第三十九話
そこはハウスター辺境伯領最北の街、ブラント。
そこは平時であればオワの大森林に向かう冒険者、オワの大森林から採取物を求める商人に、国家群と王国を行き来する豪商、そしてそんな商人を狙う職人。
さまざまな人が行き来する活発な街、だとヴォルトは言っている。
それは実に嬉しい限りだ。人が多ければ多い程情報が手に入る。
しかし最も重要な情報がなかった。
「その街にトイレはあるのか?」
「お前の所ほど立派ではないがあるから安心せい」
きゅるきゅると鳴く腹にしかめっ面で必死に堪え、ブラントへと急ぐが走ると耐えられないので結局歩いた。
しばらくするとお世辞にも立派とは言い難い石壁が見えてきた。壁に若干の凹凸で出来ており、石と石の間からは草が顔を出していた。
長年使われてきたのだろうがあまり頼りになりそうにない。
だが今はそんなことはどうでも良い。街に入りトイレに駆け込む、それが今最も重要なことだ。
みすぼらしい門の近くまで来ると、門番と思われるおっさんが慌てた様子でやってきた。
「お、おいあんたら! もしかしてオワの大森林から出てきたのか!」
何だこのおっさんは? トイレに急ぐ俺を止めるとは、敵か?
「そうじゃが、何か問題でもあるのか? ええい、お前は何で殺気立っとるんじゃ! やめい」
殺気立ってなんかいない。ただ俺の邪魔をする障害を取り除こうかと思っただけだ。
「ひっ! と、とりあえず門前までどうぞ。もしもの時危ないですから」
魔王と剣聖相手にどんな危ないもしもがあるのか知らないが、黙ってついていくことに。
門番の詰所だ、トイレくらいあるだろう。
なかった、詰所もトイレもなかった。
門番は街の自警団から出しているので。街中にある自警団の詰所から交代で出しているらしい。
当然近場にトイレもない。
ただ、本来行われる来訪目的の聞き取り、荷物検査など時間のかかる行為はヴォルトの名前を出した瞬間終わった。
更に握手まで求められていた。どうやら王国では『剣聖』を崇めているようだ。本当はただの斬りたがりの爺なのに。
街に入りが最初に向かった場所、そこは宿屋だった。
特に手荷物などはなく、ここを拠点にするつもりもない。更に今は昼時、急いで宿屋を探す理由はないように思えるが、重要な理由がある。
「女将よ、二人が一泊だ。空いているかの」
「いらっしゃい、二人だね。安心しな! 今は魔王誕生の所為で街に人が来ないから好きな部屋に泊まれるよ」
ヴォルトも恰幅の良い女将も慣れた様子で話を進めていく。生まれてこの方ダンジョンかその周囲の森にしか行動していない俺には会話の流れが分からないので、黙って成り行きに任せる。
それに女将の言葉通り街もこの宿もほとんど人を見かけなかった。最低限の、ここで暮らしている人くらいか、それよりも少し少ないくらいか。
「二名で一泊ね。あいよ、とりあえずどこの部屋も空いてるけど、二階の奥が掃除し終えたそこにしな。名前はなんてんだい」
「儂はヴォルトじゃ。そんで後ろのでかくて怖いのが」
「ノブ――」
ノブナガ、と答えようとして考える。もし何かの所為でオワの大森林の魔王の名がノブナガだと広まった場合。この身体もノブナガと名乗っておくと面倒が起こるかもしれない。
人族と魔族という大きな違いがあるが名が同じ。しかも珍しい名前のはず。勘ぐる者も出てくるし、もしかしたら正体がばれるかもしれない。
だから咄嗟に。
「ノブツナだ」
「ふうん、変な名前だね。そっちはかの『剣聖』様と同じ名前かい。あっはっは、うちに来てくれれば箔がつくってもんなんだけどね」
目の前にいるぞ、と教えても良かったがそれよりも重要なことを先に教わる必要があった。
一派進みヴォルトの前に出る。
「女将よ」
「な、何だい、怖い顔して」
怖い顔なのはヴォルトとアリスの所為だ。俺に言うんじゃない。
「トイレはどこだ?」
きゅるきゅるきゅる
下した腹が未だに存在を誇示するかのように鳴っている。
今いるのは宿屋の一室。備え付けられている椅子に座り腹を抑えて蹲っている
トイレに行って出すものは出した。内臓すら出すつもりで頑張った。しかし未だに苦しさからは解放されない。
