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ありふれた職業で世界最強 作者:厨二好き/白米良

ありふれた番外編 世界のアビスゲート卿から

202/271

エミリー=グラントの回想

プロローグのシーンまでに何があったのか、回想的説明回です。

「どうして……どうしてあれが……なんで……」

 ぶつぶつと呟きながら、エミリー=グラントは大学の研究棟へと続く道を、カツカツと大きな音を立てて足早に歩いていた。その碧眼の瞳は目まぐるしく思考を巡らせているのか落ち着きなく泳ぎまわり、口元は内心の苛立ちと焦燥を示すように親指の爪をカリカリと忙しなく噛んでいる。

――エミリー=グラント

 金髪サイドテールと猫のような釣り目、そして白衣がトレードマークの少女。この英国でも有数の医薬関係の研究設備を持つパーシヴァル大学に、十一歳で入学を果たした天才にして、既にいくつもの評価の高い論文を発表している一流の研究者だ。

 入学した当初は、その年齢と試験の結果が飛びぬけていたが故に、多くの注目と、少なくないやっかみと、腫物に対するような扱いを受けていた。故に、まだ幼い彼女は、虚勢と意地と澄まし顔による防壁を張って、内心を表に出さない癖がついていた。

 そんな彼女であるから、今のように動揺や焦燥という内心を隠す余裕もない様子は珍しく、キャンパスにちらほらと見える学生の幾人かは、目をぱちくりとさせている。

 周囲の学生達の、不思議そうな、あるいは珍しそうな視線に、しかし、内心に没頭して全く気がついていないエミリーは、小さな女の子らしいポシェットから不意に響いたメロディにハッと我を取り戻した。

 サイドテールがふりんっとするのも気にせず立ち止まったエミリーは、パタパタと少し慌てつつポシェットを探り、目当てのスマホを取り出しだ。

「は、はい、エミリーです。先生、ですか?」
『ああ、私だよ、エミリー。今、どこにいる? まだ、家にいるかい? 今朝のニュースは見たかい?』

 普段は五十代にも似合わず好々爺とした雰囲気を漂わせる先生――レジナルド・ダウン教授が、先程までのエミリーと同じように、焦燥と困惑を綯い交ぜにしたような声音で矢継ぎ早に質問を口にした。

 ダウン教授は、このパーシヴァル大学の教授で、エミリーが所属する研究室の責任者だ。白髪交じりの短い黒髪に、少々横に広めの体、分厚い眼鏡、古びたキセルを愛用する見た目からして“教授”といった姿で、事実、このパーシヴァル大学で単に“教授”と言えば、大体の学生はダウン教授を思い浮かべる。

 それは、彼の見た目が“いかにも”というのもあるが、それ以上に、彼が教育者として非常に優れた存在だからだ。ダウン教授自身に大きな功績があるわけではないのだが、彼の教え子達の多くは、社会に大きな貢献をしてきた一流の研究者で、誰もが口を揃えて“レジナルド=ダウン教授こそ、自分の恩師である”と言う。

 学会において特に結果を残していなくとも、教授の地位と、研究室を与えられているという事実と、大学の教授会において、他の教授達の誰もが一目置いていることから、その教育者としての能力の高さは明白だろう。

「いえ、もうすぐ、研究室に着きます。先生は?」
『私も、もうすぐ研究室だ。その様子からすると、既にニュースは見たようだね?』
「はい、ヘドリック先輩やリシー先輩も一緒でした。二人は、他の先輩達と連絡を取っています。私は一足先に家を出ました」
『そうか……。では、みな研究室に来るのだね?』
「はい、ロド先輩達を迎えに行ったら、ヘドリック先輩達も直ぐに研究室の方へ来るそうです」
『分かった。では、詳しい話は研究室の方でしよう。……エミリー、済まない。きっと、とても不安だっただろう。学会の集まりがあったとはいえ、昨日は家に帰ってやれなくて済まなかった』

