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3)-1 薄荷色の子守歌 前編)

大変ご無沙汰いたしております。「糸遊つなぎ」第二話目は、「Messenger」でもお馴染のあの人のエピソードです。本来ならば別建てにしても良かったのでしょうが、少々強引にねじ込んでしまいました。トータルで7万字弱という長さになったので前・中・後と3パートに分けました。

それではどうぞ。

 ふっくらとした白い手が、丸い枠の掛けられた白い布地の上を器用に動いていた。その真下では、可憐な草花が次々に産声を上げる。薄紅色の小さな花弁が瞬く間に形を作り、花としての息吹を吹き込まれたかと思うと、今度は小さな針に付けられた緑色の糸が葉と茎を象りはじめた。

 ふくよかで柔らかそうな白い手だった。少し小振りの女の手だ。小さな爪は丸く整えられ艶やかで、その手の持ち主が健康的であることを教えてくれるだろう。

 刺繍に勤しむ女が針を持つ右手の薬指には、金色の地金に淡い薄荷(はっか)色と琥珀色が渦のように混じる石の付いた可憐な指輪が、穏やかに室内を照らし出す発光石の明かりに反射して艶やかな照りを返していた。このことから女が既婚者であることが見て取れるだろう。

 この国では、既婚者は右手の薬指に婚姻の証とされる指輪を嵌めるのが一般的な習わしになっている。そして、夫に先立たれ寡婦になるとその指輪は左手の薬指につけ変えられることになるのだ。この国の貴族と呼ばれる、所謂、上流階級の間では、初対面の男女が出会う際、挨拶で女が相手に差し出す手は決まって右手とされていた。男の方は、そこで薬指に指輪があるかないかをさり気なく確認することで、まず相手が現在進行形で相手(パートナー)のいる既婚者であるか未婚者であるかを判断するのだ。その時、男性諸君は念の為、反対側の手に指輪があるかないかも確かめておく必要があるだろう。そこに石の付いた煌めく(リング)があれば、それはそのご婦人が夫を亡くした未亡人であることを意味する。様々な理由から夫に先立たれたうら若き美人とお近づきになりたいという誘惑に駆られた男性諸君は、故人との思い出がどれほどまでにその(ひと)を捕らえているかに配慮しなければならない。その女性が諸君に心を開いてくれるか否かは、各人の努力と心映えによるだろう。このようにひめやかな色ごとも多分に含まれる社交界では、指輪の有無とその周辺事情は、その後、気に入ったお相手を口説く時の目安になり得た。


 それはさておき。

 やがて白いカンバスの上に薄紅色の濃淡が織りなす花畑とその中に青い羽根をはばたたかせた小鳥が現れた。一羽、二羽。そのくちばしには小さな葉を加えている。

 女の口元が満足そうに弧を描いた。その頃にはもう微かな鼻歌のようなものが漏れ聞こえてきた。ゆったりとした旋律のどこか懐かしさを誘うような明るい音色だった。

 ―――――バァユゥー、バァユゥーシュキーバァユゥー(ねんねんころり、ねころりよ)

 柔らかな声は、若い女のものだった。ぽってりとした厚みのある唇から小さな囁きのような歌が奏でられ始めていた。

 刺繍の針を進めていた手が不意に止まる。白い布地に色を紡いでいた器用な手は、枠から離れると、そのまますぐ傍にある女の腹部に宛がわれた。なだらかな(ドレープ)を作る生成り色を基調とした普段着はゆったりとしたもので、女の豊満な肉体を柔らかな曲線を描きながら淑やかに包んでいた。大きく開いた胸元の下は、明らかに特徴的な丸みを帯びていた。

 どうやら若い女は新しい命をその身内に宿しているようだ。女は目を細めるとそっと己が腹部に手を当てて、軽く拍子を取りながら摩るように触れた。

「もうすぐね。もうすぐ」

 女は嬉しそうに独りごちた。いや、そこにある己が未来の命に語りかけているのだろう。

 それから女は緩慢な動作で窓の外へ視線を向けた。大きく切り取られたガラス窓には、地の厚い柔らかな煉瓦色の日除け(カーテン)と白いレースの日除け(カーテン)が品よく景色を包み、半分ほど開けられたその合間からはひっそりとした闇夜が覗いて見えた。遠く隣の屋敷から漏れる明かりだろうか。深いぬばたまの黒い水面に浮かぶ星の瞬きのように小さな青白い光が見える。


 ここはスタルゴラドの中心地、(ツァーリ)がまします王都・スタリーツァの、とある貴族の邸宅の一室だった。もうすぐ母親になる新妻が一人、私室で夫の帰りを待っていた。

 年の頃は幾つくらいだろうか。二十歳を優に二つ三つは越えている、いや、もしかしたらそれ以上かも知れない。この国の女たちの特徴でもある丸顔の頬ははりがあり艶やかで、淡い茶色のうねるような柔らかな髪が全体的にふっくらとした女の顔立ちを優しく象っていた。

 この国では、女は平均的に十六、七で他家に嫁ぐという風習から鑑みれば、かなり【行き遅れた】感があるのは否めないのかもしれないが、新妻自身は勿論、周囲もそのことを気にしている風はない。というのも、この娘の場合、嫁ぎ先は既に幼少の頃に決まっていたからだ。長らくとある男と許嫁の関係にあり、幼い頃よりこの娘の未来はその男の妻になるということが決まっていて、娘自身もそういうものとして年を重ねて来たのだ。そして、諸事情から延び延びになっていた許嫁の男との婚儀が、漸くこの年の初め、早春に執り行われたという訳だった。そのようなことから娘の中では、ゆっくりと時間を掛けて、この男の妻になるという想いを育んでいった。それは、まるで葡萄酒【ヴィノー】が、静かな低温の(むろ)で熟成されてゆく過程に似ていた。


 そんな時だった。

 カサリと小さな音がして、室内に通じる重厚な一枚木の扉がゆっくりと開いた。うら若き新妻は、刺繍の手を止めると手にしていた道具一式を傍らのテーブルの上に置いた。薄暗い廊下から長い影が伸びるようにして室内に入ってきたのは、そんな時だった。

「おかえりなさいませ、だんなさま」

 おっとりと微笑んだ新妻が夫を出迎える為に立ち上がろうとした矢先、夫である男は室内を大股で音もなく歩くと妻が腰を下ろす長椅子の前に立った。

 夫は、差し出された妻の両手をそっと己が手に取ると上体を屈めてその甲に口付けた。

「リータ、あまり無理をするな」

 この所、御用繁多で忙しい夫は、帰りが遅い時は先に休んでいるようにと妻と使用人たちに重ねて伝えていたのだが、うら若き新妻は、いつも夫の帰りをこうして待っていた。

 妻は、今、身重の体だった。既に安定期に入ってから久しいとはいえ、妊婦というものは万が一ということもある。自分のことよりも妻自身の体のことを第一に考えてもらいたいと男は思っていた。

 だが、妻の方はどうも違うようで、決まって穏やかな笑みを浮かべて無理はしていないと答えるのだ。夫を出迎えるのは妻の務めだと言って。元々控え目な大人しい性質で、自分から出しゃばったりする方ではなかったが、その点に関しては頑として譲らなかった。夫の方も妻の身体は心配ではあったが、仕事から疲れて帰ってきた時に夜間用に明かりを落とし、ひっそりと寝静まった屋敷内で、この家に長年仕えるにこりともしない老獪な執事だけに出迎えられるよりは、幼き頃より慣れ親しんだ、愛する妻の優しい微笑みに癒されたいというのが男としての当然の心理でもあったので、この件に関しては余り強くは出られなかった。それでも身重の妻を案じる気持ちは変わりなかった。そして、いつもその想いを言葉にして相手に伝えることを忘れなかった。

「気分はどうだ? 変わりはないか?」

 肩に掛けたショールの位置を直してやりながら夫が口を開けば、

「はい。大丈夫ですよ」

 『ふふふふ』と対峙する人(とりわけ夫)を魅了して止まないほんのりと温かな笑みを浮かべて、妻は遅くまで仕事をしていた夫を(ねぎら)った。

「御勤め御苦労さまにございました」

 新妻は長椅子の背凭れに体を預けながら、少し身じろいで隣に腰を下ろした夫に向き直った。淡い薄荷(はっか)色の円らな瞳が、対峙した灰色の滲んだ琥珀色の瞳を案じるように見上げていた。

 新妻は、その柔らかな白い手を伸ばすとそっと夫の精悍な頬に触れた。指先が壊れものに触れるようにゆっくりと輪郭をなぞる。その右手の薬指に煌めく控え目な石は、ちょうど妻の瞳の色と夫の瞳の色を混ぜたような繊細で不可思議な色合いをしていた。

