第8話 記憶の断片
「ああ、蛍! そんなところばかりきつくしないでくれ!」
「兄さん、何を言っているんですか? こうしないと、気持ち良くならないでしょ?」
「くっ! で、でも……そこは……痛いっ!」
「気持ちいいでしょ……? 兄さんがして欲しいって言ったんだから、気持ちいいはずだよ?」
「う……、あ……あぁ! も、もう! 許してくれ……蛍……!」
「兄さん、別に我慢しなくてもいいよ? ほら、ね?」
「はぁ……くはっ!! くぅ……蛍……っ!」
「兄さん。ほら、もっと気持ち良くなって……」
「く、ぁああああ――――ッ!」
……あれから、既に三十分が経過した。
風呂場に閉じ込められた僕と兄さんは、気まずい雰囲気を出しながらも、一緒にお風呂に浸かっていた。
もちろん、僕は女の子なので、背中合わせでだけど。
以前、海人が来る様子はなく、本当に困った状況となってしまったのだ。
お互い、ずっと背中合わせで浴槽の中を入っていた時、兄さんがある提案を持ち出した。
まぁ、その提案とはあまりに簡単で……そして、すごく当たり前の事なのだが。
「……蛍、まぁ待っている時間ももったいないしさ、洗い合いっこしないか?」
「は、はぁ!?」
まったく、このおバカはまたなんてセクハラ発言をしたんだ……。
もともと、反省の色がなかっただけに余計にこの発言は僕を苛立たせた。
「兄さん、殴られたいですか?」
兄さんの目の前で、僕は拳を強く握り締めてはっきりと言う。
表情はニッコリと、だが拳にはオーラを宿して。
さて、兄さんはどう返事を答えるのかな?
……って、考えなくてももう分かりきっている事だけど。
「蛍、殴っても構わん!! だから、俺と洗い合いっこしようぜ!!」
――ベシッ!
兄さんが言葉を吐いた瞬間、僕はすかさず、兄さんの腹に拳を入れ込んだ。
「ぐはぁああ!」
丸裸の状態で見事に腹に入ってくれたので、それはもう……。
兄さんは僕のパンチを食らった直後、風呂場の壁にぐったりともたれかかった。
「大袈裟ですよ」
「いや、十分……効きました……」
「……はぁ〜」
本当にリアクションだけは無駄に高いな、この人は。
その分、学習能力に欠けているから、本当にまったく成長する兆しが見えない。
はぁ〜……、出来の悪い兄さんを持つと苦労します、はい。
「さ、さて、蛍。約束だ! 俺と洗い合いっこしようぜ!!」
「兄さん。しつこいです! 嫌なものは嫌ですよ」
「えぇ〜! 俺、蛍のその長い髪を洗いたいのに……」
「我まま言っても駄目です」
「なら、その背中を洗い流してあげるぞ!!」
「だから、駄目なものは駄目ですって……」
「よし!! 仕方ない、そのすべすべの肌を俺が堪能しながら洗ってやる!!」
「……ついに本性が出ましたね。この畜生め」
駄々をこねる兄さんを見て、呆れながら嘆息をつく。
兄弟なのに、そこまで弟の(今は妹……だけど)体に触りたいとは、何たる最低な兄だ。
はぁ〜、我慢だ。僕よ、ここは我慢しなければならない。
兄さんの口車に乗せられず、なおかつ、この時間を切りぬける方法を考えなきゃ……。
そうだ、早く方法を――――!
「蛍の胸、やっぱり大きいよぉ〜!!」
兄さんがニヤけた顔で笑いながら、僕の胸をツンツンと触ってくる。
……駄目だ。
どうしても、兄さんに殺意が湧いてくる。
というか、もう殺っちゃっていいですか?
ねぇ、このお馬鹿丸出しの兄を殺っちゃっていいですか?
「け―――」
「うるさい、お馬鹿、この変態!!」
――ベシッ! バシッ!
