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世界の色、ヒラギのイロ 作者:双色
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第二章:空気の色

 日曜日が明けて月曜日。誰が決めたのかは知らないが、自然の絶対的摂理は今週もまた狂うことなく律儀に遂行されていた。
 先日までの筋肉痛が完全に抜け切らないまま、そこに追い討ちを掛けるような光景が登校した俺の視界に飛び込んでくる。
 一年の校舎は四階建てになっていて、俺の所属する一年六組の教室は最上階である六回に位置する。教室に到達するには必然階段を登らなければならないのだが、長い階段を上り終えた俺は水道が設置されている踊り場で脚を止める事となる。この踊り場には生徒会などが行事報告に使う張り紙用の掲示板も設けられている。いつもはこの場所はこんなに賑わったりはしないのだが、今日に限りなぜか人込みが出来ている。
 階段の最後の一段を踏み終えた俺は何事かと頭を巡らせていた。
 思い当たるフシが皆無ではないので、答えはすぐさま脳内に浮上する。出来れば考えたくもなく、そして早く忘却の彼方へ葬り去りたいと願う先週の金曜の出来事である。
「あー……あれか」
 と呟く俺は人込みの中へと紛れ込み、大勢の視線を集めるその張り紙を見上げた。
 こんな時に限って当たらなくてもいい予想が当たってしまい、それは先週末に行われた学力診断テストの結果である。教師が宣言していた通り、成績トップ十五名の名前とワースト三十名の名が記されていた。ご丁寧に、順位まで名前の上に明記して。イニシャルとかにするなど、匿名方法は幾らでもあるだろうに。
 受験の合格発表には立ち会っていないので解らないが、おそらく今の状況と似た感じの状況なのだろう。隣で歓喜の声を上げている男子生徒は、トップ十五名に名を連ねたのか、それともワースト三十名に名前が無かったのか。俺の予想では後者である。まあどちらにしようと羨ましい事に変わりはない。
 さすがに、この場を無視するわけにはいかないと思い、俺も嫌々自分の名前を探し始めた。ワースト枠の中から、だ。
 結果から言うとそこに俺の名前は無く、どうやら自分の学力もそこまでではないのだなと安堵する。或いはワースト十六に名を連ねているのかもしれないが、今ここでそれが明記されていないという真実こそが現状は大切なのだ。調子に乗ったのだろう。次はトップ枠の中から、ある筈の無い自分の名前を求め始めるのだった。
「げ……!?」
 そんな意味不明な声を漏らしたのは俺であり、その言葉がどこから出てきたのかは言うまでも無い。眼前にどうどうと存在する、マーカーペンの太い方で書かれた名前である。
 経験が無いのにこんな表現をするのはどうかと思うが、俺は今、肺を強靭な握力の持ち主に握られている気分の最中にいる。ようするに息が非常にしにくい状況なのである。
 トップ枠生徒の名前の下には、三桁の数字が並んでいて、それこそテストの点数であると考えられる――教師の気遣いか、ワースト枠にはそれが無い――のだが、異常な数値を記録している生徒が約一名。第二位と三十点も点差を付けている人物は、教室で俺の隣の席にいる人物。天羽ヒラギが今回の学力テスト、どうどうの第一位を獲得していたのだった。頭のいい奴だとは思っていたが、まさかここまでとは、正直思っていなかった。それにしても、一体どんな問題を間違えたのだろうか? この点数だと逆にその辺りが気になってしまう。あいつが社長だというのは強ち嘘でもないのかもしれん。
 そんな波乱万丈が過ぎ去ってから、早くも心身ともに疲労が溜まっている状態で教室に入り席に付くと、俺はすぐさま隣人に声を掛けた。
「天羽、お前踊り場の張り紙見たか?」
「なにそれ?」
 無表情な白い顔が俺に向く。
「ああ、この前やったテストの結果? 別に、興味ないし」
 本気で言っているのだろうか。
「どうだったの、あんた。ワーストに入ってなかった?」
「なんとかな」
 会話が途切れ、俺たちは予鈴が鳴るまで無言で過ごした。