 夫は柔らかく微笑むと己が頬を辿る妻の手に自分の手を乗せた。夫の手は剣を扱う武人のそれで、とても大きかった。内側には所々たこができている。そしてその指の方にもペンだこのような硬い部分があった。

 朝、出掛けには寸分の隙なくきっちりと撫で付けられていたはずの濃い茶色の髪は、今、額際に幾筋かが零れ落ちていた。

 妻はもう片方の手で、その髪をそっと後ろに撫で付けた。

「この所、ずっとお忙しいのですね」

「まぁな」

 夫の顔は、心なしか疲れているように見えた。それは、決して夜間用にと抑えられた室内の照明の所為だけとは言えないだろう。端正な男らしい顔立ちは、見る人によっては神経質そうだと揶揄されることの方が多かったが、標準装備(トレードマーク)のように刻まれている眉間の皺は、私的(プライベート)な空間に戻っている為か、心なしか和らいでいるように見えた。それを裏付けるように夫の表情はとても寛いでいて、その視線は些か甘ったるいようにさえ思えた。

 もし、この場に男の常を熟知する職場の人間、例えば部下辺りが同席したら、きっとその光景に目を剥くことだろう。仕事には厳しく、見かけ上冷淡な上司としての顔はどこへやら、緩み切った目尻に開いた口が塞がらないかもしれない。

 だが、これもまた、この男の一面でもあるのだ。(職場)とは切り離された私的な(プライベートの)隠れた一面である。

 新妻にとっては、こちらの方が良く知る夫の顔でもあった。夫の家とは、古くから家族ぐるみで交流があり、幼い頃に親同士が約束をした許嫁でもあった。二人は物心ついた幼き頃より互いを認識し合っていた。

 妻は子供の頃から引っ込み思案で、庭先を駆け回るよりも室内で絵本を読んだりする方を好んだのだ。男の方は、幼い少年特有のやんちゃさもそこそこ持ち合わせてはいたのだが、この少女が両親と共に屋敷に遊びに来ると、その傍にそっと寄り添い、一冊の絵本を前にして一緒に頁を捲る姿が度々目撃されていた。

 幼い頃の男は、母親に良く似ており、まるで人形のように愛らしく繊細な顔立ちをしていたので、二人の幼子が肩を並べて明るい窓辺に座す様は、家族を始めとする屋敷中の使用人たちの目を和ませたものだった。少女の方は、少年に比べると取りたてて華やかな顔立ちという訳ではなかったが、陽だまりのように優しい笑みを浮かべる子供だった。少女を包む空気は、ふんわりと軽やかで、のんびりとした性格とも相まってか、その傍らはとても心地が良かった。幼子特有の癇癪で声を荒げたり、乱暴な真似をしたりしたこともなかった。いつもにこにことしていて、見る者を微笑ましい気持ちにさせた。かつての少年は、そんな温かな少女の空気が何故か好きだった。


「あなた、どうぞ」

 新妻は、己が手を包む夫の手を引くと誘うように微笑みかけた。この春に晴れて夫婦となってから、もうすぐ一年になるが、この所、夫が帰宅した際に必ず行っている習慣のようなものがあるのだ。それは夫婦の間の秘めた儀式のようなものだった。誰にも知られることのない二人だけの秘密である。

 最初、それをした時は少し驚いたが、今では妻自ら夫が望むように率先して促してくれる。元々身に着けていた室内着も胸元が大きく開いたゆったりとしたものだったが、妻は自らの手で釦を外すとそこをもう少し寛がせた。この国の平均的な女性のそれと比べても豊満な肌がぎりぎりまで晒され、たわわな二つの丸みが深くせり出した谷間に影を落とす。

 夫はややきまり悪そうな色を一瞬その瞳に浮かべたのだが、どこか小さく苦笑のようなものを口の端に浮かべるとゆっくりと息を吸い込みながら上体を妻の方に傾けて行った。

 夫は新妻の首筋に額をすり寄せるとそのまま顔を下げ、寛げられた豊かな胸元に顔を埋めた。そこで体の力を抜いた。弛緩したように小さく吐き出された男の息が妻の胸元を擽るように震わせた。

 新妻は微笑むと夫の頭を胸元にそっと抱き締めた。男を愛おしむように。仕事で疲れて帰ってきた夫には、これが一番効くのだという。谷間に押しつけられた夫の高い鼻梁のくすぐったさにも慣れた頃合いだった。

 それは、平生、押し出しが強く神経質な男と思われているような夫が、妻だけに見せる甘えた子供のような仕草だった。まるで大きな赤ん坊を相手にしているようだ。男は幾つになっても【大いなる母】になることのできる女の前では、赤子に等しい所があるのかもしれない。


 夫の手は豊かな乳房からその下の大きく張り出した腹部へと移動した。妻の身に宿る新しい命は、活発な子供のようで昼間はよく己が存在を主張するように腹を蹴り上げて動いているのが分かるのだが、今はとても静かだった。

 頬を寄せた胸元から伝わる妻の心音と膨らんだ腹部から伝わるもう一つの血流の音。今、そこに息づいているもう一つの命が、この時、夫には無性に愛おしくて仕方がなかった。

「バァユゥー、バァユゥシュキィー、バァユゥー(ねんねんころり、ねころりよ)」

 妻の口から小さな子守唄の一節が漏れた。拍子を取るように胸元に抱いた夫の髪を優しく手で(くしけず)る。

 あやしているのは、腹の中の赤子か、それともとうに成人した男か。

「あなた」

 妻が歌うように囁いた。

「あまり無理をなさらないでくださいね。根を詰め過ぎてはいけませんわ。この所、とてもお疲れのように見えますもの」

 珍しく案じる言葉が妻から漏れた。これまで表だって夫の仕事に対して口出しをしたりはしなかったが、日に日に深まる疲労の影に心配が膨らんで、つい相手を気遣う言葉にその思いを乗せてしまった。

 夫が微かに笑ったのが震える呼気から伝わった。だが、夫は無言のまま柔らかな乳房に顔を埋めていた。



 * * * * *



 幼い頃から許嫁として夫への思いを温室のように外界から遮断された場所で少しずつ育んできたが、今、こうして穏やかで甘やかな新婚生活を確立するまでには、【危機】とも呼べるようなものが、少なからず一度は存在した。それも何年も前の昔の話ではなく、割と最近のことだった。今となっては緩やかな時の中で曖昧に濁してしまっていた友情とも兄妹愛とも家族愛とも近いこの夫への愛情を却って強く意識するいい契機になったには違いがなかったが、あの時は本当に心底衝撃(ショック)を受けて愕然とし、胸が掻き毟られるような苦しい気持ちになったのだ。今では全ては妻となる娘の勘違いと誤解から始まったものだったが、当時はとても悩み、柄にもなく夜毎枕を涙で濡らしたものだった。自分の早とちりから生まれたあの時の騒動の一幕を妻はほんの少しの滑稽さとほろ苦さ、そして幾ばくかの恥ずかしさと共に思い返していた。


 あれは、前年の冬の終わり頃だった。おおよそ一年前にはなるだろうか。日頃から親しく交流のある家々同士、年越しの一時期に王都(スタリーツァ)郊外の別邸で過ごすことがいつもの習わしになっていたのだが、その少し前に許嫁である男の家を両親と共に訪問したことがあった。未来の夫となる男は、この国の軍部の中でも代々南の方位を守護する重大な役目を仰せつかっている名門ナユーグ家の本家直系の長男だった。現南の将軍はその男の父方の叔父に当たる。同じく軍部に所属する男もいずれは(さき)の将軍を拝命し恙無く務めを終えた父親と同じく将軍の地位に就くことになるのだろう。端から見れば順風満帆で(きず)の無い出世街道(エリートコース)に乗っている男だった。


 幼い頃からこの許嫁はとても整った顔立ちをした綺麗な少年だった。子供特有の線の細さが性別を曖昧にさせ、小さい頃は、たとえ男の子の定番の服装であるシャツとズボンを身に着けていたとしても、よく女の子と間違えられたものだった。貴族の男子には、一人前になるまで髪を切らずに伸ばしたままにするという習慣があった所為かもしれない。それも相まって少年は俯いて静かに本を読んでいたりするとよくもの想いに耽る少女のように見えたのだ。ここで花が綻ぶように、そう、例えば絵画に描かれているような天使さながらの微笑みを浮かべれば完璧だったのかもしれないが、周囲の人々が思うほど、世の中は上手く回っているという訳でもなく、少年は子供の頃から実に男らしい性格をしていた。女と間違えられることを酷く嫌い、いつも周囲の大人たちに対しては、少年の世界に対立する敵対勢力であるかのように凛とそっけなく対峙していた。

