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二本柱
作:くまごろー


一 流れ大工

 
 ……どこで仕上がった(もん)か知らねえが、胸のすくいい仕事をするじゃあねえか……。
 上棟式を済ませた柱ばかりの榎本邸の床を一人で歩きながら、富三は源次が(かんな)をかけた柱の一本一本に節くれだった手を這わせては顔をほころばせた。素性を確かめて、二年ばかり様子を見てからと思っていたが、源次の将来(さき)を見込んでお花の婿にしようと腹を固めた。源次が富三の下で働くようになってまだやっと一年だ。
 ……少し早えが、あいつが岡場所なんぞに通い出さねえうちに祝言を挙げさせてえ。立派に跡を継いでくれるに違えねえとも。この富三さまも孫の顔が見たくなったか。焼きがまわったもんだな、ふふふ……。
 器量よしで評判のお花の顔に、役者のような源次の顔を重ね合わせて、富三は自分の孫の顔を想像してみたが、どうにも大人の顔しか想い浮かばず苦笑いした。
 しかし、源次を跡継ぎにする計画は同時に大胆な賭けでもあった。職人の世界でも名前と顔が知られてやっと仕事になる。親方の顔は信用そのものだ。得体の知れない流れ者に跡を継がせる非常識などあり得ない。築き上げた身代を一瞬にして失いかねない馬鹿なことだ。
 ……でもよ、腹さえ決まりゃあ道が開けねえもんでもあるめえ。なに苦労は覚悟の上だ……。
 富三は亡き寅五郎師匠にならえばいいと楽観した。

 火事の多い江戸はそれだけ焼失した家を再建しなければならない。大工・左官が多く江戸に流入した。親方衆はその必要から流れの職人を雇った。小僧から仕込まなければならない弟子とちがって、必要になれば雇い入れ不要になれば解雇できる便利な臨時雇いだ。職人は腕さえあれば、出身地・前職・家族関係などは問わない慣しだったから、怪しい者も当然混じっていた。彼らは親方の所に草蛙(わらじ)を脱いだ客分の扱いである。流れ職人は一代限り、どれほど必死になろうが弟子を持てる親方になる道はない。身分が保証されない代わりに労働条件は良かった。実入りのいい流れ大工は羽振りがよく遊ぶ者が多かった。『守貞漫稿(もりさだまんこう)』という当時の世情を記した本に、朝出居残(あさでいのこ)り(早朝出勤と残業)をやると大工の手間賃は「平日大略銀五匁或は五匁五分」とある。銀の換算が厄介だが、大雑把(おおざっぱ)には三日で一分、一両も半月で稼げることになる。棒手振(ぼてふり)(天秤棒で荷を担いで売り歩く商売)の約五倍、一年を働きづめで二両に満たない下男下女もいたのだから大工は高給取りだ。
 
 職人と弟子を合わせて十三人を束ねている富三には息子がない。跡目を継ぐのは弟子のうちからお花の婿を選ぶ以外にないのだが、職人に恵まれない。厳しく仕込んだつもりの弟子たちは腕も人の上に立つ才覚も源次にかなう者が一人もない。源次がやって来て、それまでなるようにしかならないと諦めに淀んでいた富三の心がさざ波だったのも無理からぬことだった。
 源次には流れ大工らしいところがない。給金をもらえばすぐさま岡場所や賭場にすっ飛んで行くということもない。流れ者が棟梁の跡目を継げないのは源次も承知している。貯えをつくって何か商売の元手にしようとでも考えているのか。商売替えはおいそれと出来る時代ではない。
 富三は源次ほど真面目で温和(おとな)しい流れ大工を見たことがなかった。源次は職人の間にも敵を作らないばかりか「源さんなら……」と言われるほど内弟子たちからの信頼も厚かった。富三が源次を選ぶのも自然な流れと言えなくもないのだった。
 ……源次は流れ大工だ。いつかは俺のもとから又どこかへ流れていく。弟子たちァ源次を客分だと思っているから騒ぎを起こしゃしめえが、いや待て──。源次とお花をいっしょにさせるとどうなるんだ? 弟子どもはほめられた腕の()えどんぐりだ。抜きん出たやつがいねえ。お小夜のやつが跡取りを産まねえもんで、俺一代だとずっと諦めちゃあいたが……。俺の作った俺の身代だ。婿を弟子から選ぼうが余所から連れて来ようが俺の勝手じゃあるめえか。源次に流れ大工の足を洗わせるわけにゃいかねえもんだろうか……。
 富三は十年前に亡くなった寅五郎師匠を憶い出した。あれほど出来た人はなかったと男泣きして棺桶を担いだのもつい昨日のようだ。何かにつけて力になってくれて父親とも頼んでいた寅五郎の師匠が生きていたら、こんなときは知恵の一つも授けてもらえたろうになァ。お菊と所帯を持ったときみてえに、源次を預かって仲間うちの信用をこさえてくれたかも知れねえ……。富三はすでに周囲に頼れる人物のいない年齢になっていた。
 ……あいつは俺の(つら)に泥を塗るようなことはねえ。飼い主の手を咬んで後ろ足で砂をかける性悪の流れ者じゃねえこたァ判ってる。弟子どもなら給金を二割がた、いや一割五分も上げりゃ納得するだろうが、信用だけは銭で買うわけには行かねえからなァ……。