 ◇


 三限目の休み時間、さきほどの授業が体育であった。男子が移動して着替えをすることになっているために、俺は畳んだ体操着を抱えて教室へと帰ってきたばかりである。そんな俺の目に、珍しい光景が舞い込んでくる。
「天羽さん、えっと、ちょっといいですか?」
 おろおろとヒラギに話しかけている女子生徒がいた。珍しい、実に珍しい。
 入学以来、ヒラギは誰と仲良くするわけでもなく、話し掛けられれば適当な返事をする程度であったから、そんな奴にわざわざ話し掛ける人間も少なかった。俺の知る限りでは、おそらくこの生徒がヒラギに話し掛けるのは初めてだと思う。って、何で俺がヒラギの生態に詳しくなってしまっているのだろうか。
 俺は席に座ってその様子を観察することにした。うむ。どうも気弱そうな少女が、ヒラギに教えを乞うという状況らしい。彼女が抱くようにして大事そうに持っているのは、数学の教科書で、次の教科は数学。自分が指名されることを予測しての対処だろうな。
「なんで、あたしがそんな事?」
「あの、天羽さん、前のテストで一番だったから」
「それで?」
「いえ、その、ええと」
 男でもビビリそうな、キツイ睨みが少女を襲う。教えてやるくらい、別にいいだろ。なにもそんな睨まなくてもさ……。と、俺は声に出さずにしみじみと思うのだった。助けてやれるだけの学力が俺にもあればいいのだが、こちらもワーストランクにギリギリで参加していなかったという身だ。
 そんな事を考えながら時間は流れていき、さっきの授業で彼女が指名を受けなくてよかったと思う今は既に昼休み。当然のように俺は一人で弁当を広げているが、それも少し寂しい気もする。
 いつもなら隣にはヒラギがいる筈なのだが、なぜだか今日はその姿が教室には無い。昼飯を買い忘れて学食にでも行ってるのだろうか。ヒラギがいたところで、仲良く会話をするわけでもないのだから、別にあいつがいないことで、俺はそれほど堪えはしないさ。
 などと思いながら、横目で隣の席を見ているとそんな視線を遮るように、そこに一人の男が立ちはだかる。
「今日は一人か?」
 座っている俺は必然的に男を見上げる事になる。訊いてきたのはのは浜中。片手に弁当をぶら下げている。はて、こいつも弁当組みだったかな? 
「今日は――は、てなんだ? 俺はいつも一人だと思うが」
 前述の通り座っている俺が立っている浜中を見上げる形になる。
 浜中は俺を見下しながらニヤリと口元を緩めた。
「天羽はどうした? 喧嘩でもしたか?」
 したくはないが、納得してしまう自分がいまいましい。こいつはあれか。俺とヒラギが妙な関係にあるとでも思っているのか。だとしたらそれは妄想であり、決してそのような事実は無い。
「あいつがいてもいなくても俺には関係ないだ。で、何か用か? まさか、そんな笑えない冗談を言いに来ただけか。だったら、さっさと帰れ。目障りだ」
「ははは。冷たいな。なに、お前が独りで寂しそうだからこうして来てやったんだぜ?」
「別に嬉しくないぞ」
「そう言うなよ」
 どこまでも締りの無い顔をした浜中が、空になったヒラギの椅子を引っ張ってきて、そこに腰を下ろした。
 ぶら下げていた弁当を広げながら、
「あいつは何者だよ」
 とか急に言い出す。
 浜中の言うあいつとは、予想するところ天羽ヒラギの事だろう。何者と俺に訊かれても。それは俺にも解らないし、解っているのならどれだけいいことだろうか。
「この前みたく社長とか言い出すなよ。さっきの話以上に笑えない冗談だぜ」
 俺だって、それが笑えない冗談であればどれだけ良いと思うか。答えてやるだけの、ヒラギ的知識を俺は持ち合わせていないので、
「さあな」
 適当に返事をしてから白飯を口に運ぶのだった。
「しっかし、今時珍しいよな。ああいう奴ってさ」
 俺は無言で浜中の話に耳を貸している。確かに珍しいさ。授業中に居眠りしてるくせに、テストではほぼ満点を記録してるんだからな。
「そうじゃねえよ。ほら、あいつって友達とかいないのか?」
 その疑問には同調するところがある。が、俺は浜中と違って独自の意見を持っているのだ。そう、天羽ヒラギという女は友達がいないのではなく、友達など要らないのだろう。理由は解らないのだがな。
 浜中は口に含んだ物を飲み込むたびに、俺に疑問系の言葉を投げ掛けてくる。
「さっきの時間もさ、ほら、二階堂(にかいどうにやたら冷たくあたってただろ」
 言ってから浜中は玉子焼きを口に運ぶ。入れ替わりのように、唐揚げを飲み込んだ俺が、
「二階堂?」
 浜中の話に出てきたワードに疑問を発する。
「二階堂瑠架(るかだよ」
「誰だ、そいつ?」
 入学してから、まだ一週間しか経っていないのだし、別にクラスメイト全員の顔と名前を覚えていなくても不思議ではないだろ。俺はその名前に心当たりが無かった。無いのだが、
「三限目の、休み時間の事か?」
 三軒目の休み時間の映像が脳裏に浮上した。
 思い出した。三限目の休み時間の事。そう、ヒラギに教えを乞うも、強烈な睨みで退散させられた、あの娘か。
 俺の予想した答えを、口にふりかけご飯を含んだ浜中が首肯した。
「お前、もうクラス全員の名前覚えたのか?」
「いいや。でもな二階堂に関しては、嫌でも記憶に残るだろ。自己紹介のときからな」
 自己紹介が催されたとき、俺は驚愕のあまり半分抜け殻状態になっていたからな。他人の自己紹介など記憶する余裕が無かった。というよりも聞いていなかったと思う。その時の俺は天羽ヒラギとか言う変人が何者かを推察していたのだ。
 脳内シアターで四限目前の出来事をスクリーンに映しながら、俺はよくよく二階堂瑠架の姿を思い出してみた。確かに良いか悪いかで言えば、ルックスはいいと思える。いいや、良いのだろう、かなり。隣人が随分な美人なので感覚がおかしくなりかけている。別にヒラギを持ち上げてるつもりは無いが。特徴といえば、おそらくあの目だと思う。琥珀色の大きな瞳が印象的だった。潤んでいるように見えたのは、実際に涙を溜めていたのだろうか? 
 シアターの上映が終了する頃には、浜中は弁当の中身を平らげ、自席に戻る準備を開始していた。


