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世界の色、ヒラギのイロ 作者:双色
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第三章:空の色

 中学時代の事はさっぱり解らないが、高校に入ってからのヒラギはどうにも他人を寄せ付けず、教室内でこの女の声が聞けるのは授業で指名されたとき、もしくはこちらから話しかけたときくらいである。前者と後者の違いというのはそれほど無く、どちらとも機嫌の悪そうな声音であり、さらに後者に至っては口調や内容のそれが明らかに鬱陶しさを感じさせるものであるから、この女に自分から声を掛ける人間など殆どいない。
 昼休みはいつも姿を消していて、それが始まったのは入学式から一週間が過ぎてからだった。一体どこで何をやらかしているのだろうね。よもや他のクラス、あるいは上級生の彼氏と一緒に仲良く弁当を突付き合っているとかでは無いだろうか。こんな言い方をすると誤解を招くかもしれず、その誤解は百パーセント誤解であり真実など皆無な妄想フィクション物語であることは予め断言しておこう。今のは心配とかそんなではない。いや、まあ確かに心配はした。ただしその彼氏さんの身をだが。
 俺の知る限りでは、ヒラギはいつもコンビニのおにぎりやパン、たまに通学路にある弁当屋で買ったその時の期間限定弁当ってのもある。弁当は別にして、コンビにおにぎりやパンで腹が膨れるのだろうか。どうでもいい疑問ではあるが、気になってしまう。というのも俺はこの女の異常な力を知っているからで、それがヒラギの細腕から、喰っている物からは一ミクロンも想像する事が出来ないのだ。
 ヒラギが現在の半孤立状態に陥った原因というのは、昼休みというクラスメイトと交友を深める最もポピュラーな時間帯に教室から消失している事と、休み時間稀に話しかけてくる女子生徒――たまには男子も話しかける事がある――たちを、不機嫌な態度で追い払ってしまうという態度を一週間くらい保っていた事に由来している。
「堤、天羽って中学のときからあんなだったのか? ほら、誰かと話したりしないだろ」
 今は昼休みであり、いつの間にか浜中に続き、堤までもが俺の席にやってきて飯を喰う事になっている。半ば習慣となっているから特に気にならない。学食へ行っているのか、それともどこか恰好の昼食スポットがこの学園内にあるのか、この教室は昼休みに入ると急激に過疎化する。それも初めの十五分くらいだから、みんな弁当を教室外で取っているのだろう。
「そうだな。僕が知る限りでは、天羽が誰かと仲良く会話するところなんて中学時代には見れなかったよ」
 中学時代には、そんな部分に突っかかってやるつもりなど毛頭無い。そんな事を言えば、この男はまた俺とヒラギの関係がどうとか言い出すだろうからだ。弁当喰いに没頭している浜中も然り。そんな不毛なやり取りを自ら発生させたりはしないさ。
「天羽は自分から誰かに話しかけたりしないし、他人から頻繁に声を掛けられるわけでもない。その割には影が薄いとか、目立たない存在じゃなかったんだよ。容姿のせいもあるけど、あいつは妙に目立ってたよ。中学時代はずっとな」
「目立ってるのは、今も同じだと思うぞ。原因は不明だけど」
 弁当を喰い終えてからの雑談の話題が、近頃ではヒラギの話題になっている俺たち3人組。浜中も堤も、何故かヒラギの話をしたがる。今日は俺から話を振ったが、通常では浜中辺りが適当な妄想語りを始めるのだ。その内容は今更説明するでもないだろう。
 教室にいないヒラギは、いつも驚くほど正確に五限目開始の五分前に教室に戻ってくる。今日もまた例外ではなく、そんなヒラギの習性を理解している浜中、堤組みが天羽ヒラギの姿が教室に出現する前に自分の席へと帰来すると、戸口で中の様子を窺っていたかのように、見事なタイミングでヒラギが戻ってきた。もしかしたら裏でやり取りがあるのかもしれない。
 長い髪を揺らしながら、無表情に席に帰ってきたヒラギに俺が話しかけた。
「今日はどこへ行ってたんだ。どこかこの学校内にいい昼食スポットがあるなら教えてくれよ」
「そんなの自分で探しなさいよ。それよりさ、あんたよく昼休みまで教室なんかにいれるわね」
 教室なんかとはどういったことだろう。この室内には硫黄でも発生しているのだろうか。
「そういう事じゃなくて、ほら、解んない?」
「何のことやら。悪いが俺にはさっぱりだ」
 俺には解らなくて、ヒラギには解る何かが教室にあるのだろうか。
 ヒラギと会話を成立させるのはなかなかの難易度であり、俺自身一日に何度もまともな会話など出来たことが無い。だからといって気にすることではないし、気にしてもいない。しかしながら今日は何やら様子がおかしい。いつもそれほど会話が長続きするわけではなく、今日のこれもそんなに珍しいことではないのだが、明らかにおかしな事がある。
 ヒラギの表情だ。
 話に飽きたと言わんばかりに、話し終えるとどうにも不機嫌そうな表情になるのが、俺の網膜と記憶に焼きついた光景であり、日常的な風景なのだが、今日のヒラギは俺の返答を聞くや表情を暗くし――本当のところは解らないが――俺の主観ではどこか陰鬱とした、溜め込んだ気持ちの吐き出し方が解らないような、つまりそんな表情に見える。……形容の仕方が解りにくいかもしれない事はお詫びしておこう。端的にいえばいつもの無表情よりも十ワットくらい暗い無表情だ。今、ヒラギは何を考えているのだろうか。
「急にどうした、昼飯にでも中ったか?」
 気が付けばヒラギの視線は俺の上靴の爪先に向いていて、俺がそれに気づいたのは気遣いのつもりで掛けた言葉を聞いたヒラギが顔を上げたときだった。……なんだろう。今日のヒラギはどこかおかしい。
「別になんでもない。ちょっと残念だなと思って」
「残念って何がだ。お前熱でもあるんじゃないか? 何か変だぞ、今日のお前」
 言いかけたところで俺は閉口した。ヒラギの黒い目が睨んでいる。スッと身体を沈めて、今にもアッパーを放ちかねない。
「変ってなによ。あんたさ、あたしの事何が解ってるの?」
「いや、だからな、何となくだよ。何となく、今日のお前は様子がおかしい気がしてな。つまり、あれだ、どこかお前らしくない。そんな感じがしたんだよ」
「あたしらしいってなに」
 それは――。
 言葉に詰まる。どう言っていいのか、返答の句が浮かんでこない。ヒラギの放つ漆黒の眼光に当てられているからかもしれないが、冷静な判断が出来ない。いいや――、

 俺は回答を持ち合わせていなかった。

 ヒラギにお前らしくないと言っておきながら、しかし俺はヒラギの事を理解していない。
 ヒラギらしくない、ではヒラギらしいとは何か、俺はどう答えていいか、どう答えるべきかまるで解っていない。いや、ちょっと待てよ。でも、人間なんてそんなモノではないだろうか? 誰もが、自分のことを、ましてや他人の事を心底理解などしていないのではないだろうか。俺だって、自分のことを完全に理解しているとは断言できない。いや別に開き直っているわけではないのだがな。
 そんな事を真剣に考えていたのも、二分以上三分未満であり、結局俺は答えを見つけられぬままシンキングタイムを終了させた。
 ヒラギは何事もなかったように授業の用意を机の上に広げていて、さっきまでの突き刺すような視線はもう黒板に向いている。
 考えても答えが出ない事はしょっちゅう――特にテスト中とかさ――あるが、今日のそれは非常に後味が悪かった。
 俺もまた授業の準備をし、よそ見の代償として数学教師に指名されるまで放心状態となった。


