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憲政の神様 尾崎行雄 作者:十四松
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彦太郎

(この子はとても育つまい)
 そう思いながら貞子はわが子に乳を与えている。安政五年に生まれた長男は虚弱だった。名を彦太郎という。後の尾崎行雄である。彦太郎は極度に病弱だった。貞子は、わが子に多くを期待せず、ただ生きてくれと願いつつ育てている。貧困のため滋養のある食物もなく、薬も購えず、できることといえば祈ることのみであった。
 相模国又野村の尾崎家は困窮していた。尾崎家の先祖は尾崎掃部頭という戦国武将である。伏馬田城という小城を治めていたが、北条氏の滅亡とともに城を捨て、郷士となって又野村の庄屋になった。村一番の大きな屋敷には、村唯一の玄関があった。しかし、酒乱癖のあった祖父の代に没落した。
 当主の尾崎行正は、八王子散田村の峯尾家から婿に来た。行正は器用な男だった。漢学者でありながら算盤上手でもあり、国学にも明るく、さらに機械、化学、調薬、養蚕、製紙、製茶など様々なことに手を出し、医者の真似事までした。
 行正の医療は、いつしか村内で信用を得た。おかげで尾崎家の身代は回復するかにみえた。そんな折、尾崎家は火事に遭遇した。彦太郎が五才の時である。焼け残ったのは蔵だけで、蔵の中には刀と槍しかなかった。出火の原因は不明だが、不審火らしく思われた。行正は村が嫌になり、出奔してしまった。
 時代は幕末の動乱期である。時代の熱気は山深い又野村にさえ吹き込んできている。水戸学をかじっていた行正は、尊皇攘夷活動に共鳴し、志士活動に身を投じた。ひとたび男が政治に熱中しはじめると、その眼中には家庭などなくなる。家計は貧窮した。生活が立ちゆかないため、母子は一時的に行正の在所である八王子散田村の寺に仮住まいした。
 彦太郎は物心ついた頃から頭痛のしない日がない。皮膚には赤い発疹が出ていて常に痒かった。身体は弱々しく痩せており、痛々しいほどにあばらが浮いていた。顔貌にも可愛げがなかった。
「この鼻、なんとかなりませんかねえ」
 鼻梁が極端なほどに低く、かつ反っ歯であった。どういうわけか父にも母にも似ていない。貞子はわが子の顔貌を気に病み、その将来を悲観した。幼い彦太郎は、まだ自己の悲惨さを自覚するには早すぎたが、母がしばしば口にする詠嘆はその耳に入り、生涯記憶に残った。
「武士は微笑みながら死ぬのです」
 どんなに虚弱であっても武家の子である。貞子は武士の心得を彦太郎に教えた。この時代、教育はおもに父親の役割だったが、その行正は不在である。貞子は武士の心構えを教えたが、具体的な訓練や躾などは行わなかった。虚弱な彦太郎には苛酷すぎると思ったからである。
 友だちはいなかった。酒乱癖だった祖父が村内に多くの敵をつくっていたし、そもそも友だちと遊び回る元気がない。これに加え、武将の血筋という尾崎家の気位の高さが交友の邪魔をした。百姓や町人の子どもたちと彦太郎が遊ぶのを貞子は喜ばなかった。
 散田村の悪童たちは寺に住みついた見慣れぬ子供に興味を持った。その興味の大半は敵意である。
「よそ者め」
 悪童に石を投げつけられても彦太郎は反撃しなかった。それだけの体力がない。だからといって逃げもしない。逃げてもどうせ追いつかれる。だから逃げもしない。ものも言わない。彦太郎の徹底した非戦非逃の態度は散田村の餓鬼大将に意外な感銘を与えたらしい。
(なかなかの奴だ)
 本当は身体が動かないだけなのだが、相手の方が彦太郎を買いかぶってくれた。やがて悪童たちの方から近づいてきた。餓鬼大将はいきなり着物の前をまくると、まだ幼い一物をもち出し、その先端の皮を剥いて亀頭を剥き出しにした。