 ◇


 姿の見えなかったヒラギは昼休み終了のチャイムと同時に教室に帰ってきた。
 長い髪を腰まで垂らしたこの娘は、一体どこへ行ってたのだろうか。暇なので訊いてみる事にする。
「どこ行ってたんだ?」
「別に」
 どこへ行っていたのかと疑問したのに、別にって回答は日本語の会話として成り立っていない気がするね。
 さらに俺は質問を続ける。
「今日も何か買ってきたのか?」
 ヒラギは答えなかった。ただ、くしゃくしゃに丸められたゴミを俺の鼻先に投げつけると、無表情に黒板を眺め始めるだけである。この行動の意味を知ったのは、俺の鼻に当たって床に落ちた紙くずを、拾い上げて開いてみたときだった。コンビニのレシート。どうやら、今日はコンビニおにぎりが、ヒラギの昼食だったらしい。
 しかし、ヒラギはただ自分の昼飯を俺に報告することが目的ではなかった。丸められた紙くずは、表向きに丸められていて、何の気なしにそれを裏返した俺は、ボールペンで書いたような、インクが滲んだ文字を発見する。そこに書かれている文字を、呟くように小さな声で――それでもヒラギには聞こえたらしい――読み上げた。
「『うるさいバカ』」
 いつの間に書いたのやら。もしかするとヒラギは教室に戻ってきたとき、俺に昼食を訊ねられると予測していたのかもしれない。だとしたら大した未来予知だ。それにしても、ヒラギにしては回りくどい意思表示だなと、俺はそのとき思った。
 広げたレシートをもう一度丸めて、その場でポイ捨てするのも掃除当番の奴らに悪いので、その紙くずをポケットに仕舞い込んだ。横目にヒラギの顔を見てみる。さっきまでの無表情とはちょっと違う。仮面の下に笑いを隠したような、そんな表情である。
「笑いたいなら、笑えばいいだろ」
 やや苛立ちながら俺が言った。
「うるさいバカ」
 笑いを堪えているのだろうか、微妙だがさっきよりも表情が砕けているような気がする。俺の観察眼がどれほどのモノなのかを考えれば、そんな思い込みがどこまで根拠の無いものか、一瞬で理解できる。
 笑うという感情表現が嫌いなのか、それとも苦手なのか。ヒラギはあまり笑った顔を見せない。金曜のバッティングセンターで見たのが、俺自身には初めてだ。
 五限目は理科であり、今回のテストで最も力の入っていた科目が、おそらくこれである。問題が他とは違う。俺たち生徒に赤点を取らせるためのテストだったように思える。ヒラギが取れなかった何点かも、きっと理科に存在するのだろう。
 テストの平均やら、自己満足な感想をつらつらと綴ったプリントが配られ、今回の最高点が限りなく満点に近い数字――その点数が満点に足りない分を全教科合計からマイナスすると、見事にヒラギの点数と一致する――であったという事がそこに明記されていた。
 俺は隣人の表情を窺う。返却された解答用紙に朱色で記入された点数は、プリントに書いてあった最高得点。もっと喜べよと俺は思う。
 授業終了まで、俺の気分には暗雲が立ち込めていた。その暗雲がどこからやってくるのかは、言うまでも無く返却されたテスト解答用紙で、今にも暗雲が雨雲になり目から大粒の涙を零しかねないくらい、それはもうトンデモな点数だった。これより下がいるのなら今すぐに俺の前に現れて慰めて欲しい。人間は自分よりも劣る存在を見て安堵する生物だ。
「何この点数?」
「やかましい」
 ヒラギは指に挟んだ俺の解答用紙をヒラヒラさせて、そんな事を言ってくる。家庭教師か何かのつもりか、お前は。
 どうしてヒラギが俺の解答用紙を持っているかというと、それは俺のドジから始まったのだ。鞄の中へ放り込もうとしたプリントを俺は不覚にも床に落としてしまい、風に流されるようにヒラギの足元へ滑り込んだプリントをヒラギが拾い上げ、今の状況が完成したというわけだ。
「ふーん。真面目にやってればこんな点数、逆に取りにくいでしょ」
「うるさい」
 学年トップに言われると、言葉の殺傷能力が増すものだ。俺のアイアンハートも、さすがにかすり傷くらい付いたぜ。確か中学初めの中間テスト以来だな。


 ◇


 忘れていたが、今日という日が俺の初出勤の日である。その事を俺が思い出したのは、ホームルーム前にヒラギが声を掛けてきたときである。
「あんた、ちゃんと覚えてるでしょうね?」
 文脈がはっきりとしない。こいつは何故国語で満点を記録できたのだろう。
「なにを?」
 溜息を深く吐き、ヒラギは語りかけるような口調で話し始めた。
「あんたさ、そもそもこの学校に通えてるのはどうしてか解ってるの? あたしが、中卒のあんたを哀れんで入学させてあげたんでしょ。裏口から」
 そんな事を周りに聞こえてしまってもしょうがない大きさの声で言い放つヒラギ。
「入学してすぐは大変だろうから、あたしが気を遣って、今日までは休みにしてあげたけどね、今日からはそうもいかないの。一応ね、あんたも就職してる身なのよ」
 そこまで聞いて、ヒラギの言いたい事を理解した。そうだった、今日は事務所に顔出さなきゃいけないんだな。
 すっかり忘れていたのだが、そうとは言えない雰囲気なのでバックレル事を選ぶ。
「あぁ、そうだったな。初めからそう言ってくれよ」
 なるたけ自然に振舞ったが、なれない事はしない方がいい。俺は役者には成れないようだ。
「嘘つき」
 ヒラギのアイスピックのような視線が俺を刺した。


 ◇


 ホームルームが終わると、首輪を外されたドーベルマンのような勢いでヒラギは獲物(俺の右腕)に飛びついてくる。その動きにミクロ単位で見ても無駄が無いために、俺が何らかの反応を起こしたときには既には右腕は捕らえられた後。教室中の視線が俺たちに向けられた瞬間だった。
 振り解こうにも、例によりヒラギの力は凄まじく俺の抵抗は虚しくも何の効果も成さない。果たしてどこからそんな力が沸いて出るのか、本当に謎である。筋肉細胞の質が違うというのだろうか。
「いきなり何だ?」
 これ以上の無駄な抵抗はしまい。俺はただ腕を掴まれるまま、自分よりも背の低い小柄な娘に言った。
 この後どうなるのか予想が出来た俺は机の傍らに引っ掛けてあるカバンを掴み、事が起こる前に肩に引っ掛けて移動する準備を整える。
 案の定、ヒラギの答えはこうだった。
「あんたが逃げないように捕まえたの」
 やっぱりと思う。溜息を吐く間も与えて貰えず、俺の身体は強力な力に引かれてゆく。そんな姿を眺めて唖然としているクラスメイトたちは、一体何を思うのだろうか。七割がたの視線はヒラギに向いているが、残り三割は、自分よりも身体の小さい娘になす術の無い、実に無力な俺に向いている。
 教室内での俺の存在認知がどんどん悪くなっていく事を実感しつつ、この数分間の全ての出来事に俺に盛大な溜息を吐くことが許されたのは、上靴を下靴に履き替え、校門を出て、そして春休みにやってきた事務所の扉の前にきてからであった。それまで早足でどんどんと引っ張っていくものだから、ついていくのに必死で羞恥の念が湧き上がるのも通常の四割減くらいだった。せめてもの救いだ。
 ヒラギは自分の鞄から扉の鍵を取り出し施錠を解除すると、俺の腕を拘束したまま中に進入していく。そこでようやく腕が開放され、俺の身体に何分かぶりの自由が戻ってきた。
「今日からは学校が終わったらちゃんとここに来なさいよ。でないとクビにするからね。そうなると、自動的に学校も止めてもらうことになるから。何ていうんだっけ? ……そうミートよミート。解った?」
 ミートではない、ニートだ。ミートでは肉だろ。
 言い放つヒラギの顔は結構楽しそうだった。
「解ったよ。しかし何も学校から直接来なくてもいいだろ。一旦家に帰ってから、とりあえず服を着替えるくらいはしてもいいんじゃないか?」
「職場には制服って物があるでしょ。いちいち使い分けるの面倒だし、ここでの制服は学校の制服と兼用なの。他に何か言いたいことある? 聞いてあげてもいいわ。聞くだけだけど」
 言いたいことなら山ほどある。だがそれこそ言い始めれば小一時間くらいは簡単に消費してしまうだろう。しかしながら言ったところでどうにか成るわけでないのは解っているので、だったら、一時間も無駄な時間を浪費するほど俺は暇を持て余している人間ではない。言わないでおこう。馬の耳に念仏とは正にこの事である。それを解っていながら体現するほど、俺は愚か者ではないのさ。
「それじゃ、あんたの席はそこだから!」


