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君がセックス・オン・ザ・ビーチを頼むなら、そこはエコール・ド・パリ
作:谷川修一郎


 中米の小国、ベリーズ生まれのアメリカ人、バネッサはほとんど完璧なプロポーションで、小麦色に焼けた肌が眩しいぐらいだった。周囲に見せ付けるかのように身体を揺らしながら歩く姿は、背景の黄金色のビーチやアクアマリン色の海と相まって、一枚の名画を思わせた。絵になる女性とは彼女のような人間を指すに違いない。
 ビキニから溢れそうな巨乳に見とれていると、ぼくの視線に気付いたバネッサが振り向く。サングラスの下の、きれいに並んだ歯が陽光に小さく煌いていた。
「パラソルの下で寝ているなんて退屈でしょう。少し泳がない?」
 流暢な日本語で彼女はそう言うと、ぼくの元へ歩み寄る。
 そして手を引かれるまま、ぼくはビーチパラソルの影から出て行くのだった。
 焼け付くほどの日差しが肌を突き刺していた。どうせパラソルの陰にいるのだからと、塗らなかった日焼け止めを今更になって悔やむ。明日の今頃はぼくの不健康なぐらいに蒼白な肌も、真っ赤に染まっていることに間違いはなさそうだった。
「エンドー、泳ぐぞ」
 気合十分といったように、バネッサは右手でガッツポーズを作る。
「サングラスつけたままじゃ泳げないだろ」
「あっ、忘れてた。でも大丈夫」
 彼女はサングラスをはずすと、それをビーチのほうへと放り投げたのだった。たしかにここいら一帯はぼくのプライベートビーチだから、盗まれる心配はないかもしれない。でも、壊れてしまうということは十分に考えられたはずだ。
 でも、彼女にとってそういった問題は本当に些細であったようで、すぐに沖のほうへ向かって泳ぎ始めてしまった。腰まで海水に浸かりながら、ぼくもゆっくりとそっちの方へ歩き始める。
 そういえば、東京の海はもっと濁っていて海底なんか見えなかった。砂の質が違うのかもしれないが、その海は透き通るほどの薄いマリンブルーで、波もそれほどなかった。サーフィンをするのには適さないかもしれないが、遊泳するにはもってこいだ。
 泳ぎのそれほど得意でないぼくは、先に進みつつあるバネッサへ向かって歩いていく。腰までだった海面が、いつの間にか肩まで上がってきていて、そろそろ歩くのは難しくなっていく。小波がたつたび顔面が海水にあたって、塩辛い味が口内を広がっていく。その味は東京の海ともそれほど変わらないような気がした。

 なんだかよく分からないうちに、トントン拍子でぼくは成功してしまったわけだけれど、今でも東京で暮らしていたときのことは思い出す。そして思い出すたびにうら寂しい気持ちになるのだった。わざわざ思い出さなければ良いのだが、千代子はふとした瞬間にぼくの心のうちに蘇って、自分のことを決して忘れるなとぼくに注意を促す。
 千代子は記憶力に長けた女性だった。一度会った人間の顔を忘れないぐらいのことは普通の人間にも出来ないことではないけれど、彼女はその人間の喋った言葉や仕草、いや、その状況そのものを映像のまま記憶することができた。
 だからといってその能力を何かに生かすということはしなかったようだけれど、何をするときにでもその能力は役に立つのだと言っていた。弊害を差し引いたとしても、十二分に便利であるらしい。だからこそ、彼女は物忘れの激しかったぼくにも、その超記憶術なるものを薦めるのだった。
「絶対に役に立つから」
 その言い方が気に入らなかった。うまい話には棘があるっていうのを、二年前にマルチまがい商法の勧誘で、ぼくは痛いほど味合わされていた。それにこの相対主義の時代に、絶対なんて言葉を用いるのは絶対に間違っている。一見矛盾に満ちているけれど、それはぼく自身の経験から導き出された真理でもあった。
 何度も薦められるものだから、ぼくもいい加減にうんざりしてきて、あるときそれを爆発させたのだった。あれは、確かエコール・ド・パリという洒落たバーのカウンター席に腰掛けて、ジン・トニックのグラスに手をかけているときのことだった。
 二杯目のセックス・オン・ザ・ビーチを空けようとしていた千代子は、ほの暗い照明の下でも分かるぐらい頬を桃色に染めていて、肩肘をついたまま顔だけこっちに向けて、得意げに超記憶術の利便性について語り始めようとしていた。その目は完全に据わっている。
「そんなに完璧に思い出す必要性って本当にあるのか?」
「少なくとも、思い出したいのに思い出せないだなんて歯痒い経験からは解放されるね」
