朝も早くから、里佳は部屋の大掃除をしていた。窓を開けているとはいえ、滅多に使わない書類棚までひっくり返しているのだから、彼女の一挙手一投足にふわふわした埃が陽を透かして舞い上がった。
本好きの彼女は手持ちの本を全て分類し直すのだと言って、それらを本棚から一冊ずつ取り出しては丁寧に床に並べていた。
「これ、買ってきてくれない?」
壁にもたれてぼんやりとその作業を眺めていた僕に、里佳は笑顔で一枚の紙切れを差し出す。そこには赤いボールペンで「布ガムテープ、ビニールひも、洗剤(塩素系のやつ)、油性黒マジック」と走り書きされていた。僕はコートを羽織ると、その買物リストをジーンズのポケットにねじ込んで部屋を出る。その背中を、彼女は一体どんな顔をして見送っていたのだろう。買物袋を下げて部屋に戻ると、室内はガランとしていて、積み上げられていた本も、クローゼットの中の服も、そして彼女も、いなくなっていた。
− 不確かな距離 −
1
あの頃の僕らは、毎日が修学旅行だった。一緒にアパートの玄関を出て大学に向かい、講義が終わると君は演劇サークル、僕はバイトに精を出す。それぞれの一日が終われば再び顔をあわせ、今日あったできごとを面白おかしく語りながら二人で食卓を囲んだ。君があまりに夢中で喋るからつい惹き込まれて、気付けば三時間も夕飯を食べていたこともあったっけ。布団に入っても枕を寄せ合って映画や演劇の話。些細なことでくすくす笑いあって、君はいつも興奮して余計眠れなくなり、大抵は僕が先に寝息をたてた。
「布ガムテープ」
「えっ」
急に耳に飛び込んできた単語に、はじかれるように顔をあげた。
「ぼうっとしてないで、そこのガムテープ取ってくれよ」
怒ったような中島の声に、無理矢理現実に引き戻される。人気のないイベントホール。床に散乱したボードやポスター。僕と同僚の中島は明日行われる企業パーティの会場のセッティングをしていた。呆れ顔の中島に「悪い」と短く答え、僕は手近にあった布ガムテープを放る。きれいな放物線を描いて空を切るそれを見ながら、僕は心の中で「……ビニールひも、洗剤、塩素系のやつ、油性黒マジック」と呟いていた。何度も繰り返し読んで諳んじてしまった買物リスト。もうずいぶんと昔のことなのに、赤いボールペンで書きこまれたそれらの項目は僕の中でひとつの長い単語を形成しており、ばらばらに切り離されることがない。
「早く終わらせて飲みに行こうぜ」
「ああ、そうだな」
僕は体の下に敷いた大判のデザインボードから顔を上げ、笑顔でそう返す。ずっとうずくまった姿勢のままパネルの配置を検討していたせいで、背中を伸ばすと筋がキリリと痛んだ。ゆっくりと立ち上がるとスーツの裾についた埃を払い、たった今レイアウトしたポスターの出来映えを確認する。まあいいか。中島にも聞こえるように小さく声に出し、それを合図に僕らは辺りを片付けて会場を後にした。
里佳がいなくなってもう九年になる。中堅の広告代理店。僕は社会人として、里佳のいないこの歳月をきちんと務め上げていた。
忘れたことなど一日だってない。女々しいと言われたって、今の僕の一部は里佳と過ごした日々で形成されているのだから仕方のないことだろう。想いは時間の流れと共に姿形を変え、もはや彼女を思い出すときに痛みを伴うこともない。むしろ懐かしさと暖かさだけが、現実離れしたものとして僕につきまとっていた。あれから付き合った女性だって何人かいるというのに、僕の中で里佳が過去の恋人になることはなかった。実際の里佳がどうだったかなど、きっともう問題では無いのだ。似ている女性とすれ違えば振り返り、友人の仕草が彼女を思い起こさせれば嬉しくなった。ああ、囚われているのだ、と思う。
大衆居酒屋の壁際に取り付けられたテレビの中で、若いコメディアンが声を張り上げていた。中島は「くだらねえ」と言いながらもそれに見入り、赤い顔で笑っている。こんなに騒々しいところでよくもテレビなんか見られるものだ。僕らと似たようなスーツ姿の集団が、あまり広くない店内で肩を寄せてビールジョッキをぶつけあっていた。彼らが乾杯、と叫ぶたびにジョッキの表面に結露した水滴がスーツの膝に落ちて染みを作っていた。
少し酔いの回ってきた頭で、僕はいつものように想像してみる。もしカウンターの奥から「はい、ビール二つと冷奴ね。お待ちどうさま」と里佳が出てきたらどうだろう。もしあの頭の禿げた親父の隣で豪快にホッピーを飲んでいる女性が里佳だったらどうだろう。もし彼氏と手をつないだまま大通りから窓越しにこの店を覗きこんでいる女性が、里佳だったら。
2
あくる日の企業パーティは大成功だった。昨晩飲みすぎた中島が少し遅刻して一瞬ひやりとしたが、特に何事もなく、パーティの出席者たちは会場の豪奢な雰囲気に口々に賛辞を漏らした。