 ◇


 俺の通う高校は大きな橋が通学路に組み込まれている。初めてのときは結構緊張したものだ。風が吹くたびに「これ、落ちたりしないよな?」とか嫌な考えが湧いて出てきたのを鮮明に覚えている。そもそも俺は高いところをそれほど得意としない。さすがに今となっては慣れてきた頃だが。
 黙ったまま脚を動かす俺の目に入ったのは、教室で最も長く会話をしているだろう男の背中だった。
 一人で黙って歩くのも虚しいので、俺はその背中に追いつき、肩に手を置いて声を掛けた。
「よお、浜中」
 今思うと、俺からこいつに話しかけるのは、中学時代から通して初めてのように思える。
 浜中は気軽に朝の挨拶をすると、なんやら裏のありそうな微笑を浮かべた。
「いやぁ、昨日は驚いたぜ。マジで。お前ら本当にどういう関係だ?」
 声を掛けてしまった一分くらい前の自分を呪った。取り消し可能なら即座に取り消したい。
 橋の上を暖かい春の風吹き抜け、隣の車道を走る車が発するガスを運んでくる。うーん、今日も地球温暖化は順調に進行中だな。
「何でもねえよ。何度も言わせるな」
「それにしては、随分と仲が良さそうに思えるぞ。あいつ確か、俺たちと別の中学だよな? いつの間にそんな関係になってたんだ? 入学式の日か? それとも中学時代から関係が」
「だからねえよ」
 実に嬉しそうに言ってくる浜中を黙らせる。車の走る音がやけにうるさく感じた。
 黙っているのなら、1人で歩いているのと変わりないので、ここは俺から話しかけることにする。やや自虐的な話題で。
「なあ浜中、俺と天羽って、そんなに仲よさそうに見えるか?」
「見える見える。すっげえ見える」
「そうか。お前に訊いたのが間違いだったよ」
 また沈黙。自分から振った話題を、自分から潰してしまうのだから、俺にはトークの才能が無いのだろう。そう思っていると、浜中以外の声が聞こえてくる。
「初めて見たよ。天羽と仲良くできる奴」
 そう言って浜中の隣から顔を出す男は、細い眼鏡を掛けていて、結構整った顔をしている。この顔に覚えはあるのだが、どうしても名前が出てこない。
「中学のときは、あいつが仲良くする生徒なんて、一人もいなかったのにな」
 ヒラギの事を結構知ってそうな口ぶりで話し続ける。
 俺は言われるまま応対せず、この男子生徒の名前を思い出そうとしていた。
(つつみ、お前って天羽と同じ中学だったのか?」
 浜中が言ってから思い出した。そう、この男子生徒の名前は堤。下の名前までは覚えていないが。堤は肯いて浜中に返事をする。
「三年のときに同じクラスになったんだよ。いっつも一人でいて、あんまり周りと馴染んでない感じだったよ」
「一人でいるのは今も同じだろ」
 と俺が言うと、浜中も堤も妙な視線を俺に向けてくる。ヒラギではないが言いたいことがあるのなら、はっきりと言ってもらいたいものだ。それでも、二人が無言で俺に伝えようとしている事が理解できてしまう。そんな自分が忌々しい。
「あのな。別にそんなのは無いって、マジで」
 なるべく落ち着いて否定しているつもりだが、二人には演技染みて見えるらしい。
「怪しいな。……お前って、ああいう女が好きなのか? 確かにツラは良いと思うが、どうにも近づきにくい雰囲気があるだろ。俺としては、外見よりも一緒に居て楽しいとか、そういう部分を評価基準にするべきだと思うぜ。それでも、お前自身、アレがいいってんならヤボな口出しはしねえけどよ」
 浜中の中では、既に俺とヒラギの関係は出来上がってしまっているらしく、そんな事を言い出す始末である。口出ししないとか言っているが、だったら初めからそんな事を言い出すなよ。そんな意思を込めて浜中を無言で睨んだ。
「中学のときも、学年に二、三人いたよ、アイツに気がある奴がさ。本当にマニアックな奴らだと、つくづく思ったものさ。何回話しかけても罵倒されるだけなのに、なぜそんな女に惹かれるのか解らないよ」
 堤は過去談を語りだす。そのマニアックな連中と、俺を一緒にしないで欲しいものだ。
「せいぜい頑張れ、お前の名がギネスブックに載るやも知れん」
 嘲笑的な微笑を湛えた浜中が、俺の肩に手を乗せてくる。冗談だとは解っているが、どうも腹が立つ。
 その後もたわいも無い会話を展開しながら歩いている内に気づけば学校に到達していた。
 教室へやっくると、やはりヒラギは俺よりも先に着席していた。黒板を眺めるのが、ヒラギの習慣化しているのか、今日も無感動な視線を黒板に向けている。黒板を見るのがそんなに楽しいのだろうか。どうせなら窓の外でも眺めた方が有意義だろうに。
 声を掛けてやるつもりも無いし、振ってやる話題も無い。