 ◇


 天羽ヒラギという女はまるで江戸時代、鎖国を計っていた日本国のように、まるで周りとの接触を拒んでいた。とはいえ、さすがのヒラギ頭脳も問答無用に近寄るものを沈めてしまえというような、つまり異国船打ち払い令までは発令していない。事実、ヒラギはせっせと攘夷運動を行っているのではなく、自分に話しかけてくる人間以外には、何の危害も加えないのだ。
 気の毒なのは、そんな鎖国女に話しかけて、友好を持とうとするクラスメイトであり、そんなことをする愚かな少年少女――主に少女たち――は罵倒や無関心という強力な砲撃によって追い返されてしまう。これまでに沈められまでした者はいないが、それこそ時間の問題である気がしている近頃の俺であった。
 そんな無理に構わなくてもと思うのは、おそらく俺だけではないだろう。しかしまあなんと、諦めが悪いというか粘り強いというか、ネバーギブアップの精神を誰よりも心掛けている少女が、今日も天羽ヒラギに話し掛けていた。
「天羽さん」
 と名前を呼ぶのは二階堂瑠架であり、ヒラギの隣席に座っている俺としては、この光景は見慣れた光景である。
「なに?」
 鞄から教科書を取り出したヒラギがその姿を確認した。
 顔を見るや、また自分に声を掛けてきた人物が同一人物である事を悟ったヒラギは、鼻を鳴らして言った。
「またあんた? なによ。そんなに暇なの?」
 そんな応対の仕方は無いだろうよ。今や二階堂は、ヒラギに話し掛けようなどという好奇な、いや、親切でそしてクラスメイト思いな人間は、彼女くらいのものだろうに。しかしヒラギは、そんな恩恵頼んでも、望んでも無いといわんばかりな対応をして、しかも二階堂も本気で申し訳なさそうな表情をして言うのだ。
「ごっ、ごめんなさい……。この問題がどうしてもわからなくて」
 二階堂はいつもそう言ってヒラギに声を掛けているが、こうして何度もその状況を目撃しているうちに、俺はあることに気が付いた。初めて二階堂がヒラギに話しかけた日から今日まで、二階堂が教えを求める問題はいつも同じ問題であり、次の時間が現国の授業だってのに、そんなことはお構い無しに、二階堂が抱き抱えるように持ってきた教科書は数学である。つまり、この娘は問題を教えて欲しいのではなく、ただヒラギと話がしたいのだ。
「自分で考えなさいよ。あのね、数学なんてのは誰かに教えてもらうものじゃないでしょ? 自分で問題を解いて、脳に経験値を叩き込む。そうやって、頭を鍛えるのが数学の目的なのよ。誰かに教えてもらって理解しようなんて、そもそも数学の事を解ってない証拠だわ」
 随分と勝手な事を言ってやがる。数学の目的が頭を鍛える事で、誰かに教えてもらっては意味が無いのなら、高校の授業に数学は必要ないだろ。
「はあ」と口から息を吐いたヒラギが視線を二階堂の顔から黒板左端の時間割に向いた。
「それから、次は国語でしょ? 何で数学なのよ。普通だったらそっちを教えてもらうでしょ」
 国語についてだったら、お前は嬉しそうに教えてやるのだろうか? 無論、そんなわけはない。二階堂がこうして教えを乞うとき、次の授業が数学である事なんていくらでもある。どうせ国語について教えて欲しいと言っても、さっきのように勝手な屁理屈を並べて拒否するんだろうな。とか考えていると、二階堂はバタバタと自席へ戻っていき、机の上に置いてあった教科書を持ってやってきた。いちいち動作が慌しく、見ていて今にも転びそうである。
 二階堂は大きな琥珀の目をパチパチとさせて、
「国語教えてください! 今日のところ、全然解らないんです!」
「嫌よ、面倒くさい。自分でやんなさい、それか教師に頼むか。とにかくね、あたしはあんたの家庭教師でも、マネージャーでもないの、いちいち勉強を教えてあげる理由なんて無いの」
 腕組したヒラギは、「フンッ」と鼻を鳴らして首を横に向け、その際に俺と目が合うと、そのまま首をユーターンさせ、視線を百八十度回転させた。まあこうなる事は予測できていたのだが、もしも俺の予測を裏切りヒラギがオーケーを出し教鞭をとるような事があれば、果たしてどのような事を教えるというのだろうか? それでも結局のところこいつは何に関しても享受などしないのだ。
 二階堂はさっきよりアタフタしていて、どうにも自分が不道徳な行動をとってしまったと思い込んでいる表情で、さらには助けを求める視線を俺に放っている。無視するには無理がありすぎるので、頬杖をついていた俺はゆっくりと傾けた首を起こし、溜息をついてから助け舟のオールを漕ぎ始めた。
「なあ天羽、別にいいじゃないか勉強教えるくらいよ。お前頭いいんだし、せっかくの才能だ、少しは世の中、せめて教室の中だけでも使ってやれよ」
 黒い後頭部に向かって言った。心情的にはやれやれだ。どうして俺がこんな事をしてやらねばならん。
 自分の良心に感心を抱いていると、背を向けていたヒラギがゆるりと振り返り、その眼光を俺に飛ばし始めた。
「うるさいなぁ、もう。そんな事言うんだったらさ、あんたが教えてあげればいいでしょ? どうしてあたしがそんな面倒なことしなきゃいけないのよ。バカみたい」
 俺の出した助け舟は、強烈な渦潮に飲み込まれ沈没した。俺が教えてやってもいいが、あいにくと自分が教鞭を執れるほどの頭脳を持ち合わせてなどいない事を俺は理解している。
 それにだ、二階堂は何も勉強を教えてもらいたいわけではない。俺でも解るぞ。それぐらいは理解してやって欲しい。よもやこいつは、それを理解していながらこの態度を取っているのだろうか。
 長い髪を翻して、椅子に座ったまま身体を回転させたヒラギとまともに目が合ってしまう。
「そーれーにっ! どうしてあんたが口を挟んでくるのよ。関係ないでしょ」
「隣で聞いてて、随分と勝手なことを言ってやがるからだろ。いいじゃねえか、国語でも数学でも、教えてやっても。……まあ国語は仕方ないかもしれんが、それでもお前ならどうってことないだろ?」
 脚組を止めて、ヒラギの両足が教室の床についた。その代わりに今度は腕を組んで俺を睨み付ける。視線で人を殺せるんじゃないかと思うくらい、気の弱い奴ならこれだけで土下さしてしまうくらいに、それはもう強烈な睨みである。慣れない頃の俺なら謝っているだろう。
「だから何よ。そんな面倒なこと、あたしはしたくないのよ!」
 言い放つとヒラギの破壊的な視線は俺から二階堂へ移動した。
「あんたも何階言ったら解るの。いつ来てもあたしは数学も国語も教えないわよ! 鬱陶しいから、いちいち話しかけないで」
 何もそこまでと思うくらいの、強烈な罵倒である。しかも大声で言いやがるものだから、教室全体の注目を浴びている。ああ……高校に入ってからというもの、俺は変に目立つようになったな。
「そこまで言わなくてもいいだろ。だいたいな、二階堂はお前がクラスで孤立してるから、わざわざ交友を持ちかけてくれてるんだ。そんな事も解らんのか、お前は」
「余計なお世話よ! 誰もそんな事頼んでないしそれに、それだったらそうと言えばいいでしょ!」
「言ってやっただろ、今俺が」
「あたしも言ったでしょ、余計なお世話だって!」
「ああ言えば、こう言う奴だな」
 ヒラギの黒い目が怒りの光を灯して俺を睨みつけ、俺は黙ってその凶器のような視線を受け止めたまま黙る。これ以上何を言っても無駄であり、教室内の空気を悪くするだけだ。しかしそう考えているのは俺だけであったようで、ニラメッコの対戦相手、天羽ヒラギは椅子から立ち上がると人差し指を突きたて俺の鼻先を刺し、何かを言い放つべき酸素を大量に吸い込んだ。
「ごめんなさい!」
 と、これは言うまでもなくヒラギの言葉ではない。この人物が事の発端である事を俺は、おそらくヒラギも忘れていただろう。二階堂瑠架が声を上げた。
 自分でも驚くほどに大音量で言ってしまったのだろう。俺を含む教室の生徒、加えてヒラギさえも沈黙させた二階堂は模範的なまでに狼狽している。大きな琥珀の瞳が滲んでいた。
「その、わたしが悪かった……です。その、天羽さんのご機嫌を……」
 言葉が見当たらないのか、二階堂は継ぎ接ぎにそう言ってから。
「また今度、出直してきます!」
 最後に頭を下げて、自らの席に帰っていった。いやいや、また出直すって……。
 俺は隣人の表情をうかがった。世にも珍しい、ヒラギが絶句して口をポカンと開けている。狩の最中に獲物のウサギに思わぬ奇襲を喰らわされた虎のような表情で硬直するヒラギは、そんな姿を眺める俺の視線に気づいたのか、黒い目を俺に向けた。
 自分が怒っていたのを忘れているかのように、それでも開いた口は塞いで、瞠目していた目はそのままに俺を睥睨する。
 思えば、この事が原因だったのだろう。