「これは驚きましたな、もっときちんとした格好で来ればよかった。立派なパーティですねえ。一人で会社を創設されて四十年、ここまで会社を大きくされるとは」
よれよれのスーツでやってきた初老の男が、酒に酔って大声で会長に話しかけるのが聞こえた。
最初、儲かっている会社にふさわしい会場にしてほしいと言われたときには頭を悩ませたが、やってみるとそれほど難しくはなかった。少なくとも、格好よくしてほしいなどという漠然とした要望よりは簡単だった。企業向けのパーティだから、どうせスーツ姿の男性しか参加しない。僕らは会場に華やかさを加えるために女性のドレスの生地を大量に買い込んだ。僕らがアレンジした、白いシルクに金色のリボンを織り込んだ華やかな天蓋の下で、参加者たちは酒に酔って山のように名刺を交換し、大いに満足して帰って行った。
パーティが終わると、発注者であるその企業の会長は満足気に僕らに歩み寄ってきて、大きな手で握手を求めた。
「やあ、君たちのおかげで盛況だったよ。素晴らしい、我が社に引き抜きたいくらいだ」
当然社交辞令なのに、中島は本気で照れて、しきりに後頭部に手をやってはペコペコとお辞儀を繰り返していた。僕は会長の太い白髪混じりの眉をぼんやりと見つめていた。いかにも会長という風貌だな、などと考えていた。
「お疲れさん、何も食べていないんだろう。乾杯しようか」
会長はホールを片付けている給仕の一人を呼んだ。はい、ただいま、と返事をしたのは学生のアルバイトだろうか、まだ若い女性である。会長は早口でワインとグラスを持ってくるよう指示した。彼女は一旦厨房に引き返し、ワインのカートを押して戻ってきた。手際よく台の上に並べたグラスにワインを注ぎながら、給仕の女性が僕の顔をちらりと見た。その瞬間、彼女がわずかに目を見開いたのに気付いたが、すぐに会長の「乾杯」の声に気を取られて言及はしなかった。
パーティの備品をワゴン車に詰め込み、会社に戻った。それらを倉庫に片付け、今回のスタッフと、紙コップに缶ビールでささやかな打ち上げをした。夜も遅くなってから家路に着く。家と言っても、大学の頃から変わらないボロアパートだ。スーツも、靴も、時計も、すべてあの頃より高価なものを身につけているのに、なぜか家だけは引っ越す気になれなかった。会社の同僚には不思議がられたが、どんな高層のオーシャンビューのマンションだろうと、僕にとってはこのボロアパート以上に居心地の良いところではなかった。
コンビニで夜食を買って、暗い住宅街を抜け、ようやくアパートの前にさしかかったとき、不意に懐かしい香をかいだ気がした。地面に視線を落として歩いていた僕は、思わず顔を上げて辺りを見回す。そこには、先ほどの学生アルバイトの給仕が立っていた。僕はひどく驚いて、口を開きかけたが、彼女が声を発するほうが早かった。
「お父さん」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。少し飲みすぎたか。軽く頭を振ってもう一度目の前の女性を見つめる。
「お父さん」
彼女はもう一度、はっきりとそう言った。僕は身に覚えのある女性を頭に数人浮かべたが、いずれも里佳のあとに付き合った女性で、こんなに大きい子供には全く心当たりがない。
「人違いだろう」
僕はそう言った。正直なところ、疲れていたし早く家に入りたかった。彼女を押しのけてアパートの階段を上がろうとしたとき、彼女の口をついて出た言葉に僕は凍りついた。
「木下里佳。人違いじゃないでしょう?」
キノシタ、リカ。その名前を僕以外の人が発音するのを、一体何年ぶりに聞いただろう。他人の口から聞くその名前は、僕の知っている里佳とは別人のような感じがした。
馬鹿馬鹿しい。もし里佳が消えたときに子供を身篭っていたとしても、成長した子供はまだ九歳だ。
「じゃあ、お母さんはどこにいるんだ」
「えっ、と……お母さん……は、仕事で外国に……」
口ごもる彼女の様子に、明らかにそれも嘘だと分かる。
「いいかげんにしてくれ」
そう言いながらも僕の心臓は早鐘をつくように高鳴っていた。急に現れた「里佳」の名前を口にする者。たとえそれが大嘘つきの風変わりな女子学生だとしても、その縁を無下にすることなど、僕にはとてもできそうになかった。九年前で止まっていた時間が、再び動き出したような気がした。
あのとき、買物リストを残して姿を消した里佳は、大学にもサークルにも姿を見せなくなった。誘拐ではないかと心配して警察にも行ってみたが、対応してくれた中年の職員が気の毒そうな顔をしながら「クローゼットの服まで全部まとめて誘拐するなんて、聞いたことないよ」と言っただけだった。言外に「駆け落ちだろう」という含みを感じて、僕は顔をしかめてその場を立ち去った。とりあえず近所の人に、里佳を見かけなかったかとも聞いてまわった。しかし良い返事が得られなかったばかりか、かわいそうな人という目で見られる始末だった。終いにはコンビニの前で高校生と抱き合っていた女性が里佳に似ていた、といういいかげんな情報まで飛び出し、近所の井戸端会議のネタにされることに僕はひどく当惑して、里佳を探すのをやめた。