「おい、竿と竿をおっつけたら、仲間に入れてやらあ」
 子供というものは馬鹿げたことを考えるものである。剥き出しになった亀頭は湿気を帯びてテカテカと光っている。彦太郎は度肝を抜かれたが、例によって身体が動かず、ものも言えなかった。やっとの思いで激しく首を左右に振った。彦太郎には自尊心がある。病弱なために何をやっても半人前で性格も臆病だったが、その弱点を補いたいという秘めた願望は並みの子ども以上に強烈であった。その願望がときに彦太郎を強情にした。
 やがて母子は又野村の屋敷に戻り、敷地の片隅に仮普請の小屋を建てて住んだ。年に一度か二度、風のように父が帰ってくる。わずかな滞在期間に行正は漢学の基礎を彦太郎に教えた。彦太郎にはまったく意味がわからない。それでも父の口真似をして漢文を素読した。
 貧しい母子にとって、季節ごとに実る木の実は貴重な食糧であった。彦太郎は柿が好物だった。尾崎家の庭にも、近所の路傍にも柿の木があった。柿を食べるときには夢中になり、頭痛も皮膚のかゆみも忘れた。だが、ある日、彦太郎はひとつの因果関係に気づいた。柿を食べてしばらくすると必ずお腹が痛くなり、下痢をした。下痢をすると元気がなくなり、立っているのもやっとになる。彦太郎は柿を食べなくなった。枝にぶらさがる柿の実を見上げはしたが、獲ろうとはしなくなった。この残酷な経験は彦太郎に、嗜好に溺れない自制心を養わせた。

 勤王の志士として奔走していた行正は見事に宝を掘り当てた。戊辰戦争中、土佐藩軍監板垣退助の指揮下に断金隊という部隊があった。隊員は主に甲州浪人である。行正はその隊員として働くうち、土佐藩の安岡良亮と相知るようになった。維新後、その安岡が政府の官僚に抜擢されると、行正はその下僚として職を得た。明治元年、行正は東京駿河台の安岡邸内に家族を呼び寄せた。尾崎一家はようやく人並みの生活ができるようになった。彦太郎は十才にして初めて本格的に漢学を学ぶ機会を得た。師匠は、父の上司でもある安岡良亮である。安岡は土佐郷士の出身で文武に秀で、戊辰戦争では勇戦した。その安岡を頼って土佐から多くの若者が上京してきた。年長の土佐の若者にまじって小さな彦太郎も四書五経を学んだ。
「温和しいのう」
 安岡の見るところ彦太郎は見るからに骨相が悪く、見栄えがしなかった。極端に無口でもあり、可愛げがなかった。しかし物覚えは良いようであった。

 五箇条の御誓文が布告されたのは慶応四年三月十四日である。この簡明な短文は見事なまでに新政府の国是国策を表現していた。なかでも日本中を興奮せしめたのは「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」という第一項である。太政官は大真面目にその文言どおりのことをやろうとした。すでに徴士・貢士の制度が設けられている。これは全国各地から有為の人材を登用するための制度である。この制度に応ずるべく、日本各地の都鄙から自筆の建白書を懐中にした有志が陸続と東京に集まった。しかし、この制度は必ずしも成功しなかった。
 理想と現実の相違に太政官は当惑した。公議所では盛んに議論が行われたが、実行はまったく伴わなかった。実際問題として誰を登用し、どの意見を採用するか、結論が出ない。そもそも集議という仕組みに日本人の誰もが不慣れであった。とはいえ明治の黎明期に集議の努力が為されたことは記憶されるべきであろう。
 こうした新政府の為体に危機感を抱いたのは薩摩藩出身の大久保利通である。さし迫った外患がないから良いようなものの、公論だの、入れ札だの、公議政治だのというものを「妄議」と断じた。なにしろ議論ばかりで何も決まらず、新政府には予算もなく軍隊もない。