 ◇


 この日の教室はどこか先日までと雰囲気が違っていた。
 吸い込まれる事を拒むかのような、どうも重苦しく肺の活動を不活発化させるような空気が昨日までのこの空間には満ちていたのだが、どういうことだろう、今日のそれはまるで酸素濃度が十パーセント増したように緩やかに肺に侵入してきては、赤血球により身体全体に循環していくという、まあごく普通なモノであった。
 何故だろう? と俺は教室を見回して、すぐに原因を発見する。
 簡単な間違い探しである。昨日までの教室に存在して、今日この時間の教室に存在しないもの。重力を二倍に感じさせる教室の雰囲気、その中心でそれを発生させていた人物は紛れも無く天羽ヒラギという女であり、今日はそれが無いという事はつまり、ヒラギは今ここにいないのだ。
 どういう事か。昼休みに消失するのは既に俺の脳に刻み込まれたヒラギの習性なので驚きはしないのだが、授業と授業の間、そう長くもない休み時間にヒラギが姿を晦ませたのは今日が初めてである。学校を休んでいるわけではない。その証拠に俺の記憶にはさっきの一限目に隣席に座っている髪の長い女の姿が張り付いている。
 俺がヒラギ消失の謎について無駄な推理を展開していると、いつもなら昼休みか登校中にしか聞かない男の声が俺の鼓膜を揺らした。
「天羽はどこ行った? お前何か知ってるんじゃないか?」
 浜中は言ったあと空席になっているヒラギの席に視線を落とした。
 どうでもいい質問に答える俺が、吐息を吐くように呟く。
「知らん」
「知らんってお前よお。……あれか? 他人には言いにくい何かが発生したか?」
「何もない。どうして俺が天羽の行動一つ一つについて知っている必要がある。もしも知っていたとして、それをお前に話してやるつもりはないぞ」
 何もないとは真実であり、昨日事務所でのヒラギはご機嫌に俺に雑用を押し付けまくっていたからな。
「思ったより早かったな。中学時代はこれが始まるまでに、一ヶ月くらいは要したんだが」
 これもまた昼休みと登校中にしか聞かない声である。ヒラギについて何かと知っている、中学時代のヒラギを知る男、堤の眼鏡を掛けた無駄に男前な面を俺が見上げた。
「中学の時のあいつは、休み時間常に教室にいなかっのか?」
 俺が言うと、堤が一旦俺から視線を外して口元を緩める。
「まあな。僕だけじゃなく、天羽と中学が同じ奴らは皆解っていたと思うぞ。どこに行っているのか、そこで何をやっているのかは誰も知らないんだけどな」
 浜中の後ろにある、ヒラギの席を一瞥してから、
「彼女以外はね」
「本当によ、どこ行ってるんだろうなあいつは。詳細を突き止めて、新聞部にでも持って行ったら、小銭くらいは稼げるんじゃないか?」
 新聞部なんてこの学校に存在しているのかと、俺は中央階段に張ってある部員募集張り紙の群れを思い出した。結果的に俺の記憶力なんてたいした事はなくて、せいぜい覚えているのは文芸部とか、吹奏楽部とか、演劇部などの派手で手の込んだ張り紙だけであったのだが。
「彼女と同じ中学出身の人がいれば、あるいは」
「売れねーよ」
 いくらヒラギが奇妙奇天烈摩訶不思議な女であっても、そんな事同じクラスじゃなきゃ知らない事だし、もしかしたら見かけに騙された哀れな男子生徒が買うかもしれないが、後々詐欺だと訴えられかねないので、
「やめとけ。アホな事を考えるな」
 自分の持てる全ての義理と人情に後押しされ、そう言うのだった。
 二、三、四限目と順調に進み、当然のように昼休みに入る。ちなみに一応言っておくと、ヒラギはちゃんと授業に出ていた。とは言っても、俺がその姿を確認したのは授業開始直後のみであり、その後の俺は精神を夢の世界に彷徨わせていた。
 鞄から弁当を取り出して、いつものようにやってくる浜中、堤ペアと雑談を開始する。
「そういえば、お前ゴールデンウィークはどうするんだ? どっか行くのか?」
 訊いてくるのは浜中である。どうでもいい事を寝起きの俺に訊いてくるな。俺の寝起きが悪い事は家族内では有名なんだぜ? 中学のときの林間だって、起床時間の五分前に起こしてきたクラスメイトを思いっきりぶん殴ってやった記憶がある。
「お前の自慢話なんて聞きたくねえよ」
 自慢したつもりは微塵もない。
 弁当箱の中身を一通り吟味してから、顔を上げて浜中に言う。
「で、何の話だったか?」
「ゴールデンウィークだよ。お前予定あるのかって、訊いたんだよ。まあ、訊いてやるまでも無いな。堤はどうだ。どこか行ったりするのか?」
 勝手に訊いてきておいて、それは無いだろうとは俺は思わない。別に俺の予定をこんな男に話してやる気は無い。確かに、話してやるような予定なんて無いのだが……。
 ズレた眼鏡を人差し指でクイと上げた堤が、コンビに弁当付属の割り箸を割って、
「一応、バイトを入れてあるよ。毎日じゃないけどね」
 俺の勝手な想像では堤の事だ、彼女でも作って遊びに行くものだと思っていた。バイトとは意外と等身大なんだな、この男前は。
 無駄にデカイ玉子焼きをバラしながら、俺は一向に昼食を開始しようとしない浜中の笑いを隠しきれない面を横目に見て言った。
「お前こそ、何か予定はあるのか? 何もする事が無くて暇なら、どこか遊びに行くくらいなら付き合ってやってもいいぜ」
 俺なりに空気を呼んだ発言のつもりである。浜中の堪え切れない笑みは、俺に自分にも聞いてくれとか言っているみたいだったからな。
 よくぞ訊いてくれた、と言わんばかりに自分なりに堪えていたであろうニヤケ面を最大にして、浜中は箸をとりだしながら言った。
「いやあ、すまねーな。俺としても、お前と遊んでやりたいと思っていたんだが、ゴールデンウィークを男二人で過ごすなんて、寂しい人種は既に卒業したんだよ」
 何となく、話の先が読めている自分が憎らしい。聞きたくないが、ここまで話させたついでだと思い、続く質問を浴びせてやると、三日ぶりに水を貰ったひまわりのように明るい表情で、浜中が答える。
「うきゃきゃきゃ。バイト先の娘とデートの約束さ。うきゃきゃきゃ」
 気味の悪い笑い声を発しながら、浜中はようやく弁当を喰い始めた。詰まるところ、このアホ男は自分の自慢話をしたかったのだな。俺の寝起きの悪さを自慢と言っていたが、これこそそうではないだろうか。
 これ以上話を盛り上げて浜中の機嫌を良くしてやる気は無いので、俺は黙って弁当喰いに集中する事にした。
「そうかい。どんな子なんだ、浜中」
 聞かなくてもいい事を、堤が浜中言わせようとする。
 浜中はブロッコリーを口に運ぶのを中断すると、これまたいい質問をしてくれたという表情で言った。
「そうだな、俺的に見てルックスは上の中、しかし性格がいい。ボディラインもなかなかのもので、フフフ……そうだな、そんなに見てみたいのなら、プリクラでも撮って休み明けに見せてやろうか?」
「遠慮しとく。僕は他人の彼女に何て興味ないしね」
 邪気の欠片も無いハンサム眼鏡が、モグモグしていた口の中を空にしてから言った。興味ないのなら、どうしてそんな事を訊きやがった。他人の彼女の自慢話など俺にしてみれば非常に聞きたくない話だぞ。それも浜中のものならば、よけいにだ。お前はいいだろうぜ、彼女なんぞ、作ろうと思えばいくらでも作れそうだからさ。
 黙々と箸を動かしている俺を浜中はコメント欲しげに見つめている。気持ち悪い、見つめるな。アホ。
「よかったな、浜中。お幸せに」
「幸せたぁ、気が早いぜ! 一応言っておくがな、まだ交際関係までは行ってないぜ? まあ、時間の問題だけどな。うきゃきゃきゃ。いいじゃねーか、お前もお隣さんとどっかいけば」
 今この教室に耳栓を持っている奴がいれば、今すぐ俺に譲ってくれ。相場の二倍の値段で買ってやってもいい、鼓膜の破損に比べれば安いものだ。
 浜中の自慢話をその後も聞き流しながら、俺は黙って弁当を片付け続けた。言っておくが、これは嫉妬などではない。神に誓う。ああそうとも、羨ましいものか。
「………………」
 俺は沈黙して、浮かれまくっている浜中を一瞥する。続いて堤。この男は浜中の自慢話を笑って聞いている。いやあ、羨ましいね、モテる男は。いいや、浜中の事ではないぞ。
 話の輪に入っていない俺が、一番乗りで弁当を片付けた。これほど不愉快な食後は初めてといっても言い。いまいましいね。
 弁当箱を鞄にしまって、ベラベラ浜中が喋っている内容がデートの予定だと知り、この場から立ち去る事を決意する。机を二人に明け渡した俺が、教室を出ようと椅子から立ち上がると、女の声が俺の鼓膜を心地よく揺らした。名前を呼ばれて振り返る。
 ちょいとばかし驚いた。俺に声を掛けた人物は大きな双眸で俺を見据えている。
 二階堂瑠架が俺に声を掛けてきた。
「えっと、なんか用か?」
 用があるから声を掛けたんだよ、とそんな事をこの人物が言うわけ無いと俺は思っている。やはり、二階堂はそれを言わずに、
「はいっ。……あのぉ……今日の放課後、予定ありますか?」
 浜中も堤も、椅子に座ったまま俺を見上げている。場所を変えた方がいいと思うのは、俺が今たっているのは自分の椅子の後ろで、眼下の机で弁当を広げながらデート予定を談じている浜中も、それを微笑しながら聞いている堤も健在であるからだ。
 何度か瞬きして、俺はぽかんと自分を見上げる浜中と堤を見下ろした。名前を呼ばれて視線を二階堂に戻す。
「えっ、予定? いいや、別に無いけど」
「それでしたら…………、もし、もしよかったら、放課後わたしに付き合ってくれませんか?」
 もじもじしながら、スカートの裾を握り締めている二階堂は上目に俺を見ながらそう言った。