「名前は?」
その問いかけに、僕をお父さんと呼んだ女子学生は、自分を「アリス」と名乗った。嘘だろうと思ったが、彼女が本名を言わないので、そう呼ぶしかない。不思議の国の、と頭につけたくなるようなその名前は、ある意味では彼女にぴったりだ。もっともそんな御伽噺のようにかわいらしい展開ではなかった。
「アリス……。悪いけれど帰ってくれ。自分の家があるだろう」
「あそこで棲み込みの給仕のアルバイトをしていたんだけど、お父さんを見つけて引き払っちゃった。もう帰るところがないの」
アリスはそう言った。頭が痛い。聞かなかったことにしようかと思ったが、女性を一人で夜遅くに外に放り出しておくわけにもいかない。
僕は渋々、彼女を家にあげて、書斎代わりにしていた四畳半を貸した。当然、翌日には出て行ってもらおうと思っていた。しかし結局、彼女は次に住むところが見つかるまで、と言って僕の家に居座り、僕は完全に彼女のペースに巻き込まれる形になった。
アリスがうちに住みつくようになってすぐに分かったことだが、彼女は大抵の家事をうまくこなした。留守がちで帰りも遅い僕にとっては、家の管理をしてくれる彼女は、正直なところありがたかった。僕のほうが朝早く家を出るので、彼女が日中何をしているのかはよく分からないが、どうやら毎日僕の家から高校に通っているようだった。
僕は、アリスの正体を知りたかった。実際、何度も里佳の近況について聞いたが彼女がろくに答えられないことから、里佳と深いつながりがあるわけではないだろうと推測できた。それでも、僕の昔の恋人の名前をあげるからには、里佳もしくは昔の僕と何らかの接点があるということだろう。もしかしたら、今の里佳の生活についても、何らかのヒントをくれるかもしれない。僕はただ、アリスから里佳につながる何かが零れ落ちるのを待っていた。
土曜日の遅い朝、僕がシャワーを使って居間に戻ると、アリスが身を乗り出してテレビを見ていた。芸人がたくさん出てネタを競うようなやつで、テレビから流れる群集の笑い声が居間に気だるい空気を残した。窓の外に目をやると、公園で遊ぶ子供たちと、それを見守る母親の集団が談笑しているのが見える。こんないい天気の日に、家の中でテレビ画面にかじりついているアリスがひどく不健康な気がした。
「こんなもの見て楽しいか」
濡れた髪をタオルで拭きながら僕が聞くと、アリスは少しむっとしたように僕を見上げた。
「今、この人、大人気なんだよ」
へえ、と僕は適当な相槌で画面に目をやった。若いコメディアンが甲高い声で何かをまくしたてており、すぐに以前中島が居酒屋で見ていた番組に出ていた奴だと分かった。お世辞にも人気の出る顔とは言えない。目だけは優しげな三日月カーブを描いていたが、ニキビの跡が目立つ、岩のようにボコボコした顔だと思った。
「お父さん、邪魔」
もっとよく見ようと画面に近づいたとたんに怒られた。お父さんって呼ぶなよ、とぼやきつつ、僕はアリスを振り返る。意外にも彼女は真剣な顔で画面を見つめていた。
「お前、趣味悪いなあ」
僕が言うと、彼女はそれさえも邪魔だと言うように僕をにらんでボソッと言った。
「彼氏なの」
「え……?」
もう一度テレビを見ると、発色の悪い画面の中でその顔面岩男は、にへ、と笑った。
3
「隣のこどもは我が家のこども」
中島の一言に、僕は雑誌のページをめくる手を止めて眉を寄せる。
僕らは会社の喫煙室のソファに身を沈めて、昼飯のあとの一服を楽しんでいた。
「なんだよソレ」
「幼児虐待防止のポスターのキャッチコピーを考えてるんだ」
真面目な顔をして言う中島に、僕は大げさに溜息をつく。
「ひどいセンスだな、お前。小学生の標語コンクールじゃないんだぞ」
「失礼だな、じゃあお前が考えろよ」
途端に怒り出した中島に、僕は身を乗り出して中島の手許の書類を覗いた。そうだな、たとえば……。言いかけて僕は突然思い出した。幼児虐待。そう、たしか昔、僕の部屋の隣に虐待を受けている子供が住んでいた。
隣の家の幼児虐待には、なんとなく気付いていた。若い母親と、小学校低学年くらいの子供の母子家庭だった。はっきりと何か証拠があったわけではない。激しい暴力の音が聞こえてきたわけでもない。ただ、時折見かける母子の姿が、少し異様に見えていただけだ。廊下ですれ違ったとき、僕に挨拶がうまく出来なかったと言って、優しそうな母親が目の前で子供の頬を力いっぱいつねった。とても痛いはずなのに、その子供は泣かずに耐えていた。