もはや毒なんじゃないか、と思い解毒効果のある緑の実を食べたが余計に悪化しただけだった。今は腹に物を入れてはいけないのだと悟った。
おかげで魔力回復の青い実も食えず、魔力消費を抑えるため今は初期姿に戻り、もし誰かが入ってきてもすぐには見つからないように、扉が開いた際に死角になる扉近くにいる。
しかし、これでは外に出れない。
………………仕方ない。
近くにあった机を引っ張ってきてその上に魔法の袋の中身を置いていく。
まあ、見事に果実ばかり、貨幣の入った袋だけが目立つ。
果実が机から落ちないように綺麗に積み重ねていく。
「ヴォルト、頼みがある」
「何じゃ」
暇そうに外を眺めていたヴォルトに貨幣の詰まった袋を渡す。
「俺の代わりに買ってきてくれ」
「やじゃ、面倒な。お前が行けばよかろう」
ふっ、この耄碌爺め。そんなことすら分からんのか。
「悪いが、俺がこの宿から出て無事で済むとは到底思えん」
主に俺自身が。
腹も同意するようにきゅるきゅると鳴っている。うっ、いかん。
「基本は農具や工具。後は針とかが必要だ。それ以外は必要だと思った物を買って来てくれればいい。とりあえず金は全部使ってくれても構わんから、魔法の袋に入るだけ買ってきてくれ」
言うだけ言って青い果実を齧り、変身してからトイレに向かう。
何だかヴォルトが呆れたような顔をしていたような気がしたが気のせいだろう。
戻ってきたらヴォルトはいなかった。多分買いに行ってくれたのだろう。
それにしても何たる苦行だ。トイレに行くためには果実を食わねばならず、果実を食えば腹が機嫌を悪くする、腹の機嫌を取るためにはトイレに行かねばならず。
まあ、良い。今は情報収集を優先しよう。
果実の載った机を窓際まで移動させ、椅子を傾けて扉が簡単に開かないように抑える。
後は窓をほんの少し開けるだけ。
これにて完成!
ほんの少し空いた窓から目標を見つけて変身、記憶を読み取るだけ。勿論いきなり入ってこないようにしたし、魔力が切れないように果実も手の届く範囲。
ただ問題が二つ。
一つは変身した際の記憶の読み取りだが、相手の記憶を瞬時に全て読み取れるわけではない。変身してからその記憶を思い出す必要がある。変身したときに考えていたことはすぐに思い出せるが、今は考えてなかったこと、古い記憶などは思い出す必要がある。
もう一つは現在の腹の調子。魔力が減り果実を食えば確実にトイレに直行だ。その為には姿を戻さねばならず、記憶を読み続けることが出来ない。
解決策は変身時間を短くし、思い出すことも決めておくこと。
必要なのは一人でも来れるようにある程度の常識、周辺の地理と情勢、俺の風評から、魔王への対応方法。後は最近の出来事くらいか?
こんな辺境だ、全ての情報が集まるとは思えない。しかし今は少しでも情報が欲しい。
さて、頑張るとするか。
すぐに想定外に問題が発生した。
人通りが少ない。この理由はすでに記憶から読み取っている。
一言で言ってしまえば俺の所為だ。
オワの大森林に誕生した魔王。これによりオワの大森林が危険とみなされオワの大森林に入りづらくなった。更にハウスター辺境伯の騎兵部隊全滅。これにより魔王の危険度が上がり、住人すら逃げる始末。防衛の要衝と思われる砦はここより後方にあり、もし魔王に襲われた際の防衛能力は皆無。
そりゃ人がいなくなるわ。
だがその辺りは努力し、何とか周辺の地理と情勢は把握した。北には帝国、東には都市国家規模の国家が並ぶ国家群、南には王国、西には山脈。まさか国境線的な扱いを受けているとは。しかし、何とも面倒な場所にあるんだな、オワの大森林。
その情報のついでに良く食べている青い果実、これはワリの実と言いオワの大森林にしかなく高級品とされており、更に今はオワの大森林に入れないため価格が高騰していることも知った。まあ、売らんけど。
しかし疲れた。記憶を読むのがこんなに疲れるとは。まあずっと頭を使い続けているからか。トイレにも何度か世話になってしまったし。
次で終わりにするかな。何か良い情報を持っていると良いけど。
……お! 馬車で来たということは行商か金持ちか。まあ良い情報さえ持っていればいいけどね。
それじゃあ、変身!