終章
「いい部屋だったじゃない。
街並みも住みやすそうだし、
私は気に入ったわ。」
郊外の商店街。
週末の雑踏の中で、次郎はアパートを探していた。
「二人で住むにはちょっと狭い気もするけど、
この値段じゃ文句は言えないかな。」
「決めちゃおうよ。賃貸なんだから、
気に入らなければ、また移ればいいことだし。」
「移ると言ってもさ、初期費用も馬鹿にならないんだぞ。
こういうことは、よく考えてだな。」
次郎の隣には、久美子の笑顔があった。
それだけあれば、他のことに大した価値はないと思えた。
「ま、いいか。ここにするか。徹の家も近いし。」
次郎の笑顔も輝いていた。
僕も年貢の納め時か。
もう歌舞伎町通いもオシマイだ。
僕は、久美子と暮らすことになったのだから。
僕が朝帰りなんかしたら、
久美子は出ていってしまうかもしれない。
奔放なように見えて、彼女は身持ちが固い。
個人を尊重するかと思えば、
妙に甘えたがるところがある。
不完全な人間性なのかもしれないが、
それが可愛くてしょうがないと思えるのだから、
人間の感性とは面白いものだ。
「どうしたの?」
「何でもないよ。」
今でも久美子は夢を追い続けている。
色々あったが、諦められない自分を発見したのだという。
それは、僕がいたからだとも言った。
僕は、心身ともに、彼女を抱きしめていくことにした。
そんな僕も、相変わらず会社員だ。
徹もそうだが、仕事に追われる毎日を過ごしている。
でも、今の日常がこんなに幸せだと思っているし、
充実感を味わってもいる。
そういったことに、感謝の気持ちを持って
生きられるようになった。
これも浜崎さんのお陰なのかもしれない。
浜崎さんの計画は、僕の進言も虚しく実行に移された。
後になって兄貴から聞いたんだけど、
公安の中にも浜崎さんのように、独裁に魅せられた
何某という人がいたそうだ。
兄貴は、それを停めようと尽力していたらしい。
でも、僕らは兄弟なんだね。
僕が浜崎さんを停められなかったように、
兄貴もその人を停められなかったそうだ。
ダメ兄弟って訳だ。
〝だから何だ?
結果オーライでいいじゃないか。〝
大本営跡で、浜崎さんが何某に投げつけたウィルス。
それは、兄貴を始めとした周囲の人々に
感染したものと思われる。
ところが、誰も死ななかった。
兄貴も生きている。
〝何だよ、旧日本軍のデマだったのかよ。〝
デマでは有り得ない。
白浜の事件があった事実からしても、現実の話だ。
では、何故?
その理由に、兄貴は感動していた。
「お前も、山の空気が神々しいと言っていたよな?
それは、人間の知られざる素晴らしい素養だったのさ。」
浜崎さんと的場さんが、ウィルスを見つけた大本営跡。
それは、僕達の山のすぐ近くだった。
禅寺の修行僧が残した善意。
その究極に高められた意思が、
今尚その周囲を神聖で神々しい空気として漂う地域。
その空気が、ウィルスを無力化したそうだ。
主たる人間がいなくなっても、
残された善意は悪意と戦っていたんだ。
嘘みたいな話だけど、
同じようなことが、白浜でも起こった。
人の善意が、白浜の惨劇が広がるのを停めたんだ。
紀伊半島南部に張り巡らされた熊野古道。
その内のひとつ、大辺路と呼ばれる街道が、
白浜地区の封鎖線と重なっていた。
そこには、人々が信仰心とともに
積み重ねてきた善意があった。
それは、古来より世代を超えて受け継がれた、
熊野古道を歩く人々の崇高な意思。
古道に染み込んだ善意が、
ウィルスから悪性を取り除き、
被害を拡大させなかったという。
人の善意は、個人からも肉体からも独立して、
在り続けるのだ。
驚くべき事実。
二箇所で起こった事象なのだから、
これは証明された事実ということだ。
浜崎さんが霞ヶ関に配布したウィルス。
こちらは、白浜のような悪性を持ったものではないが、
その結末は一層ドラマチックだった。
まずは、浜崎さんの計画通りに人々に感染した。
ところが、霞ヶ関の人々の心に変化は訪れない。
ウィルスを使って、公安をコントロールしようとした
浜崎さんだったけど、効果が現われなかった。
東京では、ウィルスの活動を停めるような〝善意〝は
期待できないと思う。
では、どうして?
その答えは、兄貴に言わせると、
「やはり、正義は勝つ。」
ということになる。
始めは意味が分からなかったけど、説明を受けて納得。
結局、白浜に始まり、白浜に終わったということだ。
救助隊として白浜に派遣された自衛隊の人達。
彼らが現地の惨状を見て思ったことは結果的に
〝駆り立てられた正義感〝
として収斂した。
それが白浜のウィルスを再度変異させ、あまりに強い意識は、
強力な個体を生み出した。そしてその個体は、
隊員達の純粋な正義感を継承していたんだ。
白浜で『正義』に変異したウィルスは、
封鎖線を突破して侵入した人々に感染し、
それが封鎖線上の警備員に感染し、
あとは成し崩し。
あっという間に全国に蔓延し、
霞ヶ関に広がった浜崎さんの意思を継承したウィルスを
たちどころに食い殺してしまった。
でも。
「だったらさ、
世の中は正義に満ち溢れるはずじゃない?」
僕は兄貴を問い詰めた。
だって、そうじゃないか。
救援隊の正義感が、ウィルスを介して日本中に
広がったというなら、この国の人の心は
正義で満たされているはずじゃないか。
「以前とちっとも変わってないぜ?」
「お前は、人間というものを誤解しているな。」
「何よ、それ?」
「ちゃんと感染しているさ。」
「だったら……」
ちょっと閃いた。
「そういうこと!
結果として色々な理不尽や醜態は起こるが、
人の心というものは、まんざらでもない。」
「なるほど。
感染する前から、正義だったってことだね。
だから、何も変らない。」
善意を残すという人間の素養。
そして、もとより正義だったという人の本性。
神から与えられた贈り物、或いは才能か。
そんなものを、垣間見た気分だった。
善意と正義があるのなら、
多様性の中でも、文化と文明を有機的に融合させ、
一層の高みに人々は向かうに違いない。
新しい時代が、扉を開けたんだ。
その先を歩く僕達自身が、少しずつ変えていくんだ。
それぞれが信じるパラダイスに向けて。
各々の夢の為に。
大本営跡から逃げ去った浜崎さんの行方は、
今も杳として知れないという。
会社では、柱を無くした浜崎派が崩壊した。
でもね、浜崎さん。
あなたの本質を求める心、
その為には戦う姿勢。
それは我々に継承されていますよ。
僕の親父の正義感、
あなたの心、
僕らはそういうものを糧にして、
自分なりの明日を作っていくのです。
これが本当の
〝意思の継承〝
だと思うんですよ。
終わり
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