実際に虐待だと明らかになったのは、もっと後になってからだった。里佳のことで頭がいっぱいだった僕がようやく落ち着きを取り戻してきた頃、アパートの廊下から公園を見下ろしているその子供を見かけた。もう外はかなり暑くなってきたというのに、子供は長袖のTシャツを着ていた。こんにちは、と声をかけると、子供はびっくりした顔で振り返り、少し微笑んで、コンニチハ、と言った。次の瞬間、初夏の風がアパートの一階から吹き上げてきて、Tシャツの裾から脇腹一体にできた痣がちらりと僕の視界に入った。気付くと僕は子供の腕を掴んでいて、子供は顔をしかめた。どうやら僕が掴んだ腕にも痣ができていたらしい。僕は嫌がるその子をなだめて、相談にのる、と言った。子供は僕の顔をしっかりと見て、意外にあっさりと頷いた。それから数日間、僕は時間を決めて公園でその子供と落ち合い、度々話を聞いた。子供は最初は重い口を開かなかったものの、次第に僕を信用してポツリポツリと自分の置かれている状況を話すようになった。その内容は紛れもなく虐待で、市役所に相談したほうがいいだろうと思ったが、市の職員が事前調査に来れば母親が子供に八つ当たりしないかと気になった。そうこうしている間に、気付けばその子供は施設に引き取られ、続いて母親もどこかに引っ越して行った。
あの子供は、どんな顔をしていただろう。なんという名前だっただろう。
休みの日に居間でゴロゴロしているアリスに、勉強はしないのか、と聞いた。彼女が何をしていようとどうでもいいはずなのだが、高校生を養っている以上、自分にはきちんと彼女に勉強をさせる義務があるような気がした。
「お父さんだってゴロゴロしてるじゃん。お母さんが見たら怒るよ」
アリスは読んでいた本からちらりと顔をあげ、そう言った。二の句が継げない。アリスは僕が里佳のことを聞いても何も答えられないくせに、こういうときにはやたらと「お母さん」という単語を連発する。たまに、本当に自分が父親になったような錯覚に陥る。
『ナオ』
里佳は僕の直樹という名前を短くしてそう呼んだ。もし、今、ここで。『ナオ、アリス、ご飯できたよ』そう言って里佳が台所から顔を出したら、僕はどんなに幸せだろう。くだらない妄想に自分でもあきれてしまう。実際のところ、僕は里佳がどこにいて、アリスが誰なのかも知らない。近くにいるのか、遠くにいるのか、近づいていいのか、遠くにいたほうがいいのか。すべてが曖昧で不確かな距離を保っているように思えた。
なあ里佳、お前は一体何をしているんだ。誰の隣にいて、どんなものを食べて、何を考えて暮らしているのだろう。たまには僕のことを思い出したりするだろうか。そのとき君は懐かしいと思うだろうか、それとも忘れたいと思うのだろうか。
仕事が一段落した平日、僕は会社を休んだ。スーツを着て、いつものようにアリスの作った朝食を食べて家を出る。アパートの前の喫茶店の二階でコーヒーを飲みながら時間をつぶし、僕は彼女が部屋を出るのを待った。その喫茶店からは、気分の悪いことに、実によく僕の部屋の玄関が見通せた。自分の部屋を見張るなんて、一体何をしているのだろうかと思わず笑ってしまう。しばらくすると部屋の扉が内側からゆっくりと開き、アリスが出てきた。あまり見ることのない彼女の制服姿。鍵をかけて戸締りを確認しているその姿は、なんだかきちんとした家の子供のようである。一体誰が、今の彼女が得体の知れない三十路男と二人暮しをしていると思うだろう。もっとも、得体の知れないのは彼女のほうだが。僕は吸いさしの煙草を消して、コインをテーブルに置くと喫茶店を出た。
アリスは駅から電車に乗って一駅で降りた。同じ制服の学生が大勢同じ駅で降りる。もしかしたら、アリスの彼氏だという顔面岩男もこの制服に紛れているのだろうか。アリスは群集の中の一人の女子に肩を叩かれて振り返り、おはよう、と言った。二人は身振り手振りを交えて、楽しそうに笑いながら高校に続く広い並木道を歩いていく。眩しいほどのいい天気だった。一定の距離をあけて平然と二人の後をついていく僕に、数人の学生が追い抜きざまに「こんにちは」と挨拶をした。父兄だとでも思われているのだろうか。まだそんな歳ではないのに、と肩を落としていると、ちょうど校門を入ったところでチャイムが鳴った。
「ゆうこ、早く早く」
アリスはもう一人の女子学生に背中を押されて走り出した。アリスは確かに、ゆうこ、と呼ばれた。
エントランスの靴箱で二人が靴を履き替えて教室に姿を消すと、辺りは急に静けさに包まれた。遠くのほうでのんびりと体育教師が号令をかけている声が聞こえた。僕は外部よりも少しひんやりした校舎の中をゆっくりと歩を進め、そして、アリスの靴箱の前で足を止めた。
『坂本有子』
僕はしばし目を閉じて回想する。母親に無理矢理手をひかれた、記憶の中の青い痣の子供は、なんと呼ばれていただろうか。
『ゆうこちゃん、挨拶はもっと大きな声でって言ってるでしょう』
母親の声が不快な音となって薄暗いアパートの廊下にこだまする。有子にアリス、か。ひどい当て字だ、と僕は靴箱の名札の文字を指でなぞりながら苦笑した。