 二 源次の思案


 ある日、源次がおずおずと富三の座る長火鉢の前に進み出た。
「親方、ちいとばかり話がありますんで……」
「なんだ? 給金を上げろとでも?」
 冗談めかして富三が言った。
「いえ、そんなんじゃねえんで……」
 源次はにこりともしなかった。
「何でえ、その神妙な(つら)あ?」
「どこの馬の骨とも知れねえあっしによくしてくだすって、恩知らずは重々承知で、お願えがあります」
「……?」
「じつァ近々暇をもらいてえんで……」
 源次に上に立つ者の心得を教え込もうとしていた矢先だったから、富三には寝耳に水だった。頭がくらっとした。源次はわずか一年にして仕事全体の算段ができる立派な片腕だ。娘と添わせようと考えていることは一言も伝えてないが、お花のこたァどうするんでいッ、と口に出かかった。源次の身許が見通せるまではと慎重すぎたのがまずかったか。心が揺らぐのを気取られまいと富三は平静を装った。
「暇ァ取って故郷(く に)にでも帰るか? どこだったな、故郷は?」
「お察しでしょうが、あっしには帰る里なんぞねえです。素性のわからねえ流れ者を今まで本当にありがとうごぜえました」
「ふうん、で、これからァどうするつもりでい?」
 源次は黙ってしまった。
 ……肝心なところ差しかかるとこれだ。源次のここだけは気に入らねえ……。
 江戸の職人のしきたりで流れ大工の昔を根掘り葉掘りするわけにいかない。源次は本気なのか? 出て行くつもりなら素性は明かすまい。先を考えれば素性は確かめなくてはならないが、お花を持ち出すのは考え直した。
 ……やっぱり何かあった男なのか、いや、どんな過去があるにしても源次よ、俺の所じゃおめえは歴とした大工じゃねえか……。
「口べただもんで、どうもうまく言えねえです……」
 ……借金でもこせえたか? 博打をうつなんて聞いてねえがな。喧嘩でもしたか? まさか大工が切った張ったはねえだろう。何なんだ? 
 客分の源次に強く問いただせない自分が歯痒かった。
「詳しいことは明日、銀造の親方がこっちに(めえ)りやすんで、そのときに聞いてやっておくんなさい」
 源次は煙管(きせる)をくわえてむっとしている富三に、ペコリと頭をひとつさげると、内儀のお小夜が淹れた茶も啜らずにその場を辞した。

「銀造って、左官の銀さんかい?」
 お小夜が富三に()いた。
「俺も心当たりはあの銀の字だけだが」
「源さんが人を介してすることだから何かあるんだろうねえ」
「その何かてなァ何だよ?」
「そんなこたァあたしに判りゃしないやね」 
 富三と連れ添って長いお小夜には亭主の考えている大方は察しがつく。富三はお花のことしか頭にないからだ。
 ……ふたりを添わせようてんだろうけれど、あたしにゃどこか引っ掛かるのさ。温和しいし悪い男じゃないよ。でも、お花とはうまく行かないよ……。
 お小夜の勘だった。