 だが、この少年はそれらに対し対外的にも分かりやすいやんちゃという名の反発をするような性質でもなかった。平生は物静かな方で自分から大騒ぎしたりはしない。南の家では躾が非常に厳格という訳でもなかったのだが、代々軍人を輩出する家の例に倣い、男子は年少より逞しく、そして雄々しくあることを是として育てられたと言えるだろう。感情表現はお世辞にも豊かであるとは言えない。いつも澄ました顔をして、男にしてはやや細い眉が偶にしんなりと寄る。軍人としての資質は合格点以上にあるものの大人たちからは神経の細やかで繊細な所のある―――ものは言いようであるが要するに【神経質】であるということだ―――子供だと思われていた。この辺りは奇しくも交流のある某北の三男坊と合い通じるものがあるかもしれない。

 その昔、眉間に皺を寄せる少年に会う度に少女はさも可笑しそうに笑ったものだった。何故いつもそのように不機嫌そうな顔をしているのか、少女にはまるで見当が付かなかったのだ。まるで古の偉大な哲学者や思想家のように人生に対して大いなる悩みを抱えている、そんな大業な世界に独りつくねんと立っているような感じがした。見えない敵に剣を構えるかのような。

「ドーリャ、また皺が寄ってるわ。いっつもそうだともっと大きくなったらおじいさまの目尻みたいに皺だらけになっちゃうんだから」

 お茶の時間、母親たちのおしゃべりを聞いていたのだろうか、聞きかじった美容に関する知識を子供なりの世界観で都合よく解釈をしたようで、大人びた雰囲気でそう口にすると、何が可笑しいのかくすくすと小さな肩を震わせながら、少女はよく頭一つ分は上にある少年の眉間を突いたものだった。

 少年は年下の少女にからかわれたことにムッとした表情をするのだが、相手の気持ちに合わせるように柔らかくくにゃりと弛緩する少女の温かな気持ちの輪郭につられたように体の力を抜いて、気の抜けたような笑みを口元に刷いた。

「年を取ったら誰にでも皺は出来る。リータだって大きくなっておばあさんになったら一緒だ」

 少し意地の悪い顔をして少年は笑った。

「まぁ、ひどいわ。あたしはしわくちゃのおばあさんにはならないもの!」

 皺だらけという言葉は少女の心を傷つけたらしい。小さな握り拳に力が入る。

「そんなの分かるもんか」

「大丈夫だもん。ちゃんとクリームを塗ってお手入れすればいいんですって。お母さまたちが話していたのよ。トゥヴェルツカヤの術師が作るのがとてもいいって」

 幼いといっても女の子はやはり【女】なのだ。母親たちのおしゃべりを真似るような声音で得意げな顔をした少女に少年は妙な可笑しさを感じながらも年長者らしくやや尊大な態度で言い放った。

「そんなのどうせ気休めだろう。うちの母さまの皺だって、おばあさまのだって変わらないぞ?」

「じゃぁ、ドーリャのこの一本線はもう決まりね」

 そう言うと少女はくいくいと眉間を伸ばすように小さな指で触れた。少年は大人しく少女のされるがままになっていたが、何を思ったのかニヤリと珍しく悪どい感のある笑みを浮かべた。

「それよりも、こうすれば問題ない」

 少年は額をいじる少女の指を思いの外優しく退けると体を倒して目の前にあるほっそりとした首元に己が額を押しつけた。少女は首から肩に触る少年の髪の感触が擽ったくて笑った。

「なぁに、ドーリャ?」

「こうすれば皺が伸びるかもしれないぞ」

「くすぐったい。ずっとこうしているの?」

 どけようと身じろげば、態と首を振って押しつけるようにしてくる。

 そうやって実に他愛ないことでじゃれあったりしたものだった。


 ―――――ああ、そうか。

 その時の情景を思い出した時に新妻はふいに思った。もうこの頃からこうやって妻の胸元に縋りついてくる夫の片鱗は始まっていたのだ。


 直に感じる少年の体温と柔らかな肌の感触は、少女をくすぐったくてふわふわと温かな気持ちにさせた。あの時はその気持ちがどういう種類のものであるのか表現する言葉を持たなかったが、今ではそれが何であるかが分かる。純粋な好意。【恋】や【愛】といった御大層な理念や言葉を知らないうちから少女は自分とこの少年との間にある何か特別な繋がりのようなものを感じていた。

 親からもゆくゆくはこの少年のお嫁さんになるのだと言われ、閉じられた優しい世界の中で育ち、素直で純粋であった少女は、あるがままを受け入れた。疑うことを知らなかった。

 こうして、大人になったらその少年の妻になることを思い描きながら年を重ねた。その間、貴族の淑女として、妻として備わっていなければならない諸々の技量や嗜みをしっかりと身に付けることは忘れなかった。淑女としての礼儀から社交界で求められるダンスに教養、夫を支える妻としての心構えや所領や家計の管理、そして裁縫も忘れてはならないだろう。母親曰く、【どこに出しても恥ずかしくない立派な貴族の令嬢】というものになるようにと心がけた。

 その後、少女よりもずっと年長だった少年は一足早く成人して騎士団に入団した。その時に独り立ちの証として同じく王都にある騎士団の見習い用の寮へと入る前に、長かった髪を短く切り揃えたのだ。その頃にはもう、かつて女の子と間違われたような繊細で可憐な姿は全くなくなっていて、男らしい引き締まった顔付きに変わっていた。身長もぐんと伸びて少女はその顔を見る為には首が痛くなるほど見上げなくてはならなかった。

 少女の方はその後、社交界に顔を出すようになった。初めはとてもきらきらと眩しく見えた華やかな世界も、虚飾と虚栄に満ちた大人の世界に変わるまでには大して時間は掛からなかった。噂話が(まこと)しやかに駆け巡り、笑顔の下で相手の腹を探り合う。【個】を殺して【集団】に合わせながらも、その【集団】の中でいかに【個】が際立つようにするか。美しくあること、賢くあることにしのぎを削る。表面上は豪華で華やかに見えるけれども、とても神経を使い疲れさせる、そして、どこか心を貧しく、また、虚しくさせるような世界だった。

 しかし、少女はその世界に全く馴染めなかった訳ではない。元々同じ空気感の中に生きる貴族の娘だ。そういう王都の街中とはまるで異なる特殊な世界の片鱗を母親や父親を始めとする大人たちを通して無意識に吸い込みながら生きてきたのだ。性格的には大人しく控え目な性質なので若く似たような年頃の娘たちの中ではやや気圧され気味な所はあったが、それでも仲の良い友人たちはそれなりにいた。

 そのような娘同士の交流の中では、少女はいつも聞き役だった。にこにこと笑みを絶やさぬ優しい空気で、友人たちの小鳥のさえずりのような時には甲高く、そして時にはけたたましいお喋りにおっとりと合槌を打つのだ。

 年頃の娘ということもあり、恋の話では大いに盛り上がった。どこそこの家の長男は誰もが一目を置く有望株だとか、どこそこの次男は男らしくてとても素敵だとか、どこそこの家の息子は高い教養があるとか。ダンスの上手さや女性たちに対する優しさ、姿形などから社交界にいる男たちのことを噂した。

 そのような友人たちとの他愛ないお喋りの中で、少女という抜けがらから脱皮し、麗しい娘になろうとしていた当時の新妻は、自分の許嫁に対する世間の評判を知ったのだ。

 若い娘たちは一頻り結婚するならばどのようなお相手がいいかと理想や明るい夢想を話してすっきりすると、それまでじっと耳を傾けていた友人に向かって、決まってこう言うのだ。

「マーラはいいわよね。あんな素敵な人が許嫁なんですもの」

「そうよ。家柄もよし。顔もよし。軍部でも覚えがめでたくて」

「少し冷たそうな感じはするけれど、とても仕事熱心なのでしょう? 真面目な御方だとお父様が仰っていたわ」

「剣の腕も素晴らしいそうね」

「それにとても知的な感じがするわ。しっかりとした大人の殿方っていう感じ」

 友人たちは一頻り相手の男をそう評すると、

「羨ましいわぁ」

 口々にそう言って、若い娘特有の甘ったるくも夢見がちな息で締めくくるのだ。

 半ば興奮して頬を上気させた友人たちの勢いに、対する娘は目を瞬かせた。そういった視点から許嫁である男のことを見たことがなかったということに気が付いたのだ。娘の中で家族の延長のような近親者に寄せる想いの方がまだまだ強かった所為かもしれない。


 ―――――それでも。

 不意に妻は、その当時、自分の中に芽生え始めていた夫に対する別の感情があったことを思い出していた。


 それは、正式に騎士団に入隊するということで、妻の家に挨拶に来た時のことだった。

 久し振りに見た男は、長かった髪をすっきりと後ろに撫で付けるように短く整えていて、一人先に少年だった幼さから抜け出そうとしていて、妙に娘をどぎまぎとさせたのだ。すっくと立つ姿はとても男らしく、そして、眩しく思えた。