「公議所など、無用の論多く、未だ今日の御国体には適用し申すまじく候」
 大久保利通は木戸孝允や岩倉具視の同意を得、薩長連合による独裁を断行した。多少の摩擦は覚悟の上であった。一刻も早く国内を統一し、国家の基礎を確立せねばならない。以後、太政官政府は急速に藩閥専制化し、民主主義は後退した。廃藩置県などの国家統一事業が断行され、外国勢力に対抗するための国家体制が確立されていく。

 彦太郎は、政治に熱中するにはまだ幼すぎる。というより病弱な身体と向き合うだけで精一杯であった。頭痛と皮膚病は頑固に居座っていた。東京での新生活は少年にとって良いことばかりではない。又野村の生活は確かに貧しかったが、ひたすら母に甘えていることができ、生活は単調かつ平穏でストレスがなかった。東京では食べることも学ぶこともできたが、対人関係が頻繁になった。虚弱な少年は何をやっても人に負けた。そのため劣等感が大きくふくらんだ。
 さらに苦痛だったのは父の躾である。この時代の躾は厳しい。乱世の熱波は冷め切っておらず、東京の世情は物騒であった。往来の所々に死体が放置されていることさえ珍しくなかった。行き倒れ、強盗殺人の被害者、切腹した武士などがそのままの屍体をさらしている。
「見て参れ」
 行正は彦太郎に死体を見に行けと命じた。行正が特別に厳しいというわけではなく、武家の子弟教育としてごく普通に行なわれていたことである。真夜中に墓場へ行けとか、刑場のさらし首を見てこいとか、そういった試練を子どもに与え、その心胆を鍛えようというのである。彦太郎にはこれが何よりも苦痛であった。死者の眼がともすれば動いたように感じられ、今にも動き出すのではないかと思われた。死体の発する死臭も耐えがたかった。まともに嗅いでしまうと途端に脳髄に刺激が走り、両眼に涙が溢れた。できるだけ臭気を感じないように口呼吸をしながら近づく。後は一目散に逃げ帰った。駆けることは、病弱なこの少年にとって負担だったが、駆けずにはいられない。
「見て参りました」
 父に報告する。
「どんな様子であったか」
 父はすでに下見しているらしく、その様子を尋ねた。この質問は年端のいかない少年にはやや苛酷であろう。観察眼と記憶力と表現力はまだ充分に備わっていない。無口な彦太郎は返答ができず、ただモジモジした。頓知を利かせたり、ハッタリをかましたりするような才気はまだなかった。父は、彦太郎が嘘をついているとは思っていない。むしろ馬鹿正直であることを知っている。だが、このような応答ぶりでは真実の証明ができないであろう。
「もう一度いってこい」
 彦太郎は行かざるを得ない。別のある日、やはり彦太郎は死体を見にやらされた。切腹した武士の死体があるという。教えられたとおりに道を行くと、それらしき死体があった。すでに先客がいる。近所に住んでいる同年配の少年である。
「彦坊も来たの?」
「うん」
 物事に対する感受性は人それぞれに違う。彦太郎はすぐにでも逃げ帰りたいのに、その少年は死体のそばをなかなか離れない。それどころか棒きれを拾い上げると、武士の死体を突つきはじめ、ついには割られた腹の中に棒きれをつっこみ、内臓物をえぐり出そうとさえした。彦太郎の眼に腸らしき白い物体が見えた。彦太郎は反射的に向きをかえると駆けだした。後から足音がつけてくる。
(死人が生き返った)
 彦太郎は必死で駆けたが、手もなく追い越された。
「彦坊、遊ぼうぜ」
「あ、うん」
 心身ともに虚弱な彦太郎は自己主張ということがまったくできず、友だちに対してもきわめて従順だった。