 翌る日、さっそく左官の銀造が訪ねて来た。
「じつァな、源公をもらい受けてえと思ってよ」
「そりゃあ、どういうこったい?」
「いやァ、うちのお房はお花坊より一つ上だから、もう十八になるがな、ここで急に色気づきゃあがってさ。問い質してみりゃ、おめえんとこの源次にホの字だてえじゃねえか。お房もそんな年になったかと思ったがよ、男と女のこったからな、いずれはなるようにさせなきゃいけねえと、そういうわけだ」
「お房坊と源公は(わり)ねえ仲だてえのかい?」
「いや、そこまで行っちゃいねえ。でもよ、娘がその気なら親としちゃそれなりに動かなくちゃなるめえからな、あっはっは」
 富三は一瞬さきを越されたかと思ったが、次の瞬間にはニヤリとした。
 ……急に色気づいただと? 笑わせるな。お房は何度も仲條(ちゆうじよう)流(堕胎専門医)の世話になったてえ評判じゃねえか。源次だってまさかおめえんとこのすれっからしに引っ掛かりゃすまいよ……。
 富三は、源次が来てからというもの、若い衆がどれも物足りなく見えて仕方がない。お花のためにも譲れない。長い釘を一本さしておこうと思った。
「銀の字、ウチにもお花って娘があるんだ。世間にそれとはっきり触れちゃあねえがよ、その辺はちったァ遠慮ってもんがあっていいだろうぜ」
「おうっと富三の旦那、そりゃねえやな。ウチのお房が先でぃ」
「いいや、お花だっ」
 四十も半ばを過ぎた大の男が言い争った。
「銀の字、肝心の源公の腹がわからねえじゃ(らち)ァあくめえ。でえいち、あいつは大工だ。今さら左官に鞍替えはまずねえだろうぜ」
 富三は勝ったと思った。
「あれ? 源公には棟梁から暇をもらうように頼めと言ってやったがな。聞いてねえたァ言わせねえよ」
 富三はうっと息をつめて、昨日の何か言いたそうで言い切らない源次の態度を思い出した。銀造がことばを継いだ。
「おめえも俺も職人だ。年季が職人を作るくれえのことは知ってる。でもよ、源公はちがうぞ」
「どうちがうってんだぃ」
「棟上げのあと榎本邸に行ってみたかい?」
「いや」
「玄関脇の壁が実にうめえ具合に仕上がっててよ。不思議なこともあるもんだと留公に聞いてみるとよ、おめえんとこの源次がやったてえじゃねえか」
「ウチの源公が左官のまねごとを?」
「まねごとじゃねえよ。左官が見よう見まねで出来るけえ。ウチの留や八にも出来ゃしねえよ。あれこさァ天賦の才ってんだろなあ」
「……」
 富三は思い出していた。源次はふらっとやって来て働かせてくれと言った。しゅっと一気に手元に引いた(かんな)(さば)きに目を見張ったのが一年前だ。天賦の才か、そうだろうな。
「で、源公に話を聞いてみるとよ、左官の仕事はおもしろそうだ、と来たな。大工よりゃ左官のほうが向いているかも知れねえとな。源公はそう言ったぜ。ま、考えておいてもらおうか」
 銀造は肩をいからせて帰って行った。 