 ドーリャは先に大人になってしまった。今後は呼び名も幼いままの愛称ではなく、きちんとドーリンと呼んでほしいと言われて、許嫁のマルガリータは、長じた幼馴染を誇らしく思うと同時に一抹の寂しさのようなものを感じてしまったのだ。慣れ親しんだ長い髪を後ろで束ねたドーリャの姿はもうない。マルガリータに対しても、若い未婚の女性に対する礼節を持って―――つまり少し突き放した態度で―――接した。マルガリータはその時、自分が一人、幼さの中に取り残されてしまったように思えた。応接間の一室で両親を前に淡々と口上を述べたドーリンは、傍にいたマルガリータを軽く一瞥しただけだった。それは、今にして思えば、大人の仲間入りをしたばかりの青年の、早く新しい世界に慣れようとする少しばかり背伸びした応対であったのかもしれないが、かつてのように気軽に声を掛けてもらえなかったことをマルガリータは残念に思った。

 それからの数年は瞬く間に過ぎて行った。同じ王都に暮らしていると言っても、軍部に入ったドーリンと顔を合わせることは殆どと言っていいほどなくなってしまった。特に見習い時代の最初の二年あまりは全く音沙汰がなく、偶に父親からよくやっているとの噂話を聞く程度だった。それから更に数年。軍部の中でも頭角を表わし始めたドーリンは、着々と重要な任務をこなし、一つ一つの段階(ステップ)を上って行った。

 その頃にはもう、立派で将来有望なナユーグ家の嫡男としての評価を得ていた。そしてドーリンも同じように少し遅れて社交界に顔を出すようになったのだが、浮いた噂や色の付いた話は全くと言っていいほど聞かなかった。

 身内に近い贔屓目にしても、軍部の正式な詰襟を颯爽と着こなしたドーリンはとても男らしく立派に見えた。良く知るはずの相手をまるで別人のように近寄りがたく見せていた。逞しい体躯に冷静沈着という評価をそのまま張りつけたような整った顔。やっかみ半分皮肉を込めて、【鉄面皮】と揶揄されることもあったが、社交界では、とりわけ貴婦人たちからは、羨望と色の付いた溜息を持って好意的に迎えられていた。

 社交界の中で偶に顔を合わせるとマルガリータの傍には、気が付けばドーリンがいた。舞踏(ダンス)の相手もしてくれたし、他愛ないお喋りにも付き合ってくれた。ドーリンも敢えて他の女たち(特に未婚の若い娘たち)を相手にすることはなかった。許嫁という立場上、マルガリータに気を使っていたのかもしれないが、マルガリータとしてはドーリンが傍にいるのはとても嬉しかった。

 ドーリンとは少しずつ色々な話をした。遠退いていた間の寂しさを埋めるようにマルガリータはドーリンとの一時を大事にしていた。お互い口がよく回る方ではなかったが、二人の間に落ちる沈黙すらも心地の良いものに変わる。まるで昔に戻ったのかような居心地の良い空気がそこにはあった。そのような時、マルガリータを見下ろすドーリンの眼差しは、長じても尚、昔と変わることなく穏やかで優しいものだった。結局、眉間の皺は年を追うごとに深くなって行ったのだが、額際に残る薄らとしたその跡すらもマルガリータには愛おしい、幼馴染を形作る一つの特徴として刻みつけられることになった。

 好きだとか愛しているとか、明確な言葉を互いに口にしたことはない。それでもそこにあるのは、巷に溢れている恋情や愛情と同じ、相手を思いやる気持ちだと少なくともマルガリータは思っていた。


 だから安心していたのだ。油断をしていたともいうのだろう。マルガリータとドーリンは許嫁で、この関係はそう遠くない将来、婚姻という形で揺るぎの無いものになるのだろうと。そう信じて疑わなかった。


 そう、忘れもしない。あれは所用があって、両親と共にナユーグ家本家のお屋敷にお邪魔した時のことだった。玄関口で訪いを入れて、門扉から車寄せまでやって来る見知った家紋の入った馬車の音を聞きつけて迎えてくれた(ベテラン)執事のゲルツェンに挨拶をした後、母親の少し掠れた甲高いおしゃべりの声が響く中、勝手知ったる邸内をゲルツェンに先導されて応接間の方へ歩いてゆく途中、ふと視線を逸らした方向に見慣れない一人の女性の姿を見つけたのだ。そこは、遠く反対側の別棟へと通じる回廊の一角だった。ナユーグ家は防犯上の理由からか、この家を建てた先祖の少し変わった趣味からか、少々複雑な作りになっていて、邸内には現当主夫妻が暮らす中心の区画の他に当主の弟で現南の将軍夫婦が居住する区画や客人たち専用の区画、使用人たちが寝起きする為の居住空間等があり、その見慣れない女性と思しき人が佇んでいた回廊というのは、本宅と弟夫婦の別宅の間を繋ぐ回廊の片隅だった。

 マルガリータは何故かその女性が気になってしまった。そして、何かに引き寄せられるように、ゆったりとした足取りで先を行く両親に一つ言伝てから、そちらの回廊の方へと足を向けたのだった。

 あのような所にお客人だろうか。最初は、そのようなほんの少しの好奇心に端を発した気分だったのかもしれない。社交界や貴族たちの中でも顔が効き、手広い人脈を持つナユーグ家のことだから、屋敷に客人があるのは別段不思議なことではないのだが、マルガリータは、いわば邸内の私的(プライベート)空間(スペース)で、自分のような若い女性がいる所に出くわしたことはなかった。

 近づいて行けば、その人はまだ若い小柄な女性であることが分かった。マルガリータが良く知る貴族の娘たちと比べてもその人が身に付けている服装はとても地味だった。飾り気のない街の娘のような質素な形のワンピースだ。それは、ともすればこの家の中では少し違和感を覚えてしまうような気もしたのだが、もう少し距離を詰めれば、その生地は燻銀のような鈍い光沢を持つ、とても上質なものであることが見て取れた。

 だが、そのような服装よりもマルガリータが目を奪われたのは、差し込む日差しに鈍く光る漆黒の癖の無い髪だった。肩の少し下辺りまでしかない、女性にしてはとても短い髪だ。そして、それが掛かる背中は、成長途中の少女のように華奢で頼りなく見えた。

 その(ひと)は回廊の中ほど辺りでじっと壁面を見上げていた。その視線の先を追って、マルガリータは思わず微笑んでいた。

 その場所には点々と絵画が掛けられているのだ。よくある貴族の邸宅と同じような塩梅だ。重厚な彫の入った濃い茶色の額縁に収まっているのは、小振りの肖像画のような絵だった。可愛らしくお揃いの晴れ着に身を包んだ幼い少女が二人。どこか見覚えのある古めかしい長椅子に並んで寄り添うように腰を下ろしている。すらりとした長い手足を持つ線の細い少女とその子とは三つか四つは軽く離れているだろうか、ずっと幼い小さな女の子。淡い菫色の洋服は、大きなリボンが腰や肩、スカートの裾部分にあしらわれていて中々に上品なものだった。

 端正な面立ちをした年上の少女の顔は、何故か顰め面を堪えているような不機嫌そうなものだった。反対にその少女の腕に捕まるようにして大きな椅子に大人しく足をぶら下げている幼女は、にこやかに満面の笑みを浮かべている。対照的な雰囲気を持った二人だった。

 周りにも点々と風景画や静物、髭を蓄えた男たちの肖像画などが並んでいたのだが、その(ひと)は、幼子二人を描いた小さなカンバスの前から微動だにしなかった。余りにも真剣に鑑賞していたようで、マルガリータが近づいても気が付いた風はない。

 マルガリータは、内心ドキドキしながら静かにその(ひと)の隣に立った。マルガリータ自身、あまり上背がある方ではなかったが、その女はマルガリータよりもずっと小柄だった。

「その絵がお気に召されたのですか?」

 邪魔をしないようにと思った所為か、小さく囁くように口にした言葉にその(ひと)がぴくりと肩を揺らし、弾かれたように振り返った。こじんまりとした低い鼻に小さな薄めの唇。その上にある瞳は、髪と同じ黒み掛かった濃い色合いで、その円らな瞳が一瞬、驚いたように見開かれたのだが、マルガリータを認めると直ぐに笑顔を形作った。

「はい。とても可愛らしいと思いまして」

 初めて耳にするその(ひと)の声は、女性にしては少し低く、とても落ち着いていた。にっこりと笑みを浮かべた空気はとても柔らかく、マルガリータはどこか自分に似たような相通じる空気を感じた。

