第8話 【初給料は……】
目を開けると、辺り一面が黒い岩肌だった。
見える範囲には、雑草の一本すら生えていない。
息苦しさから、かなりの高度だとわかる。
相変わらず身体は動かない。
いつものように首だけ回して、周囲を確認する。
後方は、斜面となっている。
遙か下方に、白く雪と氷に覆われた大地と海が見える。
前方には、広い平地部があり、その奥からもうもうと煙が上がっている。
そして、周囲に立ちこめる、卵の腐ったような臭い。
間違いない。ここは……、
「アセチルアルチル島――ロジン大火山か」
アセチルアルチル島は、パーム海に浮かぶ大きな島だ。
帝国のあるジオーラル大陸の北西に位置している。
アセチルアルチル島と言えば、多くの人が島北部のロジン大火山を思い浮かべる。
今オックスが立っている場所だ。
その麓の、工業都市ヨードホルムも有名だが、それについて今は割愛。
この場所――ロジン大火山に魔獣は1匹もいない。
どんな凶暴な魔獣も、この山には棲み着いたりはしない。
ひとえに、ここに生息する生物を恐れるがゆえに、だ。
その生物とは……。
そのとき、1人の人物が転移で現れた。
「よぉ、お前が俺様の主殿か」
顎を突き出して挨拶をするのは、身体も態度も大きな女だった。
大柄なオックスより、頭1つ背が高い。
その身を包むのは竜鱗で出来た『竜鱗鎧』だ。
背には巨大な両刃剣を携えている。
ボサボサの赤い髪からすると、見た目に頓着しない性格らしい。
強いな、とオックスは直感した。
その身に纏うのは、強者特有の雰囲気だ。
加えて、『最後に紹介される従魔』なのだ。
満を持して紹介された従魔の強さは、いかほどか。
オックスは予想する。
恐らく六翼。もしかしたら八翼かも……。
予想は、だが見事に外れた。
「俺様は【傲慢】の二翼、ラボホージ様だ! よろしくな、主殿!」
ん? 二翼?
四翼4人、六翼1人、不明1人、の次が〝二翼〟?
いや、二翼でもすごいのだろうけど……。
オックスは、なんだか肩すかしを食らった気になる。
「ゴアァァァァァァァァァァァッ!」
そのとき上空から、ビリビリと腹底に響く咆吼が聞こえた。
見上げると、案の定現れた。
この山の、そしてこの島の、いや――この世界の覇者の登場だ。
ここロジン大火山を、人々はこう呼ぶ。
――『ドラゴンの巣』、と。
「カカカ、来やがったな――おい! ここだ! さっさと降りてきやがれ!」
ラボホージが背中の剣を抜いて、ブンブンと振り回す。
オックスの体重より重いであろう剣を、まるで小枝のように軽々と振るっている。
なんという膂力だ。
なるほど、豪腕の大剣使いか。
ならば、ドラゴンに通用するやもしれん。
通常、ドラゴンと戦う場合、接近戦はしない。
(そもそも、誰もドラゴンに挑もうとは思わないのだが……)
その固い鱗が、大抵の物理攻撃を、やすやすと防いでしまうからだ。
鱗自体に魔法防御の効果があるため、魔法攻撃でもダメージは与え辛い。
ではどうするか?
バリスタと呼ばれる大型の弓と、投石機を使って遠距離攻撃をするしかない。
ともに、攻城兵器と呼ばれる武器だ。
最強の生物であるドラゴンとの戦闘。
それは、攻城戦と同等の行為というわけだ。
ズーーーーーーンッ!
高さ15メル、全長20メルを越えるドラゴンが、ラボホージの眼前に降りて立つ。
次の刹那!
巨体がクルリと回転し、巨大な尾がラボホージを襲う。
ドガァッ!
