さくらの花嫁〜あいのあかし〜
全年齢にしてはアレなんでこちらに。本編読まないとまるでわからない系。
玉葉がそれに気づいたのは、玲紀桜がもう終わりかけている、卯月の半ばだった。
在園の奥まったところにある、国宝玲紀桜。さくらの花嫁にならなければ、きっと見ることもできなかっただろう、美しい桜。それが見納めとあっては、来ずにはいられなかった。
──やっぱり綺麗だな。玉葉はさくらを見上げ、ほう、と息を吐いた。部屋にも一輪あるけれど、見事な枝ぶりに花が咲きほこっているのを眺めるのは、なんとも壮観だ。
「──ん?」
玉葉は、桜の幹が赤茶くなっているのをみつけ、眉をしかめた。なんだろう、これ。おがくずのような、なにやら変なものがくっついている。触れようとしたら、
「触るんじゃない」
背後からいきなり声をかけられ、肩を跳ねさせる。慌てて振り向いたら、白髪の青年が立っていた。──わあ、綺麗な人。紫苑、飛雄、蓮宿と、美形は見慣れている玉葉だが、目の前の青年は、これまた浮世離れした美しさだった。
緋色の瞳は血のようで、髪の白さも相まって、まるでウサギのようだ。しかし、全然気配に気づかなかった。
「あ、あなたは?」
「卯月」
彼はそうぶっきらぼうに言い、こちらへ近づいてきた。赤茶けた物体を指差し、
「これは神切り虫の仕業だ」
「神切り虫?」
「ああ、果樹を食い散らかす虫。夏に寄生して、この季節になるとでてくる」
卯月は淡々と言い、ほら、あれが神切り虫だ、と言う。なにやら黒い物体が、木の付け根から這い出てきていた。玉葉の腕に、ぞおっと鳥肌がたつ。
「玲紀桜はご神木だからな。神切り虫は、中にいる神を食う気なんだ」
「神様が中に?」
玉葉は目を瞬いた。卯月は胡乱な目でこちらを見て、
「そんなことも知らないのか」
「……無知ですいません」
なんせ、最近まで花嫁のことも知らなかったのだ。しかも、不可思議な力があるのに、虫にやられるなんて。
「桜ってのは弱い花なんだよ。虫に食い尽くされたら、花が咲かなくなることもある」
「そうなんですか」
玉葉は、桜の花を見上げた。ひらひらと舞い落ちてくる花びらは、うすく儚い。だから美しいのかもしれない。
「卯月さんは、庭師ですか?」
彼はまあそんなものだ、と答え、薬を撒くからどいてろ、と言った。
「薬で退治できるんですか」
玉葉がへーっ、と声をあげたら、卯月がうっとおしげに舌打ちした。──あ、ベラベラうるせえなこの女、って思ってそう。卯月は懐から出した瓶を、木の幹や根元へ振りかける。薬をかけられ、次々に虫が落ちた。
──あ、すごい。
駆除作業を見ているうちに、なんだかむずむずしてきた。玲紀桜には縁もあるし、他人事とは思えなかった。それに、この花が咲かなくなってしまうなんてあまりに惜しい。
「あの、私何かできないでしょうか!」
玉葉がそう言うと、
「ない」
そっけない返事が返ってきた。
「そんなあっさり!?」
また舌打ちされる。
「樹の養分を充実させて、樹勢を強める。神切り虫の駆除には、それが一番だ」
「樹勢?」
「おまえ、うるさいな」
卯月はそう言って、さっさと歩き出した。
「え、あ、卯月さん!」
玉葉は慌てて彼を追いかける。
「養分って肥料とかをあげるんですか? 腐葉土なら畑に使ったのの残りが余ってますが!」
「そんなクソみたいな養分でどうにかなるかよ」
クソって。口悪いなこの人。まあ、クソだけど。
「じゃあ何がいるんですか?」
「おまえには教えねーよ、秘文だ」
「ひ、ぶん?」