「その一枚は、もう随分と昔に描かれたものなのですよ」

 再び絵の方へ視線を戻したその(ひと)に、マルガリータはとっておきの秘密を打ち明けるかのように告げていた。

「まぁ、そうなんですか」

 そこで再びその(ひと)がマルガリータを一瞥した。

「こちらのお屋敷の方でいらっしゃいますか?」

 その言葉使いはとても丁寧で畏まったもので、ほんの僅かだが所々に訛りのような響きがあった。

「いいえ。わたくしは今日、こちらに所用がございましてお訪ね致しましたの」

 両親と一緒に来たのだが、途中、珍しい人影を見たので、興味惹かれるままに寄り道してみたのだ。そうのんびりと口にしたマルガリータに黒髪の(ひと)は曖昧な微笑みを浮かべて小さく首を傾げた。

「どうかなさいましたか?」

 マルガリータが問い掛ければ、

「いいえ。どこかでお見かけしたことがございますでしょうか。………いえ。そんなはずはないですよね。すみません」

 何がしかの既視感のようなものがあったのだろうか。その(ひと)はそんなことを独りごちると一人で自己完結してしまった。

 黒髪の(ひと)が着ていた服は、今、王都で流行しているような胸元が大きく開いたものではなく、鎖骨の直ぐ下辺りで緩やかに丸く裁断(カット)された襟ぐりに控え目なレースが付いたものだった。少し昔風だ。全体的にとても華奢で、その胸元も決して豊かな方ではないが、女性らしい曲線を持つメリハリのある身体つきをしていた。同じ共布で引き結ばれた腰元は驚くくらいに細くて、昔からふくよかで肉感のある方だったマルガリータには信じられないくらいなものだった。大きな男の手であれば両手で掴んだ中に収まってしまいそうな程に。

 不思議な空気を持つ(ひと)だと思った。年齢はよく分からない。体つきは少女のようだが、こうして言葉を交わしてみるとその外見を裏切るように実に大人びて見える。良く見れば顔立ちもこの国の女たちとは随分と違う異国風なものだった。社交界の中には隣国セルツェーリから輿入れした女性もいたが、マルガリータの知る限り、セルツェーリの女性のようには見えなかった。色合いとしてはキルメクの方が近いだろうか。王都の市場【リィーナク】や各国の行商人たちが集まる【バザール】に行けば、こういう異国の人々も多く見掛けるのかもしれないが、マルガリータ自身は、そのような場所へ足を運んだことはなかった。そもそも名家の深窓の御令嬢と言っても良いくらいの温室育ちだ。この国や周辺国のことは知識としては知っていても経験に裏打ちされたものではなかった。

 なので、先程の黒髪の(ひと)の問い掛けは、全く当たらないのだ。このように珍しい色彩と顔立ちをした人と出会っていたのなら、マルガリータは忘れたりはしないだろう。

「ああ。もしかしたら」

 マルガリータはふとした思い付きに小さく笑った。この(ひと)はずっとこの絵を眺めていたのだ。この家の者は滅多にこのようにしてこの場で足を止めたりはしない。ここは既に廊下の一部としての風景になっているような絵で、しかもこのように私的(プライベート)な区画の中でさり気なく隠れるようにして吊るされているものだ。この家の日常の中では既に見向きもされなくなって久しい小さな絵。まるで忘れ去られた過去の小さな思い出のように。

「その絵のせいかもしれませんわ」

 マルガリータは薄荷(はっか)色の瞳を悪戯っぽく細めた。黒髪の(ひと)は目を瞬かせた。そして再び、その小さな絵を見てから振り返った。


 その絵は、マルガリータにとっては懐かしい思い出の一つだった。今では記憶は曖昧で当時、どんな風であったのかはよく覚えていない。ただ今でも思い出せるのは、この家の廊下の向こうに暮らしている【おじさま】が、吃驚するくらいに興奮して大喜びした顔とお揃いの綺麗な服を着ることが出来て嬉しかったこと。大きさの違う菫色の服はあの【少女】にもよく似合っていて、何故かマルガリータはとても恥ずかしくなってしまい、まともに顔をあげられなくてもじもじとしてしまったのだ。あの長椅子に腰を下ろすように言われて、周囲に集まったお母さまやお父さま、そしておじさまたちがこちらを微笑みながら見ていた。それから少し離れた所でカンバスに向かい筆を走らせる小難しい顔をした男の人。絵具の少しツンとした匂い。

 そうして出来上がった絵は、その時の空気感をよく表わしていた。満面の笑みを浮かべて笑う小さな幼子の表情にマルガリータは当時の断片的な記憶を重ねていた。

 もう一人の主人公である仏頂面の【少女】は、その後もこの絵を酷く毛嫌いして、まるで悪夢のように【なかったこと】にした。今ならそれがどうしてだかが分かる。

 だって、その【少女】は―――――。


 マルガリータが一人もの思いに浸っていた間にその(ひと)は大きく息を吐き出して、何とも言えないとても複雑そうな顔をして困ったように笑った――ように見えた。第一印象はとても落ち着いたように見えたのだが、心の動きがそのまま表情にでる(ひと)のようだ。

「あの……こんなことをお聞きするのは……なんといいますか……その……妙なことかもしれませんが」

 どこか躊躇いがちにその(ひと)がマルガリータを見つめた。黒い瞳が揺れていた。

「もし、その、ご存じでしたら教えて頂ければと思ったのですが………」

 どうも慎重に言葉を選んでいるようだ。マルガリータは、小さく笑みを浮かべると続きを促すように相手を見た。

「この女の子が着ている服は、もしかして、オリベルト殿のお作りになったものではありませんか?」

 その問いはマルガリータにとっては少し意外なものだった。この(ひと)が見ていたのは、描かれている少女ではなくて、ドレスの方だったのだろうか。ということはこの(ひと)はオリベルトの趣味の仲間なのだろうか。例の愛好会の?

 ナユーグ家の現当主の弟で、現在南の将軍という厳めしい肩書を持っている男、オリベルトは、一風変わった趣味を持っていることで知られていた。軍部の中でも剣の腕は随一という武人であったが、とても繊細で特殊な嗜好をとある分野に関して持っていた。マルガリータにもどうしてあのような筋肉質で逞しい【おじさま】が、あのような見る者によっては軟弱者と言われかねないことに心を奪われているのか常々不思議で仕方がなかった。貴族の男たちの中には着道楽でお洒落に余念がない者もいるので一概には可笑しいとはいえないのだが、やはり他人がその職業から想像する趣向(イメージ)としては妙な気がしないでもなかった。それでもマルガリータの場合は幼き頃よりオリベルトの趣味に巻き込まれていた為か、そういうものだと自然に受け入れていた節もあった。

 何を隠そう将軍は服飾関係に多大なる興味を持ち、同志を募って愛好会を立ち上げてしまったくらいだ。その名も【隙間(ニッチ)芸術愛好会】。芸術にそもそも【隙間】などあるのかとマルガリータは不思議に思ったものだが、その彼らが求める至高と嗜好が一般人には理解し難い狭い分野であると言いたいのだろう。そして、男たちはその芸術の世界でも少数派(マイノリティー)であることを誇りに思っているようだった。専らオリベルトは【可憐なもの】に目がないという評判だった。一言に【可憐なもの】と言っても、その言葉で人々が思い浮かべるものはそれぞれ異なるだろうが、もう少し詳しく明らかにすると、それは【幼女もしくは少女の服】を意味した。

 たっぷりした髭に覆われた厳つい壮年の男が、いかに可愛らしい少女の服を作るかに心血を注いでいるのだ。生地選びから形状(デザイン)まで自ら企画し、馴染みの仕立屋を屋敷に呼び色々と打ち合わせをする。そして、仕立屋の方は注文主の望みのものが出来るように熟練の技でその情熱に応えるのだ。オリベルトは、そうして作ったものを仲間内(同好会の同志(メンバー)たちと)で発表会を開き、互いに忌憚なき意見を交換しながら更なる高みを目指すのだという。こうして誂えられた小さな衣服は金持ちの道楽の如く、金に糸目をつけないもので非常に贅を凝らしたものであった。だが、オリベルトの趣味は、社交界では良いと評判で、その噂を聞きつけた知人たちから、是非自分たちの娘の為に作ってくれという申し出を受ける程であるという。

 この小さな絵の中の少女たちが着ている服は、黒髪の(ひと)が指摘したようにオリベルトが誂えたものだった。

「ええ。そうですわ。良くお分かりになりましたね」

 マルガリータは鷹揚に頷いた。

「オリベルトのおじさまの初期の頃の作品ですの」

 その服を【作品】と自然に呼ぶくらいには、マルガリータはこの将軍の趣味とは長い付き合いだった。マルガリータ自身、小さい頃はよくそうやって服を誂えてもらったのだ。そして、マルガリータが良く知るこの家のとある人も。

 マルガリータは女の子であったので、綺麗な洋服を着られるのがとても嬉しかったのだが、あの人は違う。その時の堪え切れない感情が、その小さな絵には閉じ込められていた。こうしてみると実によく似合っているのだが、それはそのモデルとなった【少女】の真の姿を知らない人々が見た場合のことだ。

