かなたへ 第八部 Rewind(リワインド) 第一章 見知らぬ少女 第2節
少々フラフラになりながら漸く家に帰り着く、我ながら体力の無さは泣きたくなる。前はもっと体力あったよな。クラブも何もしていないから、運動といえば佐々木を乗せて駅までのったり自転車で行くぐらいだかな。
家に着くなりお袋を呼んで事情を話す。見知らぬ少女は家に着く頃には大分足元がシッカリしてきてはいたが、怪我もしているだろうし、服も汚れたはずだ。少女は玄関先で入り口に寄りかかりながらお袋に頭をさげて挨拶した。
「おば様、すみません、かなたです」
そう言ったなり、かなたと名乗った少女は玄関先で崩れるように倒れてしまった。止む無くお袋とふたりで抱え揚げると客間に布団を敷いて横にする。スカートも、ブラウスの袖も泥だらけだし、頭の両脇に小さな尻尾のように結ばれた髪にも泥と砂がこびりついている。
「随分汚れちまってるけど、幸い表立った怪我はなさそうだね、ちょっと着替えさせて身体を拭いてやるから、お前は部屋にに戻て勉強してなさい、時間が無いんだろ、この子、目が中々覚めないならついでに身元が分かる物を身に着けてないか、悪いけど探させてもらうよ。どちらにしろ親御さんに連絡してお詫びしなくちゃいけないからね。お前も毎日毎日徹夜なんかしてるから注意力散漫になってこんな事になるんだよ、いい加減今日は早く休めるようにしなさい。いくら良い成績とったって、身体を壊したり、こうやって人様に迷惑掛けるようじゃ本末転倒だからね」
済まない、最近、いくらやっても予習が追いつかないんだ、我ながら情けないよ。様子がわかったら教えてくれな。腕時計を見ると、もう九時を回っている。中学の時からしている時計だ、昔の事で、いつ、誰にもらったのか定かではないが身内の誰かに貰ったような気がする。格好良い時計だ、良く似合っていると佐々木に言われて気が付いたのは、あれはいつだったろう。たしか中三の秋口だったろうか? 見た事の無い不思議なマークとロゴの腕時計で確かに高級そうだ。結構乱暴に扱っても傷ひとつ付かないし、本当によほど良い物なんだろう。ドリンクとコーヒーを見比べ、結局さっきの騒動で目が覚めたし、甘いものが欲しい気もしたのでコーヒーにストローを挿し、飲みながら英語の予習にかかる、明日は教科書を離れ、渡されたプリントの訳だ、英文の脇には多分写真の図版が載っていたのだろうが、劣悪なコピーですっかり潰れて何の写真か判別が付かないほどだ。まずは辞書無しで読む事、分からない単語があってもまずは三回通して読んで内容にあたりをつけ、意味をとる練習をすること、これが課題だ、絶対俺の力では無理なんだが、それでもと思い読んでみる。タイトルは『An Inconvenient Truth』、inだから否定の意味だよね、だから、何とかなでない本当のこと? どこかで聞いたタイトルな様な気がするが。
半ば諦めて読み始めるが、二回、三回読むうちに、一度読んだことがあるような気がしてきた、意味も大体わかる、これは『不都合な真実』という、最近有名だった環境問題の本だった、書いたのは誰だったろう? 有名な人だった様な気がするが、この二年以上新聞もテレビも殆ど見たことが無いから、よくわからない。奥歯に物が挟まっているような気がしながらも辞書も見ないで不思議なことに全体を訳すことが出来た、念のために辞書を引いてノートを作る、この作業、やったことがある、この単語、覚えたことがある。やさしい気分とイチゴの香り、ピンクのゴムで括った短いツインテールの少女の面影がふと思い出された。そういえば、俺が突き飛ばしてしまった子、あの子もそういえばツインテール、似てるよな……? 誰に? 俺の記憶に浮かんだ少女は、誰?
思いのほかリーダーの予習が早く目処が付いたので目覚ましドリンクを冷蔵庫に仕舞うべく台所へ行くと、先ほどの少女が食卓の椅子に座りお袋と話をしていた。
済まなかった、痛むか? 話しかけながら冷蔵庫にドリンクを仕舞うと、レジ袋の底にあった例のコンビニスイーツに気が付いた。間抜けな話だが動転したのか、すっかり忘れていた。何気なく少女に差し出す。どうだ、良かったら食べないか?
少女は二つ入っていた苺クリーム大福なるものをパッケージから取り出すと、一つを手に取り、もう一つを俺に返してくれる。いや、俺はいい、お袋、食べるか?
夜は太るからといつもは気にしているくせに、目の前で食べられるとやはり欲しかったのだろう、すんなり大福はお袋の手元に移動した。
「キョン先輩、私の好物、覚えていてくださたんですね、嬉しいです」
少女の屈託の無い笑顔、クリクリと動く悪戯そうな目、頭の横で揺れるピンクのゴムでツインテール、先ほど、英語の予習をしているときに浮かんだ、その少女、そのまま。確かに、俺、この子を知ってる、だが、誰なんだ?
かなたと名乗った少女は幸せそうに苺クリーム大福を食べている。
「この子、かなたって子なんだけど、お前の名前と、自分の名前以外は思い出せないみたいなんだよ、健忘症っていうのかね、ドラマみたいだけど、分からないんだって。服からして北高の生徒さんみたいなんだけど、学生証も、お財布も、携帯電話も、何にも無いんだよ。制服には陸奥って書いてあるから陸奥かなたちゃんだろうけど、お家が分からないって、困ったね、警察にでも連絡してみようか?」
「あの、おば様、警察って、私、ちょっと怖いです」
「なあに、お嬢さんは悪いことしたわけじゃない、悪いのは家のボケナスだから大丈夫だよ」
俺の事、先輩って言ってたろ、中学の一年後輩じゃないかな? だから、中学の名簿、残ってるだろ、一年下で陸奥って子を探せばいいじゃないか。同じ学区だろうから、何なら近所の高一の子に聞いてもいい。
だが、意外な事に名簿にからも、近所の北高の生徒からもかなたと名乗る少女の情報は何も得る事が出来なかった。
「明日になれば思い出すかもしれないね、良ければ、家に泊まって行くかい?
それと、お腹すいているなら、何か見繕おうか?」
「御迷惑ですけど、そうしていただけると助かります。食べるものも、お願いします」
素直そうで、人懐こくて、結構可愛い女の子が家に居るってのも、和むもんだな。
「キョン君、可愛い妹はいつも家に居るのよ、失礼じゃない」
いつの間にか居間からテレビを見終えて出てきた妹も食卓にやってくる。
「ねえ、キョン君、このお姉さん、キョン君の彼女なの、ねえねえ、こんなに可愛いお姉さん、どこでナンパしてきたのよ」
妹よ、国木田のアホっぽい友達みたいな事を言うんじゃない。これにはちょっとした事故というか、訳があってだな……
かなたという少女が加わり、もう何年も忘れていた食卓の団欒が、ふと戻ってきた。そうだよな、食卓で物も言わずに掻きこんで部屋に戻って勉強しなくちゃならなくなってからどれほどになるのだろう。
少女はお袋が出してくれた晩飯の残りを美味しそうに食べている、妹は横でお袋が逡巡した結果半分残していた苺クリーム大福をもらい、これまた幸せそうに喰っている。良いな、ほっとするな、今夜は勉強はかどったし、暫く徹夜だったから、風呂に入って、久しぶりに寝よう。朝、起きれたら続きをすればいいさ。
ダイニングでおしゃべりを続ける女三人に手を振ると、俺は着替えを持って風呂場へ向った。
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