 机に頬杖を突いて窓の外、登校してくる生徒達と僅かに桃色の花弁を残した桜の木を眺めて時が流れるのを待っていた。
 いつもと変わらず時間は流れて行き、そうして順当に昼休みに入る。
 四限目終了を告げるチャイムが鳴ると、ヒラギは当然のように鞄の中からコンビニの袋を取り出し、駆け足気味に教室を去っていった。一体どこへ行っているのだろうか。少しだけだが気になる。
 俺の昼休みは変化しつつあった。今日もまた俺が弁当を広げている所に浜中がやってくる。ヒラギの椅子を無断で使用するこの男は、許可した覚えも無いのに机上のスペースを使用し、弁当を喰らい始めるのだ。別段それが気に入らないとは言わない。一人よりも誰かと昼食を食べる方が少しは楽しかったりするだろう。
「また一人だな。寂しいか?」
「バカ言うなよ」
 性質の悪いことにこれが習慣化しつつあるが、特に否める必要も無い。この浜中という男、俺はそんなに嫌いではない。登場ごとにヒラギ関連で俺に嫌味染みた冗談を浴びせてくるが、何も浜中との会話全てがそうではなく、実際のところは割と気の合う奴だからな。
 弁当を片付けた俺は目的も無く教室を出た。いや、正直目的は無いわけではない。散歩の名目で、隣人が何をしているのか、たまたま目撃できればとでも思っての行動である。
 購買と食堂があるのは向かい校舎で、一年は中庭を横切って移動しなければならない。なぜか食堂に目標を定めている俺は、大木が中心植えられた円形の中庭を歩いていた。
「ちょっと待ってください!」
 声からして女子であるのが解る。そして周りには俺しか人間がおらず、その言葉は俺に向けられたものだと考える。足元のタイルを踏む、パタパタと慌しい足音が聞こえていた。
 彼女は相当急いでいたのだろう。待ってくれと言われて立ち止まった俺が振り返ると、声の主が勢いよく突撃してきて、そのまま俺は尻餅をついてしまう結果となった。
「あっ、の、えっと、ごめんなさい!」
 潤んだ琥珀の瞳が俺を見るや謝辞を告げた。ぶつかってきた娘は、二階堂瑠架である。
「二階堂?」
「はっ、はい! 大丈夫ですか?」
 いつまでも座っているつもりは無いので、腰をさすりながら立ち上がる。
 本気で申し訳なさそうな瞳が、今にも零れそうな涙を溜めて俺を見上げていた。そんな目をされると、どうも俺が悪い事をしたように思えてくる。やめてくれ。
「大丈夫だけど、お前は?」
「わっ、わたしは大丈夫です!」
 二階堂はまだ座り込んでいる。危なっかしい、ドジな妹を持った兄とは、こんな気分なのだろうな。とりあえず俺は二階堂に立ち上がることを促がした。おちおちとこれもまた危なげな動作で立ち上がろうとするものだから、また転んでしまうのではないかと余計な心配を煽られる。
「なんか用?」
「はい、えっと、天羽さんの事ですけど」
 表面上には表さないが、内心で大きな溜息を吐いた。こいつもか……。そんな俺の不機嫌オーラを感じてしまったのだろう。二階堂はまた目を潤ませ始めた。
「その、あ、わたし、何か悪いことを?」
「いいや。何にも。で、あいつがどうかしたの?」
「はい……。天羽さんと仲良くするには、どうすればいいのか、教えてもらいたくて」
 話している間、二階堂とはなかなか目が合わない。どうも二階堂の視線は俺のつま先に向いていて、たまに上目遣いで見上げたかと思うと、どんな理屈か頬を赤ら占めて、またつま先に視線を放つ。さっきからそんな状態で俺たちは会話をしている。
「仲良くって。どうして俺に?」
「あなたは、天羽さんと仲良しですから」
 今日は朝から似たようなことを言われっぱなしだ。どうしても、クラスメイトたちは、俺とヒラギの間に特別な関係があると思いたいらしい。誓って言おう。決してそんな関係は無い。
 俺が黙ってしまうと、この娘、二階堂瑠架はどうにも罪の意識を感じてしまうようで、またしてもオロオロとしながら俺に謝ってくる。会話がしにくいこと、この上ない。口を開けば謝辞のセリフが飛び出してくるのだから、もう何と言うか申し訳ない。
「えっと、天羽と仲良くしたいんだっけ? 君がそう思うのは良いけどさ、俺はあんまりオススメしないぜ。野生のジャッカルを飼いならすよりも難易度は高いだろうから。俺から言ってやれる事はそれくらいだよ」
「そうですか……でも……いえ、ありがとうございました」
 礼を言われるほどの事はしていない気がする。それでも、二階堂は頭を下げてまだ礼を言ってくれて、これは別に悪い気はしない。
 二階堂が校舎に帰っていく姿を眺めて、俺も昼休みが残り僅かなので教室へ向かった。結局、何をしにここまで来たんだろうね。


