第六話 GPS
静かな公園にやさしい風が吹き込み、俺の頬を掠めていた。気持ちの整理がついた頃には健太の姿はここにはなかった。高々と設置された公園の時計を見上げると二時間ほどベンチに座っている事に気付いた。
「そろそろ、戻らないと……」
俺は抄本を小さく折り、ポケットにしまい込むと公園を後にした。なぜ親父と姉は奈保と愛子の事を話してくれなかったのだろうか。京子にしてもそうだ。この事を知っていたはずなのに……。形はどうあれ、俺は京子の連れ子で、勝は本当の父親ではないのかもしれない。奈保と言う女性は今も生きているのであろうか。いろいろな疑問が俺の頭の中を支配していた。
俺は重い足を引きずるように俯きながら歩き始めると、健太が言った言葉を不意に思い出した。
『これを見て京子さんに電話したんだけど繋がらないんだ……。それどころか家に行ったら誰も居ないし、病院にも入院してなかったんだよ』
病院に入院してなかった……。病院に入院してなかった? あの日、姉は病院へ向かった。あの日、既に姉の身に何かあったのかもしれない。俺も病院へ行っていれば、最悪の事態を防げたかも……。あの日の時点で事態は着実に悪い方向へ刻々と進んでいたんだ。俺はあらゆる可能性を想像していた。自分に出来る事はいくらでもあったのに、そうしなかったのは自分の責任だと、俺は猛省し、自嘲を繰り返していた……。
もう少し歩くと自宅へ着く。家のソファにでも座って、これから自分のすべきことを考えよう……。
階段を上がり、玄関ドアの前に立つと俺は目の前の状況に驚いた。ドアの南京錠は乱暴に壊され、ドアノブに手をやると簡単に回った。鍵は掛かっていない。俺の脳裏には、愛子の顔が浮かび、不安に駆られた。
俺は、何の躊躇も無く、勢い良くドアを開けた。
「愛子!…… 愛子!」
そこに愛子の姿は無かった……。俺がその場に立ち尽くしていると、部屋の奥に人影を感じる。
「誰だ!……」
窓へ差し込む日差しが逆光して、人影は影の形のままこちらへ向きを変えた。
「たかし……」
その声は母、京子のものだ。
「ここで何しているんだ! 愛子を何処へやった!」
俺は怒鳴った。
「知らないわよ! 愛子って誰? 隆の彼女? 母さんはあなたの事をずっと心配して探していたのよ! やっとのことで居所が分かって来てみたらドアが開いていたから……」
咄嗟にある考えが浮かんだ。抄本の事だ。これを京子に見せよう。俺は興奮した自分を押さえ込むと、ポケットにしまった抄本を手に取る。小さく折りたたんだその紙を開き終わると、両手で抄本を広げて京子の目の前に差し出した。
「これは?……」
俺の心は真実を求める感情が支配していた。その感情は余分な言葉を発する事を許さずに、俺は一言言うので精一杯になっていた。これ以上言葉が続かない……。それまで強気な顔を見せていた京子だったが驚きの表情を浮かべた。京子は抄本を食い入るように凝視する。しばらく抄本を見つめると京子の表情から驚きは消えていき、その目線は抄本から俺へと移された。
「これをどこで?……」
京子の問い掛けに俺は何も答えなかった。俺は無言で京子の目を炯眼した。すると京子は諦めた様に話し始めた。
「これが元々の家族なのよ……。勝さんと奈保さんが別れて勝さんが真奈を、奈保さんが愛子を引き取ったのよ。そして勝さんと私が結婚したの。でも、あなたは勝さんの子なのよ。奈保さんと別れる前に、あなたは私のお腹の中に……」
そこまで話すと京子の頬に涙が流れていた。涙は頬を伝うと床へ滴が落ちる。今まで、こんな姿の京子を見たことは一度も無い。その表情を見ていると自分の目にも涙を感じた。衝撃的な事実を白日の下へさらされ、言葉にはならない複雑な感情が俺の心を鷲掴みにする。
「さっき隆が言った愛子って……。大山愛子さん?」
京子は上擦る声で俺に問う。俺は口の中に溜まった唾をゴクリと一度、飲み込むと、大袈裟に一度、大きく頷いてみせた。
「腹違いとは言え、愛子はあなたの妹になるのよ……。もう会ってしまったのね。あなたを傷つけたくなかったから会わないで欲しかったの。本当のことはどうであれ、あなたには普通の家族として育っていって欲しかったのよ。今まで黙っていてごめんなさい……」
目の前にいる京子はまるで別人のようだった。これまで何をしていても荒々しく攻め立てあげられてきた事を思い出すと、嘘のようにも思える。
だが、俺が目の当たりにしているのはその場に両膝を着け、泣き崩れている京子だ。その涙は滂沱し、滾々と流れる。そんな京子にかける言葉も無く、俺はただただ、そんな京子を目線の隅へと追い遣っていった。
俺はその場にいられなくなり、部屋を出ると渡りの手摺りに体重を預けた。いつものように自然と手は動き、タバコに火を点けていた。
「はぁー……」
無意識に溜め息が出る。ひと時でもいいから落ち着ける時間を俺の精神は欲っしていた。二階から街をボーっと眺めていた。静かな街並み……。こんな静寂の中で俺の心は、まるで沼地に足を踏み入れたように不安という沼に沈んでいっていた。俺はこれからどうなってしまうのだろうか……。愛子は何処へ行ってしまったのであろうか……。
『ブーブー…… ブーブー……』
右ポケットに入れていた携帯電話が振動する。不安に沈み始めていた俺を現実へ引っ張った。携帯電話を見ると、着信は愛子からのメールだ。愛子の携帯電話はGPS付きの物だったらしく画面上は地図が表示されている。マーキングされているのは少し離れた所の港を指していた。俺は急いで走り出した。いつものレンタル店へ着くと、すぐさま車を借りてアクセルを全開に踏み込む。
十分ほど車を走らせると、港へ着いた。辺りを見渡すと一台の車が目に入った。近くへ近づくと見覚えのある車である事に気付く。これは…… 勝の車だ。
俺は車から降りると、勝の車へ近寄って中を覗いた。前部座席には誰も乗っていない。スモークの貼られた後部座席の窓を覗くと、そこには愛子が寝かされていた。両手はロープで縛られている。
「愛子! 愛子!」
俺は、窓を叩きながら叫んだ。だが、愛子は起きなかった。愛子、愛子、と何度も叫んだが、愛子に変化は見られない。次第に感情は高まり、窓を殴っていた。そんな俺に駆け寄る足音に振り返った。
俺の目の前には、勝がいた。
「隆……」
勝は悲しそうな顔で、俺を見ていた。
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