右と左のパンチによる二段コンボのツーヒット。
「ぶぁああああーっ!」
パンチはいずれも腹に入り、兄さんは苦しそうな声を上げて腹を抱えながら、浴槽に撃沈する。
「ぐ……はっ、蛍……そんな、せめてもう一度胸を……」
ああ、まだ言うか。このお馬鹿は……。
「兄さんはとことんやらなきゃわからないみたいだね?」
「……へっ?」
僕はそれまで、溜めて、溜めて、溜めこんでいた怒りをここで全て解放した。
そして、先に浴槽から出ると、続いて兄さんの体を浴槽から引っ張り出す。
兄さんはキョトンとした表情で、これから起こる事をまったく予想できていないようだ。
……ふふふ、可哀そうに。
久しぶりにここまで僕を怒らせたんだ。たっぱり、お礼を返さなきゃ……ね。
「兄さん……、それでは……おしおきの時間ですよ?」
僕は笑顔で兄さんに言い放った。
兄さんは体をビクッとさせて、僕を怖がるように見上げる。
「蛍……あ、あれ? いつもと雰囲気が違うよ? なんか、後ろから物凄くドス黒いオーラが見えるような……?」
ほぅ……なんだ、良く分かっているみたいじゃないか、兄さん。
僕は浴室のドアの取っ手に掛けられたウォッシュタオルを手に取り、兄さんの背中の前に立つ。
「さて、兄さん。……ご希望通り、洗い合いっこをしましょうか?」
そう言って、僕は水とボディーソープを付けずに兄さんの背中を硬いままのウォッシュタオルで洗おうとする。
「け、蛍? いきなり、どうして……」
「僕は兄さんの期待に応えたいだけだよ」
「……ありがとう」
兄さんはその事に気付かず、なんだか少し顔を赤くして恥ずかしそうな様子を見せた。
……何で顔を赤くしているんだ、この人は……。
気になったものの、やはり怒りの度合が強かったために、それをさらっと流す。
僕は硬いウォッシュタオルは使つと、兄さんの背中を洗っていった。
「あ、あれ? なんだか、少し痛いぞ……?」
「気のせいですよ、兄さん」
僕は兄さんの違和感を無視して、力を更に強めていく。
「ぐ! や、やっぱり痛い! け、蛍! 少しタンマ!!」
「兄さん、何を言っているんですか? これは兄さんがして欲しかった事なんでしょ?」
「ち、違っ……、俺はこんな事……」
弁解も空しく、僕は兄さんのその言葉を聞かずに力一杯背中を洗っていく。
兄さんは苦痛を混じらせた声を出して、止めて欲しがっているがそんな事関係ない。
「兄さん、どこか……痒い所はありませんか〜?」
「ぐ……っ!」
あまりに痛いのか、兄さんの顔が歪む。
それを見てしまった僕は、更に興奮してしまった。
……兄さんって、そんな顔ができるんだ。
うむ、これは新しい発見だ。
「兄さんの痛みに耐えるその顔、……すごく可愛いよ」
「け、蛍……!」
……やばい。
兄さんの切なさそうな表情を見て、僕すごく喜んでいる。
なんだか、兄さんを虐める事の深みにはまってきたのかもしれない。
「兄さん、止めてほしい?」
「くっ……蛍、やめてくれ……。頼む……俺が悪かったから……」
兄さんが必死そうな顔で僕に許し乞う。
確かにここまでで、もう充分仕返しは出来ていた。
むしろ、僕の方がやりすぎと言っても過言ではない。
だが、兄さんのその弱々しい姿があまりに僕のツボに入ってしまい、どうしてもまだ続きがしたくなるのだ。
そして、僕はその欲望に……勝てなかった。
「仕方ないね……。兄さんがそう言うなら―――」
僕の言葉に兄さんが安堵の笑みを浮かべる。
だが、次の一言で兄さんは絶望に陥るだろう。
僕は兄さんと同じ目線までしゃがみ、満面の笑顔で言った。
「“次”は頭を洗ってあげるよ」
「……え、……つ……ぎ?」
ほら、やっぱり……。
兄さんは予想通り、絶望の顔で僕を見上げた。
僕はそれを見て、ニヤリと口元を歪ませてしまう。
ああ、その顔……兄さんのその顔が、すごくたまらない。
だが、やはり仕返しはここまでで止めておかなくては。
さすがにこれ以上は兄さんが可哀そうだ。
「さて、兄さん。続きを……」
言葉で脅えさせようとするも、内心は落ち着かせていた。
僕はシャンプーの入ったボトルを取り出して、それを右手につけていく。
残った左手でシャワーの水を出して、準備を整えると兄さんに振り返り、背中の後ろに立つ。
「……いい加減……しろ……」
頭を洗ってあげようとした瞬間、兄さんが僕に聞こえないよう何かを呟いた。
その声色にはどことなく、怒りが混じっているように思える。
そして、何より先ほどまでとは……兄さんの雰囲気が違う。
「兄さん? ほら、次、頭洗うよ」
