序文
冷たい風の吹く、寒い夜だった。
春を迎えたばかりの夜は、北風が吹いてとても冷たい。
あたりに転がる大きな岩には、苔のように短い雑草がちらほら生えている。その葉先が夜風になびいていた。
岩肌をのぞかせる草原に、一頭の馬がとぼとぼと歩いている。その上を紅いローブの男がまたがって、手づなを強くにぎっていた。草原のはるか向こうには、気心の知れた友が待っている。
紅ローブの男がふと空を見あげると、頭上に満天の星空が広がっていた。そのまばらな輝きは、宝石のようにきれいだった。
そのまま視線を前へ降ろすと、まっ黒な影が山なりに広がっていて、その上が青白く光っている。沈みきっていない日の光は、星の光に負けまいと強い光を放っているように見えた。
――その、青白い光の上に輝く、紅い色をした三日月。それは、血のような鮮明さを男の目に焼きつけさせる。
何という禍々しさなのだろう。これが不吉をあらわすものではなくて、何だというのか。男は、紅い袖口と見比べながら、めずらしく迷信について考えていた。
「きれいな月だな」
突然に紅ローブの男を呼ぶ声がした。男が驚いて視線を前へ戻すと、そこには一本にのびる人影が立っていた。影は全身を黒い服で隠しているのか、夜目をこらしてもはっきりと存在を認識することができない。
「貴様は何者だ」
紅ローブの男は馬の足を止めて、影をにらんだ。すると、影はゆっくりと紅ローブの男にふりむく。頭にかぶっている黒いフードから、男の口だけが見えて、それがにんまりと笑みをつくった。
「先に貴様の名を聞こうか」
「ふざけるな。下賤の輩が、私に指図するな」
そういうと、黒い男は声をあげて笑い始めた。その不気味な声が夜空にひびきわたる。
「下賤の輩ときたか。これは傑作だな」
「……貴様、私をからかってるのか?」
「まあ待て。長い独り旅にちょうど飽きてたところだ。……私は、この本をある人間に届けなくてはいけないんだが、貴様はオルフェリンという名を知らないか?」
すると黒い男は、左手の口の広い袖から一冊の本をかかげた。だが、その本が黒いのか、また夜の暗闇のせいなのか、何の本なのかが全くわからない。
「さあ、知らんな」
「そうか。それは残念だな」
「わかったら、さっさと行くんだな。どこかの異教徒か知らんが、私は貴様のような怪しい人間と関わる気はないんでな」
「なるほど。それは同感だな。私も、貴様のような太々しい貴族と仲良くするつもりはないな」
黒い男は、わざわざこちらを逆撫でしているようだった。だが、安い挑発だとわかれば、頭に血がのぼることもない。紅ローブの男は、やれやれと首をかしげた。
――が、同じように黒い男も首をかしげていた。まるで、鏡に映った姿のように……。
それから、黒い男がまた妙なことを言ってきた。
「では、いちおう聞くが、貴様はこの本をもらう気はないか?」
「なぜ?」
「これも仕事でな、私はこの本をだれかにわたさなければいけないんだ」
「さっき言ってた、オルフェリンとかいうヤツにわたすんじゃないのか?」
「別にわたすのなんて、だれでもいいのさ。……このグリモワ(魔術書)には強力な魔術が記されていてな、それはひとつやふたつの国を簡単に滅ぼせるくらいの、とてつもないものだ。見たところ、貴様は魔術師のようだが、この本を使って国を滅ぼしてみないか?」
魔術、という言葉に紅ローブの男の気持ちが揺らぐ。国を簡単に滅ぼすなんてのは、安いはったりだろうが、どんな魔術が書かれているのかが気になってしまう。
紅ローブの男は、しばらく顎に手をあてた。
「いや、やめておこう」
「そうか、それは残念だな」
「わかったら、さっさと行くんだな。さっきも言ったが、私は貴様のようなヤツには興味ないんでな」
「同じことを二度も言うな。私も貴様のようなヤツと仲良くするつもりはない」
相手の支離滅裂な言動に呆れながら、紅ローブの男は手づなを軽く打つ。すると、馬はとぼとぼと歩みをはじめた。そして、そのまま黒い男の横を通りすぎてやった。
「――紅の月は滅亡のきざし」
馬が十歩ほど歩いたころだろうか。後ろから黒い男が声をあげた。
「このディオーネ王国では、そう信じられてるのだろう? なぜかは私も知らんが、火のないところに煙は立たないものだ。貴様もせいぜい、気をつけておくんだな」
意味深な言葉に、紅ローブの男が仕方なくふりむく。――が、十歩すぎた位置に、人の姿はない。紅の月の下には、冷たい夜風が吹くだけだった。
ここで戦死した悪霊でも見たのか。紅ローブの男の背筋に、ぞっと寒気がはしる。一方で悪霊の声と話し方が、自分と少し似ているような気がした。