 三 源次の生い立ち


 思い通りにことが運べば腹を立てる者はない。富三は源次を呼びつけて怒鳴った。あてに出来ない者をあてにした自分にも腹が立った。職人たちが弁当を使う昼時、お花が家から何か一品二品こさえては普請場に持ってくる。そのときのお花の眼は、源次の姿ばかり盗み見る惚れた娘の眼だったし、それは源次も同じことだった。流れ大工の立場を(わきま)えて源次の方は隠しちゃいるが、それこそ色に出にけりだ。……暇をくれだと? お花が流れ者に遊ばれるのを指をくわ)えて見てる訳にゃいかねえ。暇をやるわけにゃいかねえ。
「やい、源公っ。てめえ一体どういう了見でえッ」
「勘弁してくだせえ、親方。どうもうまく言えねえですが、左官をやってみたくなったとしか言いようがねえんで。それに流れ大工が淀んじまっちゃあ親方に迷惑が……」
 ……大工のままなら親方はおいらを手放しちゃくれめえ。仕事を変わるとでも言わなきゃここに居っきりになる……。源次はそう考えていた。
「そんな浮気な、べらぼうな話があってたまるけえッ」
 そう言いながら富三は掌から玉の落ちる思いだった。
「源公、銀の字のとこのお房坊のこたァどう思ってるい?」
「いえ、べつに何とも……」
「そうだろうとも。俺はお花もおめえもまんざらじゃねえと(にら)んでる。どうでい、お花と所帯もって俺の跡を継いでみちゃあ。この期に及んでおめえの氏素性は問わねえ。おめえの腕は確かだ。な、左官だなんてバカ言わねえで、そうしな」
 富三は思いを一気に吐き出した。
「有り難え話ですが親方、それだけは勘弁してくだせえ」
「なにをっ? 俺がどんだけ譲ってこんなことを言ってると思ってんだっ、ええ? ちょいとひと塗りしたの左官にをほめられたくれえで何様のつもりでえ。銀の字はな、あの蓮っぱをおめえにくっつけてえだけだ。あっちにゃ跡取り息子があるくれえおめえも知ってようが。左官になったところでいいように使われるのがオチだっ」
「そりゃわかってますが、親方、人には出来ることと出来ねえことがあります。何事につけ潮時てえもんも……」
「なんだとっ、生意気なッ。お花を気に入らねえとは言わせねえっ」
「お嬢さんを気に入らねえなんてとんでもねえこって。ただあっしにゃやらなきゃなんねえことがありやす。お嬢さんと一緒になるわけにゃいかねえです」
「源次、流れ大工にゃちっとも歩の悪い話じゃねえ。てめえの一生より大事な話てえのを聞かせてみろいっ」
 源次は観念したように声を低めて言った。
「……わかりやした。よござんす、一部始終を話しやす」
 富三は源次の両の目にすでに涙が溜っているのが気になった。