だが、ラボホージはその超重量を、剣で受けて、止めきった。
「カカカ、次は俺様の番だな」
こともなげに言うと、赤髪の悪魔は大剣を担いで走った。
「おらぁぁぁぁぁぁぁ!」
懐に入り込むと、凄まじい速度で大剣を振るう。
ドラゴンの足へ叩きつけた!
ガインッ!
だが剣は弾かれる。
「うおらぁぁぁッ!」
再び剣を振るう。
ガインッ!
やはり弾かれた。
「おらおらおらおらおらぁぁぁッ!」
ガインッ! ガインッ! ガインッ! ガインッ!
それから何度もラボホージは剣を振るった。
だがドラゴンの鱗は、ビクともしない。欠片も傷つかない。
それはそうだろうな、とオックスは思う。
ラボホージの太刀筋はでたらめだった。
あれでは、そこいらの動物すら、まともに切れはしまい。
剣を、まるで鈍器のように叩きつけているだけだ。
どんな名刀も、素人が使えば、性能の1割も発揮できないという好例が、眼前にて繰り広げられる。
少しあきれ顔を浮かべ(そう見えた)、ドラゴンが右手を振るった。
ドガッ!
腰の入っていない剣戟の合間を突かれたのか、ラボホージが派手に吹っ飛んだ。
クルリと空中で回転し、見事に着地を決めた女悪魔はニヤリと嗤う。
「俺様の攻撃を受けきるとは、貴様、ただ者じゃねぇな?」
そりゃただ者じゃないさ。だってドラゴンだもの。
どこかズレたセリフに、オックスもドラゴンも苦笑いを禁じ得ない。
再び剣を振るわんと駆け寄るラボホージ。
しつこい敵に愛想を尽かしたのか、ドラゴンがバサリと宙へ浮いた。
「おいこら! 降りてきやがれ!」
ドラゴンの足の下で、ラボホージがブンブンと剣を振り回す。
だが上空のドラゴンが顔を向けたのは……固まって動けない人物――オックスだった。
カッカッカッ、とドラゴンの口元から歯切れのいい音が聞こえる。
マズい! 『ドラゴンの舌打ち(タンギング)』だ!
ドラゴンの口へ、凄まじい魔力が集中する。
「どこを狙おうってんだ! バカ野郎!」
叫び、ラボホージがオックスの元へ走った。
剣を投げ捨て、走りながら、その身体が巨大化していく。
バリバリと鎧を破り、5メルもの巨大な(裸の)女悪魔が現れた。
そしてオックスの前で片膝を突いて、両手を広げる。
ゴォォォォォォォォォッ!
ドラゴンの口から、強大な魔力と炎が放出された。
『ドラゴンブレス』だ。
ドラゴンブレスは、いわゆる『炎による攻撃』とは違う。
錬成した大量の細かい金属や石を、超高温の炎とともに超スピードで叩きつける、『超高エネルギーの物理攻撃』なのだ。
オックスに向けられた、その絶望的な攻撃を、ラボホージは身体で防いでいた。
オックスの眼前には、広い背中と巨大な尻。
そしてそれを起点として、オックスを避けるように周囲を覆う炎の激流が、激しい音を立てて後方へ流れていく。
この裸の悪魔は、まだオックスと契約を交わしていない。
にもかかわらず、身体を張ってくれるのか……。
オックスの胸に熱いものが込み上げる。
数十秒の後、攻撃が……止んだ。
「怪我は! 怪我はないか、主殿!」
振り返ったラボホージは、全身が赤く燃える溶岩に覆われていた。
その声は、傲慢とはほど遠い。
まるで、心の底からオックスを心配しているふうだった。
「私は大丈夫だ。そ、それよりお前の方は……」
「そうか! よかったぜ!」
すっくと立ち上がる(裸の)女悪魔。
ドラゴンに向き直り、怒りに満ちた声を上げる。
「貴様……やっちゃいけねぇことを、やっちまったな……」
言うや、ラボホージが両手を広げる。
「喰らいやがれ!」
全身に凶悪な魔力がみなぎる。
固まった溶岩がパラパラと、剥がれ落ちていく。
「《極大竜雷撃》ぁぁッ!」
叫び、両の手をドラゴンへ突き出した。
バリバリバリバリッ!