 ◇


「どこ行ってたのよ?」
 教室に戻ると直ぐに、氷柱のような視線で俺を串刺しにする。そんな人物は決まっていて、現在隣の席に座って頬杖を突きながら不機嫌な顔をしている天羽ヒラギである。どこへ行っていたのか、それは俺も聞きたいね。適当な返事をしてそのついでに訊いてみた。
「食後の散歩だよ。お前こそ、昼休みはいつもどっか行ってるが、一体どこに、何しに行ってるんだ?」
「どうしてあたしが、あんたにそんな事教えてあげなくちゃいけないの? どこでもいいでしょ。あたしが昼休みにどこで何をしても、あんたの迷惑にはならないんだし」
 その理屈は俺だって同じことだろ。しかしヒラギは自分に対して都合のいいように理屈を組み立て、それを自分にのみ適応させる存在であり、いくら矛盾した発言や行動をとろうとも、まったく気にしないのである。その自分勝手な性格が、いずれあだになって帰ってくると思うが、そんな事を俺が忠告してやる義理も無いし、したところでヒラギの性格が改善されるとも限らない、いや、確実に無駄な行動なので憚る。人間無駄な労力は使わないほうが優雅な人生を送る事が出来るだろう。
 ヒラギは言い終えてもなかなか俺から視線を外そうとせず、柔らかそうな頬を掌に載せた状態でいる。言いたいことがあるのだろうか。そうだとしたら、これは実にヒラギらしからぬ行動だと思える。なぜなら、こいつは回りに気を使って自分の発言を控えたりするような奴ではなく、いつでもどこでも言いたいことはすっぱりと言ってしまう奴なのだ。……いや、なぜ俺がヒラギについて語らねばならない。
「今日は……」
 躊躇いがちの言葉が途中まで出てきて途切れる。ヒラギの無表情は相変わらず。そしてまた、さっきの言葉をリピートするかのように言葉を発する。
「今日は訊いてこないの?」
「はあ? なにを?」
 文脈がはっきりしない会話はヒラギにしては珍しくは無いと思うのだが、何となくわざとボカしている感じは初めてだ。俺が頭の中でどう返事をしてやるべきか考えている間に、ヒラギの表情はどんどん悪くなっていく。痺れを切らしたのだろう、俺が答えに辿り着く前にヒラギは立腹した表情で、自ら回答を言い上げた。
「今日は何食べたか訊いてこないのかって言ってるのよ!」
 ああ、なるほど。とはヒラギが何を言いたかったのか、それを理解したために出た感動詞である。しかしここで新たなる疑問が発生する。なぜそんな事をいちいちヒラギは言ってくるのだろう。昨日のようにレシートの裏に嫌味メッセージを用意しているのだろうか。
「そんなことを、何故俺が訊かなければならないんだ。別に俺はお前の栄養管理しでもないんだし、いちいち昼飯を気にする必要なんて無いだろ。それともまさか、お前は俺に昼飯についてコメントして欲しいのか?」
「そんなわけ無いでしょ、バカ。だってあんた、毎日あたしの昼ごはん気にしてたでしょ。だから、今日はどうして訊いてこないのかなって、そう思っただけよ。本当に、そう思っただけ! 誰があんたなんかにコメントなんて求めるのよ。だいたい」
「落ち着けよ、天羽」
 憤怒の化身と変化しつつある不機嫌娘に制止を掛けて、俺は周りの様子を窺う。やはり、とは嫌な予想が当たっていて思うのだが、浜中と堤を含む、その他数名の生徒が俺たちの形勢を観望していた。どうしてこうも俺の悪い予想は見事に的中してしまうのかと考えていると、浜中と目が合う。奴はその瞬間に嘲笑的な微笑を浮かべて意味深な頷きを寄越した。なんかシャクに障るね。
 いつの間にか身を乗り出していたヒラギの肩を押して、椅子に落ち着かせてやると、そこで五限目開始を告げる音が教室に響く。教師が入ってくると、一応ヒラギは落ち着きを取り戻すが、それでもいつも以上に不機嫌そうな表情で、教師を睨め付けるように授業時間を過ごした。
 周りの生徒も、なにやら殺気じみたヒラギの毒々しく、そして刺々しいオーラを読み取り、隣人の瞬きする音さえ聞こえてきそうなくらいに静まっていた。誰かが消しゴムを落とせば、床上との衝突音にすらビクリとしそうなくらい、それはもう張り詰めた空気であった。空気の読めない人間が羨ましい。そんな空気を作ってしまったのは周りから見て確実に俺であり、どうにかしろよという声にならないクラスメイトたちの感情が聞こえてくる。よく、作ることはいつも難しく、それでも壊すことはいつも容易いとか言うが、今の状況は間逆である。壊すことが簡単だって? だったら何とかしてくれ、それを初めに明言した誰かさん。
 空気正常するための方法をイメージして、空想世界で試してみたが、どれもこれも失敗に終わる。六パターン目で蹉跌していると、そこで授業終了の鐘の音。
 よほど機嫌が悪かったのだろう。ヒラギはガタンと沈黙の教室に椅子を入れる轟音を響かせると、一瞬俺を睥睨し教室前部の扉から姿を消した。
 鬼のいなくなったことで、いつものとまではいかないが教室には平穏な空気が戻ってくる。面白そうなモノを見つけたと、顔に書いてある浜中が俺に駆け寄ってきて開口早々に、
「喧嘩するのは勝手だけどな、俺たちまで巻き込むなよ。で、何が原因だ? 他の女と仲良くしてたところを目撃されてしまったとか?」
 不意に俺は昼休みの事を思い出してしまう。確かあの場面を目撃などされていないはず。そう、もしヒラギに目撃されていたのなら、俺が教室へ戻るやすぐに、ヒラギはその事について質問、いや、拷問を始めるはずだ。それが無かった、ゆえにあのシーンは目撃されていない。……いいや、目撃されていても何も疚しい事はしていないのだから――って、
「なぜそうなる。俺が誰と仲良くしようと、あいつには関係の無いことだろ」
 ツッコミの入れ方を間違えてしまったようで、浜中がニヤケ面を二乗する。
「ほほう。と、言うとお前は天羽以外の女子とイチャついていたのか」
 言われた俺は、無意識に二階堂に視線を送っていた。目が合ってしまい、二階堂は小さな両肩を跳ね上がらせ、さらにどんな理由があるのか頬を朱に染めてしまう。その仕草に何の意図があるのやら。