「もともとあっしが流れ大工になったのも人を探してのことなんで……。あっしのおっ母さんてえ人は旅回りの一座におりやした……」  
 旅回りと聞いて富三はびくっとした。富三の先妻のお菊は鶴屋菊之丞という水芸の芸人だった。……因縁でもあるのかな……。富三は源次に親しいものを感じた。
「おっかさんは女義太夫だったです。若え頃やくざな男に騙されて(てて)なし子を産みやした。へえ、あっしです。伊豆で婆さまに育てられやした」
故郷(さ と)は伊豆なのか」
「へえ、爺さまから勘当されたおっ母さんは、年に一度あるかなしかの伊豆興行には必ず訪ねて来たってえますが、河原乞食に敷居は(また)がせねえと家に寄せつけてもらえなかったてえこってす。その爺さまが死んで、たった一人の身内になった婆さまが死ぬときに知らされやしたんで。へえ、おっ母さんのことをです。
『源、お父っつぁんなら恨んでもいい。でも、おっ母さんを恨んじゃなんねえ。あんな女でも薄情なわけじゃねえんだ。爺さまに隠れておめえを抱かしてやったことがあったが、そりゃあえらい泣きよう(わめ)きようだった』と。生き別れてえのは酷いもんです。二人まで不幸になることはない……婆さまはおっ母さんを蹴飛ばして帰したてえこってした。
 婆さまは爺さまの道具箱をあっし呉れやした。(かんな)(のこぎり)(のみ)手斧(ちような)曲尺(かねじやく)墨壺(すみつぼ)水縄(みずなわ)木槌(きづち)──金物は錆びてやしたが一通り(そろ)っておりやした。八つの子供にゃ道具箱は担げねえです。あっしは兎に角一人でおまんまを食わなにゃならなかったんです。婆さまが頼んでおいた棟梁んとこで修行しやしたんで……」
「源公、ちょいと待ちな。その伊豆の親方の名前(なめえ)は判るかい? 喧嘩して飛び出したわけじゃねえならおめえは大工の筋だ。素性の知れねえ流れ者じゃねえよ。師匠から一筆もらえねえか?」
「あんまり理不尽に扱われたもんで飛び出しちやったんで。面目ねえです。棟梁もこの世の人じゃねえでしょう」
「……」
「江戸なら稼げる、流れ大工ならおっ母さんを探せる──十五の頭にゃそれっきりねえですから」
「無理ゃねえやな。で、おっかさんはよ?」
「見つかりやせん。なんせ雲をつかむような話で。それでも上野(うえの)辺りの小屋で見たとか見ねえとか教えてくれる人もありやして、見当をつけちゃあ探しちゃみやすが、やっぱり駄目で。なにぶん時が経ち過ぎてやす」
「気の毒によう、苦労したんだな。で、それから手がかりはねえのか?」
「へえ。芝居小屋、見世物小屋はあらかた探しやした。残っているのはここいら近辺くれえなもんでやす。ここで手がかりがなければ、何処とは決めちゃいやせんが、また先へ……。いや、長逗留になっちめえやした」
 富三は腕組みをし直して眼をつぶった。……決心は堅そうだが、話は最後まで聞こう……。
「上野、下谷、浅草と歩って厩橋まで来ると、きれいな娘を見かけやした──親方のお嬢さんです。稽古ごとの帰りらしい娘さんが三人ほど笑いさざめいて往還をやって来る。そのお嬢さんの姿にあっしは心の臓をつかまれたようにきゅんなりやしたんで。見たこともないおっ母さんに似ていたなどとは申しやせんが、何とも言えず気を奪われて、引っ返してお嬢さんの後を()けやした。あんなきれいな(ひと)を見て暮らせるなら、それも幸せだと思いやした。決して不埒(ふらち)な気持ちからじゃありやせん。お嬢さんは家でなく、親方やお弟子たちのいる普請場に着きやした。あっしは渡りに舟とばかり、ここに草蛙を脱がさせてもらおうと決めやした」
「もう一年だな……」
「へえ……」
 富三はありありと思い出せる。熊公が(かんな)を渡すと源次はチラと一目見て玄翁(げんのう)でけつを叩いた。外した刃を研ぎながら源次は熊に、道具はいいものを持たなきゃいけねえ、と言いやがった。流れ大工のはったりだろうと思ったが削った材木の面は鏡みてえだったな。源次は熊の気を悪くさせなかった。「腕のせいじゃねえんだから、親方にいい道具を奮発してもらいねえ。な、熊さん、そうしねえ」
 富三は源次を見どころのある男だと思ったのだった。


 四 お花の恋心


 お花は、父親の仕事柄むさ苦しい男たちを見慣れていたところへ源次が現れて、妙な心地がしたものだ。源次は外で仕事をする男の顔ではなく羽子板に描かれた役者を思わせた。草蛙を脱いで早々に源次は男たちのなかで別格に扱われているようだ。お花は源次の小ざっぱりしたなりが気に入った。他の男たちのように無精髭(ぶしょうひげ)が生えていることはないし、月代(さかやき)はいつも青々と剃られていた。首に掛けた手拭いさえ源次のものなら汗臭くはないだろうと思えた。お花の恋も始まっていた訳である。
 勝手の明り取りの障子を開けると源次が引越して来たばかりの長屋が見える。源次は仕事から帰ると井戸端に出て、きつく絞った手拭いで上半身を拭った。そして、さっぱりした格好に着替えては出かけて行くのだった。
 ……何処へ行くのかしら……。
 お花は気になって勝手の障子を細めに開けては源次の様子を(うかが)うようになった。しかし、源次より気になるのは、用もなさそうな左官屋の娘が長屋の前を行ったり来たりする姿だった。
 ……何よ、あの子。源次はウチの職人なんだからねっ……。