「まぁ、そうなんですか」

 その(ひと)は感心した風に合槌を打った。

「オリベルト殿はそんなに前からこの道に入っていらしたのですねぇ」

「オリベルトのおじさまにお会いに?」

 この(ひと)がここに来訪した目的をさり気なく聞けば、何とも言えないような顔をして苦笑のような曖昧な笑みを浮かべた。何だか困惑しているようにも見える。

「はい。こちらに来て欲しいとの伝令を頂いたものですから」

 その言葉にこの(ひと)がオリベルトの客人であることが分かった。

「失礼ですが、愛好会の方ですの?」

 もう少し突っ込んだ質問をしたマルガリータに、

「いいえ。違います」

 その(ひと)は、やけにきっぱりと否定したのだが、

「ですが、色々と頼まれたものですから………」

 歯切れ悪く続けた。

 成る程。どうやら余り詮索されたくないようだ。こういう空気は、そこで仏頂面を晒している少女とよく似ていた。

「どうやら入れ違いになってしまったようで」

 オリベルトの要請でナユーグ家を訪ねたものの、将軍自身はまだ帰宅していないようで、当人を待っている間、こうして邸内を見学させてもらっているのだと明かした。

「まぁ、おじさまったら、女性を待たせておくなんて」

 紳士としてあるまじき姿にマルガリータは少しだけ呆れた風に言った。

「いいえ。いいんですよ。ワタシは暇を持て余していますから。オリベルト殿はお忙しいのでしょう?」

 その(ひと)は随分と寛容なようで呑気に笑う。

 不思議な(ひと)だ。マルガリータの中で再び同じ言葉がこだました。

「あの、もし、違っていたら…ごめんなさいね?」

 そう前置きして、その(ひと)が声を低く落とした。静まり返った邸内、この廊下にはマルガリータとその黒髪の(ひと)しかいなくて、別段、声を潜める必要はないように思えたのだが、

「あの小さな女の子は、……あなたではありませんか?」

 マルガリータのすぐ脇で、その(ひと)は小さく含むように微笑んでいた。黒い瞳が抑えきれない好奇心に煌めく。

「ええ。そうなんです。良くお分かりになりましたね」

 マルガリータもこっそり秘密を告げるように囁き返した。

「やっぱりそうですか。目元と全体的な印象からそんな気がしたんです。それにこの隣の女の子も………」

 そこで何かに思いを巡らすようにゆっくりと言葉を継いだ。

「どこかで見たことがあるような気がするんですけれど…………でも…まさか……ねぇ」

 そんな囁きが聞こえた。

 マルガリータは、相手の様子を探るように見た。少し気分が高揚していた。

「こちらの本家の方々とは面識がございますか?」

「ええ。一度だけですけれど、御挨拶にお伺いしたことがありますので」

 それではこの(ひと)は、その【少女】が長じた姿に出会っているのかも知れない。それがきっと既視感を覚えさせるのだろう。だが、そのからくりに気が付くだろうか。

 そこでマルガリータはこの女性がどんな筋の(ひと)なのかということに興味を持った。もう少しこのまま未知の相手と話をしてみたいと思ったのだが、その願いは叶えられなかった。


 というのも。

 廊下の向こう側、別棟がある方角からカツカツとどこか急いたような足取りでマルガリータもよく知る男が現れたからだ。この本家の長男であり、マルガリータの許嫁でもある男、ドーリン・ナユーグだった。

「リョウ! 済まないな。待たせてしまって」

 幼い頃からよく知っている男の声が、その黒髪の女性と思しき名を呼んだ。

 少し不思議な音だとマルガリータは思った。だが、それよりもマルガリータの注意を引いたものがあった。対外的に余り変わり映えのない澄ましたお面を張り付けたようなドーリンの顔が、どこか相手を気遣うような優しいものになっていた。その些細な変化はマルガリータの心に不可思議なさざ波を引き起こした。

「いいえ、こちらこそ、我儘を聞いて頂きありがとうございます」

 穏やかに微笑んだ黒髪の(ひと)にドーリンは静かに告げた。

「叔父上から今戻るとの連絡が入った」

「そうですか」

 そこでドーリンは同じ廊下にいたもう一人の存在に目を向けた。

「マルガリータ、どうしたんだ? こんなところで………」

 と言い掛けて、

「ああ、そう言えば、ショーロホフ殿がこちらにいらしているのか」

 納得したように独りごちる。

 マルガリータは背の高い男に向かい合った。

「先程お父さまたちと一緒にこちらに着いたんです。お父さまとお母さまには先に行ってもらっているわ」

「こちらの方には話し相手になってもらっていたんです」

 黒髪のその(ひと)が合いの手を入れるようににこやかに微笑めば、

「そうか、それは良かったな」

 珍しくドーリンはその口元に笑みを浮かべていた。

 この(ひと)はドーリンと知り合いなのだ。それも随分と気安い間柄のように思えた。思わず確認するように視線を向けてしまったその(ひと)の右手には装飾品の類はなにもなかった。左手のほうにも。察するに未婚のようだ。妙な焦燥感に似たもやもやとしたものがマルガリータの腹の中に溜まって行く気がした。

 未婚のしかも妙齢の女性と和やかに言葉を交わすドーリンを初めて見た気がする。それも随分と寛いだ様子だ。その事実はこれまでになくマルガリータを落ち着かない気分にさせた。

 でも、それを押し止めて。

「ねぇ、ドーリン。その素敵な方をわたくしにご紹介してくださいな」

 穏やかな声を出しながらも、マルガリータの心は、言い知れぬ不安に揺れていた。

「なんだ? まだ名乗っていなかったのか」

 マルガリータと黒髪の客人の間に流れていた和やかな談笑の空気を見てとってか、ドーリンは既に両者は自己紹介が済んでいると思ったようだ。男にしては細めの眉が片方、くいと上がる。その少し勿体ぶったような態度は、ドーリンの昔からの癖のようなものだった。

 ドーリンの脇に立ったその(ひと)もマルガリータと目を見交わせるとどこか照れくさそうに笑った。表情豊かで、ふとした仕草が可憐な少女のように可愛らしい感じがする。

 それから改めて自己紹介をした。間にドーリンが入るかと思ったのだが、男は傍観を選んだようだ。それはマルガリータを少し落胆させた。もしかしたら自分を【婚約者】もしくは【許嫁】として紹介してもらえるかという期待があったからだ。

「リョウです。どうぞよろしくオーチン・プリヤートナ

 淑女の礼に倣い、その場で膝を小さく折り曲げて微笑まれたので、対するマルガリータも同じように簡単に名乗った。

「マルガリータです。こちらこそ、どうぞよろしくオーチン・プリヤートナ

 ドーリンがここで一言付け加えてくれるだろうかという淡い想いはすぐに霧散した。ドーリンの意識は、リョウと名乗った黒髪の女性に向いていたからだ。

「リョウ、突然だっただろう? 向こうには何と言って出てきたんだ?」

 どこか苦々しい感じでドーリンが口を開いた。その声音(トーン)は、社交界の会場で耳にする声よりもずっと柔らかく、そして優しく聞こえた。そう、まるで小さい頃にマルガリータと交わした囁きのように。

「ふふ。普通にナユーグのおじさまの所に呼ばれたと言伝をして来ましたけれど」

「そうか。済まないな。態々」

「いいえ」

「全く叔父上の趣味にも困ったものだ。少しは落ち着いたと思ったのだが、またこれだ」

 ドーリンからは珍しく愚痴めいた言葉も聞こえて来た。眉間の皺がぐんと深みを増す。

「まぁ……オリベルトのおじさまは、とても熱心なようですからね。ああいう風に一つの事に一生懸命になれる情熱は、やっぱり感嘆に値するとは思いますよ。とても真っ直ぐですもの」

 小さく笑った黒髪のその(ひと)にドーリンは眉間の皺を更に深くして人相の悪い極悪人も真っ青という感じの剣呑そうな顔を作って見せた。

「リョウ、頼むから、そんなことは絶対に叔父上には言ってくれるな」

 ―――――絶対に調子に乗る。いや、もう既にやりたい放題だが。

 だが、その声音はいつもの堂々としたものというよりもかなり困った感じのもので、その様子が相手にも伝わるのか、初対面の若い娘を委縮させてしまうような凶悪な顔をしたドーリンを見ても、黒髪の(ひと)は怯んだ様子はなく、いや、寧ろ余裕たっぷりにどこかからかうような顔をして小さく笑った。ドーリンもその視線を受けて、終いには苦笑に似た笑みを浮かべたのだ。