次の週末、僕が目を覚ますと、廊下でアリスの笑い声が聞こえた。何事かとパジャマのまま玄関のドアを少し開けるとアリスが大家さんと談笑していた。外は暖かく、廊下の向こうに眩しい木々の緑が目に入る。二人はちょうど逆光になって、目が慣れるまでに時間を要した。
「あ、お父さん、おはよう」
気付いたアリスが僕に声をかける。僕が目をしばたいていると、大家さんがニヤニヤしながら僕に言った。
「ナオさんも隅におけないわねえ、こんな大きな子供がいたなんて」
大家さんは、里佳の影響で僕をナオさんと呼んだ。
「えっ……いや、ちが……」
僕が撤回する前に、アリスが僕の頭に手をやった。
「お父さん、寝癖すごいよ」
その光景に大家さんが楽しそうに、いいわねえ、と言う。大家さんの太めの腹回りには無理矢理ピンクのエプロンが巻きつけられており、笑うたびにそれがひらひらと揺れた。僕は口を挟むのを諦めた。
「じゃあ、さっきの件よろしくね」
大家さんはアリスとのおしゃべりが一段落すると、満足したように階段を下りていく。
「さっきの件って何?」
僕が聞くとアリスは部屋の戸を閉めながら「明日、湯沸器の点検の人がうちに上がるからよろしくってさ」と言った。なんだかアリスが主婦に見えるな。僕はやっとクリアになってきた思考でそんなことを思った。
遅い朝食を食べながら、僕はアリスに提案をした。
「今日、暇だから海のほうまで散歩しないか」
「散歩? だって、海まで歩いて四十分くらいかかるよ」
アリスは少し口を尖らせた。僕は口をつけたコーヒーのマグを机に戻して言う。
「少しは運動しろよ。毎日ゴロゴロしやがって」
「ひどい、ちゃんと家事やってるよ」
手を伸ばして僕の皿のミニトマトにフォークを突き刺しながら、彼女は拗ねた顔をする。彼女の作る朝食はいつも、僕には野菜が多すぎた。あるとき野菜を減らせと頼んだが、それ以来彼女は僕の皿から食べ残しの野菜をこうして持っていく。
なんだかんだ言いながらも結局、朝食を済ませると彼女は僕の散歩に付き合った。
途中、ゲームセンターのUFOキャッチャーでアリスにウサギのぬいぐるみを取ってやった。本当はそんなことをする予定ではなかったが、そこの前を通り過ぎるときに、アリスがぬいぐるみが欲しいと言い出したのだ。何歳だよ、と内心毒づいたが、里佳の後に付き合った女性によくせがまれたせいで、UFOキャッチャーは得意だった。すごいすごい、とはしゃぐアリスに「こういうものは彼氏にとってもらえよ」と言うと、アリスは少し頬を膨らませて「だって収録ばっかりで忙しそうなんだもん」と言った。
海は、とても穏やかだった。さっき朝食を食べたばかりだというのに、僕らは焼きそばパンをほおばりながら防波堤に腰掛けていた。ゲームセンターの後、アリスは今度はパン屋の前で立ち止まって「ここの焼きそばパン、おいしいんだよ」と言外に僕に買うことを強要した。
「気持ちいいねえ」
「な、来てよかっただろう」
僕は水平線の向こうにユラユラと影を映すヨットを見ていた。アリスはご機嫌で鼻歌を歌いながら足をブラブラさせていた。手にはウサギのぬいぐるみを持って。初めてイベント会場で彼女を見たときは、給仕の制服に身をつつんでいたせいか、若いとは言ってももう少し大人びていたような気がした。今の彼女はなんだかとても子供っぽくて、僕をお父さんと呼んでいるうちに、無意識に彼女が自分自身に子供の役割を与えてしまったのではないかと思う。
「お前さあ、本当は昔隣に住んでた坂本有子だろう」
僕は唐突に切り出した。ここまで連れ出したのも、彼女に僕が正体を知っていることを伝えるためだった。いくら家事をしてくれるからと言って、赤の他人をこれ以上家に置いておく理由はない。しばらく沈黙が続いたあと、アリスはぽつりと言った。
「……うん。ばれちゃったか」
僕は何も答えなかった。打ち寄せる波の音と、のんびりした海鳥の声が僕らの沈黙を埋めた。
「大家さんだって私のこと気付かなかったのに、すごいね」
「すごいねって、お前……」
返す言葉がなくて、再び黙り込む。アリスの焼きそばパンは、三分の二を食べたところで進まなくなった。僕は手持ち無沙汰に近くに落ちていた小石を手にして海面に放ってみる。アリスは少し考えて、記憶をたどるようにゆっくりと言葉を落とした。
「あのね、ナオさんが血相を変えて『里佳を見ませんでしたか』ってうちに聞きに来たのを覚えているの。そのときはただ、何か大変なことがあったんだ、と思っただけだったけど。それからしばらくして、今度は私の痣に気付いたナオさんが、虐待を受けていた私の相談にのってくれた。すごく嬉しかった。だから、この前偶然ナオさんに再会したとき、とてもドキドキした。まだここに住んでいるとは思わなかったけど、とりあえずここに来てみるしかなかったの。このアパートに居座るのは、昔を思い出して少し怖かったけど、ナオさんがいたから平気だったよ」