これはまずい、そう思った僕はさっきまでの声色を捨てて、だるそうないつもの声で兄さんに話しかけた。
だが、それが間違いだった。
その言葉で兄さんは立ち上がり、僕の方へと向く。
「兄……さん……?」
「ふざけるのもいい加減にしろ!!」
「あ……」
呆気のない声が僕の口から、出てしまう。
兄さんは怒っていた。
それもすごく怖い顔をして……。
「あ……ごめん。……やりすぎた……」
ふざけた冗談が言える状況ではなかった。
その場で僕はすぐに謝った。
だが、見ると兄さんの怒りはまったく覚める様子がない。
むしろ、中途半端に謝った事に対して、余計に苛立ちが募ったように見える。
「これは……“おしおき”が必要だな」
さっき、僕が兄さんに行った言葉をそのまま僕へと返してくる。
言葉を聞いた瞬間、背筋がゾッとした。
だって、兄さんの顔は僕と違って、笑って言っていなかったから。
その不気味さ故に、僕は顔を恐怖にひきつかせてしまう。
「い……嫌……」
立場が逆となり、震えた声で怯える僕に兄さんが手をこちらに向けて伸ばしてくる。
それは悪魔が誘うかのように、手招きしているみたいにも見えた。
「さぁ、蛍……おしおきの時間だ」
「あ……やめて……嫌……っ!」
僕は兄さんの手を振り払い、その目を閉じた。
……数秒の時間が流れる。
ポチャン、ポチャンと水が垂れ落ちる音がする。
今の僕は兄さんが怖くて目が開けられない以上、音に頼るしかなかった。
暗闇の中で、ずっと音に集中していく。
「蛍……」
兄さんの呼び声が聞こえる。
「蛍、目を開けろ」
嫌だよ、だって何をされるかわからないから。
怖いから……。
……そう言えば、前にも何度かこんな事があった。
何かで失敗をして、ヘマをする毎に“いつもパパは『私』を殴っていたから”。
「止めて」、「許して」、そう謝っても殴り続けていたから。
誰も助けてくれない、誰も『私』を見てくれない。
だって……。
『私』は愛されていなかったんだもの。
「蛍、目を開けろ!!」
「あ……」
兄さんの言葉でハッと目が覚める。
そこには怒っているはずの兄さんの顔は無かった。
「……大丈夫か?」
心配そうに尋ねる兄さんに僕はコクンと頷く。
「ふぅ……とりあえず、ごめんな」
「え……?」
「ほら、俺が“おしおき”って言ったやつ。あれ全部、冗談だよ」
「冗談……?」
あの表情が……全部、冗談?
「いや、本当にごめん。でも、まさかそこまで怯えるとは思ってなかったし……。悪かった。でもお前、あれは痛かったぞ〜! 背中の辺りなんて凄く赤くなってだな―――」
兄さんが話も続けるも、僕はそれを聞く余裕がなかった。
あれが……全部、嘘だった。
その事に僕の心は安心と、同時に深い悲しみで埋め尽くされた。
「あ……ぅ……」
涙が、零れてしまう。
こんな事で泣くなんて、普段なら絶対にありえないのに。
それでも、ポロポロと涙が溢れ出てくる。
多分、それは怖くて、悲しくて、すごく嫌だったから。
「蛍……? え、ちょっと……泣いているのか?」
僕が涙を流している事に気付いたのか、兄さんが驚きながら心配する。
「……ごめん、何でもないよ」
「何でもないわけないだろ。……俺のせいだ、……本当にごめん」
兄さんが申し訳なさそうに誠意のこもった謝罪で謝る。
「いいよ。もう……」
ようやく涙が止まったので、僕は下がったままの兄さんの頭を上げるように笑顔を見せて言う。
正直、泣いた後だから目が腫れて、笑っても不格好だろう。
兄さんはそんな僕の顔を見て、僕を……抱きしめた。
「に……兄さん……っ!」
あまりの突然の行動に悲しみを吹き飛び、驚かされてしまう。
しかし、それは一瞬の間だった。
兄さんの顔を見上げると、その顔は罪悪に襲われているような、そんな表情を浮かべていた。
「ごめん……蛍……。“俺は傍に……ずっと蛍の傍にいるから”」
「兄さん……?」
それはかなり引っかかる言葉だった。
兄さんはまるで言い聞かせるように、私に囁いてくる。
でも、その言葉の意味が僕にはわからない。
だだ、“ずっと傍にいる”という言葉が深く感じられたのは確かだった。
「いいよ、兄さん。……もう、大丈夫だから」
そう言うも、兄さんはずっと言葉を止めなかった。
何度も、何度も……。
まるで、自分自身に呪いめいた呪文を聞かせるように。
この十分後。
海人が僕達の家に着き、インターホンに出ない事から異変を感じたのか、すぐに家の中へと入り、風呂場に挟まった体重計を退けて僕達を開放してくれた。
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