 ◇


 放課後の学生たる俺は現在制服を着て喫茶店の一席に座っている。向かいに座っているのは、大きな目で俺を見ている少女は二階堂瑠架という、学年で一、二を争う美少女である。ヒラギは? 確かに見てくれならいいかもしれないが、性格に問題ありだ。とはいえ別に天羽ヒラギという存在を全否定しようと思わない。人にはそれぞれの主観があるからな。二階堂もまた学生鞄を持ち制服を着ている完全な下校スタイルであり、つまり俺たちは下校中にこの喫茶店に立ち寄ったのである。
 誘ってきたのは二階堂で、時刻は今日の昼休み中盤、俺が弁当を片付けて思い出すだけでも頭がガンガンする、おそらくは二日酔いに近いだろう感覚を催す浜中の自慢話を聞き流しながら、教室を出ようかと立ち上がった時である。まあ、断る理由がどこにも見当たらないので、俺はそれを了承した。
 どこへ予定というものが無かったらしく、二階堂にどこへ行くのかと尋ねると「えっ?」「その」「えっと」とか慌てふためき始めるので、歩き疲れた俺が近くの喫茶店に入店する事を提案したのだ。そうして、今のこの状況が出来上がっている。
 お互いに黙ったまま座っていて、会話というものがまるで無い。とりあえず、俺は鞄を抱きしめている二階堂に言ってやった。
「あのさ、鞄置いたらどうだ?」
「そっ、そうですねっ! ごめんなさい、何だか緊張しちゃって」
 いちいち謝らなくてもいいのに、と思いながら俺は微笑みかける。気取ったつもりは無い。
「わたし、男の人とこういうお店に入るの初めてなんです。放課後に一緒に歩いたのも初めてで、本当に小心者なんで」
「そうなんだ。えーと、それでどうして今日は?」
「いろいろと、話したい事があったんで……その、教室だと話しにくいので」
 無意味に心臓がアップテンポで脈を打っていた。これはどういう事か。もしかすると俺の彼女いない暦が、終わりを告げようとしているのかもしれない。淡い期待に少々の緊張感を覚えていた。
 二階堂は俯き気味になっているので、俺に向けられる視線がどうしても上目遣いになってしまう。
「天羽さんの事ですけど……今日は休み時間教室にいませんでしたよね――」
 ウエイトレスが言った「ご注文は?」の言葉にビクリとして、二階堂は話を中断した。何もそこまで驚かなくても。喫茶店にウエイトレスがいるのは当たり前だろう。
 俺が適当な注文をしてから、
「二階堂は、何か頼むか?」
「へっ? あっ、はい、それじゃあ……」
 ウエイトレスと俺の顔を交互にうかがってから、二階堂が呟くように言う。
「コーヒーを……お願いします」
 注文をメモッたウエイトレスが、最後にペコリとお辞儀をして、ついでに俺たちの顔を三秒づつくらい見てからクスッと笑い、立ち去っていった。
「えーと、それで、何だっけ?」
「ぇえっと……。あっ、はい。天羽さん、今日はずっと休み時間教室にいませんでしたけど、あれってわたしのせいでしょうか……?」
 これまたどうした事か。どうやら二階堂はヒラギの消失の原因が自分にあると思っているらしい。
 俺は運ばれてきたお冷を少量飲んでから二階堂に訊いた。
「そりゃあ違うと思うぞ。何でまたそんなこと」
「昨日――、昨日だけじゃなくて、休み時間になったら、わたしいっつも天羽さんに話しかけていたから。それが嫌になって教室から出て行っちゃったのかと思って……」
 俺は今日の朝堤が言っていた言葉を思い出していた。確かこの現象は中学時代からあった事らしいから、おそらく二階堂は関係ないだろう。ヒラギの考えている事など不明だが。
 勘違いして自責の念に追われるのは気の毒なので、とりあえず否定しておく事にした。
「昨日の事は関係ないと思うぜ。いちいちそんな事気にする奴じゃないからさ」
「そっ、そうですかぁ……?」
「そうだろうよ。だから気にしなくていいぞ」
「はいっ、ありがとうございます!」
 感謝の気持ちを言葉にした二階堂は、勢いよく頭を下げた。本当に勢いが凄く、そのまま頭をぶつけてしまうんじゃないかと思ったくらいだ。
 顔を上げた二階堂は安堵の表情をしていた。どうやら本気で責任を感じていたらしい。
 減っていない二階堂の前に置かれたお冷を一瞬見てから、俺が話をふる。
「二階堂はどうしてそこまで天羽に関わろうとするんだ? 放っておけばいいだろ。友達とかなら、他にも候補がたくさんいるだろ。そこまでアイツにこだわらなくてもさ」
「違うんです」
 何が違うんだろう。
「天羽さんは、その他の人は違うんです。わたしにとって」
 生き別れた姉妹だとか言い出すのか思っていたら。二階堂はまた閉口してしまう。ウエイトレスが注文の品を運んできたからである。
 コーヒー二つをテーブルに置いたウエイトレスはさっきと同じ女性であった。状況観察でもするかのように、また立ち去り際に俺たちへと順番に視線を飛ばすと、二階堂にのみ笑顔の会釈をして去っていった。
 俺は運ばれたコーヒーに砂糖を入れて掻き混ぜながら、目の前の黒い液体を眺める二階堂に言った。
「天羽が他と違うって、どう違うんだ? まあ確かに、俺から見てもアイツは変な奴だけどさ」
 言い終えてコーヒーを啜る。
「そうじゃないんです。天羽さんはわたしにとって、憧れの人っていうか……。天羽さんは、わたしには無いモノを持っている気がして……。わたし、昔から気が弱いですから、天羽さんみたいに、強気で自分の意志をちゃんと持ってる人って尊敬しちゃうんですよ」
 あんな女を尊敬してしまうなんてな。言い終えた二階堂は手元のコーヒーを口に含む。表情に若干の変化が見られたかと思うと、
「苦っ……」
 もしかすると、コーヒーを飲んだのは今日が初めてなのかもしれないと思う表情であった。
「尊敬か。つまり、アイツと付き合ってれば、自分もあんな風に成れると思ってるってことか?」
「はい。そんな感じだと思います」
 俺としては、二階堂はあんな性格になって欲しくないと思うが、本人が望むのなら否定までは出来ない。しかし解らない事がある。
「どうして俺にそんな訊くんだ? 俺よりも堤の方が、天羽には詳しいし、俺と話よりも勉強になるんじゃないか?」
 何の勉強だよ。とは自分に対するツッコミである。
「あなたは天羽さんと仲がいいみたですしそれに」
 俺がカップを傾ける姿をまっすぐ見つめながら、

「わたしはあなたの事が好きですから」

 思わず口の中に含んだ液体を噴出しそうになった。無理やり喉に流し込むも、それがまた変なところに入ってしまう。ごほごほ言いながら喉を押さえて、俺が聞き返す。
「何だって? 今、何て言った?」
「ですから、わたしはあなたの事が好きだって――」
 自分で言った事を確かめるように、ゆっくりとさっきの言葉をリピートしていた二階堂の耳が一気に赤くなり、膝の上に置いていた両手で顔を覆った。指の間から覗く頬が朱に染まっている。うるうると大きな瞳が揺れていた。どうやら、自分で自分の言った事が解っていなかったらしい。
 二階堂はパタリと両目を閉じると、
「ごめんなさい! 別にわたし、そんなつもりで言ったんじゃないんです! 本当に、ホントにごめんなさい!」
 そう強く否定されると、それはそれで俺も傷つくな。
「解った。解ったから。でっ、つまりどういう意味で言ったんだ?」
 二階堂は真っ赤な頬から手をどけて、再び膝の上に置く。
「あなたも、天羽さんと似ていますから」
「俺が? 天羽と?」
 正直、それは予想外の言葉であった。俺がヒラギに似ている? 自覚は無いし、そんな事実も無いと思える。浜中も堤も俺とヒラギは中がいいと思っているようで、それは二階堂も同じらしいが、似ているだと? それは初めて言われた。信じられん。
 俺の静かなる混乱を悟ることなく、二階堂は落ち着いて話し続けた。
「あなたにも、天羽さんに似たものを感じます。だから、わたしはあなたとも仲良くしたいと思ってます。迷惑……でしょうか?」
 迷惑ではない。俺だって仲良くしたいとは思うさ。変な意味で伝わると困るが。
 そう言ってやると、二階堂は今日1番の微笑を俺にくれて立ち上がった。
「ありがとうございます。今日はわたしに付き合ってもらって。それじゃあ、わたしはそろそろ」
 と、伝票を置いたまま立ち去ろうとする二階堂に、俺が言った。
「あっ、おい二階堂」
「はい。何ですか?」 
 パタパタと動く瞼が、琥珀色の瞳を見え隠れさせる。
「鞄、忘れてるぞ」
 この日の喫茶店代は俺の奢りだ。