「ちっ、今日もだめか。まったく気が滅入るなァ」
 雨が二日つづいて降ったその二日目の朝、富三は恨めしそうに外を見て言った。朝からの雨で大工たちは仕事を休んでいる。
「お父っつぁん、こんなときじゃないと骨休め出来ないんだから、気晴らしにおっ母さんを連れて芝居にでも行ってきたら?」
 富三は仕事が気になるふうだった。
「たまにはおっ母さん孝行しなさいな。帰りにうなぎか天ぷらでも食べてさ」
 ませた口をきくお花に、朝餉の後片付けをしながらお小夜が言った。
「まあ、出来た子だよ。有難いねえ。おまいさん、そうさせてもらおうよ」
「仕方ねえな、そうするか」
 ……うまく行きそうだ。後は内弟子におあしを持たせて髪結い床へ追っ払ってやればいい……。
 お花はそうした。昼からは家にだれもいなくなった。勝手の障子を開けて長屋を見ると、源次が出かけそうな気配なのでお花は慌てた。
 ……今日こそ確かめなくちゃ……。
 源次は決まって脇の路地を通って往還へ出る。お花は待ち構えた。
「お待ちよ。どこへ行くのさ?」
「へえ、ちょいと野暮用で……」
「そっちは野暮用なのね? こっちは大事な用があるの。来てっ」
 源次は勝手口から背中を押されて入った。
「何ですか、用というのは?」
「源次、上がって」
「へえ」
 何か起こりそうな予感に源次は戸惑っている。
「左官屋のお房ちゃん、あたしは嫌いよ」
「はあ?」
「とぼけないでっ」
「お嬢さん、あっしには何のことやらさっぱり……」
「じゃ、お房ちゃんとは何でもないの?」
「あっはっは。何もありやせんよ。何かあったならこっちが知りてえくれえで」
「お房ちゃんがうろちょろしたり、家の中を覗いたりしてるのを知らないの?」
「え? 何のつもりだろう、いやな娘だな」
「ねえ、本当にいやな娘?」
「お嬢さん、大事な用ってそんなこってすかい。あっしは野暮用がありますんで……」
「あ、源次っ。大事なのはこれからよっ」
 お花が背を向けようとする源次の手を取った。
「お嬢さん、いけやせん」
「源次はあたしを嫌いなの?」
 お花が小鼻を膨らませて、自分とよく似た源次の()を見た。白く細い手は手首をつかんで放さなかった。源次は女の手がこんなに柔らかくしっとりと温かいものだとは思わなかった。
「嫌いじゃねえからいけねえんです。言わなくたってわかるでしょう? 身分が違いますよ。あっしはお嬢さんの顔が拝めりゃそれで……」
「いやよ、そんなのっ」
「こんなとこを見られたらあっしは追い出されちまいます。それでもいいんですか?」
「源次の意地悪っ」
 自制しようとの言い回しとは裏腹に、若い血が身体じゅうを駆け巡って源次は何も考えられなくなった。お花の手にぐいっと力が入り、源次は納戸に引かれて入った。箪笥や文机に挟まれたせまい空間に二人は倒れこんで重なり合った。源次とお花に別世界が開けた──。身分の違いをかなぐり捨てて、恋心とそれを内に包んだ二つの肉体が溶け合う場所になった。二人はここで片割れて淋しい自分の身体と心が相手のそれと一つになる歓びを何度も味わった。納戸の中では世間のすべてを忘れることが出来た。目をつぶり鼻の頭に小さな汗の玉をぷつぷつと浮かべて、ふうふうと息を整えているお花を隣に見て源次は、お花のことを心底かわいいと思った。
 ……きれいな娘を俺はかわいいと思うのか。ふだんは父親をまねてかぞんざいな口を利くが、黙っていりゃ近寄りがたいほど美しい娘だ。それを今、かわいいと思うのは──抱いたからか? お花をてめえのもんだと思いやがったからか? ええい、俺はもうお花が愛おしくてたまらねえ。でもよ、でも──俺はいってぇ何てことをしちまったんだ。ここにゃ居られねえぞ。流れて逃げるか? でもよ、そしたらお花のこともいつか忘れちまって、今みてえにかわいいと思ったことさえ思い出さなくなるんだろう。かわいいと思えりゃ極楽で、きれいだと思ってもかわいいと思えなきゃ価値もねえだろうぜ……。
 源次はお花をどこまでも可愛がってやりたい気持ちと世間の掟を破ってしまった悔いの板挟みになった。
 ……お花は大した考えもなしに誘ったんだろうか。ひとまわりも上のおいらの方に分別がなったのか。お花がしあわせそうなのが何故こんなにもうれしいのか。世間知らずな幼い寝顔が泣きたくなるほどかわいく思える。かわいいと思う俺はしあわせなのに、身分を考えるてえと自分のしでかしたことは恐ろしい人でなしの仕業だ。人でなしに身を任せて歓ぶお花はいったい──? お花が目を閉じたまま源次に腕を絡ませてきた。かわいい──。
 ……身分か、ふん。俺は人の道を踏み外したんじゃねえ、素直に人でなしになって女を一人歓ばせたんだ。世間から人でなしだ畜生だと呼ばれたって構やしねえ。誰だって人でなしのくせに世間体をつっ被ってるだけじゃねえか。俺ァお花をかわいいと思っていてえ……。
 源次とお花のふたりを乗せた舟はもやいが解けて岸辺を離れた。
 二日後──。
 源次の出かける様子が見えて、お花は下駄をつっかけた。
「おっかさーん、忘れ物をしたから清元のお師匠さんのとこへちょいと出かけて来るーっ」
 お花は源次の後ろ姿をつけた。ずいぶん歩いて源次は下谷も上野に近い髪結い床に入っていった。
 ……海老床? 源次はこんなところまで髪結いに来るの? あれ、もう出て来た。え? 今度は乾物屋……?。
 源次は店に入って老婆と話し込んでいる。暗くてよくわからないが、椎茸(しいたけ)干瓢(かんぴょう)大豆(だいず)干鱈(ほしだら)と妙なものを次から次へと買っている。
 ……いったい何しようてのかしら? あ、出てくるっ……。