「それは良いけれど、わざわざ細部まで思い出す必要はないと思う」
「周辺情報を君は軽視しすぎているのよ。何が重要で、何が重要でないのかなんて後にならないと分からないでしょ。それなら何もかもを憶えておいた方が安心、私はそう思うんだ」
 言いたいことは分かるのだが、ぼくは同意するのを拒み続けた。
「千代は損得勘定を意識しすぎだよ。何でもかんでも得をするために生きるっていうのは退屈だろ。幸せとか楽しさっていうのは、むしろ損とか消費の中にこそあるんだよ」
「それはそうかもしれないけど……」
 千代子が言い淀んだのを良いことに、ぼくは漬け込むように言い足すのだった。
「第一、思い出っていうのは美化するからこそ美しく思えるんだよ。ありのままをそのまま憶えていたら郷愁に浸るようなこともできやしない」
「思い出ねえ。たとえば、遠藤君は私が最初にあげたプレゼントのことを憶えている?」
「小さな星の柄が入ったグレーのハンカチだろ」
 付きあい始めてから最初の誕生日プレゼントに彼女が買ってくれたものだから、ぼくはそれをしっかりと憶えていた。勿体無いような気がして、最初に一度だけもって歩いたきり箪笥の上の段に閉まっていたけれど、その柄だって正確に思い出すことはできた。
 しかし、自信満々に答えたぼくを、寂しげに千代子は見ているのだった。 
「残念でした。それは二つ目のプレゼントです。正解は、お台場の公園で見つけた四つ葉のクローバー。ほら、お互いに渡しあったじゃない。嬉しかったんだよ、結構。でも、遠藤君は憶えていない」
 言われてから、その日のことをぼくはゆっくりと思い出していく。
 ああ、その通りだった。「これが最初のプレゼントだね」と自分で言ったのをぼくはその瞬間まで綺麗に忘れていたのだ。
「超記憶術を習得すれば、そういう些細な思い出でも忘れないで済むのに」
 ぼくが超記憶術セミナーに通ってみるのも良いかもしれないと思ったのはその時だったはずだ。後は本当にトントン拍子だった。何もかもが上手くいったはずだ。ただ一つ、千代子のことを除けば……。

「考えごと?」
 その声に、ぼくはゆっくりと目を開ける。どうやら肩まで海水に浸かったまま眠っていたらしい。目が冴えるほどの晴れ渡った空と、ぎらつく太陽が憎たらしかった。どうして彼らは肝心なときにぼくの目を覚まさせてはくれないのだろうか。
 見やるとバネッサは立ち泳ぎをしながら、心配げにぼくを眺めていた。千代子とは違って、ぼくと身長がほとんど変わらないのだから、わざわざ手足をばたつかせなくても海底に足が付きそうだが、彼女はそうしなかった。
「ああ、ごめん。何でもないんだ」
「クラゲにでも刺されたのかと思って心配しちゃったよ」
「えっ、クラゲなんていたの」
「まだ見てないけどね。ねえ、そろそろ上がらない?」
 海に入ったばっかりのような気もするけれど、それはきっと彼女の気遣いだったのだろう。そう思い、せっかくの善意に甘えることした。
「そうしよう」
 ビーチまで辿り着いてから改めて見たバネッサの肉体は、やはり美しかった。すらりと伸びた長い足、腹部にはくびれ、それから豊満な胸。千代子がどちらかといえば幼児体系で、美しいというよりは可愛らしいという身体をしていたのに比べると、バネッサの身体はギリシャの彫刻を思わせるような肉体美、力強さと美とを共存させた完璧なプロポーションを有していると言わざるをえない。見蕩れてしまうぐらいにそれは素晴らしいものだった。
 砂の上に放り投げたままのサングラスをひょいと拾い上げると、彼女は息を吹きかけて、それを自分の頭に乗っけた。
「壊れてなかった?」
 ぼくはそう訊いた。
「たぶん大丈夫だと思う」
 彼女は興味なさそうに答えると、ぼくに軽く接吻をしてからビーチパラソルの方へ走っていった。
 ビーチパラソルへと戻ると、ぼくらはレジャーシートの上に寝転んだまま、しばらくの間、海を眺めていた。陽のあたる穏やかな海というのは、あちこちで乱反射が起こっているせいで煌いて見えて、まるで満天の星空でも眺めているのではないかと錯覚を起こすぐらいの壮観だった。カメラでも持ってきていれば、その瞬間を永遠に切り取ることができるのに、とぼくは小さく悔やんでいた。
「ねえ、もしかして昔の恋人のことでも思い出しているの? ほら何て言ったっけ、ひよこ……じゃなくて、みよこ?」
 バネッサには妙に勘の良いところがあって、時々ぼくは肝を冷やされる。考えていることを分かりあえるっていうのは素晴らしいことなのかもしれないけれど、隠しておきたいことだってある。
