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作者:宵野遑
 仕事から帰ると、娘と妻が居間のソファに並んで座っていた。
「ミイちゃん、よしよし」娘はひざの上の何もない空間を撫でている。
「何してるんだ、愛子。パントマイムの練習か?」
「ちがうよ。あ、こら、ミイちゃん」愛子は、妻のほうへ向かって手招きした。「ママの上に乗っちゃだめ。こっちにおいで」
「見えない猫でもいるのか?」
「そうだよ」娘は何かを抱き上げる仕草をし、空っぽの両手をこちらへ突き出した。「ミイちゃんをかわいがってたの」
 妻がくすっと笑った。
「このあいだ愛子と三人で、猫を飼おうって話をしたでしょ。それで今日ね、名前はどうしようかって私が聞いたら、この子、真剣に悩みだしたのよ」
「とびきりいい名前を用意してあげたいの。育ててる途中でなんか違うなって思っても、一度つけた名前は変えられないでしょ。だから、思いついた名前を想像の猫で試してるの」
 ね、と娘は左右の手の間に微笑みかけた。すると、答えるように猫の鳴き声がした。
「お、かわいい声だな。ニャー、ニャー」
 私が鳴き声をまねると、娘の手が空を切って交差した。まるで持ち上げていたものが突然消えてしまったかのような動きだった。
「あ、ミイちゃんいなくなっちゃった。パパがニャーって言ったからだよ。ミイって鳴くからミイちゃんだったのに」
「残念ね。別の名前を考えましょう」
 どうやら私のせいで娘が膨らましていた猫のイメージが壊れてしまったらしい。
「ごめんな、愛子」
「ううん、いいの。そのための想像の猫だから」
「そうか。つぎはパパも一緒に考えるよ」
「パパはどんな猫が好き?」
「そうだな、黒猫かな。名前はクロ。どうだ」
「いいよ。じゃあ、つぎはクロね」
 その晩、娘は眠りにつくまで、虚空に向かって「クロ」と呼びつづけた。
 翌朝、胸に重みを感じて私は眠りから覚めた。
「愛子? もう七時なのか?」
 胸元を探ると手のひらに毛の感触がし、私は目を開いた。掛け布団の上で黒猫が丸くなっている。その半透明な体を透かして、カーテンから朝陽が漏れ出しているのが見えた。
 私は黒猫を抱いてリビングへ入った。
「あ、クロ!」
「おはよう、クロ。あなたもおはよう」
 二人は朝食を中断して、黒猫を愛でた。名前を呼ばれるたびに黒猫の体色は濃くなっていく。この調子なら飼い猫の名前はクロで決まりだろうという予想を抱いて私は出勤した。
 ところが、その日、家に帰るとクロの姿はなかった。
「クロはどうしたんだ?」
「白くなったら消えちゃった」
 しょんぼりしたようすの愛子にかわって、妻がつづけた。
「クロがキッチンでいたずらしたのよ。小麦粉の袋を破いて粉まみれになっちゃったの」
 娘が思い浮かべた架空の猫は、またもや名前にそぐわず消えてしまったようだ。
 それでも愛子はクロの消失にめげず、ラブという名前を考えだした。「愛子の猫だから」だそうだ。家族全員がその名前を好いた。ラブのイメージは消えなかった。
 翌週、私は妻とペットショップをめぐり、一番元気そうな子猫を買って帰った。
「あなたがラブちゃんね」愛子は喜色満面で子猫を抱いた。
 と同時にテーブルの上で居眠りをしていた架空のラブが空気に溶けだすように消えた。御役御免ということだろう。
 ラブの飼育係は愛子にまかせた。愛子は毎日ラブにエサを与え、しつけに励んだ。
 事件が起きたのは、ラブが爪でソファに傷をつけた日のことだった。
「おうちの物を引っ搔いたらだめって何度も教えたのに、言うことを聞かないの」
 愛子はヒステリックな声を上げた。
「ラブはまだ子猫だからな。動物のしつけは根気よく――」
「ラブ嫌い」愛子が私の言葉をさえぎった。「こんな猫、飼わなきゃよかった」
「なんてことを言うんだ」
 私はとっさに声を荒らげたが、その時すでに愛子は消えていた。
 愛情あふれる人になって欲しいという願いを込めた名前だったが、こんなふうに裏切られることがあるようだ。また考え直しかと思うとため息が出た。
 飼い主を失い右往左往するラブを、妻が身重の体をかがめて抱き上げた。
「どうしましょう、あと二ヵ月よ」



――了

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