 ◇


「ちょっと! ちょっと! あんた一体どういうつもり?」
 教室に入った俺を迎えたのは、右手を腰に当て、左手の人差し指を俺の鼻先を指して向かってくる天羽ヒラギだった。
 鞄を肩に掛けたまま、俺はイマイチ状況が飲めず、怒り狂う――それでも何か楽しそうな――ヒラギから後退して距離を置く。楽しそうな、というのは全面に押し出した怒りを抑えている感じがある。
「ちゃーんと、理由があるんでしょうね! あたしも納得のいく!」
 ずんずん向かってくるヒラギの勢い押されて、いつの間に俺の背走スピードは上がっていた。
「おい天羽、ちょっと落ち着けよ」
「黙りなさい! 弁解なんて聞きたくも無いわ!」
 背中が黒板にぶつかり脚を止めると、ヒラギの動きも停止する。胸座を強力な力で引っ掴み、黒い鋭利な眼光を飛ばしてくる。
 俺はヒラギの肩を掴むと、首を締め付ける強力に顔を顰めつつ言った。
「待てって、どうしたんだよ急に。まずは何故お前が怒髪で俺の胸座を掴んでいるのか、説明してくれよ」
「説明しなきゃいけないのはあんたでしょ!」
 つばを飛ばすな。はしたない。見ろ、こんな事をしている俺たちを、浜中が面白そうに見てるじゃねえか。ちょっとは場所と俺の名誉を考えてくれよ。
「うるさいわね! いいから、ほらっ! 早く言いなさいよ、どれだけツマラナイ言い訳でも、あたしは聞く耳を持ってるわ。もし来世が馬だったら、念仏だって聞いてやるわよ!」
 お前さっきは、弁解は聞きたくないとか吠えてたよな。
 そろそろ酸素を取り込まないとヤバイと、俺が本気で思い始めると、ヒラギはそれに気づいたのか胸元から手を離した。しかしそれでも睨むような視線は相変わらず。
 俺はゲホゲホ言いながら、久方ぶりに肺にやってくる酸素を歓迎した。
「さあ、さっさと言いなさいよ。どうして、昨日は無断で欠席したの?」
「欠席だと?」
「そうよ。欠席!」
「俺は昨日学校に来ていただろ。それに、もし休んでいたとしてもだ、その理由をお前に話してやる義理は無い」
 俺は緩んだネクタイを直しつつ言った。ようやく息も整ってくる。
「学校じゃないわよ! 事務所っ! あんた昨日来なかったでしょ、どういうつもりなの? 一応言っておくけどあんたは就職してるの。そう、就職! 部活とかバイトとかじゃないの、解る? 解らないでしょうね、解ってたら無断欠席なんてしないもんね。このバカ! マヌケ!」
 一方的に怒鳴り散らすヒラギであった。おいおい、バカかマヌケかどっちかにしてくれよな。
「その事か」と俺はスゥと酸素を呼吸して、「昨日は用事があったんだよ。悪かったな、許してくれ」
 とりあえずこの場を治めたい、その一心で俺は言った。頭は上げたまま。
「ふんだ。ホントに反省してるか、怪しいわね! 反省文書くか、それとも罰ゲームとして校長のズラを剥ぎ取ってくるか、どっちがいい? 感謝しなさいよ、あんたなんかにも、あたしはちゃんと選択余地を上げるの」
 反省文だな。校長のズラて。そんな事したら……っておい! 
「そこまでする必要はないだろ。反省文って、お前な」
「何よ、何か文句あるの? あたしは社長なのっ、だからこれは社長命令だから、あんたは逆らえないの!」
 だからを連呼するな。それから、これ以上黒板のまん前でがなり散らすのは止めてくれ。後で浜中や堤よろしく、クラスメイトたちに質問されたとき、どう答えていいか解らん。
 始業の鐘はまだかと、待ちわびる俺は頭の上に位置する時計をチラと見た。まだ少しばかり時間がある。今日に限りいつもより少し早く登校してしまった自分を恨みつつ、怒り狂う目の前の女に言う。
「解った、反省文でいい。とりあえず落ち着いてくれ。本当に、昨日の事は俺が悪かったと思う」
「ホントに反省してるんでしょうね?」
「ああ、してるって」
「……ふんっ。じゃあいいわ。以後気をつけなさい」
 と言ってヒラギは身体を翻す。俺もヒラギの背中を追って、自分の席に向かおうかと脚を踏み出すと、突然ヒラギが振り返って、俺の顔の中心に指を突き立てる。
「でもね、また今度こんな事したら、次はクビにするからねっ! 解った?」
 そこでようやく始業の鐘が鳴り、高橋担任が入室してきていつもの日常が始まった。


 ◇


 さて、今は一限目が終了したところである。授業中常時ヒラギの不機嫌オーラに当てられていた俺は、この時既に体力ゲージが赤色に点滅していた。にも拘らず、次は体育である。男女別で行われる体育の授業では、女子が移動して着替えることになっているので、現在この教室には五組と六組の男子だけとなっている。
 スマイルとはまた違う、シャクに障るニヤケ面男が俺に近づいてきて言った。
「朝から盛り上がってたなあ、お前ら。あれか、昨日のデートがバレたのか?」
 脱いだシャツを机の上に放り出し、俺は体育着に袖を通す。
「昨日のは別にデートとかではない。それにだ、もしも仮にそうだったとして、それがバレて俺が怒鳴られる理由なんて無いだろ」
 浜中は持ってきた自分の体育着上から出たその顔を、相変わらず苛立ちを覚える口元をそのままにしていた。こいつ……殴っていいかな? 
 ベルトを外し始めると、今度は堤がやってくる。
「君という男は、本当に驚かせてくれるね。中学時代には、ただの一度も彼女のあんな……楽しそうな姿は見たことが無いよ。まったく、仲がいいんだね、君たちは」
 早々と着替えを済ませた堤がそんな事を言ってくる。
「お前の目は節穴か。あれのどこが楽しそうな表情だよ。俺には怒髪しているように見えたね」
 口ではそう言うものの、俺自身、僅かにあのヒラギの表情に楽しさのようなモノを見ていた。だがそれはアレだろう、怒っているのを隠そうとして頬を引き攣らせるとか、そんなもんの類だろ。
「高校に入ってからの彼女は、やはり中学時代とは違う。君に出会ったからだよ」
 感想を述べる堤を横目に見て、俺は着替えを終了させた。
「運命の赤い糸ってのが、俺には見えるぜ」
 俺に少し遅れて着替えを終了した浜中が言った。堤も同意するかのように微笑み頷く。
 どいつもこいつも、バカばっかりだよ。本当にな……。
 男子の体育は本日グランドで行われるそうで、俺と浜中、堤トリオは、玄関へ向かって移動中である。
 浜中は相変わらず昨日の自慢話を行っていて、どうもその女の子が自分に気があると思い込んでいるとか、そんな話を堤と俺に聞かせている。俺はといえば、そんな話は右から左に聞き流していて、一秒でも早く記憶から消去すべく、できるだけ注意を持っていかれないように、中庭に面した窓の外を眺めていたりする。
 大きな木が中心に立っていて、耳を澄ませば風に揺れて葉が擦れあう音まで聞こえてくる。いいね、こういうのはさ。
 沈黙の虜になって窓の外を眺めていると、俺はそこに見覚えのある人影を発見した。
「いやぁ、しかしよぁー、困ったもんだぜ。無視して他の女と仲良くするのも悪いし、かといって構い過ぎるのもよくないしなー。どうしたもんか、うきゃきゃきゃ」
 アホがアホな話をしてアホな笑い声を上げているのが耳障りである。俺が立ち止まることなく中庭の影を観察していると、浜中が意見を求めてきた。
「お前はどう思うよ? やっぱりちゃんと構ってやるべきか? それともここは少し冷たくするってのも――」
「知らん。自分で考えろ。アホか」
 そう言った俺は足を止めて、浜中の隣を歩いている堤にだけ言った。
「教室に忘れ物したから、先に言っててくれ。悪いな、堤」
「あっ、そうか?……いや、そう言っても次は体育だぞ、忘れ物って?」
 堤が言ったとき既に、俺は身体を翻して足早に移動を開始していた。堤に一度意味無く会釈して、俺は目的地を目指した。言うまでも無いと思うが、その目的地とは教室ではないし、俺は忘れ物などしていない。