なんだろうそれは。玉葉は首を傾げる。と、休憩時間の終わりを告げる、青銅の鐘が鳴り響いた。低い音が、空気を震わせる。
「さっさと持ち場に戻れ、下働き」
「下働きじゃないです、料理人です!」
「下働きだろ。皿でも洗ってろ」
「んなっ」
さっさと歩いていく卯月を、玉葉はむっとした顔で睨んだ。──なんなんだ、あの超失礼な男は! 玉葉は卯月にべーっと舌を出したあと、厨房へ向かい、ずかずか歩き出した。
☆
「玉葉、なんだか頰が膨らんでいるな」
「え?」
夜、いつものように夜食を届けに行ったら、紫苑がじいっとこちらを見てきた。黒髪はしっとり濡れて、艶を増している。どうやら風呂上がりのようだ。この人綺麗だな……今更ながらそう思う。
「なにか嫌なことでもあったのか?」
「あ……ええと、大したことでは」
「夫婦の間に隠し事はなしだぞ」
夫婦って仮のですが! 座るよう促され、玉葉は紫苑の隣に腰掛けた。
「秘文ってなにかわかりますか?」
「秘文? 桜花国秘文か」
「あ、それです。たしか、さくらの花嫁について書いてあるんですよね」
「ああ、他にも、国の起源や、玲紀桜の由来も書かれてるはずだ」
「それ、私でも読めますか?」
紫苑はうーん、と首を傾げた。
「どうだろうな。一応秘文だから。たしか占部が管理しているんだ。占星術にまつわることも書いてあるから」
「見たいんです」
「どうして?」
玉葉は、昼間あったことを話した。紫苑の表情は晴れないままだ。
「卯月? 聞いたことがないが」
「え……でも、庭師だって」
「緋色の瞳に白い髪だろう? そんな派手な庭師がいたら、嫌でも目につくはずだ」
たしかに。えっ、じゃああの人は誰……? 混乱する玉葉に、紫苑はこう告げた。
「玉葉はいま、さくらの花嫁だからな。見る権利はあるだろう。明日、玉葉が来たら見せるよう朱里に伝えておく」
「ありがとうございます」
ほっと息を吐いた玉葉は、紫苑が持って来た粥に手をつけていないことに気づく。
「陛下、召し上がらないんですか?」
「うん」
紫苑はちらっとこちらを見て、玉葉のほうに身を寄せた。
「な、なんですか」
「最近あまり、玉葉とくっついてないから」
触れ合った腕に、頭がかあっと熱くなる。
「くっつく必要は、ないと思いますが」
「食べさせてくれ」
自分で食べてくださいよ! そう叫びたいところだが、紫苑は餌を待つ子犬みたいな目でこちらを見ているし、このままだと粥が冷めてしまう。玉葉は仕方なく、レンゲで粥を掬い、彼に差し出した。紫苑は嬉しそうに食べている。相変わらず子犬だ……。
「美味しかった」
「よかったですね。では、私はこれで」
立ち上がろうとした腕を掴まれた。
「っ」
「今日、一緒に寝たい」
「……だ、だめです」
「なぜだ? こないだは一緒に寝たのに」
紫苑は一見無邪気な要求をしてきているように見えるが、彼はもう19なのだ。それに、こないだ、何もしないと約束したのに、口づけを何回もしてきた前科がある。油断ならない子犬なのだ。
「頼む、玉葉」
「一緒に寝る、だけですよ」
「うん」
紫苑は玉葉の身体に腕を回し、ぎゅっ、と抱きしめた。暖かな体温が、じんわりと玉葉を包む。恥ずかしさと戸惑いで、玉葉は目を泳がせた。多分いま自分は、とても人様には見せられない顔をしているんだろうな、と思った。
☆
翌日、玉葉は、朱里に会うため、向かった。昼寝をしていた朱里の肩をつん、とつついたら、彼はワタワタと慌て、バランスを崩して椅子から転げ落ちた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「いてて……あ、これはこれは花嫁さま。よー来たがや」