 ダウン教授の労わるような、心から気遣うような言葉に、エミリーの涙腺が一瞬で決壊しそうになる。

 エミリーの実家は、この大学からは随分と離れている。自分の夢を叶えるため、十一歳で、単身、両親のもとから旅立ち、大学の入学と同時に寮に入ったのだ。

 当初は、幼い天才少女に対する好奇の視線、心無い囁き、やっかみ、腫物に対するような扱いにも、「私、勉強しにきたんだし! 全然っ、平気だしっ」と虚勢と意地を張っていたエミリーだが、そんな少女の強がりが、家族と離れた寂しさが、大学と寮の往復だけをする孤独な毎日に疲弊した心が、そう長く保つわけもない。

 図抜けた頭脳を持つが故に、幼い頃から、周囲の過剰な期待や特別扱いにはある程度慣れてはいたが、そんな環境で心が歪がんでしまわないようにと、普通の子供と変わらない生活を心がけた両親の教育方針、そして深い愛情は、エミリーにごく普通の少女と同じ感性を育んでいた。

 だからこそ、ただお話するだけでなく、手元に残るものをと、一週間に一回は必ず届けられた両親の手紙だけを心の支えにしていたエミリーの限界は……近かった。

 そんな、幼い心が上げる悲鳴は、ある日、不意に止むことになった。

――良ければ、家にホームステイしないかい?

 そう声をかけた人こそ、ダウン教授だった。パーシヴァル大学最高の教育者と称さるだけはあって、彼の家は閑静な住宅街にある割と大き目の屋敷だ。早くに病気で妻を亡くし、子供にも恵まれなかったダウン教授は、だだっ広い家を一人で使うのは寂しいものだと苦笑いしながら、事情があって余り金銭的余裕がない学生を多くホームステイさせている。

 ちょうど部屋には空きがあり、当時、自分の講義に出席していた幼い研究者の卵が、今にも潰れそうになっているのを見ていられなかったダウン教授は、そう言ってエミリーに手を差し伸べたのである。

 家には沢山のお兄さんやお姉さんがいる。ホームステイというより、ほとんど家族のようなものだ。一緒にごはんを食べて、一緒に勉強をして、一緒に大学生らしい思い出を作ろう。

 ダウン教授のその言葉は、エミリーにとって何物にも代えがたい宝物となった。

『エミリー? どうした? 大丈夫かい?』
「……大丈夫です、先生。ありがとうございます」

 ホームステイを始めて四年。変わらず、今もこうして、まるで実の娘に対するように心を砕いてくれる。エミリーにとっては、もう一人の父親にも等しい。実の父親であるカール=グラントなどは、「父親役を取られてしまったっ」と素で悔しがるほどだ。