一気に言葉を吐き出してから、アリスは、ふう、と大きく息をついた。アリスはもう、僕をお父さんとは呼ばなかった。お父さんではないのだからそう呼ぶなと何度も言ったのは僕のほうだったけれど、アリスにナオさんと呼ばれるのは少し変なかんじがした。
太陽がちょうど頭の上まで昇って、さすがに少し暑いと思った。ジリジリとさすような陽射に、自分がどうしたかったのかを思い出せなくなっていた。そして、アリスの糸が今の里佳ではなく昔の僕につながっていたことに少し落胆した。アリスは残りの焼きそばパンを一気に口に押し込んだ。
正体がばれたのだから出て行くだろうと思ったのに、なぜか僕らの生活は何も変わらなかった。ただ、アリスの服装が少し大人びて、奇妙な親子ごっこが終わっただけだった。
4
企業パーティで僕らが世話をした会長は、どうやら本当に僕たちの仕事を気に入ってくれたようだった。その後もいくつかの仕事を発注してもらい、僕らは働きが認められて、会社から異例の報奨金が出た。
「うれしいねえ。突然のお小遣いだよ」
中島は満面に笑みをたたえた締まりのない顔で僕に言う。きっと僕も同じような顔をしているのだろう。
「なんかうまいものでも食いに行くか」
僕は日本酒を飲む手つきを真似て中島を誘ったが、彼は首を横に振った。
「だめだめ、今夜はこの金で彼女とデートだよ。最近残業が多かったから機嫌が悪くて」
「なんだ、残念だな」
そう言いながら、僕は頭をめぐらす。うまいもの、か。たまにはアリスになんかうまいものでも奢ってやろう。
あまりにも定番だったが、うまい肉を買って帰ったので、我が家の今晩のメニューはスキヤキになった。未成年に酒は禁止だと分かっていたが、飲み相手欲しさに少しだけアリスを晩酌に付き合わせた。そのせいなのか、アリスはさっきからずっと僕の前で饒舌に、多忙でかまってくれない顔面岩男の愚痴をこぼしている。会社からの報奨金で日本酒にスキヤキ。僕は幸せを噛み締めながら、アリスの愚痴に適当な相槌を打っていた。話し出したら止まらないのか、この三十分、アリスは箸を完全に止めていた。なんだかその様子が里佳に似ているな、と思い、少し口許が緩む。里佳の娘ではないと、分かっているのに。
「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてるよ」
僕はやれやれ、と呟いて日本酒を手酌する。
「ナオさんは男だから、あんまりこういう気持ち、分からないよね」
「そんなことはないけどさ、あんまり妬くと嫌われるぞ」
僕が顔面岩男をかばったのが気に入らなかったのか、アリスはぷい、と横を向く。
「分かったようなこと言わないでよ」
「おいおい、お前から話題をふったんじゃないか」
「そんなの関係ないよ。自分だって彼女に妬いたことあるくせに。どうせ里佳ちゃんだって……」
その瞬間、時が止まった。思わず猪口を取り落とした僕を見て、アリスははっと我に返り、口許を押さえる。自分の失言にたった今気付いた、というように。床に落ちた猪口が跳ねてカラカラ、と音をたてた。
「おい……」
「……あ、その……ごめん……」
視線を泳がせるアリスに対して、僕の瞳はひどくギラギラしていたに違いない。酔いなんて一瞬で冷めた。今更訂正したところで、知りませんとは言わせない。
「お前、やっぱり里佳のこと知ってるんじゃないのか」
僕は立ち上がるとゆらりとアリスに近づいた。彼女は顔面を蒼白にしてあとずさった。その手首を捕まえて、ギリギリと絞める。感情のコントロールがきかない。ただ湧き上がる熱に、僕は自分が壊れてしまうような危うさを感じた。何がなんでも、アリスに洗いざらい吐かせよう。泣かせたってかまわない。傷つけたってかまわない。里佳について、知っていることすべて。どこにいるのか。誰といるのか。どんな暮らしをしているのか。僕は、壁まで追い詰められてバランスを崩したアリスを床に押さえつけた。
「言え」
震えながら小さく横に首を振るアリス。僕はカッとなって一層強く手首を締め上げた。
「言え」
声を荒げたが、アリスは何も答えなかった。仕方がないので、僕のほうから質問する。
「いつ、里佳と話した。あいつは、どこにいるんだ」
アリスは辛そうに顔を背けて、小さな声で言う。
「もう、いないと思う」
いない? いないって、どういう意味だ。僕はアリスの肩を掴む。アリスは小さく息を飲んで、ようやく声を絞り出した。
「里佳ちゃんは……ナオさんよりもずっと前に、虐待されてる私に気付いて声をかけてくれた。私が『他の人には言わないで』って言ったから、黙って毎日話を聞いてくれてた。でもあの日は、里佳ちゃんが私に『他の人には言わないで』って言ったの。特に、ナオさんには。あのとき里佳ちゃん、病気だって言ってた。ナオさんに弱っていく自分を見られたくないから、黙って引っ越す、って言ってた……」