 翌年、尾崎一家は番町に引っ越した。彦太郎は塾に通うことになった。高名な平田篤胤の開いた塾である。同年頃の友だちができたものの、彦太郎にとって友人関係は必ずしも快いものではなかった。体力に劣る彦太郎は何をして遊んでも一番に負けた。子どもたちの好奇心は彦太郎の顔貌を見逃すはずがなく、格好の標的になった。彦太郎は反っ歯がひどく、唇で前歯を隠すことができなかった。とびきり低い豚鼻も笑いの種になった。
「雨のしずくが鼻に入る」
 雨の日には必ず悪口を言われた。彦太郎は悪口を言われても言い返すことができず、無言で立ちすくんでしまう。友人たちの無邪気で残酷な仕打ちを、恥辱と感じてはいたが、為す術を知らなかった。本人よりもむしろ貞子が心配した。
「悪いことをしたねえ」
 時に母が彦太郎にあやまることがあった。なぜあやまるのか、彦太郎にはわからなかったが、母の優しさは感じた。彦太郎の不幸はすべて栄養不足のせいだと貞子は思っている。又野村の貧困が彦太郎をこのようにしてしまった。そう思うと不憫でもあり、口惜しくもあった。
 彦太郎の苦難は、塾への道中にもあった。通塾の途中に空き地があり、いつも五、六人の悪童たちがたむろしている。この悪童連中が、どういうわけか彦太郎を標的にして石を投げつけ、悪罵を放った。ほかの誰かが通りかかっても何もしないのに、彦太郎が通ると必ず襲撃した。彦太郎の見るからに弱々しい風貌が子供の本能的な嗜虐性を刺激するのかも知れなかった。彦太郎にはまったく身に覚えのないことである。相手が誰かも知らない。まったく理不尽であった。それでも自分の弱さをいやというほど知っている彦太郎には為す術がない。ものを言い返すことはおろか、眼で見返すことさえできず、ただノロノロと通り過ぎるだけだった。理由もなく人に嫌われるという経験は少年の心を苦しめた。
 そのせいかどうか彦太郎は勉強が好きであった。好きというより、勉強中こそもっとも安心できる時間だった。勉強中は誰からも馬鹿にされないし、ちょっかいも出されない。彦太郎の学問はよほど進んだ。しかし塾頭は見た目で人を判断する質の男だったから、彦太郎のことを頭から軽んじていた。誰にも注目されなかったが、彦太郎は確かに学んだ。

 黎明期の太政官政府を牛耳っていたのは薩長土肥四藩である。土佐出身の安岡良亮は順調に出世した。弾正少忠から集議院判官となり、明治四年八月には高崎県大参事となった。今でいえば県知事である。尾崎一家も高崎に移り、行正は学務や法務の仕事を担当した。
 あいかわらず卑弱な長男を父は心配していた。かねてより死体見物を彦太郎に課していたが、法務担当になったことを利用して、拷問や死刑の見学を彦太郎に命じた。当時はまだ諸制度が曖昧だったためにこんなことができたらしい。彦太郎はときに一人で、ときに友人と同伴で見学させられた。容疑者への拷問は酷烈を極めた。彦太郎はとても正視できない。容疑者が悲鳴をあげる度に彦太郎は身体をビクリとさせた。死刑は斬首である。首斬り役人という者がいて、首の皮一枚を残して首を下に落とさぬように斬ることを誇りとしていた。血しぶきが噴き出し、血の臭いが彦太郎の鼻孔に満ちた。吐き気がして、その後しばらくは何も食べられなくなる。
 このような躾に効果があるのか無いのかは不明だが、彦太郎に限っていえば効果は現われなかった。あいかわらず気弱で、臆病で、虚弱で、無口で、盲目的に従順で、ひたすら人に嫌われることをおそれた。この時代、男子たる者は立身出世することが人生の目的である。行正は幾度となく彦太郎を激励し、彦太郎自身もそうありたいと願った。だが、父の躾によって彦太郎の可能性が芽吹くことはなかった。