 お花は仲良くなれて安心したものか源次が頻繁に外出する目的が知りたくなって尋ねていた。
「それはお嬢さんにはまだ教えられやせん」
「いや、二人きりのときにお嬢さんなんて。お花って呼んでっ」
「これは──俺にもおめえにも大事なことになる。わかり次第お花にはいの一番で教える、誰より先にな」
 素っ気ない返事もお花にはうれしかった。源次が自分を「あっし」でなくて「俺」と言い、お花を「おめえ」と言ってくれた。源次との仲がどんどん近づいて深まって行くのが楽しくて仕方ない。それでも、まだ教えられない、と言われたのはやっぱり気掛かりで源次を尾行してきたのだった。髪結い床も乾物屋も色恋とは関係なさそうなのでお花は安心した。すると自分がハラハラしながら()けて来たのが何とも馬鹿らしくなった。
 ……かんざしの一本も買うならまだしもさ。でも、あのお婆さんとの話は買い物のようじゃなかったけれど……。
 お花は源次といっしょに帰りたい気持ちをこらえた。……相手もないのに悋気を見せたとあってはまずいものね……。源次の外出は自分とは関係のないと知ると、お花はほっと気も軽く田原町へ帰っていった。その後に源次が居酒屋を梯子したことをお花は知らない。

 翌る朝、源次は普請場に姿を見せなかった。富三が不審におもって弟子の一人を長屋に走らせたが、戻った弟子は、呼んでも返事がなく内側から心張(しんば)りがかわれていて様子がわからないと言った。
「そうか……」
 富三は昼休みまで待って長屋に源次を訪ねることにした。
「おーうぃ、源公っ。俺だ、富三だ。開けろいッ!」
 返事がない。
「おいっ、源次ッ。どうしたッ、何があった?」
 心張り棒をかった障子はびくともしない。富三は胸騒ぎを覚えて障子を蹴破った。とたんにひどい酒の臭いがした。上がり端に嘔吐物がある。一升徳利が転がっている。富三は源次に跨がって両の頬に平手打ちを食らわせた。
「あ、あァーうぃ。あ、親方ァ」
 源次はようやくのことで腫れた瞼を開けた。喧嘩をした様子もないので富三は少し安心した。
「ちっ、親方じゃねえよ、馬鹿野郎めっ」
 返事とともに酒臭い欠伸をされて富三はムッとした。
「そんなになるまでなんで飲んだ?」
「……」
 源次は、御免なすって、も言わずにふらふらと立ち上り、富三を突き飛ばすようにして土間へ裸足で降りた。水がめに乱暴に柄杓(ひしゃく)を突っ込んで、ごくごくと喉を鳴らして立て続けに水を飲んだ。
 ……何があったんだ、源次……。
「シャキッとして家に来いッ、今すぐだッ」
 
