ルカはあわててクラリスの口を手でふさぎ、息を殺しながら後ろをふりかえる。
ルカたちのいる野原の後ろは、背の高い木々が茂っている。その茂みから、わずかにカサカサと音がする。
(魔物か……?)
ルカはとっさに思案したが、森の茂みから喉を焼くような魔物の瘴気は感じられない。ルカは焚き火を消そうか迷ったが、火はそのままにしておいた。
ルカは焚き火から枝を一本とりだした。それは先がこうこうと燃えていて、ちょうど松明の替わりになってくれる。それから同じく困惑するクラリスの手を引いて、ルカは火の明かりを頼りに、森の茂みの中に首をつっこんでみた。
「な、何かありましたか」
クラリスは声をふるわせながら、不安そうにルカにつぶやく。
ルカは夜目をこらして森の中を注視する。茂みの裏は、森の小道が左右にのびていた。その小道は森の中の遊歩道のようだが、背の高い木々にまんまと月明かりがさえぎられて、今はまっ暗な獣道と化している。
ルカは左右に首をふって暗闇を見わたしてみたが、魔物どころか小動物の一匹も見つけられなかった。
「中には何もいないな。野うさぎか何かが、このあたりを通ったんだろう」
ルカは安堵のため息をついて、森の茂みの中へ入った。だれもいないと思っていたから、ルカの身体は木の枝に強くあたってガサガサと大きな音をたてた。
その音に反応するように、ルカの左手にのびる小道の奥からと茂みのゆれる音が返ってきた。その突然の音に、ルカの心臓が思わず止まりそうになる。
夜の森の奥を、わずかに黒い影が動いている。それは、よく注意して見ないとわからない影だったが、どことなく人の形をしているように思える。人らしき影はルカから逃げるように、そそくさと遠ざかっていく。
「そこの貴様ら! 待て!」
夜の森の中で人目を気にする者といえば、盗賊や物とりか。ルカは考えるよりも早く、大声で影を一喝した。だが、待てと言ってほんとうに待ってくれる悪党なんて、いやしない。
ルカは走りながら、首もとのアミュレットをはずして右手にくるんだ。それから、アミュレットを持たない左手を前に出して上体を右にくねらせる。左右の腕を水平に上げて、弓を射る姿勢をつくった。
「アロー!」
ルカは後ろにまわした右手で矢のシジル(印)を描くと、長い白銀の矢があらわれた。そして聖印術の矢を、ルカは勢いよく放った。
「ギャッ!」
光の矢を放ってひと呼吸おいた後に、男の悲鳴が返ってきた。どうやら、ルカの放った矢が見事に命中したようだ。ルカは、後ろから必死になって駆けるクラリスを忘れて、黒い人影のもとへ走っていった。
少し走った先に、黒い男がうつ伏せに横たわっていた。男の背には、ルカの放った銀の矢が突き刺さっている。男は全身を黒づくめにしていて、黒子のようないかにも怪しい恰好をしていた。
うつ伏せに倒れる男の先には、同じく黒子が三人立っていた。彼らはそわそわと浮き足だっていて、ルカの思わぬ奇襲に動揺しているのがわかった。
彼らは一様に目立たない恰好をしているから、どこかの国の間諜かと、ルカは思った。それならば、何も言わずに見逃してやろうかと思ったが、中央に立っている黒子の肩に青の裾の長いスカートをはいた人間の尻が見えて、ルカは目を険しく細めた。
「貴様ら、人さらいか? いつもだったら見ないふりをしてやるところだが、わかってしまった以上、見逃してやるわけにはいかんな」
ルカは言ってから、腰のパラッシュの柄に手をあてた。それに反応するように、三人の黒子たちもやがて身を落ち着かせて、ゆっくりと腰を降ろした。
ルカと黒子たちは、ピリピリと緊張する。黒子たちの実力はわからないが、三対一なら確実にルカが不利だ。ルカは虚勢を保ちながら、静かに額から汗をたらした。
と、ちょうどそのとき、
「キャッ! ど、どなたですか!?」
後ろから追ってきたクラリスが、思わず声をあげた。クラリスはほんとうに驚いていたのだろう。彼女の奇声が夜の森の中にこだました。
人間を担いだ中央の黒子は、やがて舌打ちして肩の人間を前へと放った。それから、左右の仲間と目配せして、じりじりと後ずさりし始めた。