ドガッ! ドガッ! ドガッ! ドガッ!
何十もの極太の雷が、ドラゴンを襲う。
最上級の雷魔法だ。
オックスも、この魔法を使うことができる。
だがそれは、大量の魔方陣を事前に用意して、何十分もの詠唱をすればの話だ。
この(裸の)悪魔は、なんと無詠唱で、その究極魔法を繰り出したのだ。
オックスの常識では考えられない事態だ。
なぜ、この(裸の)女悪魔が、〝二翼〟に留まっているのか。
グォォォォォォォォ!
ドラゴンが苦悶の叫びを上げる。
やがて雷が収まると、
ズーーーーーーンッ!
ドラゴンがゆっくりと地面に倒れ伏した。
「勝負あり、だな」
呟いて、(裸の)ラボホージはズンズンと歩くと、ドラゴンの頭の前に立つ。
「無粋な真似をするんじゃねぇよ。折角いい勝負だったんだぜ?」
そう言って、片膝を突くと、ドラゴンの頭をポンポンと叩いた。
「グルルルルルル……」
ドラゴンがうめき声を上げる。
どうやら生きているらしい。
「無理するな。これ以上何もしやしねぇよ。――おい、ブラセオ! 終わったぞ! こいつに返してやれ!」
言うや、空中に大悪魔ブラセオが現れた。
もう1つ……巨大な卵が空中に現れ、落下する。
「おっと」
ラボホージが卵をキャッチすると、ドラゴンの前にそっと置いた。
「強い子に育てるんだぞ? でかくなったら俺様と勝負だ! カカカッ!」
立ち上がると、ラボホージはオックスの元へ歩いてきた。
そして眼前に立ち、腰に手をやり、(裸で)ふんぞり返る。
「どうだ! 見たか、知ったか、我が剣技! カカカ!」
いや、見たけれどもさ……と、オックスは困惑する。
すごいのは剣技では無く、最後の魔法だろう、心中で突っ込んでおいた。
「いろいろと突っ込みたいことはあります。ですが――まずは、さっさと服なり鎧なりを錬成しなさい」
空中で大悪魔ブラセオが、オックスの気持ちを代弁した。
「ん? 服を? 鎧を? どうしてだ?」
裸の悪魔が首を傾げる。
「ど、どうしてって、あなた……恥ずかしくないんですか?」
悪魔ブラセオが困惑の声で問う。
「恥ずかしい? 何を言っているんだ? 全く意味がわからん。――そもそもの話、どうして服を着なくちゃならんのか、ここでハッキリさせておこうぜ」
女裸族の仰天発言に、オックスとブラセオ――男性陣は困惑を隠せない。
「も、もしかして、あなたは、服を着たくないのですか?」
「そういうことだぜ。どうしてわざわざ、邪魔なものを身につける? 煩わしいし、自慢の筋肉も隠れてしまう。どう考えても、いいことなど1つも無いぜ」
ふむ、とオックスは納得してしまう。
確かに『ドラゴンブレス』をも耐えきる、この裸族ならば、防御としての装備は必要あるまい。
加えての肉体自慢だ。
オックスから見ても、この女悪魔の肉体は、なるほど惚れ惚れするほど素晴らしい。
豊かなバストを支える、大胸筋。
その下で、見事に分割された、腹筋各種。
なにより素晴らしいのは、大剣を軽々と振るうことを可能にしている、広背筋だ。
起伏に富んだ筋肉が織りなす肉体美のシンフォニーに、思わず目を奪われる。
いや、巨大な尻を支える大臀筋もいい。
足を覆う見事な大腿四頭筋も捨てがたい。
そうなれば、上腕を支える僧帽筋も、三角筋も、上腕筋各種も、オックスを放って置いてはくれないのだ。
いや待てよ……。もしや、インナーマッスルか?
