深淵卿第三章 山中の出会い
「お断り申し上げる」
厳然とした声音が、静かな和室に響いた。
上座にて、惚れ惚れするような正座を見せる初老の男だ。
一目で上等と分かる和装を普段着のように着こなしている。浮ついた様子は皆無で、静謐と厳粛が服を着ているかのよう。
中肉中背で特別体格が良いわけではないが、正座姿はまるで巨岩が鎮座しているかのような印象を相手に与える。
その雰囲気と、凪いだ湖面のような瞳、そして声音を向けられた相手の唾を飲み込む音がやたらと大きく響いた。
はたから見れば、完全に気を呑まれた人のそれだった。
歳だけを見るなら上座の男よりずっと上。同じく和装の白髪の老人は、その生きた歳月に見合うだけの威厳を秘めているようであったが、それでもなお初老の男を前にすると小さく見えた。
「理由を、お聞きしたい」
背筋に氷塊でも投げ込まれたような気持ちをグッと腹の底に落とし込んで、老人は眼光鋭く尋ねる。
「承知されているはず」
「馬鹿な」
端的に返った答えに、老人の心は怒りに染まった。気圧されていた心が燃料を投下されて気勢を取り戻す。
「大晴殿は、土御門の悲願をなんと心得るのか」
熱のこもった、震える声音。想いの深さ、否、重さがうかがえる。
だが、初老の、大晴と呼ばれた男の声音は、反比例するように冷気を帯び、やはり端的であった。
「悲願? 妄執の間違いでしょう」
「聞き捨てならんっ」
思わず片膝を立てて身を乗り出す老人に、大晴の気配が一瞬だけ膨れあがる。
「――お鎮まりください」
丁寧な言葉だ。声音も静かなまま。
だがしかし、効果はあった。頭に昇っていた血がすぅと引いていく感覚。
「……お見事な〝言霊〟ですな」
「失礼を」
ゆるりと小さく頭を下げる大晴に、老人は座り直しながらも苦虫を噛み潰したような顔付きになる。
「お止めください、大晴殿。主家の当主たる者が軽々しく頭を下げるなど」
「お言葉ですが、その括りは過去のものです」
「それだけのお力を軽々と示されてか? この私がなんの〝守り〟も用意していなかったとでも? 易々と突破され冷や汗が噴き出る思いですぞ」
だからこそ、と老人は本日来訪した目的――とある計画に対する大晴の賛同を得んと更に言い募ろうとするが……
「あえて、無礼な物言いをさせていただきますが」
「――っ」
老人の言葉を遮り、
「時代錯誤も甚だしい」
ばっさりと切り捨てた。老人が何かを言う前に、この時間そのものが無駄で無意味と告げるように明確な言葉を叩き込む。
「土御門の悲願? かつて政府より一族の受けた理不尽と屈辱? 馬鹿馬鹿しい。我等は全てを捨て、現代に生きている。土御門は、そう、既に滅んだのですよ」
「なんと言うことを!」
「貴殿の心裡、分からないではない。土御門の名に誇りを持ち、存続に尽力してくださっていることには感謝と感心を有しております」
「ならば!」
「しかし、この降って湧いたような力を当てに、今の太平に波紋を広げること、それ自体が誇りを穢すこととは思いませんか?」
「……資本主義の敗北者め。そこまで俗物に堕ちたか」
大晴の物言いに、とうとう老人の言葉から敬意が消えた。顔が真っ赤に染まっている。
「我等が力を取り戻したこと、それすなわち祖霊の遺志であると、なぜ分からぬ!」
「祖霊の遺志など、聞いた覚えがございませんので」
ブチッと何かが切れるような音は、老人の堪忍袋の緒が切れた音に違いない。
「姫ならば聞こえるであろうよ!!」
「まさか。そのような話は存じません」
「もうよい! 姫に会わせよ! 直接、私が説得する! あの方ならば分かってくださるはずだっ!!」
「まだ幼い娘に何を。傀儡にでもする気でしょうか?」
きっと、屋敷中に響いただろう老人の怒声を受けても柳に風と流し、逆に怒気を浴びせれば、老人はグッと奥歯を噛み締めて言葉に詰まる。