 すぐに視線を浜中に戻したつもりだが、この男は無駄に洞察力が優れているようで、俺の一瞬流れた視線の矛先を見逃していなかった。これまた、突付き甲斐のあるネタを拾ったと、そんな表情である。
「お前は相当なメンクイらしいな。そうか、天羽だけ飽き足らず、あの二階堂までも……。まあ、二階堂に好意を持つことは理解できる。天羽と違い、性格に難は無さそうだからな。そしてあのルックスは上級だな、あれだけで十分惚れる理由になる」
「お前確か、一緒に居て楽しいとか、そういう内面的なものを最大の評価基準にするべきだと、朝方は俺に信仰していなかったか? もう前言撤回か。もう少し自分の発言に責任を持てよ。そんなんじゃこの世の中渡っていけないぜ。渡る世間は鬼ばかりだ」
 特に人の上げ脚を取るのが大好きな性悪の鬼が多い。いや、お前だよ浜中。なに首を傾げてやがる。
「あのルックスだ。一緒に居て楽しくない男などいない。公園のベンチに座って肩を寄せるとか、またはホラー系の映画を見に行って、怖がる彼女に声を掛けてやるとか、それとも――」
 この後も、浜中の妄想デートプランは長々と続いたが、鬱陶しいので割愛させて頂こう。結局このアホ男は堤がやってくるまで話し続けるのである。
「しっかし、君もなかなか懲りないね。なぜそこまで天羽に構おうとする。二階堂だけでいいじゃないか。あの娘、告白とかされたら断れなさそうだし、予備としてストックにしておく必要も無いだろ」
 堤といえば、こいつはこいつで、勝手なことをいいやがる。だから違うと言っているだろ。ヒラギに関しても、二階堂に関しても。どうしてそう勝手な思い込みだけで話が出来る。
「ふむ、しかしながら二階堂をお前にやるのは惜しい。いっその事、ずっと天羽と遊んでおいてもらいたいな」
 仮想デートプランを話し終えた浜中が、堤の話題に乗っかってくる。そして堤は、
「同感だ」
 どいつもこいつも、バカばっかりだ。俺の溜息と堤の無言、浜中の妖怪染みた笑いが三重奏を完成させていた。
 ヒラギは一応六限目の始まる前に帰ってきた。その姿を見た浜中、堤ペアはスタコラと自分の席へ帰って行って、そして実験中のモルモットを観察する悪の科学者みたいな視線を俺に向けてきやがる。それとはまた別に現在俺が置かれた状況は救いを求めるクラスメイトたち、ほとんど全員が空気の正常化を俺に視線で求めている状態でもある。どうしてどいつもこいつも、そうやって俺に何もかも任せようとする。誰か助けてくれ。
 どっかりと席に腰を下ろしたヒラギに恐る恐る俺が声を掛けた。
「天羽――」
 さっきの事だがな、と続けようとするが、首を絞められたような感覚に陥り言葉が出ない。ヒラギの不機嫌オーラ二乗にプラスして、眼力だけで人一人殺せてしまいそうなくらいの睨みが俺を刺す。首筋に冷や汗が出てきたのは、おそらく気のせいだろう。そうであって欲しい。
「なによ?」
「いっ、いや、何でもない」
「だったら、いちいち話しかけないでよ。あたしは、あんたと違って無駄な行動に時間を費やしたくないの。解る? タイム・イズ・マネー、いいえ、時間はお金よりも大事なの。これだから、無神経かつお気楽な男は嫌いなのよね」
 無神経かつお気楽と、それまでの話にはなんら関係が無いと思うし、俺だって自分自身、無神経でなおかつお気楽な男である自覚は無い。しかしながら、そう咆哮するヒラギから来る、威圧感というか気迫というか、そのようなモノに俺の声にならぬ声は掻き消され、結果として閉口してしまう。
 やっぱり、とは聞こえなかったが、まさにそう言ったような溜息が、クラスメイトたちから漏れる。
 重苦しく、ジトッとした雰囲気は、終礼後まで続くのだった。六限目が終わり、教室に入ってきた高橋担任はつくづく空気が読めぬ人らしく、静まり返った薄暗い教室に入るや、いつものように体育会系の笑いを見せて、
「おーい終礼始めんぞー、席につけー」
 とか言い出す。お陰で、僅かながら空気が軽くなった気がしたのはおそらく俺だけではないだろう。
 帰り支度をしている俺に二階堂が話しかけきた。
「あの、もしかして、天羽さんが怒ってるのって、わっ、わたしのせいですか?」
 俺を見上げる形になって彼女が話すのは、俺が長身であるからではなく、彼女が小柄なためである。ヒラギと同じでこの娘もまた平均身長に達していないであろう身長だ。無駄に何かの道を究めた達人的威圧的を発しているだけ、ヒラギの方が大きく見えてしまうのだが。
「いいや。全然関係ないから、気にしなくてもいいよ」
 休み時間に俺がふと彼女を一瞥したことで、どうやらヒラギの不機嫌は自分が原因であると勘違いしてしまったらしい。気の毒である。
「そうですか。ありがとうございます」
 別にいいって、と言おうとした直後だった。俺の腕を怪力が牽引する。言うまでも無いと思うが、一応言っておくとそれをするのは勿論天羽ヒラギだった。
「さっさと行くわよ、ほらっ。さっきも言ったけど、あたしは時間を大切にする人間なの。シャキットしなさい! さっさと脚動かす!」
「ちょっと持てよ天羽! そんな引っ張るなアホ。周りの目とか、少しは気にしろよ!」
「周りの目って何よ! くだくだ言ってないで、脚を動かす! あんたね、引っ張られてるからって、楽しようとしてない? 考えが甘いのよ!」
 グッと、俺の身体を引く力が強くなる。抵抗できない自分が実に情けない。
「自分で歩くから、離せ! 逃げやしねえから」
「うるさいなぁ、もう! いいから、いちいち口出ししない! あたしは社長よ、逆らう事なんて許さないんだから!」
 そんな事を堂々としかも大声で言いやがるから、こいつの精神を疑うよ。ヒラギの行動を止められる者はなく――そもそも、止める気のある奴なんていなかったが――俺はヒラギの腕を引かれながら、学校を後にする事となった。このままではヒキコモリになってしまうかもしれないな。いや、冗談だけどさ。


