ルカは冷える身体をかかえながら、ぐったりとした様子で屋敷へ戻った。
(精霊の専門家というべき宮廷魔術師が、安い挑発にはまるとはな)
ルカは自身の思わぬ愚かしさに、ふり上げた拳の降ろす場所をなくしていた。
そして、クラリスの部屋へ戻ってみると、ベッドに茫然と座っているクラリスがいた。クラリスは青白い顔でうつむいていて、とても話ができなさそうだった。
ルカはめずらしく口どもった。
「も、申しわけないが、死霊の騎士は取り逃がしてしまった。だが、安心してくれ。やつが襲ってくることは、もうないから……」
ルカは慣れない言葉でなぐさめてみるものの、クラリスは聞こえていないのか、その言葉に反応しない。クラリスの身体から、魂がぬけかかっているように思えた。
ルカはさらに大きくため息をついて、重い足を引きずって退室しようとした。
「ま、待って下さい!」
後ろからいきなりルカを呼ぶ声がした。後ろの、クラリスのその声はとてもふるえていて、聞いているだけで涙がまざっているのがわかった。ルカがふり向いてみると、クラリスは目にいっぱいの涙をためていた。
「私を独りにしないで……お願い」
「わかったよっ」
ルカはそっけなく許してやるしかなかった。
一方、寝室へ帰ったアマルガンは、全身にこみあがった怒りをおさえられずにいた。さっきの死霊の騎士の出現とブラモアの弱音を聞いて、胸のあたりのムカムカが今にも出てきてしまいそうだった。
アマルガンはとなりで熟睡するグレースとレイチェルの寝息を聞きながら、ベッドの上で何度も寝返りをうった。
それから、いつごろからか意識がなくなって、アマルガンはふと小鳥のさえずりを聞いて目を覚ました。あんなに寝苦しかったのに、いつに寝たのだろうかと、アマルガンは明るい窓を見ながら不思議に思った。
(喉がかわいたな)
そう思って、アマルガンは目の下にくまをつけながらキッチンへ降りた。
「アマルガン様。おはようございます」
夜明けの朝早い時間なのに、キッチンでは早くもコックや召使いたちが朝食の用意をしている。彼らは主人の気苦労なんてつゆ知らず、自分のかかえる仕事だけをまっとうにこなしていた。
「すまないが、水を一杯くれないか?」
「かしこまりました」
アマルガンが召使いのひとりをつかまえて水を頼むと、その男はすぐに走っていってコップに水を注いできてくれた。
アマルガンは、グイっと水を一気に飲み干す。すると、寝不足でいがいがする喉もとが、いくらか潤ったような気がした。
気分が落ち着いてきたので、アマルガンはそのままキッチンを後にしようとしたが、ふとテーブルの上に置かれた豆のスープに目が止まった。
あたりがすっかり明るくなってきたころに、次男のアゼルがダイニングにあらわれた。そして、朝早くに椅子に腰かけて、帳簿をながめているアマルガンを見て言った。
「あれ? 今日はずいぶん早いんだね」
アゼルがさも珍しそうに言うと、アマルガンも目を合わせずに返す。
「私が早起きしてはいけないかね」
「ハハッ。怒んなよ。ちょっと珍しいと思っただけじゃんかよ。兄貴がここ最近で一番に起きたのなんて、何年ぶりかね? 珍しすぎて、雨のかわりに槍が降らなきゃいいけどね。……いや降るとしたら、だれかの生き血か生首か、ハハハ」
「フン、いまいましいやつめ……!」
アゼルの皮肉に、アマルガンは舌打ちした。
それから、オルフェリン家の住人たちがぞくぞくとダイニングへやってくる。アマルガンの妻のグレースと娘のレイチェルに、三男のマルク、そしてルカやクラリスの姿もあった。しかし、昨日に発狂した長女ジェシカの顔はなかった。
日を重ねるごとに、オルフェリン家の朝食をとる人たちが一人、二人と減っていく。そして、だんだんと悪質になっていくモーリスたちの悪行に、一同にもいよいよ疲労の色が見え始めていた。