「娘に対する数々の展望、聞かせていただきましたが……」
特別な力と、一族の中で最も秀でた才能を有する大切な一人娘。
屋敷に来訪してより、老人がさも素晴らしい提案を持ってきたと言わんばかりに語ったその処遇と未来の在り方を思い出し、大晴は意識することもなく不可視の圧力を放った。
「聞くに堪えない。娘には近づかないでいただこう」
有無を言わせぬ。問答は無用。これは決定事項である。
言外に告げられたその意志は、不可視の力に乗って言葉よりも雄弁に老人へと突きつけられた。
これ以上、何を言っても無駄。
それを理解して、けれど納得はできず歯ぎしりし、老人は大晴に背を向けた。
「確かに、貴様等はもう土御門ではないようだ。あっていいはずがない。だが、土御門の系譜は滅びぬ。私が、我が一族がいる限りな!」
捨てゼリフのように吐き捨てて、老人は乱暴な足取りで部屋を出て行った。
その足音と、使用人が慌てた様子で見送りする音を耳にしつつ、大晴は深い溜息を吐いた。
「……まったく、厄介な」
その言葉は、どうにも老人に向けたものではないようだった。
両手を胸の前に、水をすくうように掌を上に向けて、そこへ視線を落としている。うっすらと見える淡い光。
今までも、感じることくらいはできたが、決して目に映るようなことはなかったそれが、今は、はっきりと見える。
「なぜ、今更……」
首を振り、再び嘆息。
大晴はしばらく何かを考え込んだ後、唐突にハッとした様子を見せ、時間を確認。これはいけない、と急ぎ気味に部屋の奥の押し入れから道具を取り出した。
四方三十センチくらいの方形の板と、その中心に円形の回転盤が乗った道具で、何やら漢字や線、北斗七星らしきものが書き込まれている。
それを、老人と話していた時よりも真剣な眼差しで操り始める大晴。
凄まじい集中力だった。回転盤を回す手は、いつの間にか再び淡い輝きを纏い、その瞳もまた、叡智の光を帯びているようだった。
厳かなる儀式の如き雰囲気。部屋の空気が緊迫している。
どれくらいそうしていたのか……
不意に、
「お父様?」
小鳥のさえずりのような可愛らしい声が、張り詰めた空気を払拭した。
幼さの宿る女の子の声。愛娘の声だ。
襖の向こうで、恐る恐るといった様子なのが手に取るように分かる。父親の邪魔をしていないかと不安なのだろう。
「陽晴、どうした? 入っておいで」
そろりと襖を開けて、小さな女の子が入ってきた。
年の頃は八、九歳頃。十には満たないだろう。身長も百三十には届かないくらい。
薄桃色の浴衣を着て、腰まである艶やかな黒髪をストレートに下ろしている。前髪がぱっつりと切り揃えられており、幼いながらも〝美しい〟と表現すべき容貌がよく見える。
「ご老公はお帰りになられたのですか?」
歳に似合わないしっかりとした言葉遣いだった。所作にも品があり、なおさら美しいという印象を与える。
自慢の娘だ。老人が〝姫〟と称しても――実際のところ、それは容姿以外の理由からだが――無理からぬことだ、なんて若干親馬鹿な内心を隠しつつ、大晴は頷いた。
「ああ。颯爽とね。いつまで経っても元気のよい方だ」
陽晴の形のよい眉が困ったように八の字になった。
「……お話の内容は」
「お前が気にすることではないよ」
「……」
如何にも納得いかないといった表情。親馬鹿を抜きにしても、聡明な子だと大晴は思う。おそらく、会談内容を察しているだろう。
「それとも、彼等の望む生き方をしたかったかい?」
「! ……いいえ。ご老公方には申し訳ありませんが、時代錯誤だと思います」
ふるふるっと心底嫌そうな雰囲気で首を振る陽晴だったが、「ですが……」と言葉を繋げる。
「一族に異変が起きているのは事実。わたくし達以外にも、〝帰還者〟の摩訶不思議や、バチカンでの事件など、世間を騒がせる異変は多くあります」