 今朝、ダウン教授の家で、ヘドリックやリシーと見た衝撃的なニュースに乱されていた心が、スッと落ち着いていくのが分かった。

 エミリーは心配するダウン教授にもう一度、大丈夫だと伝えて通話を切り、今度はしっかりとした足取りで研究室へと歩き出した。


~~~~~~~~~~~~


 パーシヴァル大学の敷地内にある大きな施設――研究施設C棟の一室に、重苦しい空気が漂っていた。

 この場にいるのは、この研究室の責任者であるダウン教授とエミリー、そして、エミリーと同じくダウン教授の家にホームステイしているダウン教室の学生――ヘドリック=ウェスク、リシー=アシュトン。加えて、同じダウン教室の学生であるロド=ハーストとデニス=リットンだ。

「ぐ、偶然だろ? な? そうだろ?」

 イケメンだが軽薄そうな雰囲気のロドが、珍しくも引き攣った表情で希望的観測を口にする。

 自称フェミニストな彼は、女の子とあらば声をかけずにはいられない見た目通りの性格をしているが、同時に教室のムードメイカーでもあって、こういう深刻な空気が流れたときは真っ先に軽口を叩いて場を和ませてくれるのだ。

 だが、そんな彼も、PCのディスプレイに流れるネットから拾ってきた今朝のニュースを見てしまっては、流石に常の軽口も精彩を欠くようだった。

「こんな現象を起こす“原因”が、そういくつもあると思うか? それもこのタイミングで?」

 眼鏡を中指でクイッと上げながら、デニスが苦い表情を隠しもせずに反論する。短く切り揃えた髪に、首元までしっかりとボタンを閉めたシャツ、そして眼鏡。見た目に反さずダウン教室一真面目な彼は、よくロドと売り言葉に買い言葉な口喧嘩をするが、今回の反論はいつもの戦争開始の合図とは明らかに異なっていた。

 それが分かるから、ロドも、デニスと同じような表情をして口を閉ざしてしまう。

「急激な筋肉の肥大化、異常な回復力、理性の感じられない言動……こんな症状を発症する病気も、薬も、僕は知らない。“あれ”を除いて……」

 ヘドリックの固い言葉に、傍らにいたエミリーがビクリッと体を震わせた。ヘドリックは、エミリーがダウン家に来る前からホームステイしていた先輩であり、家でも大学でも、エミリーを支えてくれる実の兄にも等しい存在だ。

 ヘドリックの方も、当初は、幼い天才少女にどう接すればいいのか分からなくて遠巻きにしていたのだが、ホームステイをきっかけにエミリーがその頭脳以外ではごく普通の感性を持つ女の子だと知って、それ以降は実の妹のように可愛がっている。

 エミリーが、単に“先輩”と口にするときは、イコールヘドリックのことであるというのは、ダウン教室のメンバーや親しい友人達の間では周知の事実だった。

 そんな、エミリーが心から慕い信頼する先輩の言葉に、“あれ”を生み出したエミリーは、まるで怯える子猫のように震えた。ヘドリックは、直ぐにそれに気が付いて、「ごめんね、エミリー。責めているわけじゃないよ」と優しい手つきでエミリーの頭を撫でる。

「バカリック。言葉に気を付けないさいよ。私の妹は繊細なんだからね」
「いや、リシー。別に君の妹じゃな――」
「シャラップ! というか、さっきから撫で過ぎよ! ほら、エミリー、お姉ちゃんのところにおいで?」

 大人しくヘドリックに撫でられるままだったエミリーを、がばちょ! と奪い取って自分の胸元に抱き寄せたリシーが、「大丈夫よ~、お姉ちゃんがついているからね~」と、まるで小さい子にするようにいい子いい子しながらエミリーを慰める。

 流石に、十六歳にもなってその扱いは恥ずかしくて、シリアスな雰囲気も忘れて「ちょっと、リシー姉! 子供扱いは止めってってば! 恥ずかしいでしょ!」と、エミリーはリシーの胸元から逃げ出す。

 長い赤髪をシュシュでまとめて肩から前にゆるりと垂らすリシーは、言動がきついところはあるものの、その実、非常に世話焼きで情に厚い女性だ。ヘドリックと同期で、同じころからダウン家にホームステイしており、実はヘドリックに恋心を持っている。

 当初は、なにかとエミリーを気遣うヘドリックのこともあって、エミリーとはギクシャクした関係だったのだが、エミリーの一生懸命自分の夢を追う姿に次第にほだされ、今ではすっかりエミリーのお姉さんだった。

 エミリーも、リシーの恋心は知っているので、時折「早く結婚しちゃえばいいのに」などとからかい気味に言ってやるのだが、その度に顔を真っ赤に染めてもじもじする姿は、同性であるエミリーをしてぐっとくるものがあるほど、可愛らしい女性だ。