相変わらず訛りまくっている占星術師は、積み上げられた本をばさばさと片付け、玉葉に椅子を進めた。
「ありがとうございます」
玉葉は椅子に腰掛け、朱里に頭を下げた。
「わざわざすいません、手間を取らせてしまって」
「いんや、構わねえ。お茶飲む?」
「いえ、お構いなく」
「あ、蓮宿にもらった茶があるがや」
「いえ、ほんとにお構いなく」
朱里は茶をごくごく飲み干し、はー、と息を吐いた。玉葉はその飲みっぷりに、
「に、苦くないです?」
「ああ、まずーいもう一杯! って感じだが」
もう一口飲んだ朱里は、
「で──なんだっけ?」
「秘文を見せていただけると」
「そーだったそーだった。ちょい待ってちょ」
朱里は積み上げられた本の中から冊子を手にとり、
「ん、これ」
「これが……桜花国秘文」
「そう。で何が知りたいの」
「神切り虫についてなんですが」
「神切り虫……っと」
彼は指に唾をつけ、ページをめくる。玉葉はそれをチラチラ見て、
「あの、紙、濡らしていいんですか」
「ん? いーのいーの、乾くでな」
そういう問題だろうか。蓮宿が見たら思いっきり眉をしかめそうだ。
朱里はあったあった、と言葉を漏らし、
「んーと、「紙切り虫が玲紀桜を食べた時は、あいで樹勢を高めよ……」あれまー、こりゃ参ったわ」
「な、何が参ったんです?」
「よーするに子作りしろってことだがや」
玉葉は目を瞬いた。あまりに高速で瞬きすぎたせいで、目が乾燥してしまった。今なんて言ったの、この人は。
「こ、づくり?」
「玲紀桜なんだから夫婦の愛だろうし、他にないがや。いやー、仮夫婦には無理やったし、神切り虫が湧かなくてよかったにー」
いえ、湧いてるんです、いま現在。そう口にすることが、玉葉にはできなかった。なぜか喉がカラカラに乾いている。手汗がハンパなかったので、上衣でこする。
「で、でも、子作りが、桜の樹勢に関係するとは思えませんが」
「ん? 樹勢なんて言葉、よー知っとるねえ」
「受け売りですけど……」
「汗すごいで。熱いん?」
「だ、大丈夫です」
玉葉はギクシャクと立ち上がり、部屋を出た。ふらふら歩いて行って、つるべをカラカラと引き上げ、井戸から水を汲みあげる。その水をバシャ、とかぶった。
「っ無理……!」
掌で顔を覆い、天を仰ぐ。口づけですら心臓が破裂しそうなのに、それ以上なんて、大体玉葉は仮の花嫁なのだし、しかも紫苑は世継ぎを作るのに積極的ではないって言ってたし……!
「玉葉?」
その声に、玉葉はびくりと震えた。
「どうしたんだ、びしょ濡れで」
「へ、陛下」
こちらに歩いてくる紫苑を見て、玉葉はかーっと赤くなった。彼は心配そうにこちらを見て、
「顔が赤いぞ」
伸びてきた腕を、素早く避ける。
「あーっ! そうだ、今日賄い当番だった。まずいまずい! じゃっ、陛下、また!」
玉葉は紫苑の返事も待たず、そのまま走り出した。
★
脱兎のごとく駆けて行った玉葉を見送り、紫苑はポカンとしていた。
「どうしたんだ? 玉葉は」
「さあ。持病の癪では?」
「冷たいな、蓮宿」
紫苑の背後にいた蓮宿は眉をしかめ、
「全く私には気づいていませんでしたからね、あのうどん嬢」
「玉葉は何かに夢中になると、周りが見えなくなるところがある」
「たしかに」
蓮宿は薄目で紫苑を見た。
「何かに夢中になっていたんでしょうねえ」
「ん?」
首を傾げた紫苑に対し、素知らぬふりをする。
「まあ偽の花嫁を構っている暇はありません。玲紀桜の件です」
「ああ、虫が湧いていると、玉葉が言っていた」