「何より、陽晴の直感かい?」
「……はい。このまま平穏に、とはいかないだろうと。ご老公方の切望だけでなく、何か、良くないことが起きそうな……」
その予感は、お父様もでは? と言いたげに、陽晴が視線を落とす。先程まで大晴が使っていた道具――式盤を見やる。一族が連綿と受け継いできた吉兆を占う道具だ。
フッと笑い、大晴は立ち上がった。
明言はせず、娘のサラサラな髪を撫でてすれ違うように廊下へ出る。
「お父様?」
トコトコと可愛らしい足音を立ててついてくる娘を、大晴は肩越しに振り返りながら片手で制した。
「私は行かねばならない」
「これからですか? どちらへ?」
「戦場だ。私の、戦場だ」
父親の鋭い視線に、その言葉に、陽晴の顔色が変わった。
知っていたから。父がこの顔をする時が、どんな時か。戦場が、何を指すのか。
「お、お待ちください、お父様! まさか、さっきの式占は!」
「心配しなくていい。悪い予兆はなかったよ」
「何を言ってるのですか! そう言って、つい先日も大敗を喫したではありませんか!」
「問題ない。今度は勝って帰ってくる」
この通り、手痛い敗北の結果を取り返す準備も万端だ。と懐からチラリと見せたのは大量の札だった。
しかし、だからこそ見逃せない! と陽晴は父親に飛びついた。
「行かせません! あの日、お母様がどれだけお嘆きになったか、お忘れですか!?」
「陽晴、これは藤原の男が避けては通れない戦いなんだよ。そして、その伴侶ともあれば理解してくれている。お前も、どうか分かっておくれ」
「分かりません!」
分かりたくもない! と言いたげに父親の道行きを妨げる陽晴だったが、どこからともなく現れた黒スーツの屈強な男達が「さぁ、お嬢様。こちらへ」「あまり御当主様を困らせてはいけませんよ?」となだめるように引き剥がしてしまう。
「くっ、こうなることを予測して!?」
「お父様は陽晴のことならなんでもお見通しさ」
どうあっても、大晴は戦場とやらへ行くつもりらしい。決意も覚悟も定まっているのだ。
「お父様ぁ!」
「止めても無駄だよ、陽晴。今日は格別の戦場だからね」
さっと背を向けて足早に去って行く父親の姿に、陽晴は黒スーツ達に阻まれながらも必死に手を伸ばした。
分かっている。止めても無駄だなんてことは。
自分が生まれる前から、父親はそうしてきたのだから。
今日のことも、その繰り返しの一つ。
けれど、娘として、幾度も幾度も打ちひしがれる父親の姿を見ているから。
そんな父親の姿を、もう見たくないから……
だから!
「もう、もうおやめくださいっ、お父様! どうか、どうかぁっ――」
「競馬に大金をつぎ込むのはおやめくださいーーーっ!!」
まどろんでいた陽晴の意識は、虚空に伸ばした手と共に覚醒した。
しばし、呆然と伸ばした先の手を見る。
先程までいた屋敷とは全く異なる景色が目に映る。
鬱蒼と生い茂った草木、うっすらと広がる霧に月明かり。薄いお尻の下の固い感触が地面に座り込んでいることを伝えてくる。
薄暗い山中だった。
「今のは……夢?」
ようやく、認識が現実に追いついてくる。
手を下ろす。夢の中で着ていたものとは異なる淡藤色の着物が視界に入った。土埃と草の汁などで薄汚れ、山中を随分と歩いたせいかくたびれている。
足袋もすっかり汚れてしまっていた。草履が健気にも未だ幼い足を守ってくれているのは不幸中の幸いというべきか。
「あの方は、わたくしのお父様? ……わたくしは、陽晴……藤原家の陽晴?」
確かめるように、呟く。途端に、コホッと咳き込んでしまった。体が思い出したように渇きを訴え、喉が引き攣るような感覚に襲われる。
無意識に手を彷徨わせると、コトリと何かを倒した。正体は、竹筒だった。木片の栓がされている。