 中庭の芝生を上履きで踏みしめながら、中央で命を育む大木に俺は歩み寄る。
 暖かい春の風が青葉を揺らし、その度心地よい音が中庭に響いていた。
 頭の後ろで腕を組み、それを枕にして気の影で寝転ぶヒラギを廊下で見つけて、俺はわざわざこんな所に出向いていたりする。まったくな。何をしてるんだろうね、俺は。
 ただ、廊下で見たヒラギの表情が――風に揺れる木の葉の間から見えた、空を見上げるヒラギの顔がどこか悲壮な思いを秘めているように見えて、無視することが出来なかった。浜中にアホだアホだ言ってみたが、俺も結構その類の人間、同じ穴の(むじな)なのかもな。
 俺は木の陰に入ると、闖入者である俺に気づいていないのか、それとも気づいていながら無視しているのか、とにかく何の反応も見せないヒラギに言ってやる。
「こんなところで、何をしてるんだ?」
 当然ながら体育着を着ているヒラギが、組んだ腕の上に乗せた頭を俺の方向に向けて、吐息を吐く。俺を見上げるヒラギの視線は、いつもの睨むような視線ではない。寝転んだままのヒラギが返事をよこした。
「見て解らない?」
「まったく」
 そう言うと、ヒラギは一瞬目を細くして、その視線から何というか、失望というか脱力というか、そんな眼光を俺に飛ばしてきて、すぐにまた首を捻る。俺から表情が窺えない方に。
「空」
「空がどうした?」
 青い空を眺めようと俺は首を斜め上に傾けた。一面深緑が覆っていて、その隙間から眼を細めてしまうほど眩い日光が差し込んでいるだけ。葉っぱの傘に覆われて空など見えやしない。なので俺はこのヒラギの発言についてもう少し追求してみることにした。
「空がどうしたんだ? 文脈をはっきりさせてくれ。せめて主語と述語だけはな」
「空を見てるの。そんな事も解んない?」
「あのな、天羽。こんな所から空が見えるかよ。俺のことをアホ扱いするのもたいがいにしてくれよな」
「何言ってんのよ? 普通に見えてるじゃない。あんた眼大丈夫?」
 この時俺は気づいた。ヒラギはいつの間にか俺の眼を見ている。いつ首を動かした? まったく気づかなかったぞ。
 忍者にでもなればいいと考えながらしゃがみ込んで、ヒラギと同じ角度から同じ方向を見上げた。驚くべきことに、どういうからくりかそこからは空が見えるようになっている。
「どうなってんだ?」
「葉っぱの生え方とか、枝の伸び方とかでしょ? ここからなら、木の下からでも空が見えるの。でっ、あんたこそなにしに来たの?」
 ヒラギは身体を起こすことなく、ずっと背を芝生に預けたまま話し続けている。
「別に何も。何となく、普段教室にいない奴が何やってるのか、ちょっとした好奇心が湧いてな」
 ヒラギは嘲笑に聞こえるよう鼻を鳴らし、
「バカみたい。あたしがどこで何をしてても、そんな事あんたが気にすることじゃないでしょ。そんなに暇なの?」
「お前だって、休み時間ずーっと空を見上げてるのか? そっちの方が暇人のする事だろうよ」
「うるさい、バカ。あたしは、暇だから空を見てるんじゃないの。ちゃんと理由があるんだから」
 その理由とやらが何か気にならないことも無いが、それでも俺はそんな事を深く聞き入ろうとは思わない。呟くように、寝そべったままのヒラギに視線を落として言った。
「そうかい」
 と俺は無感情な返事をする。ヒラギは俺の言葉に気を悪くした様子は無い。
 いつまでも、膝を曲げた体勢でいられるほど俺の足腰は強靭ではないので、俺はヒラギの肩の隣辺りに腰を下ろした。これでもまた俺がヒラギを見下ろすことに変わりは無い。
「こんな所で空なんか眺めてないで、たまには教室にいて俺以外の奴とも話してやればいいさ」
「あんた以外の奴って、例えば誰よ?」
「ほら、二階堂とかさ。あいつ、お前が教室にいないのは自分のせいだと思ってるって言ってたぞ」
「ふん。余計なお世話。どうしてあんたにそんな事言われなきゃいけないのよ。それに、いつ聞いたのそれ?」
 一瞬ビクリとして、昨日の喫茶店での事を俺は思い出していた。しかしそんな俺の胸中にヒラギは感ずいていない。俺は冷静に頭を働かせ、どう返事をするべきか考えた。かくして、答えは出た。
「休み時間だよ。こんな事も言ってたぞ、あいつはお前に憧れてるそうだ。だから、仲良くしてやってもいいだろ。そんなに嫌な奴でもないしさ。お前だって、一人くらいは仲のいい友達とか欲しいだろ?」
「言ってるでしょ? 余計なお世話。いらないわよ、友達なんて」
 実にひねくれた事を抜かすヒラギは、それだけで黙り込みはしなかった。まだ続きがある。
「でももしも、この空みたいな人間がいたら、あたしだってそいつと友達になりたいと思うけどね」
 俺は顔だけでなく、全身がこの空のように青ざめた人間を想像した。
「なんだそりゃ、フランケンシュタインの友達でも欲しいのか? 正直言って、いい趣味とは言い難いぜ」
「あんたって、ホントにバカね。何よフランケンって。あたしは西洋系の化け物にも日本的和風の化け物にも興味ないの。座敷ざしき童子わらしとかね。もちろん、ヴァンパイアとか、狼男とかミイラ男にも興味なし」
 そろそろ休み時間も終わりを迎えるだろうと思い始めた俺を、ヒラギは相変わらずの黒い眼で見ている。見ながら、しっかりと吐き出す音の聞こえる溜息を吐いた。

「あたしは昔から、自分が解らなかった。自分がどういう存在で、何の為にここにいるのか、何をする為に生まれてきたのか。何にも解らない。解らないから不安になったの。いつか自分が消えてなくなってるんじゃないかっ、て。そんな事を思い始めたのは小学校の高学年の時だった。でね、隣の席の奴に聞いてみたの、あたしらしさって何かって。そしたらそいつはあたしの顔を一分くらいじっと見て、それから適当に顔の特長とかをつらつら喋ってたのよ。でもあたしが聞きたかったのはそんな事じゃない。だから、担任にも、他のクラスメイトにも訊いてみた。求めていた答えは結局返ってこなかったけど。
 それで解った。自分らしさなんて人に聞けるものじゃない。誰にも聞けないものなんだって。だったら自分で発見してやろうと思ったのよ。そう思って、中学に入ってからあたしは周りを観察するようにしてた。それで気づいたのは三年の時だったわ。皆、教室にいる奴ら全員、どこにでもいる普通の人間で、そんな人間たちが集まって、一クラス三十人くらいの生徒が全員集まって、一人一人の個性を消しあってるんだってね。あたしが求めていたものはそういう馴れ合いの中だと簡単に消えてしまうんだってその時気づいた。そう思うと、教室にいるのが嫌になったわ。
 いつもいつも、休み時間に外に出ていたら、また気づいた。空はいつでも自分を持ってる。誰に気を遣うわけでもなく、自分って言う存在を常に保っている。あたしはそれまで、教室の奴らと自分との違いを探して、それで自分を見つけようとしてた。でもそれじゃダメだって解った。そう思ってから、空を見上げるのが日課になってた。高校に入って、少しは空のような人間がいることに期待してた。でも、やっぱりそんな人間はいなかった」

 語り終えたヒラギの表情はさっき廊下で見た空を見上げる表情に近かった。俺はどうコメントするか少々迷う。考えなくても解る、俺に言ってやれる事は無い、と。昨日、似たような事を二階堂に聞かされた気がする。そのせいだろうか、今の俺はヒラギのこんな話を受け入れてやることが出来た。いいや、もっと前、二階堂と話をするよりも前、ヒラギと出会うよりもずっと前に……。
「……………………」
 俺もヒラギも黙っていた。風が吹き抜けて、木々を、芝を、俺たちの髪を揺らした。
「早くしないと、授業、遅れるぞ」
 こんな事しか言えない。黙っているのが嫌で無理やりひねり出した言葉。ヒラギはどう受け取っただろうか。
 俺は小さい、ヒラギの笑うような声を聞いた。聞いた途端に俊敏な動きでヒラギは上体を起こし、俺の体育着の襟首を引っ掴むと、そのまま物凄い強力でもって引っ張り、俺はそのままごろんと背を芝生につける。
 ヒラギが走り出す音が聞こえて、俺も上半身を腹筋の要領で起こすと、打ち付けた後頭部を摩った。
「なにしやがる!」
 とは俺のヒラギに対するクレームである。受け付けたヒラギの表情は、晴れやかな笑顔。それこそ今日の晴れ空のような。ヒラギはそんな笑顔で舌を出し俺を見ていた。どういうつもりだろうか。
 ヒラギが身体を翻すと、コンマ数秒送れて長髪も宙に流れる。俺に背を向けて走り出す。走りながらまだ尻餅を突いている俺に言った。
「早くしなさいよっ! 授業遅れるわよ!」


 ◇


 その日の放課後の事である。俺はヒラギに監視されながら、事務所に向かっていた。昨日の事もあったので、こいつはまた俺が逃げないようにと注意を払っているらしい。さっき自分で言っていた。ってかそれより、手を離してくれ。逃げやしないからさ。
「信用ならないわね。昨日の無断欠席で、あんたの信用は底辺まで落っこちてるの。あんた殺人犯に誰も殺さないから銃とナイフを貸してくれ、なんて言われてやすやすと渡したりするの?」
 しないけどさ。
「それとこれとは違うだろ。俺は殺人なんてしてないし、何かを渡してくれとは言って無い。むしろその逆じゃないか?」

 屁理屈もいいところだと自分でも思う。ヒラギの俺を見る眼も同じ事を考えているような眼だ。
 引っ張られるがままに俺は脚を動かし、何をするためにかまったくもって不明な事務所へと向かう。本当に、あの事務所は何をしているんだろう。営業――そもそもそんな事を行っているのか解らないが――が成り立っているのは、いつもいない営業と書かれたプレートの机の主のお陰だろう。俺の入学金もきっとその人が稼いでくれたんだろうな。ありがたい。心より感謝を捧げる。黙って脚を動かしながら、俺はまだ見ぬ同僚に感謝の意を示した。
「ところであんた、反省文はちゃんと書いたの? 原稿用紙三枚、ちゃんと渡したわよね。あたしは」
「あぁ……あれね……」