 高崎に英語を教える塾ができると、行正は彦太郎を通わせた。そこで彦太郎は初めて洋文に触れた。とはいえ、教えられていたのは変則的な英語だった。意味さえわかればよいという主義で、発音などは等閑視されていた。例えばtheという定冠詞をジでもザでもなく、トヒーと発音していた。重視されたのは英文読解であった。まるで漢文を読むように指先で一語一語なぞりながら先生の口述を生徒が復唱していく。
「はじめに彼等は塔にまで、彼等は彼等をして家に行かしめし前に」
 漢文と英文とは語順が似ている。漢文の素養があった当時の日本人は、これで充分に意味を解し得たらしい。その英語塾に輝くような美少年がいた。彦太郎はその美貌に驚き、かつ羨望した。
(自分もあのような顔になりたい)
 この美少年は新井領一郎といい、日本人として初めて日本製生糸をアメリカに輸出したことで名を残す。学友の美顔に憧れた彦太郎は、領一郎の様子を観察し、ひそかに顔の改良に取り組んだ。領一郎の口元はいつもキリッと結ばれている。それにひきかえ彦太郎は、ひどい反っ歯のために口を閉じることができない。精一杯に口を閉じても前歯がのぞいた。彦太郎は反っ歯を手で押し込んでみたがピクリともしない。やむなく上唇を手で引っ張り、反っ歯を隠してみた。思い切り伸ばせばなんとか前歯が隠れる。次いで、手を使わずに口を閉じられるように何度も練習した。やがて唇と舌と下あごを器用に動かして前歯を覆うことができるようになった。ぺちゃんこで上向きの鼻も何とかしたいと思った。領一郎の顔を思い浮かべながら鼻を指でつまみ上げ「高くなれかし」と念じた。また、領一郎の姿勢がいつも良いことに気づいた彦太郎は、それも真似ようとした。諸事万般に自信のない彦太郎は、いつも首を垂れてうつむいているのが常だった。姿勢の悪さを父や母から幾度となく叱られていたが、悪い姿勢は容易に直らなかった。
(どうすれば領ちゃんみたいになれるか)
 彦太郎は自発的に考え、工夫した。首や胸や腹をいろいろに動かして研究した結果、肋骨を持ち上げることによって自然と首筋が伸び、顎が引けることを発見した。
「この顔は作り物です。人間の顔というものは作り替えることの出来るものです」
 晩年の尾崎行雄の言葉である。不思議といえば不思議だが、彦太郎の健気な努力は数ヶ月で実を結んび、顔が変わった。鼻筋が通り、口元が結ばれた。姿勢も良くなった。おそらく第二次性徴期の肉体に内在する生命力が発現したのであろう。だが、彦太郎には奇跡に思えた。生まれてはじめて主体的に問題に取り組み、その努力が報われたという経験は、彦太郎にささやかな喜びと自信を与えた。はじめて味わう自己効力感であった。もちろん新井領一郎のような美少年になったわけではないが、見られる顔にはなった。劣等感の種の一端が取り除かれたことは確かである。

 太政官政府の人事異動はめまぐるしい。安岡良亮は半年もたたぬうちに度会県参事に任じられた。度会県は現在の三重県伊勢市を中心とする地域である。この異動に伴い尾崎一家も渡会県に移ることになった。引っ越しのため一ヶ月間の休暇を得た行正は、一家で湯治することに決めた。
(草津の湯に浸せば彦太郎の虚弱体質が少しは改善するのではないか)
 明治五年頃の草津温泉は江戸時代そのままの湯治場である。草津温泉の歴史は古い。江戸時代にはすでに湯治場として不動の地位を確保していた。江戸期を通じて年間一万人前後の入湯客があったとされ、六十軒ほどの湯治宿が建ち並んでいた。農耕社会の江戸期、農閑期に湯治することで人々は心身を休め、次なる農作業への鋭気を養った。湯治は年中行事でもあった。医療が未発達で、医師と占師が同等に扱われていたこの時代、重症患者が最後に頼るのは温泉であった。湯治客の三分の一ほどは癩病や梅毒などの重病者だったという。ちなみにベルツ博士が草津を訪れるのは明治十一年頃であり、「草津よいとこ一度はおいで」の歌詞で有名な草津節が流行するのは昭和二年のことである。