これまた無意識のうちに手にとって、栓を乱暴に引き抜き、中身を煽った。頭の片隅に「はしたない!」と怒る自分の声が聞こえた気がしたが、今は甘露の如き水を味わうのに忙しい。
コクコクッと小さく喉を鳴らして、一息に飲み干す。
「ぷはっ、はぁはぁ……そう、そうでした。わたくしは疲れてしまって……」
喉が潤い、人心地がつけば、自然と現状を思い出す。
思い出せたことに、安堵する。
なぜなら、今の陽晴には大半の記憶がなかったから。そう、俗に言う記憶喪失だった。
気が付けば千本鳥居のただ中にいて、その時には自分がどこの誰なのか、なぜこんなところにいるのかも分からなかった。
「少しずつ、思い出せているのでしょうか?」
父親と思しき人との些細な想い出。いつの記憶かも分からない。
ただ、とりあえず威厳たっぷりな見た目に反して父親が割とダメな部類の大人であることだけは分かった。
何せ、仰々しくも占いを賭け事に全力で利用し、札束を懐に忍ばせ、何度負けても、妻に嘆かれ娘に懇願されても競馬場に走るのだ。
「確か……G1レースの日、でしたか? まったく、何が〝格別の戦場〟なのでしょう。いえ、確かに格別なのかもしれませんが……」
家の子細は思い出せないが、お金持ちであることは屋敷や衣装から分かる。なので、きっと家計にダメージを与えるような遊び方はしていないのだろうが、記憶の中の自分が必死に止めていたこと、当時のやるせない感情を思い出すと、たぶん、父親は常敗のギャンブラーなのではないだろうか。
損失故に、ではなく。毎度毎度敗北して打ちひしがれる情けないお父様を見たくないという娘の心情で止めていたように思う。
はぁ、と嘆息を一つ。しかし、少し思い出せたことで希望の光が胸の奥に灯る。
少なくとも、疲れ切った心身を叱咤し、現状に向き合う程度には。
そうすれば、途端に思い出す重要なこと。
「あ、そうでした……あの子は……」
周囲へキョロキョロと視線を巡らせるが、目当ての存在は見つけられなかった。
白い狐だ。
物心がつくかつかないかといった頃合いの朧気な記憶以外、何も覚えておらず、どこへ行けばいいかも分からなくて、不安と恐怖に苛まれながら途方に暮れていたところ、唐突に姿を見せたのが、その美しい白狐だった。
少し離れた場所からジッと見つめてくる白狐は、どこかへ誘おうとしているようだった。
普通なら恐くて動けなくなるところだが、陽晴は歩き出した。
藁にも縋る思いだったというのもあるが、白狐がどこか神聖な存在に感じられて、自分に害をなすようには思えなかったから、というのが一番の理由だろう。
もしかしたら、このまま自分を知る人のもとへ連れて行ってくれるかもしれない。
とも期待したのだが……
「お狐様、お狐様」
呼びかけるが、やはり姿は見えない。千本鳥居を抜けて山中へと分け入った頃、コォンコォンと励ますように響かせてくれていた鳴き声も返ってはこない。
虫の音も、そよ風が起こす葉擦れの音も、何も聞こえない。
圧倒的な静謐が、己を包み込んでいた。
「ぅ……」
意識すると途端に孤独感に苛まれた。真っ暗ではないが、それでも夜の山中だ。暗闇に底知れない恐怖を覚える。
不安が、一気に膨れあがった。
「お狐様……いないのですか? わたくしを、お見捨てになられたのですか?」
まるで捨て猫が温もりを求めて鳴くような声音だった。
と、その時。
ガサガサッ、ザリザリ。
「――ッ!?」
鼓膜を振るわせたのは、背後から聞こえる草木をかき分けるような音。土草を踏む音。
それが、近づいてくる。
恐怖に鼓動が跳ねた。ドクドクと血の流れる音がやたらと大きく聞こえる。
それでも、ここまで自分を案内するように同道してくれた白い狐かもしれないと思って、陽晴は勇気を振り絞り、声をかけようとした。
「お、お狐さま――」
ガサッ!? ガサガサガサガサガサガサッ!!
