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憲政の神様 尾崎行雄 作者:十四松
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孤高の演説

 すでに第四十五議会が始まっている。無所属の尾崎行雄にようやく発言機会が巡ってきたのは大正十一年二月二十七日である。いわゆる普選法案が前議会からの継続審議にかけられていた。行雄はまず党議拘束を批判した。英国や米国の政党では時に党議に反対する議員のあることを述べ、党議に唯々諾々と支配されている政党員に反省を促した。
「もし国家のために誠心誠意に考える時には、己の党派の為した所のものと雖も、国家的見地よりして之に反対せざるを得ざる場合が、かくの如く始終あるのであります。然るに諸君は何ぞや。党議ひとたび決すれば、己の良心は賛成でも之に反対、国家の為には反対の心を持って居っても、党議に服従して之に賛成する。議場に入る以上は良心をば此処に持参すべからずと云うが如き状態になって居るのであります」
 政党は軍隊ではない、と行雄は訴えた。結束は軍隊組織においてこそ絶対必要な徳目であるが、政党が結束を誇るなど実に非立憲的なことである。
「ただ結束あることを知って、良心あることを知らぬ。党派あることを知って、国家あることを解せぬ。かくの如きものが即ち現在のいわゆる政党なるものであるが、これは政党ではない。徒党である。朋党である。軍国化したる団体である」
 普通選挙の実現を阻んでいるのは党議拘束であると行雄はにらんでいた。政友会の中にも賛成意見は多数ある。ところが自由な投票行動が制限されている。
「もし自由なる問題と致し、良心の命ずるところによって議させたならば、私は保証する、今夕この場合において、普通選挙案は必ず通過する」
 この日、行雄は予言めいたことを言った。近いうちに普通選挙は必ず実現するという。
「今や国家内外の形勢を見ますれば、おそらく一年か二年を経ざる間に政友会は普通選挙案を出さなければならぬ、また出すべき地位に立たれるであろうと思います。今日躍起となって本員の言論に反対などを言っておると、その場合において少しくお困りになりはせぬかと思うのであります。二、三年先をご覧なさい。恐らくは諸君自ら我々の意見に賛成を為さなければならぬということになる」
 ちなみに普通選挙法が公布されるのは三年後の大正十四年である。ワシントン会議の成行きについてもほぼ正確に言い当てた行雄の優れた先見性に気づいた人は少なくない。彼らはその秘訣を行雄に尋ねた。
「なぜ予見し得たのですか」
「秘訣なんか無いよ。諸君が毎日読む新聞を読み、海外電報を正確に解釈しただけです」
 あるいはこんなことを言う場合もある。
「物事の起源、展開、関連、結果などは頭を空にして考えれば誰にでも直ぐ分かるはずです。頭を空にして頭を働かせないといけない」
 要するに長年の経験と研究とによって培われた経綸と、独自の感性の問題なのであろう。真似ようとして真似られるものではない。さて、行雄の演説はなお続く。
「今日我々の生命を取り、我々を監禁もしくは懲役に処するところの法律は誰が作るか。わずかに一千人内外を代表するところの貴族院、わずかに二、三百万の人民に選ばれたるところの衆議院、それが決議して上御一人の御裁可を得れば、残る五千何百万人は一言もそれに喙を容れずして、命も取られなければならぬ、租税も取られなければならぬ。封建時代においては三百諸侯、四十万の士族のために斬捨御免権を握られて居ったのであるが、今日は三百万人の選挙人のために全国の人民はみな斬捨て御免の生活を営んで居るのであります。この原理が解らぬ以上は、立憲政体の根本は解りませぬ。立憲政体では、己の生命、財産は己の権利として運用せなければならぬ」
 行雄は第一次世界大戦後の世界の変化を述べ、婦人参政権についても言及して演説を終えた。いつもどおりの大演説であった。この四十五議会で行雄は三度の発言機会を得るが、二度目は三月十八日である。この前日、皇居二重橋正門前において男が爆弾自殺を遂げるという異常事態が発生していた。男は上奏文を持っており、直訴を叫んでいたという。