インナーマッスルを隠すために、筋肉の鎧を纏っていると、この筋肉悪魔は言いたいのか?
さらにその上に服を纏うのは……むむむ、確かに無粋の極み。
深い。
なんて深い肉体信仰だ。
これには脱帽するしかあるまい。
そもそも筋肉とは……
「……君! オックス君!」
ブラセオの声で、ハッと我に返る。
「な、なにを筋肉筋肉とブツブツ言っているのですか。我が輩ドン引きですよ」
あ、悪魔をドン引きさせるとは……。
オックスは自らの妄想癖を反省した。
それから3人で、ヤイノヤイノと『衣服要不要論議』を交わすことになる。
拘束を解かれた人類代表のオックス。
身長5Mの裸族代表のラボホージ。
そして意外に付き合いの良い、男悪魔代表のブラセオ。
この3人が地べたにあぐらをかき、車座に熱く語り合う姿は、なかなかにシュールだった。
∮
「なるほどな……そういうことなら仕方ないぜ」
ラボホージは、再びドラゴンメイルに身を包む。
ただし、大きさは5Mのままだ。
裸族の信念を折ったのは、人類代表オックスの「子供の情緒教育に良くない」という発言だった。
なんと、この女悪魔は、一般常識を持ち合わせていたのだ。
意外といいお母さんになりそうだな、とオックスは思ってしまう。
「改めて自己紹介するぜ! 俺様は【傲慢】の二翼、ラボホージだ!」
バサッとラボホージの背中から羽が生えた。
その羽は、今までの悪魔達のそれより大きい。
それは、『黒い鱗』に覆われた羽だった。
つまり、この悪魔の正体は……、
「《これから先、あなたを主と見なし、忠誠を誓うと約束する》」
そして、最後の従魔がオックスと契約を交わす。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
仕事開始から二時間。
ぶっ続けで薪を割り続けた。
いや、そのいい方は正確ではない。
薪は、ほとんど割れていない。
ただひたすら、斧を振り続けた。
「嬢ちゃん、こっちへ来な」
薪割り親方、アマゾネスさんだ。
いつのまにかそばに来ていたんだ。
まったく気がつかなかった。
わたしは、斧を置いて、アマゾネスさんの元へ向かった。
足がふらつき、三歩進んだとき、目の前が真っ白になった。
「おっと……大丈夫か?」
気がつくと、アマゾネスさんが、わたしを支えてくれた。
一瞬、意識が飛んだようだ。
「ゆっくり座るんだ。――どれ、手を見せてみろ」
木の椅子に腰掛け、手を開く。
皮が剥けて、ぐずぐずだった。
こんなになってるなんて、気がつかなかった。
意識すると途端にズキズキと痛み出した。
アマゾネスさんがわたしの手を取った。
お母様以外に手を触れられるのは、久しぶりだ。
去年の暮れに占いへ行って、女性占い師から『あなたの運気は最悪です』と、いわれたとき以来だ。
そのとき、五万円のネックレスを勧められたが、お金がなかったので買わなかった。
アマゾネスさんは、自然にわたしの手を取っている。
わたしも自然にそれを委ねている。
不思議な感覚だった。
親猫に毛繕いされている子猫の気分だ。
わたしが猫だったら、ゴロゴロいっているだろう。
「少し……しみるぞ」
アマゾネスさんは取り出した薬をわたしの手に塗りつけた。
激痛が走り、わたしは顔をしかめた。
でも声は上げなかった。
精一杯虚勢を張る。
「この傷薬はよく効いてな。少々の傷ならあっという間に治るんだ。ただな、手の皮を厚くするためには自然に治した方がいいんだ。でもまぁ、この傷じゃそうもいってられないしな」
優しく囁くアマゾネスさんが薬を塗り終えた。
すると、手の傷がどんどん治っていった。
あっという間に、ぐちゃぐちゃになっていたとは思えないほど綺麗に治っていた。
まるで逆再生を見ているようだった。
――な、なにこれ、凄い!