一気に加速する移動音。直感で分かった。自分の知る白狐ではない! と。
本能が逃走を選択する。だが、強ばった体は地面に縫い付けられたみたいに動かない。
できたのは、急迫する気配に「ヒッ」と悲鳴を上げるだけ。
そうして、狐とは似ても似つかない大きな影が飛び出してきて――
「ひっ、助けてっ」
「助けてくださぁいっ! 迷子なんですぅ!!」
お互いに、助けを求めた。
「え?」
「え?」
お互いに、目が点になる。
お互いに、見つめ合ったまま動かない。
じりじりと時間が流れて、その妙な緊張感に耐えられなくなったのか、陽晴の目元にじわりと涙が溜り出す。
「ひぅ……」
「あわわわっ、な、泣かないで! 怪しい人間じゃないよ!」
「……………………人間?」
「そこ疑う!? 泣くよ!? 人間だもの!」
静謐の山中に、実に騒がしい声が木霊した。
そのせいだろうか。夜の薄霧漂う山中の妖しい雰囲気が、まるで凡庸な日常の空気に押し流されたような気がした。
加えて、目の前であわあわと慌てふためく青年の瞳の中に、自分を案じる気持ちが確かに見えて、気が付けばほっと肩の力が抜けていた。不安と恐怖に押し潰されそうだった心が平静を取り戻している。
(なんだか……不思議な人……)
初対面で、年上で、異性だ。しかも、状況は不可解極まりなく、救助隊ならまだしも学生服の彼が偶然にも自分のところに来るなどおかしな話。客観的に考えれば、怪しいことこのうえない。
だからこそ、陽晴は自分があっさりと警戒心を解いたことが不思議だった。
不思議だったのだが……
「えっと、取り敢えずさ。大丈夫だから、な?」
自分が涙を引っ込めたことに、あからさまにホッとした様子を見せて、
「俺は修学旅行中に迷子になった間抜けな高校生だ。つまり、人間だよ。いや、ほんとモンスターでもお化けでもないからね? 影が薄いかもだけど、生き霊でもないから」
片膝を突いて視線の高さを合わせてくれて、陽晴を笑わせたいのか、道化を演じるようにオーバアクションでそんなことを言って、
「どういう状況なのか、ここがどこなのかも分かってないんだけど……」
かと思えば、ハッとするほど真っ直ぐな、力強い眼差しで、
「でもまぁ、何も問題はないよ。こう見えて、ちょっとヒーローやってるからさ」
絶対に見捨てない。お家に帰してあげるよ、と。
そう言って自信に満ち満ちた、からりと晴れた空のような笑みを浮かべた姿を見て、陽晴はただただ納得した。
ああ、この人はたぶん、きっと、本当にヒーローなんだ、と。根拠はないけれど、直感的にそう感じたのだ。
「わたくしを、守ってくださるのですか?」
「おう、たとえ相手が怪物でも、悪魔であってもな」
「対価を持ち合わせておりません」
「なに言ってんだ」
呆れたような表情がくすぐったい。
「気に入らなければ神さえ殺す魔王だって、子供は無条件に守るんだぞ?」
ならば、ヒーローが身命を賭さないはずがない。
陽晴は目をぱちくりと瞬かせた。例えとしてはよく分からない。けれど、あまりにも堂々と言い切るものだから、妙に納得してしまう。
素性も、力量も定かではないけれど、少なくとも、その言葉に嘘偽りはなく、この人は本気で自分を守ってくれるのだろう、と。
「お名前を、教えていただけますか?」
「おっと、悪い! 最初にそれだよな」
俺って奴は……とバツが悪そうに頭を掻く姿に、陽晴はとうとうくすりっと笑みを浮かべてしまった。それに、心から嬉しそうな笑みを返してくるものだから、なんだかやたらと気恥ずかしい。
「遠藤浩介だ」
それが、この先、陽晴が長く長く寄り添うことになる青年の名前だった。
噛み締めるように「遠藤さま……」と呟く。
一拍おいて、陽晴は不安に怯えていた子供とは思えないほど凛とした様子で襟を正した。
尻もちをついた姿から、ハッとするほど美しい正座へ。
着物の両袖を払う腕の動きは優雅の一言。
品に満ちた所作で膝の前に三つ指をつき、
「わたくしは、藤原陽晴と申します。どうぞよしなに」
深々と頭を下げた。
浩介がぽかんっとする。まさかの返礼である。こんな丁寧な挨拶は、某魔王の嫁~ズから指導を受けたラナが両親に結婚の挨拶をしたとき以外に見たことがない。
言動にしろ服装にしろ、良いところのお嬢さんかもしれないとは思っていたが……
とにもかくにも、一見すると小学校低学年くらいの少女に土下座で懇願させている高校生の図、に見えなくもない。
庶民の感覚的に耐え難い!
なので、
「ふぁ!?」
思わず抱き上げちゃう。たか~いたか~いをするように。
浩介から「あ……」と思わずやっちゃった感満載の声が漏れる。
ぽかんっとしていた陽晴の表情が、すぅと真顔になっていく。まだ十歳にも満たない少女とはいえ、園児ではないのだ。礼を尽くしたレディにする仕打ちではない。
「甚だ不本意です」
「はい……すみません……」
ぷら~んぷら~と手足を揺らしながらジト目で見下ろしてくる美貌の少女に、浩介はなぜか、魔王の正妻様が放つ威圧感を思い出し、冷や汗を噴き出しながら謝罪した。
ある意味、劇的とも言える出会いは、こうしてなんとも締まらない感じでひとまず幕を下ろしたのだった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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