「かくの如き人の出るその裏には、一世の空気がそういう人を激成してこの挙を為さしめざるを得ないような空気がいずれの方面にか随分濃厚に横たわって居るという位のことは知らなければならぬ。一人一個の非常なる事件に対して、その裏に何があり、続いて何が来るということを考えない、時勢民心の趨くところを解せざるに至っては、とても政治を談ずるに足らざる人々であります。故に願わくば、彼が掲げたところの上奏文そのままをこの議場にご報告あらんことを希望いたします」
 行雄の要請に対し、内務大臣床次竹二郎が答弁に立った。その説明によれば、男は「直訴」と叫びながら二重橋を駆け、正門前に至ると持参した爆弾に点火し、「爆弾だ。危ないぞ」と警告した。爆弾からはモウモウと白煙が上がったため、警官も近衛兵も容易に近づけなかった。やがて爆弾が破裂して男の体躯は飛散した。男は藤田留次郎、三十八才と判明した。藤田は満州で土工として働いた後、青島で事業を興すも失敗、この後、朝鮮、大阪、名古屋、東京、北海道、樺太を転々とした。やがて神田三河町に住みつくが、健康状態がすぐれず、経済的に困窮していたらしい。政治に関心があり、政談演説会によく通っていた。上奏文には、普通選挙の断行、貴族院と華族制度の廃止、言論集会結社の自由、労働者の待遇改善、軍備の縮小などが書かれていたという。行雄は上奏文の朗読を要求したが、床次内相は捜査に支障が出るとして拒否した。結局、その全文は秘密会において朗読された。
 今国会では政友会、憲政会、国民党、庚申倶楽部の四派共同で陸軍軍縮決議案を提案していた。一年前の第四十四議会で行雄は軍縮決議案を提出し、熱弁をふるってこれを訴えていたが、その際には政友会も憲政会も反対した。それが今国会で軍縮決議案を出している。
(政党には節操もなければ、先見性もない)
 行雄の決議案は第一次大戦後の趨勢を先読みして提案したものだったが、今回の四派共同提案はワシントン会議の結果を後追いしたものでしかない。しかも同案は陸軍予算を四千万円節減することを求めているにすぎない。この生ぬるい提案に対して行雄は修正を要求した。三月二十五日の本会議においてである。
「全額が四千万円と書いてあります。これは我々納税者を代表し、国民を代表する者の決むべき事であって国家の大局から観察を致して、現在においてどれだけの費用を陸軍に使って宜しいかということを決むるのは本務でありますからぜひ確定したい。これは決して軍事当局者などに委すべきことではないと思います。我々の方が国家の経済、財政の状態を知ること、軍事当局者とは比べものにならぬのであります」
 要するに節減額を官僚任せにせず、議会が主体的に判断すべきだというのである。わずか四千万円の節減では少なすぎる。せめて一億円にせよと行雄は訴える。その理由についてはこれまでに何度も繰り返し言い続けている。日本の国家財政は異常であった。総予算の半分が陸海軍予算に投入されている。行き過ぎた財政軍国主義をやめない限り、国家の根本が疲弊してしまう。軍隊あれども国家なしの財政政策をやめるべきであった。
「国防は相対的である」
 当たり前の事実を行雄は繰り返し訴えた。相対的であるからこそ、海軍軍縮交渉も成立し得たのである。米英日がともに主力艦保有量を制限するのであれば、相対的な軍事力は一定に保たれる。おまけに財政も好転する。同じことが陸軍にも言えるのである。支那大陸は混乱状態であり、中華民国政府が日本に対して侵略的意図を持つことはあり得ない。ソビエト連邦も同様である。ロシア革命後の混乱は依然として続いており、日本への侵略意図を持つ余裕などは無い。したがって陸軍の国防力を削減しても十分に安全は保証される。かつて日本政府は、ロシア帝国の大陸軍に対処するため陸軍を二十五個師団にまで増強しようと計画したが、今やその必要は無くなっている。