「庭師に確認しましたが、やはり卯月などという人物はいないようですね」
「うーん」
「やはり幻覚なのでは?」
「玉葉がおかしいみたいに言うな」
「まあおかしな娘ですが……元々不思議な謂れのある桜でしょう」
紫苑はうん、と頷いた。
「玲紀桜は……玉葉を助けてくれた」
蛍雪に襲われた時、桜の花びらが大量に降ってきて、玉葉を縛り付けていた縄を切ったのだ。あの時感じたのは、神々しさと、不気味さ。
「妖気を感じたんだ、あの時」
「綺麗なだけではないのでしょうね、きっと」
桜は人を狂わせる力があると言う。だから母も狂ったのだろうか。王子たちを殺した藍妃は。
「紫苑さま?」
「母もさくらの花嫁だったのだな、と思っていたんだ」
紫苑はそう言って、玉葉が消えた方角を見やった。
☆
玉葉は、荘園の門をくぐり、玲紀桜がある方へと走っていた。さくらの下に、白髪の青年がいるのに気づく。
「卯月さあああん!」
「は? うおっ」
玉葉は青年に突進し、袖にすがりついた。
「な、なんだ」
「お願いします、玲紀桜を助けてください!」
「何をわけのわからない……とりあえず離せ」
卯月はぺいっ、と袖を振った。玉葉は袖にしがみついたまま、
「後生ですから! 私の貞操がかかっているんです!」
「離せと言っているだろうが」
卯月が袖を取り替えそうとしたら、袖がびりっと破けた。
「あ」
「あ」
「なんなんだ、おまえ」
卯月はむすっとしながらこちらを見ていた。
「すっぽんか?」
玉葉は卯月の上衣を繕いながら、
「いえ、ある方からはうどん嬢と呼ばれています。すっぽんは高級食材ですから、褒めすぎかと」
「べつに褒めたつもりはないが」
卯月はそう呟いて、玉葉の手元をちら、と見た。
「お針子なのか」
「いえ、裁縫はあまり得意ではないんですが、母の見よう見まねで、ぎゃー!」
指先にぶすっ、と針を刺してしまい、玉葉は痛みに叫ぶ。
「何をしてる」
「う、うう、包丁で手を切ったことはないのに……っ」
玉葉は血の珠が滲んだ指先を涙目で見て呟いた。卯月はため息をつき、玉葉の手を取った。指先に、ぬるりと舌が這う。
「ひ!?」
卯月は滲む血を舐めとり、舌を離す。
「よし、止まった」
「な、ななななにするんですか!」
玉葉は真っ赤になって手をかばった。
「止血だ」
「手巾があるから結構です!」
なんで舐めるんですか。信じられない。ぶつぶつ言いながら手巾を巻いていたら、さく、と足音がした。顔をあげた玉葉は、こちらを見ている紫苑に気づく。紫苑は、捨てられた犬のような顔をしていた。
「へ、陛下……?」
「陛下?」
卯月が紫苑に顔を向け、のち、玉葉へと視線をやった。
「ああ……貞操。なるほどな」
卯月は玉葉から上衣を奪い取り、
「もういい。ヘタクソ」
「なっ」
さっさと歩き出した。紫苑とすれ違いそうになった瞬間。
「君は誰だ」
紫苑がそう尋ねた。
「俺は桜守」
「桜、守?」
卯月は玉葉を振り返り、
「あのすっぽんのどこがいいかは知らないが、さっさと子作りしろ」
「!?」
「子作り?」
「あの女に聞けよ。じゃあな」
白髪の青年はさっさと歩いて行った。何を言ってるのよあの人は!玉葉が内心で卯月に叫んでいたら、紫苑が近づいてきた。玉葉はオロオロと、
「ち、違うんです陛下、子作りっていうのは、えーと、あっ! 今から田作りを煮ますから、今晩のおかずに」
「玉葉」
紫苑は卓と長椅子の背もたれに手を置き、じっと玉葉を見下ろした。
「何か隠しているのか?」
「え? あ、えーと、べつに」
玉葉は目を泳がせた。──ちょっ、近い!