「ど、どこへ行かれるのですか!?」
クラリスはいちいち悲鳴をあげるが、ルカは右手を出してそれを制した。そして、ルカは顎を一回前へ出して、黒子たちに逃げるように指示した。黒子たちはルカに戦意がないことを知ると、そそくさと森の奥へと消えていった。
ルカは、不気味な黒子たちをやりすごして、背中から冷や汗がつたうのを感じた。あそこでクラリスが駆けつけていなかったらと思うと、ルカは自身の迂闊さを悔やまずにはいられない。
ルカは頭をふって頭のモヤモヤをふり払う。それから何も手にしていない左手を見て、火を途中で落としていたことにやっと気づいた。
ルカの踏む地面は、左右からのびる木の枝の隙間から月光が差していて、わずかにあたりを視認することができる。ルカはしゃがんで、足もとで気絶している二人の人間に目をむけた。
左側でうつ伏せになって気絶しているのは、例の黒子のひとりだった。この男の様子は、全身を黒い布で隠しているとしか言いようがない。
ルカは、男に失礼してその頭にかぶっている頭巾をそっと脱がせてみたが、出てきた顔は実に脂っこい男の顔だった。黒い顔にシワが少し見えることから、二十代、また三十代の男だと、ルカは思った。
次に、その横であお向けに倒れている人間の顔をのぞいてみた。その男は白い頬に長い髪を肩までのばしている。そして、全身を丈の長い青のローブでくるんでいた。先ほどは青いスカートをはいた女性だとルカは思ったが、どうやら違うようだった。
「どこかの貴族様でしょうか」
クラリスがルカの横から顔をのぞかせる。青いローブの男は、すやすやと寝息をついている。
ルカは、その青いローブの裾をつまんで、軽くさすってみる。肌触りのよい絹の感触が、ルカの親指と人さし指につたわる。
「おそらく、そうだろうな。ぱっと見た印象は私たちよりいくつか年上のようだが、成人した騎士が人さらいに誘拐されるとはな。このあたりは、そんなに治安が悪いのか」
「治安ですか?」
「……先ほどの黒ずくめの連中は、きっと異民族たちだ。異民族たちに騎士が連れ去られるのは、よほどのことだ。黒ずくめの連中は、どうやってこの騎士を城外まで連れ出したんだ?」
それから、ルカは気絶する騎士の頬を何度か叩いてみる。だが、騎士はよほどうまく気絶させられたのか、少し叩いたくらいで目を覚ます気配はなかった。
「ここに放置したら身体を冷してしまう。仕方がない。焚き火のところで気がつくまで休ませよう。クラリス、この男を運ぶから手伝っ……」
言いながら、ルカは返事するクラリスの方をふり返って、不意に言葉を止めた。
きょとんとするクラリスの少し先の暗がりに、大きくまっ黒な影がいた。それは、大きな体躯からすらっと長い首と前足を伸ばしている。ひときわ大きな、馬の形。
夜風の寒い空気が吹いて、影は太い首をふりながらいななく。その声は太く、稲妻が落ちたような轟音に似ていた。
馬の首の後ろに、もうひとつ伸びる影があった。それは長い馬の首に負けないほどの背丈で、身体の線も熊のように大きい。
彼は馬の手づなをにぎって、悠然とたたずんでいる。その荒々しく強そうな身体とは裏腹に、相手はとても落ち着いていて、ルカたちに襲いかかってくる様子はない。覇気や殺気がみじんも感じられなかった。
(何者なんだ?)
ルカが固唾を飲んでいるところに、頭上から月光が差した。光に照らされた馬の身体は白く、神々しい毛並みにおおわれている。ディオーネ王国各地でもめったにお目にかかれない、見事な白馬だった。
そして馬に乗る男は、金色の長い髪を夜風になびかせている。だがその髪は長さが不均等で、あまり優雅なふんいきではない。男の服の色も妙で、男の右側半分だけがまっ白だった。
口に手をあててすくみ上がるクラリスの横で、ルカは静かにパラッシュの柄をにぎりなおした。それから一歩、二歩と少しずつ歩みよっていったが、相手の男はルカの殺気に気づいたのか、やがて踵を返して悠然と去っていった。
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