 時間は今日の昼休みまで遡る。いつもと違って昼休み終了よりずっと早く教室に駆け込んできたヒラギは、俺にどこからか持ってきた原稿用紙を五枚突きつけた。
「本当は十枚がよかったけど、五枚しか用意できなかったからこれで勘弁してあげる」
 そう言ったヒラギは、俺の机に張り手を喰らわして、原稿用紙を五枚机上に置いた。
「五枚だと?」と、せいぜいA4ノート半分くらいの反省文を計画していた俺が声を出す。「そんなに書かなければならんのか?」
 その時の俺はまわりに浜中と堤が居る事を忘れていた。ヒラギは口元を不気味に緩める。笑っていた。
「当たり前よ。それとも何? 嫌だって言うの? それだったら、あたしだって鬼じゃないわ。校長のヅラを剥ぎ取ってきて、それを高橋に被せるって罰に変更してやってもいいわ。ほら、どっちがいいか選びなさい。選択権はあんたにあるのよ。あたしは人権を尊重するからね」
 自由で平等な権利など、ヒラギを前にした今の俺にあるのだろうかと思いながら、せめてもの抵抗をする。
「せめて原稿用紙三枚にマケてくれ」
 ヒラギは交渉を持ちかける俺から視線を外し腕を組んだ。その姿には無駄に貫禄がある。
 黒板の上部を睨んでいたヒラギは、頭の上に大きな電球でも発生させるかのように眼を見開き、また俺に眼光を飛ばした。腹黒策士が素晴らしい作戦を思いついた時の表情である。
「いいわ。じゃあ三枚にしてあげる」
 裏がありそうな承諾であるが、原稿用紙五枚から三枚にしてくれと交渉を持ちかけたのは俺であり、ヒラギの表情からは、まさか自分で言っといて今更やっぱりいい、なんて言わないでしょうね? みたいなニュアンスが込められていて、俺から否定件を奪い去っているように錯覚してしまい首肯する。
「それじゃあ期限は一両日中だから! 遅れたら校長のズラ剥ぎ取りの刑よ! 解った?」
 そこまで校長のズラに拘る理由は何なのだろうか。何か校長に恨みでもあるのか? 
 ヒラギの思考を読もうとして、やはりそれが不可能だと気づき自重する。変人の思考は常人には読めない。絶対的な法則である。
 二人の見物人、浜中と堤の表情をうかがってから俺は肩を竦めてみせる。浜中は哀れむような、嘲笑するようなニヤケを見せていて、堤は「やれやれ……」とばかりに、それでもハンサムフェイスにスマイルを浮かべて、両手を天秤状にしながら首を振っている。
 そんな二人の反応を見てから、改めてヒラギの顔を見てみると、何がそんなにうれしいのか楽しいのか、満面の笑みがそこにはあり、この場で暗澹としているのは俺だけであると知る。
「解ったよ」
 溜息を吐くようにそう言うと、ヒラギの笑顔が満開になった。
 机の上に置いた原稿用紙五枚から、その内二枚を指で摘み上げ背を向けた。宙に流れる長い黒髪が俺の鼻を掠めた。くしゃみでもするべきだろうか。
 ヒラギが教室から去っていくのを見届けた俺は、続いて好奇心の化身と化した二人の友人に向き直る。相も変わらず、二人はさっきの表情のままであった。
「だんだん意味解らなくなってきたぞ、お前ら。反省文って何だよ。朝も言ってなかったか?……反省文ねえ、そうだな、親友であるお前の頼みなら聞いてやらん事も無い。原稿用紙一枚、五百円で俺が請け負ってやってもいいぜ?」
 気取りまくった浜中の前髪を払う行動が、俺に何やら理解不能な感情を発生させた。そうだな、手元に刃物があれば、この場でこいつの喉元を割いてやりたい気分だ。
 あーそうか、これが殺意か。はははは。
 法律が無ければおそらく俺はこの男をすぐさま殺害しているだろうと思い、大日本帝国憲法、もとい日本国憲法に感謝を捧げた。ありがとう。君が無ければ、今頃俺は犯罪者だ。
 握り締めた拳から力を抜いて、俺を親友と言った浜中に言った。
「けっこうだ。だいたいお前、親友から金を取るのか、そりゃあ友人詐欺だぜ」
 そもそも俺たちはいつから親友などという、まさに青春ドラマ的な関係になってしまったんだと思いつつ、それは俺の胸の奥にしまっておく。今後、その称号を使って何か得をするかもしれないと思ったからである。
 続いて俺は、もう一人の弁当フレンズに声を掛けた。
「お前も、何か俺に言いたいことがありそうだな。この際だから聞いてやるぜ」
 許可を進呈してやると、堤は待ってましたと言わんばかりに話し始めた。
「やはり、君にはサプライズを貰ってばかりだよ」
 何を言い出すのかと思えば、何のサプライズを、俺がお前にくれてやったよ。
「君という存在自体が、僕にとってはサプライズそのものだ」
 何でだよ。
「実に興味深いよ、君という存在はね」
 だから、それがどうしてか教えてくれ。
 今までに無いほど怪訝な表情で堤を見ていると、笑顔の仮面を被った堤は口元を緩めて言った。
「心配しなくてもいいさ。別に僕は、君をどこかの研究所に送ったり、解剖して中身を見たり、妙な機械で脳を調べるようなマネや、マイクロチップを頭に埋め込んだりはしない」
「そりゃそうだろ。そもそもお前にそんな事が出来るかどうかと言ったら、そりゃあ無理な事だ」
「そうでも無いよ。理論上は可能だ」
 どんな理論だよ。
 前置きはここまでにして、と堤は言って、ようやく話が本題に進む。
「天羽と同じクラスだったのは、中学三年の時だけだったけど、一年間をともに過ごした仲だ、一応君よりも彼女と過ごした時間は長い。つまり、僕は君よりも天羽のことを理解している。している筈なんだ。その筈なんだけど……」
 堤は焦らすように言葉を切って、顎を手の甲に乗せた。
 つーかお前、初見と随分キャラ変わったな。
「僕よりも君は天羽の事を理解している。笑うという行動は、少なからず相手のことを理解していなければ生み出すことはできない。ゆえに、中学時代に彼女が教室で笑顔を作るなんて事は一度も無かった」
 こいつの言っていることが本当ならば、お笑い芸人は皆心理学者になれるんじゃないかと俺は思う。その事を指摘してみると堤は、
「行動や言動で強制的な笑いを生み事は出来る。僕の言っている笑いはそういう笑いじゃないんだよ。
 ……そうだね、同じ時を過ごしている内に自然と発生する笑い、それが僕の言っている笑いだよ」
「あいつが笑ってるのは、何も俺が原因ではないだろ」
 俺の意見を堤は否定した。
「いいや。僕には解るよ、彼女の笑いを生んでいるのは君さ。だから君は興味深いんだよ。彼女の笑いを創れる人間なんて、僕の知る限り君だけだからね」
 これ以上何も言ってやるつもりは無く、俺は黙り込んだ。少し堤の言ったことを真面目に受け取っていたのも事実であり、原因は二階堂の言ったことである。
 俺たちが似ている? だったら堤の言った、相手の事を理解していなければ笑いを創れないということも筋が通る。自分のことを理解していれば、少しくらいはヒラギの事を理解しているということになるからだ。
 どうなんだろう。俺とヒラギは似てるのか。本当に? 
 昼休み終了を告げるチャイムが鳴って、堤と浜中が席へと戻り、ヒラギが教室に帰来した。俺もシンキングタイムを終了させて、鞄から教科書とノートを取り出し、授業開始から十分ほどで、さっきまでの些細な疑問を忘れて、夢の世界へと旅立った。

