chapter18 公安課長
様々な官僚組織が集中する霞が関、
その中のとある建物の誰もいない部屋で、
一人の男が二一インチの液晶ディスプレイを見つめていた。
短く切り揃えられた半ばが白くなった髪の毛を撫で付けながら、
目は執拗に画面上の文字を追っている。
この部屋には十一人分のデスクが並んでおり、
彼は他の十人用の物よりもやや広い机を使用していた。
『公安調整室保安課長』
という肩書きが、他の者よりも上等な机や椅子を彼にあてがっていた。
十人の課のスタッフは、他の公安と同様に日中は出払っていることが多く、
部屋には課長だけ、ということも珍しいことではない。
戦前からの伝統を持つ企業や、官公庁に長く勤める者には、
『調整室』という存在の本当の意味が分かる。
広い意味での部門間の調整を担う部署であり、
その為の手段として非常に大きな権限を有する。
故に、極めて優秀な人間が求められる部署である。
但し、皆が敬遠する類の仕事が集まってくることもあって、
どうしても表舞台に立つような組織ではい。
要は地味なのであり、ここへの配属を希望する者は少なく、
いつも質も量も人手が不足している組織である。
そして、地味ではあっても、
仕事の困難さは他の部署に決して劣らないのも事実。
今のこの課の課長は、三十五歳でこのポジションに就いた。
早い出世と言えるだろうが、
五十歳過ぎに見えるその外見と痩せ細った身体つきは、
この部署の縁の下の力持ち的な実情が作り上げたものだろう。
増して今は、白浜の事件をも担当しているのだから、
余計に老け込むというものだ。
事の重大さは和歌山県警の手に余り、
指揮権が公安に委ねられるのは当然である。
そして、テロから自然現象まで、
あらゆる可能性を内包する事案は、
内調を頂点に編成された対策本部が担うことになった。
その下位機関として、
捜査の部分を保安課長が陣頭指揮しているのだった。
この捜査には、組織間の板垣を超えた対応が必要になる。
それには、調整室での役割と経験が有効と判断されたのだ。
その上、国家間の調整まで持ち込まれたのだからたまらない。
米国の国務省から内調に連絡が入ったのは、
白浜の事件があった翌日のことだった。
白浜の事件の全容、それを教えろという訳だ。
それ自体には、内調の方で対処したようだが、
米国はそれだけでは黙らなかった。
全容の解明には程遠い実態から、
調査への協力を申し出てきたのである。
そして、その対応までもが、公安調整室に命じられた。
「米国大使館の然るべき組織と連携し、事態の把握に努めるべし。」
これが、調整室長経由で内調から保安課長に下された指令である。
米国の然るべき組織とは、CIAの日本支部のことである。
冷戦時代から日本国内に蔓延っている組織だが、
冷戦以降の枠組みの中で、対テロの先鋒として、
その重要性は増していた。
非公式な組織なので、如何に米国とは言え、
強大な部隊を日本に常駐させる訳にはいかない。
そこで、実務部隊は日本の公安がサポートするという
図式が出来上がった。
調整室保安課の任務の一つである。
数日後にCIAは、JAL1381便に乗っていた
木野田の荷物が怪しい、
と言ってきた。何を根拠に言っているのか、
改めて内調が米国に提示したレジュメを読み直した。
それには、1381便の乗客名簿と荷物のリストが添付されていて、
確かに木野田なる人物は搭乗していた。
預けられた彼の荷物は、布製のキャリーバック一つだったが、
その中に空の水筒があったらしい。
預け入れ荷物をスキャンした検査記録から読み取ったようだ。
「何処が怪しいってんだ?」
レポートを更にくまなく辿ってみる。
続報として追加された部分、
救援隊が作成した1381便の報告書にも荷物リストがあった。
その中で、木野田の水筒に合致する物は、
ひしゃげたアルミ製のボトルしかなかった。
このボトルは、細菌やウィルスといった類を運搬することができるもので、
破損していたという。
ここに至って、急速に木野田が怪しくなってきた。
少なくとも、木野田が事態の核心にいるだろうことが想像できた。
木野田が白浜に発つまでの経緯、アルミボトルの入手経路、
その他、木野田に関わる全てを調査対象にした。
幕張まで、的場という男に会いにも行った。
今のところ、結論に結び付くような結果は得られていないが、
もう少し掘り下げてみる必要があるだろう。
恐らく、米国も白浜の事態を細菌やウィルスによるものと
結論付けたのだろう。
同盟国の公安機関とはいえ、そういった結論は教えてもらえない。
これもいつものことである。
「丁稚扱いしやがって」
と如何に課長が歯軋りしても、情報機関の付き合いとはそういうものだ。
滞りなく調査を進めなければならない。
まずは、ボトルの入手経路、
そして木野田の職業と日常の全てを確認するのだ。
課のスタッフからは、逐次調査結果が送られて来ている。
今ディスプレイに表示している報告の中に、
二つだけ課長の目を引くものがあった。
一つ目はアルミ製のボトル。
一般人が入手できるものではないという。
それはちょっと珍しいボトルで、
アルミ製の嬌態を樹脂製のパッキンで密封するものだった。
軽さと取り扱いの容易さで売り出し中のもので、
『的場ケミカル』が考案したものだった。
木野田は、『的場ケミカル』が関わるプロジェクトに