気付けば僕は全体重をかけてアリスを組み敷いており、彼女の手首には僕の爪が食い込んでいた。
「ごめ……それ以上、もう分かんな……許して……ごめん……」
うっすらと涙を浮かべて蒼白な顔でこちらを見返すアリス。叫ぶでもなく、悪態をつくでもなく、ただ僕の感情を刺激しないように謝り続けて、小さく震えながら、この暴力が終わるのを待っている。それに気付いた途端、体中の力が抜けた。幼少期に虐待を受けていた人間に、僕は一体何をしているんだ。急に叩きつけられた現実。気付けば僕は混乱したまま、僕の中の里佳がたった今消えていくことに、ただ声をあげて泣いた。部屋にこもったスキヤキのにおいが、ひどく空しかった。
明け方まで、僕は暗い居間でゴロンと横になって、ブラインドを通して天井にできた月明かりの縞模様を見つめていた。アリスはそんな僕の頭を膝に抱えて、僕の涙の筋をその指で拭った。彼女の指の温度に、僕は徐々に落ち着きを取り戻す。外は雨が降りだしたらしく、アパートの前を車が通ると、小さくシュルシュルとタイヤが水を撥ねる音がした。彼女は子供をあやすように低い静かな声で、覚えている限りを僕に語った。
……あのね、里佳ちゃんと最後にこのアパートの下の公園で話したときね、まだこの先もナオさんの姿を見ていられる私が羨ましいって言ってたの。だからしばらくは里佳ちゃんに手紙を書いて送ってあげてたんだ。いつもすぐに返事が来ていたのに、あるときからぷつりと来なくなって。里佳ちゃんのご両親から、私の書いた手紙が束になって戻ってきたよ。大事なものだろうからあなたが持っていてください、って書いてあったから、きっと死んじゃったんだなって思った。それからすぐに私も施設に引き取られたから、ずっと里佳ちゃんとナオさんのこと、忘れてたよ。
だけどあの日偶然ナオさんを見かけて、いてもたってもいられなくなったの。おかしいんだけど、ナオさんが今どういう生活をしているのか、ちゃんと見て里佳ちゃんに報告しないといけないような気分になったんだ。でも……ふふ。お父さんって、ちょっと設定に無理があったかもね。
翌朝、目が覚めるとひどい頭痛に襲われた。普段泣くことなんてなかっただけに、一生分の涙を体から放出した気分だ。鏡をのぞくとバケモノのように瞼の腫れ上がった自分が映り、思わず目をそらした。
「おい、アリス、頭痛薬……」
声に出しかけて、ふと、彼女がいないことに気付く。見れば彼女の荷物もすっかり片付けられていて、まるで最初から僕一人しかここで生活していなかったかのようだった。当然だろう、あんな形相で彼女を押さえつけて締め上げたんだから。なんてこった、一生のうちに二回も同居人に逃げられるなんて、まったく。僕はガンガンと脈打つ重い頭を抱え、自嘲的な気分で薬箱を探した。
5
里佳は僕に、辛いところを見せたことがあっただろうかと、ふと考える。どう頑張っても、笑っている顔しか思い出せない。本当に笑顔しか見せなかったのか、それともこの九年で笑顔以外の顔を忘れてしまったのか、自分でもよく分からない。
最後の段ボールを引き寄せた。今日、僕は里佳の思い出の詰まったこの家を出て行く。ガムテープでベリベリと段ボールの四周をふさぎながら、僕は「布ガムテープ、ビニールひも、洗剤、塩素系のやつ、油性黒マジック」と唱えていた。財布に小さく折りたたんでしまっていた九年前の買物リストを開いてみる。何度も繰り返し読み上げてボロボロになったメモ用紙。その文字列を指の腹でなぞってから、僕はそれをポケットに押し込んだ。何もなくなった部屋はあの日を思い起こさせる。でも僕はもうここへは戻ってこない。あのときのように、君が帰ってくるのを待つ必要は、もうないから。
二日間の休暇をとった。一日は引越、もう一日は遠出をすることにした。行く先は決めていた。アリスが残していった住所を頼りに、里佳の故郷へ。里佳の墓前に跪いて、まずは久しぶり、と挨拶をしよう。それから、君が辛かったのに気付けなかったことを謝ろう。捨てられたと思って君を恨んだことを謝ろう。他の男といる君を想像したことを謝ろう。君に似た女性に何度も振り返ったことを謝ろう。自分の人生を大事にできなかった日々を謝ろう。そして、せっかく訪ねてきてくれた僕らの娘を追い出してしまったことを謝ろう。
アリスが教えてくれた住所には、里佳の親類はもう住んでいなかった。一応、と思ってそこに住んでいたおじさんに近所の墓地を聞いてみると、この辺ではあそこしかないよ、と教えてくれた。訪れた墓地は、だだっ広い草原の中にあり、遠くに森が広がっている以外は景色を遮るものもない。管理事務所で調べると里佳の墓の位置はすぐに分かった。