 両者の間の空気はとても穏やかでこなれたものだった。気心が知れた感じの二人のやりとりにマルガリータは自分が良く知っているはずの許嫁が、別人のように思えてしまった。それを認識した途端、サァーと血の気が引いて行った。立ったままの足が震えそうになって無意識に片腕で自分の体を抱きしめていた。

 マルガリータは急に動悸がしてきた。心臓がドクドクと早鐘を打ち、もやもやとしたおぼろげな不安に冷や汗が出そうになる。マルガリータは、堪らずに口元に手を宛がった。

 これ以上ここにはいられない。いや、いたくはない。嫌なものから目を逸らすようにマルガリータは素早く体を反転させた。

 それにドーリンが気付いた。

「どうした、マルガリータ?」

 つられて黒髪の(ひと)も傍らに立つ若い貴族のお嬢さまを見た。

「まぁ、顔色が悪いわ。どこか気分でも悪いんですか?」

 それまでのにこやかな表情からは一変、真剣な顔をして少し上にあるマルガリータの丸顔を覗き込むように見上げる。

「いいえ。何でもありませんわ。大丈夫です」

 マルガリータは青い顔をしたまま早口に言った。

「ああ。そう。もう行かなくては。お父さまとお母さまを待たせてしまっているので。ヴィクトルおじさまも」

 そう取って付けたように口にすると踵を返そうと体を反転させた。

「あの、マルガリータさん? 青い顔をしておいでですよ? 貧血かもしれません。お加減が思わしくないのならば、座って休みましょう。もしよろしければ、ワタシが診ましょうか?」

 ―――――これでも一応術師なんです。まだ新米のなりたてですが。

 術師!? その言葉にマルガリータは驚いて、でも、ぐるぐると混乱した思考と感情にそれ以上の声が耳に入って来なかった。

 人前だというのに随分と取り乱している。だが、そのようなことに気を回している余裕がこの時のマルガリータにはなかった。

「あの、マルガリータさん?」

「マルガリータ?」

 怪訝そうな女の少し甲高くなった声と馴染み深い低い男の声をどこか遠くで聞きながら、

「では、ごきげんよう」

 マルガリータはぎこちない微笑みの欠片のようなものを口元に残してそれだけ口にすると、廊下を小走りに去って行った。


 突然のことに廊下に取り残されたリョウとドーリンの二人は、緩慢な動作で顔を見交わせた。マルガリータの態度の急変に面食らってしまったようだった。

「あの……何かお気に触ることをしてしまったでしょうか?」

 若くふくよかな娘が去った廊下の向こうを見つめながら、リョウは困惑したようにドーリンを見上げた。

「いや、それはないだろう」

 ドーリンも訳が分からないという顔をして首を傾げた。

 そうこうするうちに南の将軍オリベルトが帰宅したという連絡が執事のゲルツェンより入り、二人は別棟の主を出迎えるべく応接間の方へと戻ったのだった。




 少し遅れて、両親が客人として寛いでいた応接間に顔を出せば、この屋敷の主であるヴィクトル夫妻とにこやかに談笑していた母親がマルガリータを見た途端、長椅子から立ち上がり傍に寄ってきた。母親は、案じるようにそっとその手をふっくらとした娘の頬に当てた。

「リータチカ? どうしたの? 酷い顔をしているわ」

 こういう時、母親の鋭さには舌を巻く。娘のささいな変化を少しも見逃さないのだから。

「いいえ。なんでもありませんわ、マーマ」

 マルガリータは小さく息を吸い込むと微笑みを作ってそう言った。珍しくきっぱりと。

「すこし立ちくらみがしただけですから。もう大丈夫」

 誤魔化すような言い訳だったが、顔色の悪さがその言葉に信憑性を持たせた。

「まぁ、大変。早くこちらにお座りなさい」

 母親のマリーヤは案じるように娘の手を取ると空いていた長椅子の方へと促した。

 室内に控えていた使用人が心得たようにマルガリータの為に新しいお茶の用意をした。応接間の片隅には、この国のお茶には欠かせない大きな湯沸かし器である【サモワール】がテーブルの上に置かれていて、冬場の室内にじんわりと熱を運んでいた。

 少し濃いめに入れられた温かなお茶にたっぷりと注がれた【マラコー(ミルク)】入りのものを一口飲んで、マルガリータの心の天秤は平衡感覚を取り戻したようだった。

「リータチカ、大丈夫かい? 気分が優れないようだったら、ウェルニーを呼ぼうか?」

 この家の主ヴィクトルの言葉に、

「いいえ、大丈夫です、おじさま。お気遣いありがとうございます」

 マルガリータは微笑み返した。

 ウェルニーというのは、このナユーグ家に古くから仕える術師のことで、医者のような役割を果たしていた。小さい頃、マルガリータも遊びに来た先で小さな怪我をしたり、急に熱を出したりして世話になったことがあった。今ではすっかり年を取って白髪のよく似合う優しい気立ての老人になったが、この家では術師筆頭としてまだまだ現役だった。

「そうか。少しでも何かあったら言うんだよ、リータチカ? いいかい? お前は私の娘でもあるのだから、今更遠慮なんかしてくれるな。なぁ、メルクーリィ?」

 これまでの習いからナユーグ家の主はマルガリータのことを【娘】と呼んだ。昔から本当の娘のように自分を可愛がってくれていたのは確かだ。その温情が、親同士が交わした【許嫁】という約束にも繋がっている。マルガリータ自身も父親のメルクーリィとは少し違うが、ヴィクトルに対しても頼りになる近親者のような思いを抱いていた。

 ―――――それなのに。

 今まではごく当り前で、寧ろ、誇らしくあったはずのその呼び名が、不意にマルガリータの胸に小さな棘のようにして突き刺さった。先程の黒髪の女性とドーリンの仲睦まじい様子が脳裏に蘇る。私は今でも許嫁に相応しいのだろうか。このままドーリンの元に、この家に嫁ぐことになるのだろうか。小さい頃から大事にしまってきたはずの未来の情景に突如としてひびが入り、音を立てて崩れて行くような気がした。

 ドーリンはあの(ひと)のことを好ましく思っている? わたくしよりもずっと?

 その問いは、とても恐ろしいものとしてマルガリータの意識の底に沈んだ。もしかしたら初めて感じた嫉妬のようなものかもしれない。だが、特定の人物に対する単なる妬ましさや羨望よりもマルガリータの場合、それは自分の中にある未知のものへの恐怖に変わったのだ。


 マルガリータが一人もの思いに沈む中、そのすぐ脇では両親たちの会話が進んでいた。

「ああ、そうだ。これまで延び延びになってきたが、そろそろ頃合いだろうな」

 父親のメルクーリィの言葉に母親のマリーヤが鷹揚に合槌を打った。

「そうよ。もう随分と待ちましたもの。次の春には必ず。ねぇ、構わないでしょう、ヴィクトル? 人生の【五月(幸せな季節)】は短いのだから」

「そうだな。近いうちに、いや、今度こそこっちに戻って来るだろう。あれの周辺も大分落ち着いたようだしな。私もその意見に賛成だ」

「まぁ楽しみねぇ。いよいよなのね」

 マルガリータの両親とナユーグ家のヴィクトル、ヴァルワーラ夫妻は、これまで様々な理由から(主にドーリンの仕事上の関係だが)延期されていた両家の許嫁たち婚儀を次の春にでも行おうと話していた。

「よかったわね、リータチカ」

 小さい頃からの付き合いなので未だに両親もナユーグ夫妻も幼少期の愛称でマルガリータを呼ぶ。

 ヴァルワーラ夫人の声にマルガリータは我に返った。一人沈思黙考していたマルガリータは両親たちの話を全く聞いていなかったのだが、

「は…い? え、ええ」

 顔を上げると四人の大人たちがこちらをにこやかな微笑みと共に見ていて、マルガリータは今更何を話題にしていたのかと聞き返すことが出来なかった。なので、結局、話に合わせるように曖昧な笑みを浮かべてしまった。

 マルガリータは別のことに囚われていた。そう、先程の黒髪の女性のことが気になって仕方がなかったのだ。もっと言ってしまえば、その(ひと)とドーリンとの関係だ。

 こんなことを聞くのははしたないかもしれない、どうしようかと迷ったのだが、マルガリータは知りたいという欲求を抑えられずに、つい口を開いてしまった。

 それは他の四人にとっては少し唐突な話題でもあった。

「あの……実は…先程、別棟へ続く廊下で、珍しい方にお会いいたしましたの」

 あのリョウと名乗った黒髪の小柄な女性。素朴な街娘のような形の服。でも生地や仕立ては良質なもので。簡素な出で立ちでもいい意味でその(ひと)の雰囲気に似つかわしかった。突如としてこの家に、もしくはマルガリータの目の前に現れた謎めいた(ひと)。ドーリンが初めて見るような優しさと労わりを持って接していた(ひと)

 ―――――あの(ひと)はだれ? 一体、どんな(ひと)なの?

