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  孤高の天才 作者:深水晶
第一部 嵐の予兆
第十八話 歌姫
 さて、これで研究室内の問題は大方片付いただろう。後は部長と、ロルフの件だ。アンリについては自力で戻って来てからで良い。事前に何があったのかは、誰かに聞いておいた方が良いが……。
「ああ、すまない。リカルド」
「え?」
「アンリが何故、部屋を出て行ったのか、君は知っているかね?」
「あぁ、それは、ま、いつも通りです。シエラの逆鱗に触れて、脅えたアンリが泣きながら逃げ出したんです。詳しいやり取りは聞いてなかったんで、良く判らなかったんですが、シエラの機嫌さえよければ特に問題ないと思いますよ。室長から何を言われたか知らないけど、あいつえらくご機嫌だし」
 にやっと笑って言うリカルドに、
「たぶん期待に添えるような事は何も言っていないぞ?」
 と、私が言うと、
「室長が堅物で身持ちが堅いのは、良く知ってます。できることなら、室長が女を口説くところを一度で良いから、拝見したいと思ってますがね?」
「あまり面白いものではないと思うぞ」
「滅多に見られるものじゃないから、価値があるんですよ。今だから言いますけど、俺、室長の殴り合いの噂聞きた時、何故寮に入らなかったんだろうと、ちょっと悔しく思いましたし。正直、今度はいつお目にかけさせてもらえるか、判りませんからね」
「……悪い趣味だな」
「やだな、室長。ちゃんと見るだけじゃなく仲裁もしますよ。部下の義務ですから」
「……それは義務なのか?」
「やだなぁ、室長。野次馬はついでで、仲裁が本分ですよ。当たり前じゃないですか。上司の殴り合いの喧嘩を黙って見てるなんて、部下の風上にも置けません」
「そうなのか。しかし、二度とそういう事はないと思う」
「それを聞いて安心しました。室長のために、二人寝のベッドを諦めねばならないかと、案じてました」
 と、悪戯っぽい口調と顔つきで言われた。
「心配かけてすまなかった」
「いいえ。一時期はどうなる事かと思いましたが。そうそう、さっき、カースが室長を迎えに飛び出して行った時の顔ですけどね、本人には言えませんが、見物でした」
「……え?」
「真っ青になってましたよ。あいつ、結構可愛いとこありますね。室長のこと、好きで好きで、たまらないんですよ」
「……そうかね?」
「そうですよ。じゃなきゃ、あんなに血相変えたりしません。室長は老若男女問わずもてて大変ですね。俺もちょっと見習いたいです」
「私は別にもてたことは一度もないぞ?」
「それもまた、室長の興味深い点の一つですがね。人間、理解し難いものを見ると、惹かれるか、反発するかいずれかの反応をするもんですよ。良ければ神秘的、悪きゃ不気味ってね」
「ほう、そういうものか」
「いや、室長本人の話なんですがね?」
「……え? 私か?」
 リカルドはくすくすと笑った。
「室長は色々と謎の多い人で、前々から噂と逸話に事欠かないですからね。真偽のほどはともかく」
「初耳だな」
「そりゃ勿論です。皆室長のいないところで話してますから。俺、こんなの以前聞きましたよ。室長が巨万の富を後継した財閥の一人息子だとか」
 私は苦笑した。巨万の富は大袈裟だ。
「あと、傑作なのがこれですよ。室長の母親は、かつて絶世の美女とうたわれた歌姫だった」
 その瞬間、表情が固くなったのを自覚した。
「……え、室長?」
「ああ、いや、なんでもない。絶世の美女で歌姫か。奇妙な噂が出回るものだな?」
「ん……、まぁ、そうですね。俺も聞いた時は吹き出しちゃいました。もっとすごいのもありますが、聞きますか?」
「いや、もう良い。食傷気味だ」
「そうですね。いや、噂って恐いもんだと思いました。何の信憑性もない話が、ほとんど事実のように語られてるんですから。いい加減なものです」
「そうだな、私もまったくそう思う」
 答えながら、動揺している自分に、密かに驚いていた。根も葉もない噂話だ。眉唾だと思う。突拍子もない。絶世の美女とか歌姫とか。一体どこから出て来たのだろうと思う。どうせ面白半分だろうが。
 しかし、私はそれを、いつまでたっても忘れる事ができなかった。


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