クラリスなんかは朝食を出されても、両手をかたくにぎって膝の上に乗せているだけで、スープにすら手をつけようとしなかった。
「クラリス殿。召し上がらないんですか?」
となりに座って豆のスープをすするブラモアがすぐに声をかけたが、クラリスはそれにもこたえず、悲痛な面持ちでずっと身体をふるわせていた。
「ブラモア殿。クラリスは具合いが悪いので、食欲が進まないんですよ。お気になさらないで下さい」
「ああ、そうですか」
ルカがそう擁護したものだから、ブラモアはいぶかしみながらも食事を再会させていた。
クラリスの様子が尋常でないのは明らかだったが、それでも他に声をかけようとする人間はいない。ひとり、幼女のレイチェルだけはクラリスをずっと心配そうに見つめていたが、他の大人たちは黙々と朝食を口へ運ぶだけだった。
だれもが自分を守ることに必死なのだ。『次はわが身』という恐怖心が一同の胸の奥底に居座っているから、となりの人間と心の壁をつくってしまっているのだった。
次に死霊の騎士の犠牲となるのはだれなのか? 自分なのか。対面の人間なのか。それとも、日ごろから憎いと思っているあの人なのか。オルフェリン家に深く根づいてしまった疑心は、いよいよ真紅の花びらを開花させようとしていた。
「……おい、何だよこれ」
その矢先にいきなり疑念の声があがる。声主は皮肉家のアゼル。そして、そのひと言だけで室内の空気がゆれ動いた。
「ど、どうかされましたか?」
「どうもこうもねぇよ! これを見てみろ!」
声をふるわすブラモアに、アゼルは豆のスープを突きつける。そのスープはダークな紫色に変色していて、いかにも猛毒そうな色をしている。
「キャァ! 何よそれ!」
グレースの悲鳴から一変して、みなが立ち上がって場が騒然となった。アゼルは疑惑のスープを持ってテラスに出て、その紫の毒液を外にぶちまけた。
そこへ、おり悪くどこからか野犬がやってきた。野犬はスープの香ばしい匂いをかぎとって、やがて地面をなめ始めた。――が、野犬はすぐに絶叫して苦しみもだえ、四本の足をバタバタとさせて、のたうった。
そしてすぐに動きを止めて、死んでしまった。
「だれだッ!? スープに毒を仕こんだやつは!」
アゼルは激怒してダイニングに怒鳴るが、そこで手をあげる人間なんていない。とたんに室内にしらじらしい空気が流れる。
アゼルは歯ぎしりして地団駄を踏んだが、やがて一同の中でひとり冷静な面持ちをくずさない男に向かって、歩いていった。
「……兄貴。俺より先に起きて部屋に入ってたのは、確か兄貴だけだったよな?」
「それがどうした」
平然と言ってのけるアマルガンの、その胸ぐらをアゼルがつかむ。ガタッとテーブルがゆれて、マルクとブラモアが急いでアゼルを止めに入る。
「アゼル兄様、お止め下さい!」
「うるせぇ! こいつはどさくさにまぎれて、遺産の独占を実行しようとしやがったンだよ! この卑怯者がッ!」
アゼルの痛烈な悪口を聞いて、アマルガンも立ち上がって激怒した。
「黙れ! 家の遺産は、そもそも長男の私ひとりが受け継ぐべきだったんだ。それを貴様は、太々しくも横取りしていきおって。少しは立場というものをわきまえんか!」
「言ったな、この野郎!」
アマルガンの思わぬ反撃を受けて、アゼルはマルクたちをすごい力でふり解いてアマルガンに殴りかかった。アマルガンも杖で無茶苦茶に殴り返して、兄弟の骨肉の争いが始まってしまった。
二人はマルクとブラモアにすぐに止められたが、兄弟たちの絆に修復のきかない決定的な亀裂が入ってしまったのは、明らかだった。
そんな悲しい喧騒の中にあっても、クラリスはひとり落胆していた。その哀れな姿を見て、相変わらず冷然としていたルカの心にも、ふつふつとこみ上げてくる何かがあった。
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