「まさか。今のぼくは君に夢中なんだ。余計な心配しないで良いってば」
「それなら良いけれど」
 本当は話して欲しい、そう言いたげな寂しそうな眼差しがおそらくぼくに向けられていた。その目を見るのが嫌で、ぼくは海を、海の中にある光を見続けていた。そして海や光はどうしてもぼくに千代子を思い出させようとするのだった。

 千代子の死は、それなりに衝撃的だった。
 超記憶術を習得したばかりだったぼくは、まだその力をコントロールしきるには至らなかったおかげで、そのほとんど全ての瞬間を詳細に記憶してしまった。死に顔を頭の中から消しきることができず、そのおかげで四六時中、千代子の死とともに過ごすことを余儀なくされた。精神障害を負わされたのはその頃のことだ。
 ぼくにとって精神障害は一つの武器でもあったから、そのことに対して必要以上にネガティブな印象を抱いていないし、その経験のおかげで、超記憶術の悪い面とその克服の仕方が分かったのだから、むしろ感謝したいぐらいでもあったが、千代子の死だけはどうしても拭い去ることができないのだった。
 バネッサに出会ったのは、ちょうどその治療が終わった頃のことだった。
「ねえ、何しているの?」
「ちょっとしたトレーニングさ」
「ふうん」
 いつかは誰かに声をかけられるだろうとは思っていたが、それが警官の類ではなかったということに、ぼくはいささか驚いていた。その時にぼくがリハビリと称して行っていたのは、変動する株価の流動性をそのまま記憶して、そこからある種の法則なりを導き出せないかという実験だった。それと、永続的に数字を覚え続けるという作業が、苦々しい思い出の復元を妨げるという効果を持っていたという点も大きかった。
「そのトレーニングを続けたら、何になれるの?」
「君みたいな可愛らしい女の子の恋人になれたら良いと思っているよ」
 いや、何も本気でそんな歯の浮くようなことを言ったつもりはなかった。こんなことを言ったら、大抵の場合、馬鹿にされて「はい、さようなら」。それで終わるはずだった。邪魔者がいなくなれば、また数字との睨めっこを始められるだろう。そう思っていた。
 でもその子は、――バネッサは普通ではなかったのだ。何ていったって彼女はベリーズ生まれだ。中米のカリブ海に面した小国。日本ではあまりメディアにも取り上げられることがないから、ぼくにはその名前以外の何も分からないけれど、八歳までの人格形成期をそこで過ごしたバネッサを通して言うのならば、そこに住む人たちは変わり者ばっかりに違いがなかった。
「トレーニングの成果があったね。私はバネッサって言うの。よろしく」
 そしてぼくらはその場で固く握手をした。
 ぼくの人生におけるバネッサの比率が大きくなっていくのと同時に、投資家としての才能は花開いていった。五十万円からはじめたデイ・トレーディングは一月もたたないうちに百倍になって、半年で一千倍に膨れ上がった。数字はぼくの思うように動いていて、まるで世界中の動きが手に取るように分かるような、そんな気がしていた。
 怖くなるぐらいのトントン拍子。性悪きつねにつままれているような、そんな居心地の悪さを感じるようになってから、ぼくは太平洋に浮かぶ小さな島を買い取って、そこで静かにバネッサと二人きりで生きていこうと思うようになった。資産は腐るほどあったから、それを実行に移すのは容易かったが、実行した後の資産の使い道というのは、なかなか見つからなかった。ぼくらには海だけがあった。でも、その海は永遠の中にゆっくりと溶けていくのだ。太陽もビーチもバネッサも、何もかもがゆっくりと溶けて、それは一枚の横に長い板を作り始める。黒板だ。その前には、見覚えのあるスーツ姿の年寄りが立っていて、彼はぼくのことをじっと見詰めているのだった。
「それでは遠藤君。さっそく超記憶術の成果を披露していただこうと思うのだが、準備はよろしいかな」
 壇上の教授がそう言うと、セミナー参加者たちの視線が一斉にぼくの元へと集まる。
「はい」
 情けない声を発して、ぼくは席を立った。
「それでは、先ほど黒板に書いた十個の単語を発表してくれたまえ」
 もちろん書かれていた文字は教授の手によって綺麗に消し去られていた。ぼくは神経を集中させて、その言葉たちを物語のなかから拾い上げていく。
「上から順に、ベリーズ、巨乳、パラソル、ジン・トニック、クラゲ、ハンカチ、ギリシャ彫刻、カメラ、デイ・トレーディング、太平洋」
「ふむ、異論のあるものは?」
 セミナーの受講生たちは、みな一様にうんうんと頷いていた。