 急に話を変えたマルガリータの言葉に両親は興味引かれたような顔をして、この家の主であるヴィクトルを見遣った。その隣で、ソファにゆったりと座った夫人のヴァルワーラが、皿の上の焼き菓子を摘みながら小さく喉の奥を鳴らす。

 たっぷりとした間の後、意味深な目配せがあった。

「ふふふ。オーリィの新しい【ムーザ(女神)】ね?」

 ヴァルワーラ夫人は義弟オリベルトのことをオーリィと愛称で呼んだ。

「ああ。新しい美の具現者、いや、体現者か」

 ヴィクトルは、小さく取ってつけたような笑みをその目元に浮かべると微妙な顔をした。この主が弟の趣味の話をするときは、決まってこういう複雑な表情を浮かべた。兄である主は、弟が特定の趣味へと傾ける類稀なる情熱を少し離れた立ち位置で眺めていた。あからさまに否定はしない。だが、諸手を上げて賛同する訳でもない。完全なる傍観者となって、その様子を端から眺めては、時折茶々を入れたりして面白がっている風もある。良き理解者というには程遠いが、邪魔をしないし、余計な口も挟まない。身内としては十分なものだろう。

「あの方がおじさまの【ムーザ(アイコン)】?」

 マルガリータは、思ってもみなかった言葉に目を白黒させた。

「ああ。顔立ちも色彩も随分と異国風(エキゾチック)だろう? それにあんなにも小柄だからな。まさにあれ好みだ」

 ヴィクトルの説明に隣に座るヴァルワーラも含むように笑いながら言葉を継いだ。

「オーリィったら、すっかり参ってしまったのよ。あの可憐なお嬢さんに。そうそう、この間の祝賀会の時だったかしらねぇ」

「ああ。あの時に一目惚れをしたらしい」

 そう言ってヴィクトルが呑気に笑う。

 先の武芸大会の功労者たちを称える目的の為に宮殿で開かれた祝賀会。国王(ツァーリ)が主催する恒例の催しだ。マルガリータも当初は参加予定だったのだが、生憎、その前日から体調を崩してしまった為、その日は一日中寝台の中にいたのだ。なにやら大変なことが起こったらしいということは帰宅した両親の話から耳にしたのだが、マルガリータがその辺りのことを改めて質問しようとすると両親はハッとした顔をしていきなり口を噤んでしまったのだ。そして、誤魔化すような笑みを作って、どこぞの奥方のドレスは素敵だったとか、どこぞの御子息は見違えるくらい立派になっていたとか、相変わらず国王(ツァーリ)は麗しいお方だったとか。そのような夜会の取りとめのない感想を語って聞かせたのだ。

 その祝賀会でオリベルトはあの黒髪の(ひと)に会ったのだと言う。あの夜会に招待されたのは主にこの国の貴族たち、もしくは軍部の人間だ。誰かの【連れ】という形であったら、その身分は厳格な意味で問われることはないが、相応の儀礼(マナー)に通じていなくてはならないし、何よりも淑女らしく振る舞うことが要求される。

「そうそう、私もファーガス殿と踊っているのを拝見したけれど。華やかな派手さはないけれども、そうねぇ、夜空の星のようなお美しい方だったわ。まるで【夜の精】のようで」

 この国のお伽噺に出て来る【夜の精】。黒い髪に黒い瞳をした風の王の娘。人ならざるその美しい娘と古の騎士との悲恋の物語は、この国に暮らす者ならば誰もが知るお話だ。

 母親のマリーヤが当時の煌びやかな情景を思い返すように目を細めた。

「確かに。若い連中が色めき立っていたからな」

「あら。お若い方々だけでなくって、あなたも心奪われていらしたじゃない」

 何を思い出したのか、鼻の下を伸ばしたようなメルクーリィの表情に妻は呆れた視線を投げた。その眼差しに夫は慌てて表情を取り繕った。態とらしい咳払いが漏れる。

「何を言うんだ、マーシャ。私にはあの中では君が一番美しく見えたぞ?」

 慌てて妻の手を取り言い募った夫に、

「まぁ、あなたったら」

 マリーヤは満更でもない顔をして微笑んだ。

「それにあの子にはおっかない番犬がいたじゃないか。それも沢山」

「ふふふ。そう言えばそうでしたね」

 幾つになっても相変わらず仲の良い両親の語らいをどこか遠くで流しながら、マルガリータの思考は別の方向へと流れて行った。あの(ひと)は、異国の身分ある方なのだろうか。それに誰があの(ひと)同伴(エスコート)したのだろうか。マルガリータの脳裏には社交界を賑わす貴族たちの顔が浮かんでは消えて行った。

 もう少しマルガリータが両親たちの会話に注意深く耳を傾けていれば、その問いの答え(ヒント)になりそうな断片は、あちらこちらに散らばっていたのだが、自分の考えに深く囚われていたマルガリータは、残念ながらその機会を逸してしまい、更なる混濁の深みへと自らはまることになった。そうやって歯車が少しずつ狂い出して行ったのだ。初めは些細な(つまづ)きに過ぎなかったというのに。純粋な所のある若い娘の【思い込み】というもの程、厄介なものはないだろう。

「あの。その方は貴族……なのですか?」

 小さく尋ねたマルガリータにお茶のお代わりをしながらヴィクトルが首を傾げた。

「さぁ、どうだろう。その辺りのことは聞いていないな」

「では、どなたがお連れしていましたの?」

 半ば焦れたようなマルガリータの問い掛けに、珍しくヴィクトルが意味深な目配せをした。

「ああ。誰だと思う? リータチカ」

 謎かけをするように悪戯っぽい顔をしてヴィクトルが身を乗り出していた。ナユーグ家の主がこのような表情をするときは、大抵裏に何かがある。普通ならば思い付かないような意外な人物なのだろうか。

 マルガリータも自然と前傾姿勢を取っていた。

「まぁ、どなたでしたの? ザパドニークのおじさまかしら?」

 女性関係には手広いことで有名な西の一族の名前を挙げてみる。あそこには二人の息子がいて、次男の方はナユーグ家のドーリンとも交流があり、年もたしか同じくらいなはずだ。

「シビリークスだよ、リータチカ」

 南を守護するナユーグと同じ、北を守護するシビリークス家。思いがけない名家の名前は、マルガリータを動揺させた。

 ―――――あの(ひと)に、そんな大きな後ろ盾があったなんて。

 狼狽したマルガリータは、その後、ヴィクトルが語った肝心な台詞を聞き逃してしまった。

 ―――――あの子は、ルスランのコレなんだそうだ。

 ヴィクトルは右手の薬指を上げて微かに笑った。その太く男らしい指には、薄い灰色に赤の混じった色合いの石が静かな輝きを放っていた。

「本当に春が来るのが待ち遠しいわねぇ」

「あちらもさぞかしお喜びでしょうから」

「ええ。でもうちも負けてはいられないわ」

「ふふ。そうね」

 母親とその友人の軽やかな話声が、マルガリータの意識を右から左へとすり抜けて行った。




 この日以来、マルガリータはどこか思い詰めたり、浮かない顔をすることが多くなった。柔らかな茶色の癖毛に象られた丸い顔の中に収まる薄荷(はっか)色の瞳は、物憂げに伏せられ、厚みのある艶やかな唇からは長い溜息が漏れる。そして、ぼんやりと窓の外を眺めたり、一人もの思いに耽ったりすることが多くなった。端から見れば、それはまるで【恋を知ったばかりの少女】のようだった。

 マルガリータの平凡で穏やかな人生の中で、初めて生まれてしまった小さな不安。それは時間の経過と共に暗雲の如くマルガリータの日常に垂れ込め、日に日に膨らんで行った。

 面と向かって事の次第をドーリンに問い(ただ)したり、両親に相談することが出来ればよかったのだろうが、引っ込み思案で内向的な所のある性格が災いし、一度考え出したら、次々と溢れるようにして出て来る思い付きはマルガリータにとっては悪いものばかりで、【恋の苦しみ】を知らずに思春期を通り過ぎてしまったツケが今更ながらに回ってきたことを自嘲と共に感じながらも、幼い頃から変わっていない自分の心の弱さを恨めしく思ったりもしたのだった。


 そうやって悪いことばかり考えているとその【負の感情(オーラ)】に引き寄せられるようにして、間の悪いことが起きるものである。ドーリンには、もしかしたら好きな(ひと)が出来たのかもしれない。どちらかと言うと太めで器量も華やかさに欠ける自分よりも、ずっと可憐で可愛らしいあの(ひと)の方が良いのかもしれない。そして、思いがけず、日に日に増長する疑念を肯定するかのような出来事に遭遇してしまったのだ。


補足:マーラ、マーラチカ、リータ、リータチカは、全てマルガリータの愛称です。

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