 今や、白衣と並んでエミリーのトレードマークとなっているサイドテールも、誰にも言ったことはないが、リシーのような優しくて可愛い女性になりたいという願掛けから真似したものだったりする。ただ、まったく一緒というのは何だか恥ずかしいので、肩から前に垂らすのではなく、サイドテールにしているのだ。

 姉妹二人の掛け合いに少しだけ和んだ空気になった室内。それに微笑を浮かべたダウン教授は、こほんっと小さく咳払いをした。それだけで、エミリー達は直ぐに注目を集める。和気あいあいとしていても、彼等が敬愛するダウン教授の言葉を蔑ろにすることはない。彼の咳払いは、緩んだ意識を切り替える合図だ。

「ヘドリックの言う通り、人間をこのようにする現象は、他にはない。似たようなものはないこともないが、それでも、このような劇的な変化は――あり得ない。十中八九、これは【H3―α4】だ」

 ダウン教授は、そう断言しながら再び視線をディスプレイへと向けた。そこには、筋肉の鎧で覆われた巨躯の男が、理性の感じられない獣のような有様で大暴れしている姿が映し出されていた。

 その男は、制止する警官の声にもまるで反応を示さず、それどころから近くにあった街頭を体当たりでへし折るという信じられない行動を起こすと、折れた街頭を片手で振り回して取り囲む警察車両などをスクラップに変えていく。

 その暴挙に、警官達が一斉に発砲を始めたのだが、男は咆哮を上げると銃弾が体を穿つのも気にせず、発砲する警官に信じられない速度で突進し蹴散らしてしまった。殴られた警官が、冗談のように宙へ放物線を描く。まるで、B級映画のような光景だ。

 撮影者は偶然その場にいた通行者で、映像はスマホで撮影されたものらしく、警官が吹き飛んだあと一目散に逃げ出したため、映像は盛大にぶれている。やがて、十分な距離を取った撮影者は、しきりに「オーマイガッ」を繰り返しながら、再びスマホのカメラを現場へと向けた。

 そこかしこから悲鳴と怒号が上がり、警官達の必死の応戦の証である銃撃音が響き渡る中、やがて、その時はきた。

 突然、大暴れしていた男が立ち止まったかと思うと、まるで電池が切れたかのようにガクリッと膝をついたのだ。そして、騒然とする現場に、大男から首を絞められたかのようなか細い苦悶の声が上げられた。

 直後、大男に変化が現れる。鎧と見紛う筋肉が目に見えて収縮を始めたのだ。いや、それは、どちらかと言えば“萎れていく”と表現した方が適切かもしれない。大男は、唖然とする周囲の人々が注目する中、両手で顔を覆って苦悶に呻き、その身を普通の成人男性くらいに縮めると、小刻みに痙攣しながらその両手を離した。

 そこから覗いた男の顔は、今までの理性を失った凶相とは全く異なり、どこにでもいる平凡な、否、むしろ優しさすら感じさせる青年のものだった。その青年は、一瞬、泣きそうな表情になり――次の瞬間、再び苦悶の声を上げながら両手で顔を覆って倒れ込んでしまった。

 倒れ込んだ青年の体は、瞬く間に萎れて、水気を失い、深い皺が刻まれ、肉を失って皮と骨が浮きで始め、そうして、そのまま動かなくなった。

 警官達が互いに顔を見合わせ頷き合い、慎重に青年へと近寄っていく。そして、声をかけても反応がないことを確かめると、足で顔を覆ったまま硬直している青年の腕を払い、そして悲鳴を上げて後退った。

 それも仕方のないことだろう。さっき、一瞬覗いた青年の顔は、まるでミイラのように干からびて、見るも無残な有様へと成り果てていたのだから。

 ニュースは、この異常な事件を、新種の病原菌か、それともドラッグが原因かと深刻そうな表情で語っている。

「でも、でも先生。どうしてあれが外に……。そもそもあれの存在を知っているのは私達しか……データや、保管分にしたって分散して厳重に管理していたのに」

 エミリーの絞り出したような声音の疑問。それに、研究室のメンバーが考えないようにしていた事実が首をもたげる。

――【H3-α4】

 それは、エミリーの研究から偶然生み出された副産物である薬品の名前だ。

 エミリーの研究は、アルツハイマー病の特効薬を作ることにある。穏やかで優しく、大好きだったエミリーの祖母が少しずつ変わって行った原因であり、エミリーが僅か十一歳にして大学に入学を決意した理由であり、多くの研究者が未だ辿り着けていない領域の問題であり、エミリーのライフワークでもある。

 ダウン教授やヘドリック達研究生の協力を得て行っていたその研究は、死滅したニューロンの再生という点に主軸が置かれたものだ。過去にも多くの研究者が手を出してきた道筋でもある。