 回想シーン終了。そんな事が今日の昼休みにあったことを思い出しつつ、無理矢理な笑顔を作った俺が言葉を繋げる。
「時間が無くてまだ一枚も掛けてない」
「何馬鹿なこと言ってんのよ? 時間ならいっぱいあったじゃない。五限目も六限目も、あんた何してたのよ?」
 授業中は反省文を書く時間ではないと言ってやりたいが、五限目も六限目も睡眠授業で過ごしていたため言わないことにする。寝ているくらいなら、内容はどうあれ文章を書いている方がマシだろうしな。
 歩きながらヒラギの説教は続いた。
「解ってる? 期限過ぎたら罰が待ってるのよ。今日の七時が締め切りだからね!」
 一両日中とは、確か約二日くらいを表すのではなかっただろうか。
 嬉しそうに宣言するヒラギの表情に俺は否定の言葉飲み込んだ。まあ、事務所に行けば暇だし、むこうで書けばいいだろう。
 ヒラギが俺の腕を放したのは通学路に組み込まれた橋を渡りきった所だった。
 自由になった腕をゆっくり二、三度回して筋肉をほぐした俺はそのまま黙って脚を動かすことに没頭した。ヒラギも何かを言い出す事はなかったので、俺たちの間に会話は無く、道行く人たちの話し声や、走り去る車のエンジン音がやけに大きく聴こえたものだ。これを風流と呼ぶべきかどうかというと、車のエンジン音はそうとは呼べないだろう。
 そうして黙ったまま歩いている内に俺たちは目的地へと到達した。
 いつもと変わらぬ、俺たち二人しかいない室内は静まりかえっていて、窓を打つ風の音ががたがたと五月蝿い。
 一応、社長席に座って何かをしているヒラギを眺めながら、俺は鞄から原稿用紙を取り出して、必要最低限の物だけを入れた布製ペンケースからシャーペンと消しゴムを取り出し、作業に取り掛かった。
 途中、掃除をしろだの、お茶を淹れろだの、イタズラ電話の対応をしろだのと、俺の作業を妨害するようなヒラギの指示に従いつつ、なぜ俺がこんな雑用を押し付けられなくてはならんと内心毒づいて、そういえば俺が雑用係だったと思い出し惨めな気持ちになる。
 五分おきに雑用を指示してくるヒラギと、俺の文章構成能力の無さが原因で三枚ある原稿用紙の内、まだ一枚目の三行目までしか書き終えていないというのに、俺の筆は止まっていた。くそっ、思いつかん。
 机上の文房具で体積を最も消費しているものは本来ならばシャーペンの芯のはずなのだが、今最も磨り減っているのは消しゴムだった。原因はというと、俺が文章を書き始めてある程度まで進むと、鬼教官のようなヒラギが腕組して原稿用紙を覗き込み、誤字や句読点について厳しく注意をして全文書き直すように命じるからである。
 そんなこんなしていると俺の綴った文章はようやく原稿用紙一枚に到達し、ヒラギも命じる雑用もとい嫌がらせ――妨害でもいい――が徐々に無くなってきたのか、黙って社長席に座っている。今の時刻は六時をちょっと過ぎたところである。執筆も調子に乗ってきたし、ヒラギの妨害も無くなってきた――何故か十分おきに掛かってくる中年女性の声に思しき間違い電話も止んだ――ので、どうやら間に合いそうだ。
 俺が安堵ともに一文節を書き終えて句点を打つと、ガタンという音が室内にこだました。音の原因はヒラギの座っていた椅子が壁に激突したことである。
 ヒラギの表情を確認したのは、ヒラギが背後にやってきた時である。また何かを思いついた表情で口元を緩め、それが善からぬことの前兆であると知っている俺は、自然と恐怖の感情を覚えた。
「外回り行ってくる」
「そうかい。好きにすればいい」
 社長自ら外回りをするなんて、どう考えても妙である。なので、これは俺の文章執筆妨害策であると考える。
「何言ってんのよ! あんたも行くのっ!」
 無理矢理制服の襟を掴んで立ち上がらせ、そのままドアまで引き摺られた。情けないが、抵抗できずに俺は小さくこぼした。
「だろうと思ったよ」
 決定。俺は校長のズラを剥ぎ取る羽目になっちまった。


 ◇


 夕日が昇った街中で威風堂々と歩を進めるヒラギの背中を、俺は黙って追いかけていた。
 目的地はどこかと尋ねてみると、ヒラギは足を止めることなく俺を振り返り、満面の笑みで言う。
「目的地なんて、散歩にあるわけ無いでしょ? いい? 散歩の目的と醍醐味は歩くことなの。それが目的なの」
「お前、俺を引っ張り出すときは外回りとか言ってなかったか?」
「言ったかしら? そんな事」
 イタズラな笑みが夕日で赤く染まる。
 目的地も無く彷徨う俺たちは、いつもの橋の上にまでやってきた。今はその中間地点である。
 近くの中学、俺の出身中学の連中が制服に鞄を持った下校スタイルですれ違っていく姿を俺は無言で眺めていた。騒いでいる姿には無邪気な雰囲気があり、おそらく一年だと推測する。今は四月の下旬、確かこのくらいの時期に俺もようやく中学校生活に慣れ始めたと記憶している。
 そろそろただ歩くだけにも飽きてきた俺は、隣で歩いているヒラギに散歩の中断を申し出ることにした。無駄なことだとは、自分でも解っていながら。
「天羽、そろそろ戻らないか。こんな事してても意味無いだろ?」
 言ってから返事が来るまで少し待ってみるが、一向に返事が来ない。もう一度言ってみる。
「天羽、そろそろ終わりにしないか?」
 しかしというか、やはりというか、返事は返ってこない。
 脚を止めて、傍らの娘を見下ろそうとして首を傾けてから、ようやくそのことに気づいた。
 ヒラギがいない。
 さっきまでは隣で長い髪を揺らしていたはずだが、いつの間にかその姿が無くなっていた。俺だけを残して一人で先に帰ったのかと思ったが、振り返ってそこにヒラギの姿を確認し、そうでない事が解った。
 ヒラギの視線は前を向いていなくて、その視線を受け止めているのは橋の手すりのむこうにあった。
「何をやってるんだ?」
 空いていた距離を縮めてから、制服のポケットに手を突っ込み、やる気の無い声でヒラギに尋ねた。
「ここって、こんなに夕日がおっきく見えるんだ……」
 質問の答えとは違う、ヒラギの呟きが聞こえた。まだ何か続けていたが、その小さな声は走り去った車の音で掻き消されて聞こえない。
「夕日がどうした?」
 俺も眩く空に輝くでっかいオレンジボールを眺めた。何の変哲も無い、普通の夕日である。が、ヒラギは非常に珍しいものを見るように、漆黒の両眼を煌かせそれを眺めていた。
「夕日ってね、いっつも真っ赤でしょ?」
「だからどうした?」
 問う俺にヒラギは、

「好き」

 そう小さくこぼした。
 ………………。
「バカ。あんたの事じゃないわよ! 夕日の事!」
「だろうな。解ってるよ、んな事は」
 言ってから、もう一度夕日を見物する。やはり、どう見ても普通の夕日である。俺にしてみればこの時間帯は中学時代の下校時間だったので、この時間帯にこの位置から夕日を観ることなど珍しくなかった。それでもヒラギにとってはこの光景は珍しいモノらしく、手すりに歩み寄って、そこに両手を乗せると身を乗り出し、遥か遠くで紅蓮に燃えている沈み行く太陽を両眼に捕らえていた。
「昼休みに空の事話したでしょ」
 全文覚えるには、ノートに書かれたあの文章を十回くらい音読しなければならないくらいの、ヒラギの空話を俺は思い出した。完璧に覚えたわけではないが、確か空が常に自分らしさを保ってるとか、そんな話だったな。
「そっ。夕日もそうでしょ? 常に自分を持って、それを主張してる」
 言い終えると、ヒラギは両手を乗せた手すりに飛び乗り立ち上がった。安定して立っていられる場所ではないことは、一目して解ることである。掌程度の面積しかないその上に起立したヒラギは、「おぉとと」とか言いながら身体を一度前後に揺らめかせて見せた。
「うーん……。まだ遠いわね、それに高さももっと上の方だし……」
 腕を組みながら、絶妙なバランスで立っているヒラギが目を閉じて考え事を始めた。
 いつの間にか道行く人たちの視線を集めてしまっていた。その原因に俺はすぐさま勘付き行動に出る。
「おい天羽! 降りろ、危ねえだろ!」
 しかしヒラギは返事をすることも、手すりから降りることもせず、やはり黙って考え込んでいる。
「聞いてるのか! おいっ! さっさと降りろって言ってんだよ。落ちたら笑い事にならねえだろ!」
「うるさいなぁ、もう! いいでしょ、別に! 減るもんじゃないんだからっ!」
「俺は別に、お前がその位置から夕日を独り占めしていることに嫉妬してるんじゃない! ほら、降りろって、本当に落ちるぞお前!」
 慌てまくる俺を睥睨するヒラギは、正面からの向かい風にバランスを崩して身体を揺らした。
 その光景に俺も黙っていられなくなり、ヒラギの腰にしがみ付いて無理矢理下ろそうと行動する。
「ちょっと何よ! 話なさいよこのヘンタイ!……あっ、でもいいわ、そのまま押さえといて」
 右手を振り上げたヒラギは、最高のアイデアが浮かんだようにニコやかな表情を取り、体重を前に掛けた。俺が掴んでいなければ、間違いなく下を流れている川に一直線である。
「あっ、おいやめろ! 危ないってマジで!」
「黙ってなさい! ちゃんと押さえときなさいよ! って、さっきからどこ触ってんのよ! 腰を掴みなさい! ヘンタイ! エロ雑用! 痴漢!」
 ヒラギの顔が赤いのは、夕日のせいかそれとも。などと考えている場合ではなく、叫びながらヒラギが暴れるものだから、俺の身体はバランスの制御が利かなくなっていた。それも、橋の外に向かって体重が傾き始めたが、必死の思いで転落を避け、ヒラギの腰を抱えたまま俺は仰向けに倒れた。後頭部が硬いコンクリートに打ち付けられた。この後、俺がヒラギから長々と説教を受けた事は言うまでも無かろう。本来なら、こんなマネは二度とするなと、俺が厳重に注意を行うべきなのだろうが……。
 そうして日常が流れていく。人を取り巻く時間は決して足を止めたりはしないのである。ただそれをどう感じるかは人それぞれであり、俺にとってはこの四月は非常に長く感じるモノだった。そして五月が始まる準備が整い始める四月最後の一週間、俺にしてみれば多分一生涯忘れられない一週間が始まる。
 そうだな……、ケチの付き始めはおそらく、あの人の登場だろう。誰かが仮面を被っていたがためにその人物の肩書きを俺が理解するのには、一悶着必要だったのだが……それはまた後で語ることとしよう。どうせ割愛して次に進めるエピソードではない
 物事は起きた順に語るのが一番聞き手に理解してもらい易いだろう。俺もその考えに則って頭から話す事にする。

 そう――まだ見ぬ、同僚……いや、社長の登場である。
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