「我が陸軍は何のために設けてあるのであるか、この地球には我が陸軍の相手となるべきものはロシアと支那を除いては無い。この両国が月世界のどこかにでも陸軍を備えているというのであるか」
 使い所もないのに大軍を養ってどうするか、と行雄は問う。さらに行雄は廃兵や戦死者遺族の悲惨な状況に触れた。
「彼の廃兵を見よ。彼の戦死者遺族を見よ。どういう状態になって居るか。国家のために命を棄てた者が一番悲惨なる境遇に立つ、次には重傷を負うて身体の自由を奪われた者はほとんど乞食同然な状態に置かれております。廃兵が大なる看板を掲げて、足一本月に九円、手一本、目ひとつで六円とか、命を亡くして屍となれば遺族は乞食とならなければならぬ状態で、市中を奔走し、示威運動を致して居る」
 金欠病の陸軍は十分な恩給を与えることが出来ないでいる。これでは兵の士気が低下するではないか。だからこそ軍縮して浮かせた金で恩給を充実させればよい。行雄の陸軍軍縮案はかなり思いきったものである。
「支那もしくはシベリアの境上において人が狼藉な振舞を致す場合には、我また陸軍を以って国境を守らなければならぬ。これだけは確かに陸軍の必要なる場合である。そのためにどれだけの兵が必要であるかと申すならば、おそらくは六、七師団の兵も要りますまいと思うが、本員はまず余裕をとって十師団くらいの兵は備えておいて然るべきと思う」
 現有二十一個師団を半分にせよ、それで十分だというのが行雄の考えであった。もちろん国防は相対的なものであるから、ソ連あるいは支那が国家を安定させて軍備を増強する形勢を見せれば、それに応じなければならない。だが、それはおそらく十年、二十年先の話であろう。具体的な使い道もないのに国家が大軍を養うことは、それ自体が害悪かも知れない。シベリア出兵がその典型例である。無益な出師のために兵が死に、国費が浪費され、国際的信用が失われた。行雄はその弊害を追求する。
「現に我国は世界の文明国から疎隔し、ほとんど孤立無援の位置に立っている。その最も大きな原因は陸軍である。陸軍は大兵を擁して道理に合わない無法な事を各地において致す。それが最大原因となって居るのであります。我国の東洋における困難、欧米における国交上の困難はみな二重外交の結果であって、即ち陸軍の働きが外務省を圧して、道理に合わぬ事を致した結果、ここに至ったと申さなければならぬ。すなわち陸軍国防なるものは、名は国防でありますけれども、帝国を危うくすることこのうえなき状態である」
 この間、海軍軍縮はワシントン会議において実現されたが、陸軍の軍縮については国際連盟の委員会において検討されていた。昨年中には報告書が提出されていたのだが、フランスと日本がこれを拒否したため実現には至っていない。行雄はこれを遺憾とした。
「陸軍はシベリアに出兵してロシアを敵となし、支那に兵を出して支那を怒らせ、陸軍縮小の相談に反対して欧米列国を怒らせ、敵をあらゆる方面に作って、前後左右いずれを見ても我が帝国の味方となるべきものは今日において容易に得られないという窮境に国家を陥れてしまったのであります」
 行雄は、新兵器開発に消極的で、兵の頭数ばかりに固執する陸軍の後進性を指摘した。
「あたかも徳川の末において弓矢、槍、薙刀より他に戦争の武器がないにもかかわらず、攘夷を実行せんと勇み猛った同じ程度であって、今日陸軍が持って居る武器は、丁度幕末の弓矢に較ぶべきものより外に持たぬのである」
 すでに触れてきたとおり、行雄の軍事知識は生半可ではない。航空機、戦車、機関銃、毒ガスなどの新兵器が日進月歩で進歩している。たとえ軍事の専門家でなくても、その程度のことは分かる。にもかかわらず陸軍省の議会答弁は不誠実なものが多かった。
「然るにややもすれば四十四年式の村田銃を以って戦さが出来るかの如き言論を為して、我が帝国議会を欺かんとするに至っては実に驚くべき状態であると思う」
 軍人というものは目的のためには手段を選ばぬところがある。国会における答弁にも権道を平気で用いた。陸軍はあくまでも兵営主義で国防を考えていたが、これもすでに時代遅れであった。第一次世界大戦は、もはや戦争が武力の競争ではなく、国力の競争であることを証明している。