「君は嘘が下手だ。早く言ったほうがいい」
耳もとに囁き声が降って、玉葉は身体を震わせた。紫苑の指先が、玉葉の首筋をなぞる。びくりとしたら、ぎゅっと抱きしめられた。
「っへ、いか」
「言わないなら、君をこうやってずっと抱きしめてる」
「だめ、です。仕事があります」
「なら言いなさい」
──あ、この人、私より年上なんだ。今更ながらそう思った。じゃなくて!
「だ、抱きしめる必要はないのでは」
紫苑は拗ねたような声で、
「玉葉が意地を張るからだ。それに、浮気をした」
「浮気なんかしてないです」
「してた。あの白い男と」
卯月に舐められた指を、玉葉は慌てて握りしめた。
「あれは、血が出たから」
「玉葉は私の花嫁なのに」
やっぱり拗ねてるんだ。年上なのに、子供みたい。玉葉は、そっと紫苑の頭を撫でた。
「浮気なんか、しません。モテないし」
「いいや、玉葉はかわいいからモテる」
「陛下だけですよ、そんなこと言うの」
「星は?」
「あの人は……なんか、別です」
なにせ、厨房の女の子全員に可愛いと言っているのだから。
「玉葉の可愛さがわかるのは、私だけでいい」
紫苑の緑がかった瞳が、こちらを見ている。近づいてきた唇を、玉葉は受け入れた。心臓がどくどく鳴っている。初めてじゃないのに。
紫苑は玉葉の頭に手をやって、そのまま長椅子に倒した。玉葉はギョッとして紫苑を見上げる。
「へ、陛下」
「で、子作りとはなんだ?」
「その話はもういいじゃないですか!」
「よくない。玲紀桜と関係あるのだろう?」
玉葉はうう、と呻いた。
「神切り虫を駆除するには、夫婦の愛が必要とか……」
「愛?」
紫苑が目をまたたいて、笑った。
「それで子作りか」
「朱里さんはそう言ってました」
「なるほど。一理ある。じゃあそうしようか」
「……っ」
紫苑の唇が首筋に触れて、玉葉はぎゅっと目をつむる。
「これが世に言う据え膳というやつか……」
「へ?」
「でも、思ったより嬉しくないな」
紫苑が身体を起こし、玉葉の手を引いた。彼は起き上がった玉葉の髪を撫で、
「玉葉が望まないのにするのは、嬉しくない」
「陛下……」
「愛と言っても色々あるだろう? なにも子作りとは限らない」
紫苑はそう言って微笑んだ。
☆
「ンア? また桜花国秘文を読みたい?」
朱里が寝ぼけ眼で玉葉と紫苑を見た。
「子作りしたほうが早いに」
「それは一旦置いといてください!」
彼は書物をめくり、
「ほい。何度読んでも変わらんと思うけど」
玉葉は書物をめくった。
「神切り虫が出た時は、あいにより、駆除せよ」
「あい……」
彼女はハッとして、目を輝かせた。ぐるんと首を動かし、紫苑を見る。
「陛下! もしかして!」
「ん?」
☆
玉葉と紫苑は、玲紀桜の下へ来ていた。
「卯月さーん!」
玉葉が口に手を当てて叫ぶと、卯月が木の陰から顔を出した。うっとおしげに、
「なんだ、うるさい」
「卯月さん、我々は発見しました! あいを!」
「は? 子作りしたのか」
「してません!」
玉葉が真っ赤になって叫んだら、卯月が指で耳栓をした。
「まったくやかましい女だな。閨でもそんな調子なのか」
「いや、玉葉は割と大人し」
「陛下、知らないでしょ!」
そんなことはどうでもいいのだ。玉葉はあいなんです、と言い、葉を差し出した。卯月は葉を受け取り、しげしげと見た。
「これは……藍か」
「はい、染料に使われる藍です。これで駆除できるのではないかと」
「愛じゃなくて藍だと? ダジャレじゃあるまいし」
「あいに笑うものはあいに負けますよ!」