「よろしい。座りたまえ」
 教授は満面の笑みで拍手を始めたので、ぼくは安堵して着席をした。
「君らが体験したとおり、超記憶術はナラティブ、つまり物語を作ろうとする精神に直結させることで、記憶したい単語を強烈なイメージで脳内に結びつける。それは今までにあった絵画的な記憶術に比べて動的であり、より広範囲の記憶が可能になるだろう。簡単に言えば、言語的なイメージであるために、絵画では表しきれないような単語の記憶をも簡単に行うことができるということだ。諸君らはすでにそれを実感しているはずだ」
 二時間程度のセミナーの締めくくりに「想像力はどこまでも広がっているが、ときに現実を侵食しようと牙をむくこともある。それだけに気をつけていれば超記憶術は無敵だ」と教授は言って、部屋を出て行った。
 残された生徒らは、互いに声をかけあうこともせずに、そそくさと退室していく。ぼくは正体の分からない寂しさに打ちひしがれたまま、なかなか席を立つことができない。バネッサは本当に存在しないのだろうか。ぼくらが一緒に過ごした時間は夢幻でしかなかったのだろうか。この記憶は偽者なのだろうか。
 仮にバネッサが架空の人物であるとして、千代子はどうなのだろう。彼女もまた空想上の人物ではないのだろうか。いや、そんなことはないだろう。焦燥しきった手つきで、ぼくは携帯電話のメモリーの中から彼女の名前を探した。
 それは見つかった。でも存在しているからといって、生存しているとは限らないのだった。ぼくの脳裏には彼女の死に顔のイメージがまだ残っているのだ。
 通話ボタンを押して、コール音を数える。一つ、二つ、三つと鳴るあいだ、冷や汗をかきながら、ぼくは祈り続けた。お願いだから出てくれ。声を聞かせてくれ、と。
 七コール目で回線が通じた。
「もしもし?」
 ひどく懐かしい声が聞こえて、ぼくの身体からは力という力が抜け落ちていった。
「あ、ぼくだけど、今忙しいかな」
「え、どちらさまですか?」
 怪訝そうな声にぼくは戸惑う。こんなことは一度も無かった。いつもなら「ぼくです」という前に「あ、遠藤君だ」と間の抜けた声が聞こえるはずだったのだから。
「遠藤です」
「あ、遠藤君だ」
 やっといつもの調子に戻った。ぼくはそう思った。次の言葉を聞くまでのちょっとした間に。彼女が付け加えた言葉は、本当に信じがたいものだった。
「久しぶりだね。今何しているんだっけ」
 疑問符が次々に浮上する。
 超記憶術セミナーのことを教えてくれたのは千代子だったはずだ。でも、あのときにエコール・ド・パリでぼくが飲んでいたのはジン・トニックだった。そしてジン・トニックというのは、さきほどのセミナーで教授が黒板に記した言葉のうちの一つだ。
 色々なことを一つに結び付けて、ぼくは結論に達した。
 ぼくと千代子は恋人でもなんでもなくて、高校卒業以来一度も会うことが無かった、ただの友達だったのだ。密かに抱いていた恋心も明かすことが出来ないまま時間ばかりが経っていた。何度かは電話をかけようと通話ボタンに指を乗っけるところまではいったけれど、結局それも叶わなかったのだ。
 それがよりにもよってこんなシチュエーションの中で叶うだなんて。いったい、どんな話をすれば良いというのだろうか。
「もしもし? 電波悪いのかな? 遠藤君、聞こえてる?」
「あ、ごめん。ちょっと懐かしくなっちゃってさ。ぼくは元気にやっているよ。去年の春からはIT関連の企業で働いているんだ。千代……山村さんは何やってるの?」
「千代で良いって。私はアパレルだよ。婦人服売り場でがんばってます。ねえ遠藤君、今日は忙しい? これから久しぶりに会って話そうよ。近所に良い店があるんだ」
「オーケー。構わないよ。それで、どこに行けば良いんだろう」
「東池袋に来て。少し用事があるから五時ぐらいで良いかな」
「もちろん」
「それじゃ、また後で」
 そしてぼくらはどちらからともなく通話を切った。トントン拍子に話は決まったけれど、今度は嫌な予感が少しもなかった。とても晴れやかな気分だ。一つだけ気にかかる点があるとするなら、東池袋という地名だ。そこにはエコール・ド・パリという洒落たバーがあるはずだった。彼女がセックス・オンザ・ビーチを頼もうとしたら、ぼくはジン・トニックを止めて、何か違う種類の酒を頼もうと思う。例えばロングアイランド・アイスティーのような。
 土産には四葉のクローバーを持っていこう。そう思った。


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