「陸軍当局はややもすれば戦闘力は兵営で訓練した兵隊の外には役に立たないものの如き言説を述べますけれども、私どもはその点においてはまったく意見を異にして居る者であります」
 イギリス軍でもアメリカ軍でも、戦時志願兵が大きな戦力となった。兵営主義のドイツ軍は確かに優秀で戦闘にはことごとく勝利したが、やがて戦力が消耗して遂に敗北した。世界の趨勢を見るならば、日本も兵営主義を棄て、国民全体を強健にすべきだと行雄は主張した。
「全国の人民の身体を強健剛壮に致して、義勇奉公の念を多く持たせますならば、平和の日にあってはその剛健なる身体を経済的に、学術的に、諸般の製造工業のために使い、一朝事有れば戦場に出でて矢張り働けるのであります。いかに兵営でわずかばかりの剛健なる者を造りましたところが、全国人民が今日の如き体格では、また義勇奉公の念が衰えては、兵営養成の戦闘力だけを持って国を護ることは出来ませぬ」
 行雄の演説は長い。その間、多くの野次が飛び、時に演説を中断せねばならなかった。なかには行雄を「国賊」と侮辱するものさえある。が、演説の後半になるとむしろ賛成の拍手が多くなった。この拍手を味方につけて行雄は最後まで話しきった。議論が終結した後、採決が取られ、行雄の修正案は否決された。結果、四派共同の決議案は可決され、陸軍の軍縮が実施されることになる。時の陸軍大臣は山梨半造であった。いわゆる山梨軍縮により六万人の人員が整理されたが、陸軍予算はむしろ増えた。兵器の近代化も不徹底に終わった。

 先に原敬を失った政友会は内部の紛争を生じ、六月に高橋是清内閣が総辞職するに至った。後継したのは、ワシントン会議で手腕を発揮した海軍出身の加藤友三郎である。超然内閣の復活であり、英国型立憲政治を目指す行雄にとっては政治の後退というべき事態であった。世論も加藤内閣を歓迎せず、批判的世論が満ち、憲政擁護運動が盛り上がった。しかしながら加藤友三郎の優秀さを知る行雄は、加藤内閣をむしろ好意的に見た。同じ軍人あがりの政治家でも加藤友三郎は桂太郎と性格的に正反対の人間類型に属した。沈勇という世評が示すとおり、外連味のない加藤の性格は尾崎の嗜好に合った。
 第四十六議会の二日目、行雄はある決議案の説明演説に立っていた。前議会の最終盤における奧繁三郎衆議院議長の議事運営に問題があるとして、行雄は奥議長を不信任する決議案を提出したのである。行雄の主張によれば、奥議長はたった一度の議決によって議事を中止し、日程を変更し、およそ四百件もの請願と建議案を一括して議題とし、しかもそれらをすべて可決してしまった。本来ならば一々議決しなければならないものをである。奥議長は議会の手続きを無視した。行雄は議事録を引用しながらその事実を指摘した。立憲主義者の行雄は議会の手続きに執拗なまでのこだわりを持っている。ある意味で手続きこそが議会政治の生命である。手続きをないがしろにしてしまえば、議会は政府への協賛機関と堕してしまう。行雄はその点を訴えた。この決議案は賛否両論を巻き起こしたが、結局、採決により否決された。政友会は、党利上、奧議長を守った。議会中、行雄が発言できたのはこの日のみである。あとは中立の立場を守りつつ、加藤首相の答弁を聞いた。
「議会における加藤首相の応答ぶりを見ると、歴代の総理大臣中おそらくその右に出る者は無かろうと思われるほど鮮やかなものであった。伊藤公や大隈公すら、加藤大将には及ばなかった」
 行雄は晩年に書いている。確かに加藤首相の言葉は簡明、直截であり、曖昧さや誤魔化しがない。しかもその施政方針は行雄の持論とほぼ一致していた。
「帝国と締盟各国との交際はますます親交を加えまして、ことに帝国の世界における地位と責任とに顧みまして、諸般の国際案件に関し、帝国また列国と歩調を一に致し、世界恒久平和の確立に努力しつつある次第でございます」
 大正十二年一月二十三日の施政方針演説で加藤首相は述べた。全権としてワシントン条約の調印を成し遂げた加藤首相の言葉には説得力があった。加藤首相は、シベリアからの撤兵が完了したことを報告し、山東問題も解決したことから日支関係が好転するべきことを述べた。海軍の軍縮については英米との協調を保ち、條約の精神を尊重するとした。