 その研究の過程で生まれたのが【H3-α4】だ。服用すれば、筋肉が崩壊と再生を繰り返して瞬く間に肥大化し、細胞の超活性によりあらゆる外傷を瞬時に回復させる。

 もちろん、デメリットはある。急激な肉体強化の代償として、理性と命を失うのである。少量の接種であれば、一週間から十日間くらいは保つだろうが、細胞が急激すぎる活性化に耐え切れず自壊する限界量ギリギリまで接種した場合は、前者に比べものにならない再生力を獲得する代わりに一時間と保たずに死亡する。

 エミリー達は当初、この【H3-α4】の劇的な効果に、あるいは特効薬への道が切り開けるかとも考えたが、急激過ぎる活性化も、理性の崩壊も止められず、凶暴化するラット達を見て、これは危険すぎると徹底的に秘匿することにした。

 データを分散し、薬品自体も偽装し、それぞれ別の場所に保管して、厳重な管理下においた。

 故に、薬品が盗まれるなど、あるはずがないのだ。そもそも、【H3-α4】の存在自体、知っている者はダウン教室のメンバーだけなのだから。今、ここにいるメンバーと、都合がつかず直ぐに集まれなかった幾人かのメンバーを除いて。

「……なぁ、ジェシカとサム、マイロはどうしたんだ? あいつらだってニュースは知っているはずだろ? なんで来ないんだ? もしかして、あいつら――」
「やめなさい、ロド。こんな状況で仲間を疑ってはいけないよ」

 ロドが、誰が意図的に避けていた“その可能性”を口にしかけるが、それをダウン教授が止めた。みなが不安そうな表情でダウン教授を見やる。

「可能性などいくらでもある。我々は“ダウン教室”だよ? エミリーの才覚は、この大学どころか学会にだって響いているし、私の自慢の教え子達が、みなとても優れていることは周知の事実だ。あるいは、他の何かを盗みに来た者が、偶然、【H3-α4】の存在を知って盗んだのかもしれないし、偶然、適当に盗んだものがそれだったのかもしれない。研究者たるもの、どんなことであれ可能性を蔑ろにしてはいけない」

 ダウン教授の言葉に、ロドはバツの悪そうな顔で頭を掻き、デニスが嫌味を口にして「あんだとぅ」とロドが反発する。しかし、その応酬はいつもの空気で、そこに疑心暗鬼が生まれたような気配はなかった。

「それで……先生。僕達、これからどうしたら……。やっぱり、警察に行った方がいいんでしょうか?」

 ヘドリックが話題を戻すようにダウン教授へ助言を求める。ダウン教授は、腕を組んで「うぅむ」と唸りながらしばらく考え込んだあと、やがて決然とした様子で顔を上げた。

「私の提案だが、取り敢えず、この件は秘匿しておくべきだと思う」
「警察に話さないんですか?」
「ああ。いや、いずれ必ず話さなければならないよ。しかし、今、優先すべきことは、一刻も早く【H3-α4】の対抗薬を作ることだと、私は思う。あのような尋常でない薬品について事情聴取となれば、相応の時間が取られてしまうだろう。その時間が惜しい」
「で、でも、先生。【H3-α4】は……」
「そうだね。確かに、活性化を止める術は見つかっていない……。しかし、いくつかまだ試していないアプローチがあったね。【H3-α4】の研究はデータも薬品も破棄しようという話も出ていたが、まずはそのアプローチを試してみてからでも遅くはないんじゃないだろうか? 流出してしまった以上、第二、第三の服用者が現れないとも限らない。そのとき、何らかの対抗薬のあるのとないのとでは、被害の大きさが変わって来る」

 ダウン教授の提案に、エミリーは研究データと薬品を一刻も早く全て破棄してしまいたい衝動を必死に抑え、ヘドリック達は「確かに、試してみてからでも……」と頷いている。

「エミリー。あれをさっさとこの世から無くしてしまいたい君の気持はよく分かる。私も同じだよ。だが、あれを生み出してしまった責任が、私達にはある。なら、恐怖に負けて全てを無くしてしまう前に、出来ることを、私達はするべきだ。違うかな?」
「……先生。はい、いえ、違わない、です。可能性はほとんどないと思いますけど……でも、試すだけなら……」

 エミリーの苦しそうな表情に、ダウン教授も表情を僅かに歪めて、いつもの優しい手つきでエミリーの頭を撫でた。

 結局、今後の方針として、流出してしまった【H3-α4】の対抗薬へのアプローチと、外部への秘匿、そしてここにいないダウン教室のメンバーへの口止めを決めて、ダウン教室のメンバーはそれぞれ自分に出来ることをと動き出すのだった。