参画していたのが分かっている。
これで、木野田がそのボトルを入手した経路は目処がついた。
だが、彼が参画していたプロジェクトというのは、
洋酒メーカーが立ち上げようとしていた、
サプリメント事業に関連したものだったはずだ。
サプリは食品である。
細菌やウィルスを運搬できるような、
こんなボトルは必要ないではないか。
「何かある。」
部下には、木野田の調査を継続するように指示した。
二つ目は、的場の追跡から出てきた浜崎という男。
幕張にあるオフィスに的場を訪ねた時、
的場の立ち居振る舞いが気に入らなかった。
三十五歳で課長にまで昇進した男の嗅覚は、
公安に二十年近く勤めた者だけが感じ得る、
独特な異臭を嗅ぎ取ったのだ。
「隠し事のある人間の臭いだ。」
相手は経営に携わる者。
法執行機関には知られたくない隠し事、
そんなものの幾つかがあっても不思議ではない。
むしろ、普通はあるものだ。
だが、的場のそれは木野田に関するものだと、
公安課長としての経験が騒ぐ。
捜査や調査において、タイミングを逸することは致命的になる。
理由は後から考えればいい。
彼はすぐ、部下に的場の監視と追跡を命じた。
それも、できる限りわざとらしく。
そうすることで的場を動揺させ、尻尾を出させようと考えたのだ。
その結果の報告である。
的場を尾行していた捜査官が、一人の男を捜査線上に浮き上がらせた。
的場が品川駅から新幹線に乗車した時、
その男はもう座っていたというので、
彼は東京駅から乗っていたことになる。
車内で二人に会話はなかったというが、
極秘の荷物の受け渡し等には、列車の指定席はよく使われる。
的場が座席に何かを置いていき、
それを的場が下車した後に何食わぬ顔で受け取るという手口である。
的場とともに捜査官は新大阪駅で下車したのだが、
一人の捜査官が車内に残り、
的場が座っていた付近に立ち寄る誰かの存在を待った。
誰も来ないうちに、列車はすぐに新神戸駅に到着。
的場の隣に座っていた男が、そこで降りようとしている。
捜査官は迷った。
この男が的場から何かを受け取っているかもしれない。
あるいは、新神戸から乗ってくる誰かがここに現れるのか。
車内に残った捜査官は一人だけだったので、
両方の可能性を追う訳にはいかず、
彼は自らの直感に従って男を追跡することにした。
新神戸駅前のターミナルに出た男は、
すぐにタクシーを捕まえで走り出す。
捜査官も別のタクシーに乗って後を追ったのだが、
向かった先は神戸空港。
男はそこから、そそくさと羽田に向かって飛んだのである。
東京から新幹線で神戸まで行き、
何処にも寄らずに羽田に帰るという不自然さ。
捜査官の勘は的中した。
何かは分からないが、的場はこの男と隠密裏に接触したのだ。
すぐに課長の指令が飛び、男の身元が調べ上げられた。
その結果をディスプレイ上に映し出す。
男の名前は、浜崎仁。
メーカー系ITベンダの常務取締役だという。
的場とは旧知の仲らしく、
社内でも業界でもキレ者として名を馳せている。
戦前の華族の末裔で、神楽坂の豪邸に一人で住む。
五十男の一人暮らし。
良家の血筋で金も持っており、おまけに仕事もできるとなれば、
叩けば幾らでも埃が立つに違いない。
しかし、公安はそんな埃を掃除しようとしているのではない。
一方のターゲットである的場は、
単に金儲けが上手いだけの経済人ではない、
というのが専らの評判である。
その的場と親友だという浜崎とて、類似した人種と思われる。
互いに人望も厚く、同時に敵も多いことだろう。
そんな彼らに対して、木野田の風評は趣が違っていた。
俗に言う冴えないオヤジである。
とは言え彼の能力は、
姑息だけど、とか、お難いけど、とか、
人間としての使いにくさを形容されながらも、
一定の評価を得ていたと言っていい。
上位の立場の人間からすると、
嫌な役回りを頼める便利な存在だったのではないか。
「点ばかりで繋がらない。」
苛立たしげに課長が呟いた。
的場と浜崎と木野田。
こいつらが白浜に関わっていたのなら、
それがビジネスであれ悪だくみであれ、
各々が各々を必要とする存在に違いない。
ところが、化学系やら製薬系やらという必要条件は備えているものの、
彼らとウィルス、
そしてそれを使ったテロ行為と結びつける十分条件が見当たらず、
点が線にならないのである。
点を結って線とする他の要素が無ければならない。
それは、『動機』だ。動機が見えない。
「あらゆる行動には、動機は必ずある。」
という独り言とともに課長は、
部下に現状の尾行を継続するように指示を出した。
もっと情報を集めなければならない。
「もう一押ししてみるか。」
決して椅子に根が生えている訳ではないと証明するかのように、
スクっと立ち上がった課長は、地下の駐車場に向かった。
行き先は幕張の『的場ケミカル』。
捜査のプロである課長にとって、
素人の的場を揺さぶる方法は幾らでもある。
「さて、どのテで行くか」
笑みを漏らす課長の顔は、ハンターのそれであった。
強者が弱者を追い詰める心理。
狩猟を生業とした人間の一つの血統が、現代の公安課長をして、
その激務を続けさせる動機なのか。
彼もまた、心の昂ぶりを感じていた。
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