驚くわたしに、アマゾネスさんがなにかを差し出した。
二つ折りにした紙と、封をした手紙だ。
「ほれ、今日はもういいから上がるんだ。これを受付のディアに渡せば、金がもらえるからな」
え? 今日は……上がる?
わたし……追い出されるの……?
イヤだ! イヤだイヤだイヤだイヤだ!
この辛いけれど、心地よい場所を、追い出されてしまう!
このまま帰ったら、仕事を途中で投げ出すことになっちゃう!
わたしは役立たずのままだ!
もう二度と来られなくなっちゃう!
全身から血の気が引いた。
「わ、わたしはまだやれます! それに……薪はまだ割れていないです! お金はもらえません! やらせてください! お金は、いりません! だから……追い出さないで……ここに……ここにいさせてください!」
アマゾネスさんが、とたん厳しい目つきになる。
威圧感はない。
目の光はあくまで優しかった。
「……いいか嬢ちゃん。わたし達は金をもらって仕事をしてるんだ。つまりプロだ。
「金がいらないなんていうのは、素人だ。この現場に、素人なんていらない。金が要らないなんて言うなんじゃない。
「わたしは、おまえに金を払う。わたしにとって、もうおまえはプロだからだ。プロに一番大事なこと……それは体調管理だ。
「おまえは、とうに限界を超えている。これ以上は大怪我しかねない。金は、おまえの働きに見合った分しか出していないから遠慮なんかするな。わかったか?」
アマゾネスさんはわたしの頭に手を乗せた。
優しい声だった。優しい手だった。
これ以上やれば怪我をして、さらに迷惑をかけることになる。
正直、今は斧を握ることすら難しい。
「わかり……ました。 今日は……ご迷惑をおかけしました。失礼します……」
わたしは無力感に押しつぶされそうだった。
今の力じゃ迷惑ばかりかけてしまう。
――明日からトレーニングをして、自信がついたらまた来よう。
でも……、わたしは、またここに来ていいのかな。
ここに来る資格……あるのかな。
足下を見て歩き出す。
顔は上げられない。
「明日は筋肉痛で動けないだろう。明後日、また来るんだ。少々体が痛かろうが絶対に来るんだぞ!」
わたしの身体をアマゾネスさんの言葉がふわりと包んだ。
「え?」
驚いて、振り返った。
「嬢ちゃん俺たちも待ってるからな」
「お嬢……待ってるぞ? いやガチで」「またここで会うっすよ」
アマゾネスさんが――全員がわたしを見ていた。
奥の建物から、黒い髪の女性も見ている。
――なに……これ?
どういうことなの?
今日わたしがやったことといえば――、
無様に泣いて、薪といえない木屑を少し作っただけだ。
下心? いや、違う。
わたしは下心を持った下卑た男には敏感だ。
ずっと、ずっとそういう視線にさらされてきた。
そいつらは優しい上っ面の言葉に、嘘と真実を織り交ぜて吐く。
下心でできた、にちゃあと、へばりついてくる言葉だ。
今ここにある言葉に裏は無い。
嘘もない。
それはわかる。それがわかる。
彼らの言葉は心を突き抜ける。
決してまとわりつかない。
なのに――なのに、心に残る。
――……なにこれ?
わたしはぺこりと頭を下げて、ふらふらと歩き出す。
男――嫌悪と憎悪と恐怖の対象。
わたしにとって、男とはそうだった。
過去はそうだったし、未来もそうだと思っていた。
いや、そうじゃないといけない!
そう思っていた。
”男は屑だ。信用できない。信用しちゃいけない。”
わたしの過去も未来もそれを前提で作り上げてきた。
わたしとお母様の未来も……。
わたしは、職場の男性を、そういう目で見られるか?