~~~~~~~~~~~~~


「それで? そろそろ詳しいお話を伺いたいんですがねぇ。話してはもらえませんか?」

 ダウン教室のメンバーが薬の秘匿と研究の続行を決意した日の二日後の現在、エミリー達の前には、二人のスーツ姿の男がいた。二人は警官であり、二日前に起きた【ベルセルク事件】――【H3-α4】の服用者が起こした事件が、ニュースでそう呼ばれている――の捜査にやって来たのだ。

 警察が、何故たった二日でエミリー達のもとへ辿り着いたのかというと、なんでもたれ込みがあったのだそうで、エミリー達としては完全に予想外の突撃訪問だった。あの罪悪感すら覚えた決断はなんだったのか……

 エミリーは、助けを求めるようにダウン教授へ視線を向ける。ダウン教授は腕を組んだまま難しい表情をしていたが、

「別に、令状を取って例の薬品がないか、調べてもいいんですよ? 薬品が見つかった場合、まぁ、十中八九あると思いますが、このままだと、自分達の研究のために何の関係もない人々を巻き込んで実験したマッドな研究者として、先生方を逮捕することになりそうですが」
「冗談じゃないわ! そんなことするわけないでしょ!」

 警察官の言葉に、つい耐え切れなくなったエミリーが叫んでしまう。中年警察官の眼が一瞬、ギラリと輝いた。

「つまり、薬品が存在すること自体は認めるわけですな?」
「っ、そ、それは……」

 途端、しどろもどろになるエミリーに、傍らのダウン教授は仕方ないといった様子で首を振ると、【H3-α4】の存在を伝えた。盗まれたことと、対抗薬を作るのを急いでいて連絡しなかったのだということと一緒に。

「……その話が真実であるかどうかは、まぁ、署の方で詳しく話を聞いてから判断しましょうか」
「そうなると思ったから、通報しなかったんだ。刑事さん、無理を承知でお願いします。あと一週間だけでも待ってもらえませんか? 今行っているいくつかアプローチの、せめて途中結果が出るまでは。あるいは、対抗薬の可能性が出て来るかもしれない」
「あんまり無茶を言わんでくださいよ、先生。いくら貴方が地位も名誉もある大学の先生さんでもねぇ、多くの死傷者が出た事件の最重要参考人なんですよ? 被疑者どころか、容疑者とすら呼ばずに、任意での同行を願っている時点で、こちらがどれだけ配慮しているか察して欲しいもんですなぁ」
「それは……」

 ダウン教授が苦虫を百匹くらい噛み潰したような表情になる。そんなダウン教授の様子を見て、中年の警察官は何故か口元に薄っすらと笑みを浮かべた。そして、その視線を、ダウン教授の隣で不安そうに視線を彷徨わせているエミリーへと向け、この場でいいからエミリーとだけ話したいと言い出した。

