空気を振りまきながら佐藤の脇を通り過ぎ、自動ドアから外に出て行った。

 佐藤は受付嬢のところへ行き、今しがた遭遇した、いわくありげな集団について尋ねた。

「あれは生保レディの最終面接に来た人たちです。阿久津部長の指示でまとめて帰らされたみたいですね」

「あー、そっかそっか。最終面接は阿久津部長がやってるんだよなあ……。集団面接してたんだ?」

「いえ、なんか、面接する前に帰らされたみたいですよ。一人だけ残して今も面接中らしいですけど」

 受付嬢の話にうさん臭いものを感じ取った佐藤は、一階奥にある面接室まで足を運んでみることにした。

 面接室への通路に入るところで、佐藤の同期である人事部の鈴木がポツンと突っ立っていた。

「よう鈴木、お疲れさん。今日の面接なんかあったの? また阿久津部長がプッツンしちゃったとか」

「お、佐藤か。じつは俺もよくわかんねーんだ。一人目の面接してる最中に阿久津部長が部屋から出てきてさ、残りの連中はみんな帰らせろって。そんなのってあるか? 酷くね?」

「……で、その一人目の女はまだ部屋の中にいるわけだな?」

「ああ、もうだいぶ長いこと面接してるな」

 佐藤は訝しげな視線を通路の先に向け、面接室のほうに歩き出した。

「あ、おい佐藤。何があっても絶対に面接室のドアは開けるなって、阿久津部長から言われてんだよ」

「OK、OK。わかってる」

 佐藤は片手を上げて答え、忍び足で通路を進んだ。そして面接室の前に立ち、ドアにそっと耳をあてた。






 パシーン!

「痛っ……」

「おだまり」






 ジュゥ……。

「あつッ……!」

「この豚が」






 パシーン!

「アーッ!」

「おだまり」






 ぎゅううううぅ……。

「ああぁ……あぁ……」

「だらしない体だねぇ」






 パシーン!

「つぅ……も、もっとぉ!」

「おだまり」






 ウィ~~~ン……。

「アハァ……ア、ア、アハァ……」

「この下衆男」






 パシーン!

「おうッ! おぉ……」

「おだまり」






 プチンッ、プチンッ!

「アタッ、アイターーッ!」

「いやらしい男だよお前は」






 パシーン!

「うっふ……うふぅ~……」

「おだまり」






 ジャラジャラジャラジャラ……。

「はあはあ……ははぁ……」

「このグズ犬」






 パシーン!

「も、もっと……もっとぉ!」

「おだまり」






 ドスッ……。

「ぐふぅ……」

「みっともない声だすんじゃないよ」






 パシーン!

「あぅ……ヤフーッ!」

「おだまり」






 ヌポ……ヌポ……ヌポ……。

「オゥオゥオゥ……オオオオゥ……!」

「生きてて恥ずかしくないのかい?」






 パシーン!

「……んん……」

「おだまり」






 くいっ、カチャ。

「ふんぐぅ……ふがはががぁ……」

「ほーら、お前にはこれがお似合いだよ」






 パシーン!

「……」

「おだまり」






 ……。

「っ……!」

「おだまり」






 ピシッ……。

「……」

「……」





 ……。

「……」




 ……。


 ……





(了)

読了ありがとうございます。忌憚のないご意見、ご感想、アドバイス等をいただけると幸いです。

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