「世界はすでに平和的保障の下に将来の経済的競争を目途と致しまして、今や実力養成の時期に入って居るのであります。我国におきましてもこの状勢に顧みまして国家の実力養成に努め、他日に遺漏なきを期すべきと存ずるのであります」
 第一次世界大戦後の世界情勢認識は行雄のそれと同様である。そのため内政面では、物価調整によって国民生活の安定を図り、陸海軍の軍縮や一般行政予算の節減によって国費緊縮を断行すると加藤首相は述べた。行雄にはまったく異存がなかった。海軍出身の官僚政治家の政策に賛意を持つことは、行雄にとって皮肉ではある。それでも出身がどうであれ、信頼に足る宰相を得たことは喜ばしい。加藤内閣の施政ぶりを片目に見つつ、講演、演説、執筆に日を送った。
 加藤内閣がこのまま四、五年間ほども続いていたなら、あるいは国際協調路線が国政に定着し、この後の歴史が変わっていたかも知れない。しかし、加藤内閣は一年二ヶ月しか続かなかった。加藤友三郎の肉体は癌に蝕まれていたのである。大正十二年八月二十四日、加藤首相は急逝した。二日後、外相内田康哉が臨時首相となり、次期首相の大命が山本権兵衛に降下した。その山本がまだ組閣中の九月一日、関東大震災が発生した。
 午前十一時五十八分、相模湾沖を震源地とする大地震が発生し、その地震振動、液状化現象、地盤沈下、津波、山崩れ、土石流、火災などにより神奈川県と東京府は壊滅的な被害を被った。被害は関東全域に及び、被災家屋は三十七万戸、死者・行方不明者は十万人を越えた。
 この日、行雄は軽井沢の莫哀山荘にいた。碓氷峠の見晴台から東京の火災が遠望できた。やがて東京方面から多くの被災民が逃げてきて、避暑地軽井沢は臨時避難所と化した。行雄のもとには来客が頻繁に訪れ、被災の惨状を伝えた。行雄は機敏に動いた。早くも震災初日、内閣に向け三箇条の献策を打電した。老婆心ながら、かつて東京市長を務めたこともある行雄としては黙っていられない。臨時議会の招集、永久建築の禁止、帝都改造委員会設置という三項目を建言した。続いて九月十日には東京市長あてに献策を打電した。その内容は瓦礫処理に関することである。各区の焼土塵芥を本所、深川、浅草の低地に運搬し、約三尺の土盛りをなすよう提言した。さらに行雄は被害情報を収集しつつ、帝都改造の意見書を執筆し、政府に送付した。その内容は大胆かつ抜本的なもので、遷都、百間道路、敷地課税、復興特別税、番地整理、砕石道路、電信・電話・電車の地下化、大煙突の禁止、公娼廃止などの項目からなる。行雄は東京に集中しすぎている政治、経済、学芸の各機能を分散すべきだと考え、せめて大学だけでも移転させるべく帝国大学関係者を説得したりもした。
 行雄から献策されるまでもなく、政府は被災民の救助と被災地の復旧に動いていた。震災の翌日に成立した山本権兵衛内閣の内務大臣は、大風呂敷の異名を持つ後藤新平である。後藤は大胆な帝都復興構想を推進しようとし、総額三十億円、この当時の国家予算の二倍近い予算規模の復興計画を立案した。後藤の構想力は雄大であった。しかし、後藤新平は政治的な後ろ盾を失っていた。桂太郎も児玉源太郎もすでに亡い。結局、後藤は思うことの十分の一も実現し得なかった。復興計画は政党間の政争に翻弄され、予算不足を理由として官僚たちは後藤案を骨抜きにした。後藤内相でさえそうであってみれば、行雄の提案など一顧だにもされなかったのは当然であろう。
「帝都百年の将来のためとあらば、復興費を七億円や十億円に限定する必要はない」
 帝都復興院の計画も、帝都復興審議会の修正案も行雄に言わせれば過小であった。今こそ新興国の気象を示すべき時だ、というのが行雄の考えであった。震災直後の今こそ大胆な財政措置によって帝都を復興させねばならない。しかし、日本政府は因循姑息な予算至上主義に支配されていた。
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