 何故だと疑問を口にするダウン教授に、薬品開発の主軸である彼女の話を、保護者のない場所で聞きたいのだと、中年警察官は答える。

「私が……保護者がいては何か不都合でも?」
「逆に聞きますが、先生がついていないと不都合なことでも?」

 そんな返しをされては、自分達は薬品を盗まれただけだと主張しているダウン教授側からすれば断ることもできない。エミリーが気丈にも「大丈夫です、先生」と口にしたことからも、ダウン教授は心配そうではあったが従わざるを得なかった。

 ダウン教授が出て行った部屋で、エミリーと警察官二人が対面する。

「さて、ちょいと信じ難いんだが、お嬢ちゃんがあの怪物変身薬の開発者っていうのは本当か?」

 教授がいなくなった途端、さっきまでの一応は礼節を弁えた態度が綺麗に消え去り、いきなりよれよれのタバコを取り出しながら尋ねる中年の警察官。随分と後退してしまっている髪と緩んだネクタイ、よれたスーツ姿から、何とも人を不愉快にさせる。隣で大人しくメモを取っていた相棒と思われる少し若そうな見た目の男も、値踏みするような視線をエミリーへと向けていた。

 いきなり雰囲気の変わった二人に、エミリーは若干の恐怖を感じつつも、入学当初に否応なく身についてしまった虚勢が何とか平静を装わせる。

「そう、です。私が、開発しました。というか、偶然、できてしまった、というべきですけど」
「ふ~ん。びっくりだよねぇ。あんなのさ、まるっきり映画の世界じゃない? 本当に、人をあんな怪物にする薬があるなんて、長く刑事しているけど、聞いたこともない」
「……なにが、いいたいんですか?」

 何故か、ニヤニヤと笑う中年の警察官に、エミリー不快指数が急上昇していく。そんなエミリーの内心すら読み取って楽しんでいるのか、その警察官は次の瞬間、信じられないようなことを口にした。

「その薬のデータさ、全部、俺達に渡しな」
「は?」

 この人は何を言っているのだろうと、エミリーの目が点になる。そんなエミリーに「天才とか言われてる癖に察しの悪い奴だなぁ」となどと面倒そうに呟きつつ、中年の警察官は続けた。

「あんな異常で素敵な薬なら、欲しいって奴はいくらでもいるだろ。いい金になる。だから、データを全部渡せって言ってんだよ」
「なっ、なに言ってんの!? あなた、警察官でしょ!? 自分が何を言ってるか、分かっるの!?」
「ギャーギャーと煩いお嬢ちゃんだなぁ。長く警官なんてやってるとな、いろいろと美味しい話と巡り合うもんなんだよ。お嬢ちゃん、警察官の給料がいくらくらいか知ってるか? 笑えるぜ? あんなはした金で命かけてんだからよ。巡り合った金との縁は大事にしないとな。これくらいの役得は許されてしかるべきだろう?」

 そんなわけがない。警察官の給料事情など知らないが、それでも市民の保護と犯罪者の逮捕を使命とする彼等が、目の前の男達と皆同じであるはずがない。こいつらは、所謂、汚職警官とか悪徳警官とか言うやつだ! と、エミリーはドラマや映画の知識で彼等の正体を知った。

「許されるわけないじゃない。こ、このことは、他の警察の人に言うから! 薬のデータは、絶対に渡さないわ! さっさと帰りなさいよ!」

 バッと立ち上がって威嚇する猫のように目を釣り上げるエミリーに、中年の警察官は、まるで聞き分けのない子供を相手にするように肩を竦めた。

「じゃあ、先生さんや他の研究生達は、全員、傷害ないし殺人の罪あたりでしょっ引くかな」
「え……」
「言っただろう? どれだけ配慮しているか、察して欲しいもんだってな?」
「っ、ひ、卑怯者っ」

 言外に、ダウン教授やヘドリック達を冤罪で逮捕されたくなければ言うことを聞けと脅迫する中年の警察官に、エミリーは怒声を上げる。大切な、家族にも等しい大切な人達を人質に取った警察官の皮を被った悪人達に憎しみの感情すら湧き上がって来る。