「わけがわからん」
二人の掛け合いに混じって、紫苑は頭をさげた。
「卯月とやら、頼む」
卯月はじ、と紫苑を見て、
「桜花国の王がたかが桜守に頭をさげるのか?」
「私は頭を下げるのは慣れている」
「威張ることか」
彼はそう毒づいて、
「まあ、やってみるが、無駄に終わると思うぞ。今まではみんな子作りで解決していたんだからな」
玉葉はハイっと手を挙げた。
「私も手伝います!」
「いらん」
紫苑がすかさず倣った。
「じゃあ私も手伝う」
「あんたは政務しろ」
四半時後。紫苑と玉葉は、藍を煮出していた。玉葉は樽の中を手でかき混ぜながら、
「色が出るのに、意外と時間かかるんですね」
「うん、しかしすごい色だ」
「おまえら暇なのか?」
卯月は桜にもたれ、呆れた目をこちらへ向けてくる。
「暇じゃないですよ。ねえ陛下」
「そうだぞ。書類が溜まっていて、蓮宿がぷんぷんしている」
「なら仕事しに行けよ」
「もう一混ぜしたらな。玉葉、代わる」
紫苑は玉葉と場所をかわり、樽をかき混ぜた。
「あ、陛下、着物が汚れます」
玉葉は紫苑の袖をまくった。卯月はその様子を見ながら、
「夫婦仲は悪くなさそうだがな。なにが問題だ?」
偽夫婦だと言っていいものだろうか。玉葉が迷っていたら、
「玉葉は料理人として働きたいと言ってるんだ。だから、子供はまだいい」
紫苑がそう言った。
「おかしな王だな」
「よく言われる」
かき混ぜ終えた紫苑は、卯月に向かって、あとは頼む、と言った。
玉葉は紫苑の袖を掴み、小声で、ありがとうございます、と言った。
「ん? 何がだ?」
「陛下に頭を下げさせたり、言い訳させたりして」
「そんなこと、なんとも思ってない」
紫苑は玉葉の手を取った。
「君が私を、私が君を想うように想ってくれるなら、なにも気にならない」
「陛下……」
玉葉は、青く染まった自分と紫苑の手を見下ろした。
「手が真っ青です」
「ああ、お揃いだ」
嬉しいな。そう言って笑う紫苑に、胸が詰まった。新緑が芽吹くように、気持ちがじわりと発露する。
──私は、この人が、好きなんだ。
★
紫苑が政務室に戻ると、待ち構えていると思った蓮宿がいなかった。
「ん? 蓮宿ーいないのかー」
名前を呼びながら政務室に入ると、背後から声が聞こえた。
「お帰りなさいませ、陛下」
「うわっ」
静かに立っていた蓮宿に、紫苑はびくりとした。
「驚いただろう。いきなり現れるな」
彼は端正な顔立ちを歪め、
「申し訳ありませんねえ。陛下がいつ現れるかいつ現れるか待っているうちに、胃が痛くなって、薬を飲むため自室に戻っていました」
ちくちく揶揄した。
「そんなに怒るな、蓮宿。今から頑張るから」
紫苑はそう言って、机へ向かう。書類を持って近づいてきた蓮宿は、紫苑の手元を見て眉をしかめ、
「ん? 陛下、えらく手が青くてらっしゃいますが」
「ああ、これか。あいだ」
「あい? 落とすために女官を呼びましょうか」
「いや、いいんだ」
紫苑は青くなった自分の手を眺め、
「お揃いだからな」
☆
「あれ? 玉葉、手が真っ青ね」
ネギを切る玉葉に、嵐晶が言った。
「え? ああ、これ、藍なの」
「藍染めでもやったの?」
「うん、まあ」
春麗はせんべいを齧り、
「落としたら? そんな色だと、不衛生だって星料理長が文句言うかもよ、意外と神経質だし、あの人」
「僕はそんなこと言わないよ、玉葉」
鯛を焼いていた飛雄が口を挟んだ。いつも通りの甘やかな笑みを浮かべ、
「青でも赤でも茶色でも、君は特別な輝きを放っている。そう、黄金に輝くもろこしのように」