 ◇


 玄関ホールにて、下靴に履きかえる時俺の拘束は一度解かれたのだが、それが終わると、ヒラギはまたガッシリと、現行犯を捕まえた万引きジーメンのように俺を捕らえて離さない。周りから見れば、二十人に一人くらいは腕を組んで歩いていると思わなくも無い状況である。橋に至るまでに、俺は引っ張られているだけで足元のおぼつかない状態から、どうにかしっかりと地面を踏んで歩いている状態になる事が出来た。今はヒラギの隣で腕を捕捉されたまま歩いている。肘が、なんやら柔らかいものに当たっているが気にしない事にしている。
「なあ天羽、さっきの事だがな……あー昼休みの事だ。俺が悪かった。もう少し考えて発言するべきだったよ。だから機嫌直せよな」
 このまま気まずい沈黙の中を歩くのも苦痛であるから、俺は自分に非があったと認め――認めるような非は無いのだが……――素直に謝る事にした。
 唇を尖らせたヒラギは、俺に表情を見られないようにか、そっぽを向き、
「ふん。別にいいわよ。いつまでもそんな事気にしてないし、許してあげる」
「そりゃどうも」
 妙にヒラギの扱いに手馴れてきた自分が、なぜだろう誇らしく思う。
 許すついでに掴んでいる腕を離してくれれば嬉しかったのだが、それとこれとは別事のようで、ヒラギは俺の手を一向に開放しようとしない。それどころか俺が謝る前より力がこもっている気がする。気のせいだろうか? 力がこもっていると言っても、それは乱暴な束縛の力ではなく、何となく優しく抱きかかえるような、そんな感じだ。全部俺の思い込みかもしれないけどさ。ていうか全部俺の思い込みだ気にしなくていい。
「ところで、事務所行って一体何をするんだ? 思い起こしてみれば、昨日は席を紹介されて、そのまま何にもしないまま黙って座っていただけの気がするぞ」
「そんな事、あんたが気にすることじゃないでしょ。あんたは社長であるあたしに、忠実に従って働けばいいの。口ごたえは許さないから」
「しねえよ。心配しなくてもな」
「心配なんてしてないわよ! ただ、針を刺しておいたの! うん、先に言っておかないと、あんたバカだからさ、訊いてもいないのに勝手に意見を言いそうだもん」
 笑ってしまいそうなのを堪えた俺は平常心のままで、そしてさっきまでと変わらず落ち着いた口調で指摘してやる。
「それを言うなら、釘を刺しておくじゃないのか? 針刺してどうするんだよ。針」
 小柄な同級生の耳が、黒髪に隠れて見えにくいのだが、確かに赤くなるのを俺は見逃さなかった。初めてヒラギの恥という感情を見た気がする。
「うるさいなぁ、もう! 針でいいのよ! マチ針よ! あんた使ったこと無いの? 裁縫の時に布を抑えるアレ! 釘とも言うけどさ、皆が使ってる言葉よりも、独自のオリジナルの方が良いに決まってるでしょ! そんな事も解らないの? 本当に、あんたってバカ!」
「そうかい、決まってたのかい。俺は世間的にポピュラーな表現を使うけどな。天羽」
「なによ!」
 俺を見上げる黒い瞳から視線を外さず、始めてみるその面白い光景を告げてやる。
「顔、赤いぞ」
「暑いのよ! そろそろ夏でしょ! あたしは暑さには弱いの! すぐに顔に出ちゃうから!」
「まだ四月だ。夏はまだもう少し先だぞ」
 こうなったら、なんだか俺も楽しくなってきた。ヒラギの顔が赤くなるのも見ていて楽しいが、そんな事よりも俺は初めてヒラギとの会話で、主導権を握っている気がしていた。
「うるさい、バカ! あんたの腕掴んでるから、暑いのよ! そう、あんたの腕が熱いのっ!」
 もう何を言っているのか自分でも解っていなさそうな事を言う。しかしヒラギは、そんな中も拘束の力を緩めることなく、しっかりと俺の腕を掴んでいた。熱いとか文句言うんなら、離せばいいだろ。まあ実際、ヒラギに抱え込まれる状態となっている俺の腕には、暑さ故にか汗が滲んでいる。
 こんなヒラギを見るのは初めて、俺も不思議と新鮮な気分になったりしている。そのお陰で、周りの目が一瞬だけ気にならなかったのは気の迷いだろう。好意的なおばちゃんが、すれ違いざまに俺の肩を叩き、仲良しさんね、とか言ってきた時にようやく正気に戻った気がした。神に誓うが、浮かれていたりしたわけではない。ただ、何となく自分の現状や周りの目が気にならなかっただけであり、それもほんの一時的なものなのだ。


 ◇


 これでくるのは三度目となる、この事務所。俺の通っていた小学校では給食の時、六人くらいで形成された班で机をくっ付けていたのだが、この事務所の風景はそれを思い出させる。いや、これでは解りにくいな。つまり、六つくらいのオフィス用デスクが部屋の真ん中で固められている。それぞれの机には、左端の上角にプレートが貼り付けてあり、そこには《副社長》とか、《経理》《営業》《接客》《人事》とか、そんな事が書かれていて、各自自分の机がどれであるか解るようになっている。
 俺の席だと紹介された席は、くっつけられた六つの机のうち入り口側の右端で、その机には油性ペンで《雑用》と書かれたプレートが貼り付けられている。ちなみに、隣の席のプレートには、《営業》と書かれていた。
 社長席はその机の塊とは離れた所に置いてあり、当然のごとくそれは社長のものなので、俺たちの机よりも高価(俺の予想)な物である。ヒラギはその社長席の上に鞄を置き、回転式の椅子にストンと腰を下ろす、いや落とすと言う方が正確やもしれん。
「ほらっ、雑用! お茶淹れて」
 俺が席に着くなり、ヒラギはそんな事を命じてくる。なぜ俺がそんな事をしなければならない。
「あんたさ、さっきここで何をするのか、訊いたでしょ? 雑用なんだから、お茶くらい淹れないさいよ」
 反抗できないのは、事実俺が雑用係だからである。同じ高校一年で、どうして社長と雑用ほどの地位の差が生まれるのか、疑問であり腹立たしくある。
 乗り気ではないが、俺はこの事務所に設置されている電気ポットの中身を確認し、その中身が空であるから、そこに水道から水を入れて電源を入れる。
「早くしてよ」
 ヒラギはイタズラな笑みで急かす。
「俺に言うな。お湯が沸かないことには、お茶も淹れられないだろ。ところでヒラギ、昨日も思ったんだが、この事務所の他の人っていつになったら来るんだ?」
 急須を取りに向かいながら俺が訊いた。今室内にいるのは俺とヒラギだけであり、それは昨日同じ事だった。六つの机は、俺の物になった雑用机と隣の営業机以外は、誰かが使用した痕跡があるが、ここに来て一度も俺はヒラギ以外の人物を見たことが無い。
 ヒラギに答えはあっけなく、
「いないわよ。ここの事務所は今、社長と営業と雑用しか人がいないから」
 手に取った急須を落としそうになった。ヒラギの答えをもう一度確認してみるが、帰ってくる答えは同じであり、驚愕が増す。この事務所には社長と営業と雑用しかいない? そんなので、そもそも事務所として成り立っているのか? 
「皆、今年度が始まる前にやめたからさ。人事の人は、あんたを裏口入学させたのが、最後の仕事だったかな」
 まさかその人、今は堀の中でお勤め中ではないだろうな。そう思いながら、その部分は言葉に出さず、
「やめたって、それりゃまた何故だ?」
「知らないわよ、そんな事」
「知らないってお前……」
「知らないんだから、しょうがないでしょ!」
 ヒラギのその発言により、俺は黙り込む。そして雑用プレートの貼られた机の隣を眺めてみる。営業の人はきっと、せっせと汗を流しながら外で働いているのだろう。この事務所の経営が成り立っているのは、きっとこの人のお陰だ。敬意を抱くね。
「営業の人はやめなかったのか?」
「あたりまえでしょ。やめる必要が無いもん」
 あたりまえ、というヒラギの言葉からして、やはり営業の人は相当な働き者なのだろう。ヒラギの言動から、初めて敬いの感情が感じられた。
 会話というほどのものはそれほど無く、俺はお湯が沸くまで自分の席に着席して、大人しく教師たちに課せられた本日の宿題に取り掛かっていた。
 その間、ヒラギは社長席に置いてあるコンピューターをいじっていたが、それがデスクワークなのか、はたまたネットサーフィンでもして遊んでいるのかは不明であり、そしてどうでもいい事である。
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