 中年の警官は、エミリーの反応を意に介した様子もなく肩を竦めて流すと、話は終わったと立ち上がった。

「早めに決断してくれよ? 大事な家族か、それとも薬か、な?」
「……」

 何も言えないエミリーを置いて、警察官達は部屋を後にした。代わりに、心配そうな表情で入って来たのはダウン教授とヘドリック達だ。

 ダウン教授達はエミリーの尋常でない様子に気が付いて、何があったのかを問い質す。そうして、エミリーから返って来た答えに、愕然とした様子を見せた。

「なんだよ、なんなんだよ、それ! 警察だろ! なんで俺達が脅されなきゃなんねぇんだ! 意味が分かんねぇよ!」
「落ち着けよ、ロド」
「これが落ち着いてられるかよ! デニスっ、腹が立たねぇのか!?」
「立っているに決まっているだろ、馬鹿ロド。だが、俺達が冷静でなくてどうする。大事な妹分が脅されたのに、俺達がオロオロしていたら、それこそ相手の思うツボだろう」
「っ、それは、そう、だけどよ……」

 悔しそうに拳を震わせるロドと、溜息を吐きながらも内心の怒りを必死に抑えるデニス。

 警察から脅迫されるというまさかの事態に、ヘドリック達も動揺を隠せてはいない。そんな中、瞑目して思考を巡らせている様子だったダウン教授は口を開いた。

「このことを他の警察に伝えるという手もあるが……彼等の仲間がどれほどいるのか分からない現状では、良い手とは言えないね。最悪、我々だけ逮捕されてエミリーと引き離される可能性もある。今、エミリーを一人にするわけにはいかない」
「そう、ですね。でも、だとしたら、どうすれば……奴等、直ぐに返事を聞きに戻ってきますよ?」

 ヘドリックが悩まし気にダウン教授へ尋ねる。その答えを、流石は年の功というべきか、教授は持ち合わせているようだった。

「保安局に連絡を取ろう。今回の件がここまで露呈してしまっていては、もはや秘匿の云々のレベルではなくっている。【H3-α4】の危険性からすれば、保安局も動いてくれる可能性は高い」
「なるほど……。警察とは系統が違う。保安局の保護を受ければ、警察には手出しできない」

 ヘドリックが納得したように頷いた。リシーやデニス達も、もうその手しかないかと頷き合う。ただ、エミリーだけが難しい表情で俯いたままだった。

「エミリー、大丈夫よ。何があっても、私が、私達が絶対に何とかしてあげるから」
「リシー姉……うん、ありがとう」

 安心させるように自分を抱き締めるリシーの言葉に、エミリーは胸元へ顔を埋めながらお礼の言葉を返す。

 しかし、エミリーの胸に渦巻く不安は、信頼する姉の言葉に軽減されるどころか、ますます色濃くなっていくようだった。何か、もっと大きな、嫌な気配に纏わりつかれているような、致命的な何かがヒタヒタと足音を立てながら近寄ってきているような、そんな気がしてならない。

 その這い寄る不吉な予感が現実のものになることを、保安局へ連絡を取るダウン教授の背中を不安そうに見つめるエミリーは、まだ知らない。


いつも読んで下さりありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。

薬品の説明、もうちょっと調べてきちんとそれらしく書きたかったんですが……
無理でした。時間がねぇっす。マジで。来週の更新も危機的状況です。
なので、まぁ、外伝だし、ふわっとした説明でご勘弁を。

PS
オーバーラップ様のHPで、コミック第1話前編が更新されました。
やべぇっす。香織と雫が可愛すぎる。
まだ見てない人は、是非、ご覧になってみてください。

PS2
沢山のドンマイコメント、ありがとうございました。
おかげで、なんとか更新できました。
なろう読者様の、時折見せる謎の一体感が、白米は好きです。

次回の更新は、できれば土曜日の18時、です。
+注意+
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