 草津温泉での日々は彦太郎にとって必ずしも安寧ではなかった。ものに怖じけやすい彦太郎は癩や梅毒の重症患者らの風貌に恐怖し、過敏に反応した。癩病も梅毒も細菌による感染症だが、その末期症状は実に凄惨なものである。神経麻痺などによって身体の萎縮や欠損が生じる。顔面神経の麻痺によって妖怪のような顔貌になっていたりする。歩行や直立が不自由なため、恰も妖怪のような動きになる。眼球や鼻がなかったり、指が異様に歪んでいたり、欠けていたりする。眼球があるかと思えば、瞳が白く濁っていて、しかもまばたきを全くしない。頭髪が不自然に抜け落ち、なかには頭蓋に穴が開いていることさえある。皮膚にはひどい発疹や分厚い瘡蓋が見られる。
 温泉街、宿の廊下、湯舟などでそういう重病者に会わない日はない。そのたびに彦太郎は過剰に反応した。怖さに我を失い、鼻のかけ落ちた癩病者をマジマジと見つめてしまったり、めざとく重病者を見つけると不器用にうつむいて早足で通り過ぎようとしたりした。その挙動には恐怖と嫌悪が露骨に現われていた。彦太郎の行動は病者たちを刺激するらしく、中には彦太郎を睨みつけてきたり、因縁をつけてくる者もいる。彦太郎は逃げ出さざるを得ない。
(こわい)
 そう思うと全身に悪寒が走った。せっかく少しは見られるようになってきた自分の顔が台無しになることを想像しては恐怖した。そんな彦太郎の様子を行正は見ている。
「彦太郎、熱の湯に入ってこい」
 熱の湯は、草津温泉の外湯の中でも最も熱いとされ、それだけに効能も強いと信じられていた。自然、症状の最も深刻な病者たちが集まっている。その湯に入ってこいと言うのである。
「草津に来て熱の湯に入らないなんて意気地なしですよ」
 たまたま部屋の片付けにきていた宿の女中が父に加勢した。彦太郎はトボトボと部屋を出た。熱の湯といっても掘っ立て小屋が建っているに過ぎず、往来から湯舟の様子が丸見えであった。彦太郎は恐ろしくて顔を上げることができない。足元だけをひたすらに見つめながら裸になり、湯舟に足を突っ込んだ。
(熱っ)
 彦太郎は反射的に足を引っ込めた。まだ小僧の彦太郎が易々と入れる温度ではない。その熱湯に癩や梅毒の末期患者たちは平然と浸かっている。すでに神経を冒され、なかば痛覚を失っているのであろう。怖さと熱さの挟み撃ちにあい、彦太郎は窮鼠と化した。再び足を湯舟に入れた。無数の熱針が皮膚に刺さったように感じる。
(早く帰りたい)
 その一心から彦太郎は熱さに耐えようとした。もはや凄惨な風貌の末期患者など眼中にない。彦太郎の心はすべて熱湯との闘いに向けられた。太極拳のようにゆっくりと動きながらなんとか腰まで浸かった。熱い、というより痛い。
(もうだめだ)
 跳び上がりたいところだが、あまりにも熱いためにゆっくりとしか動けない。苦渋の表情を浮かべる彦太郎を末期患者たちは横目で眺めた。その表情に悪意はなかった。彦太郎の肌にべったりとくっついた赤い発疹に同情したのかも知れない。ほんの数秒だが、彦太郎は確かに腰まで浸かって帰った。
 こんな調子で熱の湯には三度まで入った。苦難に満ちた湯治生活を送る彦太郎に草津の湯は思わぬ贈り物をくれた。頭痛と皮膚病が治ったのである。
(あれ?)
 気づいたときには完治していた。物心ついて以来、毎日のように彦太郎を苦しめ続けてきた頭蓋の痛みと皮膚の痒みがきれいに消えた。肉体的煩悶から解放されることによって、少年の若い精神はのびのびと伸長できるようになった。「憲政の神」は草津の湯から生まれたといえるかも知れない。
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