トイレの花子
『トイレの花子さん』。その名を知らない日本人は、ほとんどいないだろう。『口裂け女』や『人面犬』などと並び、かつて日本の学生達を恐怖に震えさせた、超有名都市伝説の一つだ。
それはどの小学校の“七不思議”にも、皆勤賞レベルで入っている話だ。その話を簡潔に説明すると――。
『……夜、学校の三階の女子トイレ。前から三番目の、一番奥の個室を三回ノックし「花子さぁーん」と呼ぶ。すると中から「はぁーあーい」と返事がし、扉が開く。中には赤いスカートにおかっぱ頭の少女がいて、トイレの中に引き摺り込まれてしまう……』
――だいたいこんな感じだ。
……俺はその、『トイレの花子さん』を見たことがある。
*
今から二十年以上前の話だ。俺は当時小学五年生で、生意気盛りだった。今じゃあ死語かもしれないが、当時の言い方じゃあ“ガキ大将”ってとこだ。
ある日、女子達がクラスで騒いでいた。『トイレの花子さん』についてだ。
隣のクラスの誰々が見ただとか、ナントカって言葉を言えば退治できるだとか、怖くてトイレに行けないだとか――。そんな話を、延々としてた。
俺はそれをこっそり盗み聞きしてた。正直言って、俺はそういった怪談だとかお化けの類にめっぽう弱かったんだ。そのナントカって呪文を、(ん……? 今なんて言ったんだ……?)ってな感じで盗み聞きしてた。そんな便利な言葉があるんだったら、是非とも頭に入れておきたい。と。
「『トイレの花子さん』なんて、こわくねェよなァ」
そう言ったのは当時の友人、カンちゃんだった。……本名は覚えていない。中学が別だったからだ。ただ、当時は一番仲の良かった友人だった。
「お、おう」
俺は熱心に盗み聞きをしていたせいで、友人達としていた話にはうわの空だった。どうやらこっちも、『トイレの花子さん』の話をしていたらい。
「ビビっちゃってェ。ダッセェー!」
カンちゃんは聞こえよがしに言う。あぁ、余計なことを……と思った。イヤな予感がプンプンしたのだ。
「なによッ!」
案の定、女子達は七、八人のグループになって食ってかかる。そしてその応酬をしているうちに……。
「じゃあ、オレたちでたしかめてきてやんゼ!」
……なぜかそんな話になってしまったのだ。
――そしてその日の夜。時刻は夜の十一時。
俺達は家を抜け出し、いつもの空き地に集まった。俺――当時の呼び名でマサヤン――と、カンちゃん、ミチル、トッシの四人だった。
「あれ、マッツンは?」
誰かが言った。どうやらビビって、バックれを決め込んだらしい。――オレも来なけりゃよかった、とその時俺は後悔していた。
「マッツン、明日ショケーな!」
俺たちはそんなことを言い合って笑いながら、静かな街を歩いた。なんだか悪いことを内緒でしている感じで、みんないつもより興奮していた。
学校に着くと、柵を乗り越えて校庭に侵入した。「どっから入るか」という話になり、みんなで窓の鍵が開いてないか調べた。もちろん、扉は閉まっていた。
全部閉まっていてくれ……! 心の中でそう願っていたが、その想い虚しく、誰かが「オイ! ここ開いてんぞ!」と言う。
行くと、確かに窓の鍵が開いていた。それを見つけたカンちゃんは、イタズラっぽく笑った。みんな「うっわ」「すっげぇー」などと言い合って、喜んでいる。
俺はというと、あぁ、もう後戻りできない……と絶望していたのだが。
窓から校舎に忍び込み、ひたすら暗い廊下を歩いた。誰一人として懐中電灯など持ってきていないのが、アホである。その先頭を、俺は歩かされる。一番身体が大きかったし、ビビってるところなんて見せられなかったのだ。
階段を登り、三階へ行く。毎日通っている学校のはずなのに、まるで別世界だった。静まり返る校舎に、俺たちの歩く音だけが反響していた。
そしてついにトイレに辿り着いた。俺の通っていた学校のトイレには、扉がなかった。暗闇の中で見るそれは、まるで洞穴の入り口だ。
普段入らない女子トイレに、足を踏み入れる。入ってすぐ右に曲がり、次いで左に曲がると、並んだ個室が見えた。
真っ先に思ったのは、
(小便器が付いてない……!)
……ということだった。
「マサヤン、行けや」
俺の後ろについたカンちゃんが言う。なんで俺が……! と思いながらも、俺は竦む足を一歩一歩前へと進めた。
三階の、三番目の個室。ピンク色の扉が、うっすら見える。
――ドン、ドン、ドン。
鈍い音が三回、トイレに反響した。カンちゃんを見る。カンちゃんは俺を見て、「ン」と扉の方を顎で示す。
イヤイヤながらも言うしかなかった。
「は……花子ォー……」
自分の声が震えているのが、自分でもわかった。――静寂が流れる。
「は、花子ォーー!」
ヤケクソ、と言った風に、振り絞るように言った。大きな声がウゥーン……と、余韻を残す。
出ないじゃんか。……ホッとすると、笑みがこぼれる。カンちゃん達の方を向いた。
「……ァ……ァ…………」
すぐ近くにいた三人は、俺のすぐ近くを見つめ、指差し、声にならない声を漏らしながら後ずさっていた。目を剥き、口を鯉のようにパクパクいわせている。
何事かと、その指差す方を見る。
――そこに、同い年くらいの女の子が俯き、立っていた。
おかっぱ頭に、赤いスカート――!
「ッ‼︎ トイレの花子ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ‼︎」
「……うァわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」
三人は徒競走でも見せないような全力疾走でトイレから駆け出た。
俺は、その少女が顔を上げるのを見た。そして口を開け、ボソッと言った。
「……“サン”ヲ、ツケロ」
ごめんなさい‼︎ ごめんなさい‼︎ 花子“サン”‼︎ ごめんなさい‼︎ ……そう言いながら、夜の校舎を必死に走った。
それからは、そのトイレには行かなかった。
……女子トイレなのだから、当たり前なのだが。