「茶色って、完全病気じゃない」
「相変わらずよくわかんない例えするよねー」
ひそひそ話す嵐晶と春麗。
「藍は植物だから不衛生なんかじゃないし、それに」
それに──これは陛下とお揃いだから。玉葉は頰を赤らめ、そっと自身の手を握りしめた。
☆
後日、玉葉が薪を運んでいたら、荘園の門に白髪の青年が立っているのが見えた。
「卯月さん」
「藍が完成した。あのとぼけた王を呼んでこい」
「ほんとですか? ちょっと待ってください、これ厨房に置いてくるので!」
玉葉は薪を背負ったまま、だっ、と走り出した。厨房に薪を置いて、急いで執務室へと向かう。息を切らせながら、
「陛下! 藍ができたそうです」
玉印を押していた紫苑が、パッ、と顔を輝かせた。
「本当か?」
立ち上がろうとした紫苑を、蓮宿が素早く押し留める。
「お待ちください。まだ印を頂かないとならない書類がこんなにあるんですよ」
紫苑は唇を尖らせ、上目遣いで蓮宿を見た。
「少しくらいいいと思う」
「よくないです。というか私にその顔をしても効果はありませんよ」
「蓮宿はケチだな。玲紀桜は国宝なのだから、我々にはそれを守る義務があると思わないか?」
それを持ち出すのか。蓮宿はそう言いたげな苦い顔をし、
「……すぐ帰ってきますか」
「ああ、もちろん」
「寄り道しないでくださいね」
「わかってる。玉葉、行こう」
紫苑は嬉しそうにこちらへきた。玉葉はなんとなく蓮宿に頭をさげる。
「すいません、蓮宿さん」
「あなたに謝られる筋合いはないですが、どういたしまして」
蓮宿は諦めたような口調で言い、ため息をついた。
★
玉葉と紫苑は、玲紀桜の下にきていた。卯月に桶と柄杓を渡される。
「これを赤茶けた部分にかけろ」
それを受け取った二人は、柄杓で藍染め液を掬い、病んだ部分にかける。すると、赤茶けた部分が、みるみるうちになくなっていった。
「わ」
玉葉はその不思議な現象に、目を見開く。卯月も驚いたように、
「こんなことは、1000年来初めてだ」
「やりましたね、陛下!」
紫苑は病んだ部分に藍液をかけながら、
「ああ。これ楽しいな、どんどん消えていく」
「あっ、私、下の方やるので、陛下は高いところをお願いします」
「うん。玉葉、まだ液はあるか? 私のを分けようか」
「大丈夫ですよ」
卯月は玉葉と紫苑をじっと見て、
「……あと半年、その調子で頑張れよ」
「え?」
玉葉が卯月へ視線を向けたら、彼はすでにいなかった。
「あれ……卯月さんは」
「不思議な青年だったな」
紫苑は新緑を見上げ、目を細める。
「桜守か……人ではなかったのかもしれないな」
「確かに、口の悪さが人間離れしてましたね。陛下にタメ口きいてたし」
「はは、私はああいうはっきりしたのは嫌いじゃない」
紫苑に嫌いな人間がいるのだろうか。
「寛容すぎです」
「ちょっと蓮宿に似ていたしな」
「ああ……蓮宿さんの方がだいぶ繊細そうでしたが」
玉葉が苦笑したら、紫苑がじいっとこちらを見てくる。
「な、んですか?」
「玉葉は、ああいう感じが好きか? なら、私はもう少し喋り方を変えてみる」
「いやいや」
なぜそんな話になるのだ。
「私は今の陛下が一番好きですよ」
「え?」
「あっ」
「今、好き、と言ったな?」
「い、言いましたが、ナシにしてください」
「なぜだ。私はちゃんと聞いた」
じりじり近づいてくる紫苑から、玉葉は後ずさった。桶が地面に落ちて、病んだ部分に触れた藍液が光る。
「む、虫退治しなきゃ」