否、だ。
――……ダメだ、考えちゃいけない。なにか魂胆があるんだ!
★
ふらふらと歩いているうちに村中央の井戸へ到着した。
お母様が、井戸の水を滑車でくみ上げているのが見える。
わたしには気づいていない。
周りの人達が笑っている
遠くて表情はわからないが、お母様もうれしそうだ。
楽しそうなお母様。
それはわたしの悦びでもあるはず。
なのに胸がちりりとする。
わたしは近くのベンチに腰掛けた。
しばらく眺めていると、お母様の終業時間になった。
お母様は、職場の皆に挨拶をしてこちらに歩いてきた。
すぐに、わたしを見つけた。
「来てたのかい、お疲れさま。そっちの方が早く終わったんだね。――で、どうだったね?」
いつも通りのお母様だ。
違うのは、わたしだ。
「お母様もお疲れ様でした。わたしは……ダメダメでした。職場の人に、迷惑いっぱいかけちゃって……」
わたしは、混乱を悟られないよう気をつけた。
「そうかぃ。いい職場だったんだね」
「……え?」
――ど、どうして?
どうしてそれを?
辛いが、いい職場だった。
それは確かだ。でもさっきのわたしの態度は……。
隠そうとしていたが、わたしの気持ちは……沈んでいたはず。
そのわたしを見てなぜ? どうしてわかったの?
「どうしてわかったのかって顔だね。そりゃ勘だよ。ウータンセンスさ。おや? なんだいその顔は? ジョークだよ、ウータンジョークさ。種明かしをするとね、サチコさん、あんた厭なことを報告するとき笑うんだよ。わたしに心配かけまいとしてね。今は笑っていない。つまり、そういうことさ」
どきっとした。
過去のことを、ぐるぐると考えた。
思い当たることはあった。
――あの人のことを言っているのだろうか。
「ふふ。いろいろ考えてるね。いいんだよ。わたしに秘密があってもいいんだ。あんたはあんたの思うように生きていいんだ。さあ、お給料をもらいに行くよ」
わたしは考えるのをやめた。
わたしはバカだ。頭が悪い。
バカなわたしがいくら考えても、お母様の深い考えはわからない。
村役場に着いた。
仕事斡旋係のディアさんに仕事場でもらった書類を渡す。
渡した書類を見て、ディアさんが、少し不思議そうな顔をした。
「少々お待ちくださいね」
ディアさんは下を向き、手紙を開封した。
下を向いたときに目の前まで角がきた。
触りたくてウズウスした。でも我慢した。
いつか仲良くなったら触らせてもらおう。
「なるほど」
手紙を読み終えたであろうディアさんが、わたしを見つめた。
――え……? なんだろう?
薪割り場の報酬は、本来なら小銀貨三枚だ。
しかしわたしは、ほとんど仕事ができなかった。
むしろ足を引っ張ってしまった。
銅貨一枚も、もらえないくらいだ。
「ではウータンさん。報酬の小銀貨五枚です。お受け取りください。確認できましたら、こちらにサインをお願いします」
お母様は、お金を受け取り、『ウータン』とサインした。
――え? お、お母様!? 名前を、それで正式に登録したのですか?
それっていいの?
あ、わたしも登録し直して、名前変えたいな。
『サキコ』とかならごまかせ……。
「ダメだよ。あんたの名前は『サチコ』だ。絶対に変えちゃダメだ」
バレバレであった。
――うぅ、こんなに……こんなにも、わたしの心の声ってば筒抜けなのか……
お母様の命令は絶対なので、名前は変えられない。
この世界でも、わたしの名前はサチコだ。
一生、この呪われた名前だ。
「ではサチコさん、報酬の小銀貨五枚です。お受け取りください。確認できましたら、こちらにサインをお願いします」
「……え?」