里佳の骨を埋めた黒い墓石は太陽光を反射して、あたりの風景に溶け込んでいた。誰の手によるものか分からないが、傍らには花が活けられ、きちんと手入れされているようだった。風が吹くたびにさわさわと草が揺れ、僕はそこに膝を沈めて、優しい気持ちで墓に触れた。遅くなって、ごめん。何度も何度も、そう呟いた。
ふと気付くと、墓の影におよそ似つかわしくないスーパーのビニール袋が結わえ付けられ、その上に風で飛ばないよう、石が無造作に置かれていた。僕は立ち上がってその袋を手に取る。カサカサと袋を開けて中を覗き、すぐにこれを置いたのがアリスだと分かった。薄い封筒の束。それらはきちんと消印の日付順に並べられていた。僕はそれをくくっている輪ゴムをゆっくりと外し、封筒を開く。キャラクターのついた大きめの封筒には、サイズのそろわない子供の字。そして、薄いブルーやピンクの小さめの封筒には、目に焼きついてしまった買物リストと同じ、懐かしい里佳の筆跡があった。あまりのことに、思わず視界がぼやける。
『ナオさんは元気にしているよ、今日は青いセーターをきていたよ』
『どうもありがとう。それはきっと私がクリスマスにプレゼントしたものだね。ナオの雰囲気によく似合っていると思って衝動買いしたんだけど、まだ着てくれているなんて嬉しい』
『今日はろうかでナオさんにすれちがったよ。あいさつしたけど、なんだかつかれているみたいだったよ』
『どうもありがとう。大学はもう試験の時期だから、遅くまで勉強しているのかもね。徹夜して次の日遅刻したりしないかしら。有子ちゃんは元気? 何度も言うようだけど、お母さんにひどいことされたらちゃんとナオに言うんだよ。ナオは絶対、助けてくれるからね』
『きょう、ナオさんがそうだんにのってくれたよ。本当は言わないつもりだったけど、うでが青くなってたからいろいろ聞かれた。りかちゃんの言うとおり、ナオさんはやさしいね』
『お手紙どうもありがとう。有子ちゃん、嫌かもしれないけどやっぱりそのおうちを出たほうがいいと思うの。近いうちに誰か来ると思うけど、その人のいうことをきいてください』
『……』
『……』
手紙は全部で三十通を越え、すべてがこんな調子で短いものだった。アリスを施設に逃がしたのはきっと里佳だった。九年前の手紙だとは思えない、今にも里佳の笑顔が目の前に現れそうな気がした。僕は手紙の束を抱きしめたまま、墓地の真ん中でしばらく立ち尽くしていた。こんなに、こんなに僕を愛してくれていた里佳と、そして里佳を大事にしてくれたアリスに、ただ感謝で胸がいっぱいだった。
新しい家の住み心地は、悪くなかった。とはいえ少し、広すぎてどうしたらいいか分からなかった。アリスは今頃、何をしているだろう。またイベントの給仕に逆戻りしているのだろうか。朝の連続テレビドラマを見ながら野菜の少ない朝食をとった。玄関を出ると、強い陽射にクラクラした。仕事が忙しく、休日出社を余儀なくされていた。おまけに引越後の荷物の整理も重なり、自分が少し疲れているのを感じた。
「お父さん」
不意に聞こえた懐かしい声に左右を見渡す。しかし誰の姿も見えなかったので、幻聴だったかと思い、歩き出した。
「ちょっと、待ってってば。お父さん」
今度ははっきり、聞こえた。僕が振り返ると、背後に久しぶりの顔があった。その横には、テレビで見た顔面岩男。
「どうしてここが……?」
「大家さんに聞いたの」
僕は突然の来訪に驚いて、言葉を返せない。唖然としたままアリスの隣の顔面岩男に視線を合わせると、向こうも照れた様子で、にへ、と笑った。なんだか急におかしくなって、僕は噴き出してしまった。あまりに陳腐なこの男の風貌に笑いが止まらない。素顔で人を笑わせることができるなんて、芸人としてはなんとラッキーなことだろう。アリス、お前、本当に趣味が悪いなあ。
怪訝そうなアリスは僕が落ち着くのを待って、顔面岩男を僕に紹介した。
「今、この人と暮らしてるの。彼がお父さんに挨拶したいって言うから」
「おいおい、夫婦漫才でテレビに出たりするなよ」
僕はあらためてもう一度、顔面岩男を上から下まで観察する。いいかげんな奴ではなさそうに見えた。高校生で同棲は早いんじゃないか、と思ったが、僕の視線に再び照れたような様子で、にへ、と笑う冴えない男を見ていたら、何も言う気がおこらなくなった。ぼんやりと、昔の僕と里佳を思い出す。
「幸せにしなかったらぶん殴るぞ」
僕は溜息をついて踵を返すと、駅へと足を早めた。もたもたしていたら会議が始まってしまう。僕の家も分かっていることだし、同棲がうまくいかなくなったらきっと戻ってくるだろう、と思った。今日は暑いな。そう呟いて額の汗を拭うと、今年初めてのセミが鳴いていることに気付いた。僕の背中の遠く向こうで、アリスが顔面岩男に「うちのお父さん、怒らせたら怖いよ」と言っているのが聞こえた。
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