「玉葉、私は、君の気持ちが聞きたいんだ」
ざあっ、と風が吹いた。玉葉が頭につけた、髪紐が揺れる。紫苑がくれた髪紐。玉葉は鼓動を鳴らしながら紫苑を見た。切れ長の瞳に滲んだ緑。
「すき、です」
光る藍液が、病んだ部分を癒していく。紫苑はぎゅっと玉葉を抱きしめた。
「幸せにする」
玉葉は頰を赤らめて、紫苑にしがみついた。唇を塞がれ、息を詰める。唇を割り開いて入ってきた舌が、絡まった。
「!?」
玉葉は真っ赤になって、紫苑の袖を掴む。
「ん」
ずるずる身体が下がっていく。紫苑の手が怪しい動きをし始めたので、玉葉は慌てて留めた。
「へ、陛下、ちょっ」
「両思いだから、いいのではないか?」
「外だし! ご神木の前ですよ」
「多分神さまは見逃してくれる」
「おすわりっ!」
玉葉は思わず叫んだ。紫苑はすごすごと身を起こし、正座をした。ほんとにおすわりした……しゅんと目を伏せていた彼は、ちら、とこちらを見上げる。
「私は犬じゃないんだが、玉葉」
「す、すいません」
でもおすわりしましたよね……
「あの、順序を踏んでほしいというか、色々、ありますし」
「順序か」
紫苑は真剣な顔でうなずいた。
「なるほど、じゃあ、まず一緒に風呂に入ろう」
「真顔で何言ってんですかっ!」
玉葉は自分の身体をかばった。
「ダメか? じゃあ服を着ないで一緒に寝よう」
ダメだこの人、頭の中が春色だ。
「私、厨房に戻ります」
スタスタ歩いて行ったら、紫苑が正座したまま、しょんぼりした顔でこちらを見ていた。
──うっ。
玉葉は彼の元へ戻り、小声でつぶやいた。
「……今はまだ、仕事もあるし、その、心構えができるまで、待って、くれますか」
紫苑は、漆黒に緑が滲んだ瞳で、こちらを見上げた。その目が緩む。
「うん、わかった」
ほ、と息を吐いた玉葉は、紫苑の側にしゃがみこんだ。頰にちゅ、と口づける。
「今は、これくらいで、勘弁してください」
「……本当は唇がいいけど、玉葉が可愛いから我慢する」
紫苑はにこにこ笑い、玉葉と額を合わせた。
「君が好きだ」
玉葉は頰を赤らめる。
「なにをイチャついていらっしゃるんですか?」
冷たい声が降ってきて、玉葉はびくりとした。蓮宿がこちらに、寒波のような視線を送ってくる。紫苑は彼を見て、
「あ、蓮宿」
「あ、じゃありませんよ。さっさと帰ってくると約束しましたよね。人の名前だけでなく、物事の記憶まで飛ぶようになったのか」
蓮宿はちくちくと言い、
「頭の中が春色なのは結構だが、もう花の季節は終わったのですよ。夏は病が流行るのですから、不測の事態に備えて早め早めの仕事を」
「私の心には、いつも玉葉という花が咲いている」
ぽやんとした表情で答えた紫苑に、蓮宿が青筋を立てた。
「ははは、何言ってんですか? 頭に虫が湧いてるんですか。ああこれが駆除剤か。頭からかけて差し上げましょう。きっと仕事のことだけ考えられるようになりますよ」
玉葉は慌てて蓮宿を押しとどめた。目が笑っていない。本気だ。
「蓮宿さん、落ち着いて! 陛下、早く行ってください」
「玉葉、愛してる」
紫苑はそんな言葉を吐きながら、蓮宿と共に去って行った。玉葉はため息をつき、桶を片付け始める。ふと、頭上から、「お幸せに」
そんな言葉が聞こえた気がした。桜の花びらが落ち、葉が芽吹いている。卯月なのか、玲紀桜の中にいる神さまなのか。
わからないけれど、玉葉は微笑んで、
「ありがとう」
葉桜が若葉へと変わり、そして季節は、夏になる。
誤字報告ありがとうございます(*´Д`*)