 お小夜は酒臭さに顔をそむけて濃い渋茶を突ん出した。
「何があったんだね?」
「……」
「お小夜ッ、俺から聞くからちっとだまっていねえ」
 長火鉢の前に正座した源次の上体がぐらっ、ぐらっと揺らいだ。
「親方ァ、俺のこたァもうどうでもいいですよッ」
 平素からは考えられない乱暴な口だ。余程のことがあったのだろう。
「おっかさんがどうかしたのか?」
「死んじまってやしたよ」
「そうだったか、そりゃあ……。どれほどか生きて会いたかったろうによお」
 富三は目にじんわり涙をにじませている。
「根岸から下谷の方へ出て、いつものように髪結い床で昔の小屋掛けの話をしてみるてえと、乾物屋のおきん婆さんてのが詳しいてんで、その婆さんを訪ねて行きやした……」
「ああ」
「婆ァが要らねえものを売りつたがるもんで、しょうがねえ、一品ずつ買っちゃあ話を聞き出すてえと、親方のことも喋りだしやしてね、この婆ァが」
「俺のことをか? その婆ァが俺のことを知ってたってのか?」
「ははは。あっしも話し込んじめえましたよ」
「俺のこたァいいっ。おめえのおっ母さんの話はよっ」
 ……お人好しなだけでここまで心配はしねえ。いい人だな……。
 源次の眼からぼたぼたッと涙がこぼれた。
「乾物屋の婆ァが言いやがったんでさァ」
「何て?」
「お嬢さんは親方とお内儀さんの子じゃねえ……」
 富三は目の前が真っ暗になった。
「な、何を言い出しゃあがるんでいっ、源公ッ。糞婆ァめ、どこまで喋りやがったッ!」


 五 お菊と富三郎


 お花は先妻のお菊の産んだ子だった。
 二十年前、富三は旅芸人一座のなかに水芸の花形鶴屋菊之丞を見初めた。小屋がかかっている間じゅう通いとおした。菊之丞もこの熱心な客に関心を持って舞台から秋波を送った。明日は姿が見えなくなる千秋楽、菊之丞は富三を小屋の前で待って紙切れを渡した。
「武州川越 六月十日ヨリ」
 江戸にいちばん近い興行先と日程が金釘流で書きつけてあった。
 ……菊之丞が試しているなら馬鹿にでも何にでもなってやるさ……。
「必ず行く」
 富三は頷いて菊之丞の涼やかな眼をぢっと見てうなずいた。
 ……川越なら一日だ。夜通し歩けば朝には着けよう。着かにゃならねえ……。
 蒸した日だった。梅雨時なのが有難かった。富三は師匠から二日の暇がもらえた。夜通し歩いて川越で菊之丞の顔を見て、また夜通し歩って浅草田原町へ引っ返す。
 若い二人は三月ぶりの再会をよろこんだ。
「親方からもらえた暇は今日だけだ」
「富さん、そこまでして……」
 次の浅草興行は暮れになる。今度は半年先だ。
「半年の間、おめえを一時も忘れねえでいるぜ」
「そのときは富さんに芸人の真心を見てもらいます」
「菊之丞……」
「富さぁん……」
 とんぼ返りの富三を荒川土手に見送って小屋に戻ると、座長がにやけた顔を見せた。
「菊之丞、相変わらずいい腕だな」
「そんなんじゃないよっ」 
 ……そう、あんなに澄んだきれいな眼をした人はそうはいない……。
 半年後──。浅草七軒町の小屋で富三は菊之丞に所帯を持とうともちかけた。
「あたしゃ嬉しいけど、そちらがそうは行かないでしょ? あたしらみたいに金でどうでもなるわけじゃないんだから」
 菊之丞は一座の冬は伊勢だという。遠い。富三は居ても立ってもいられない。
「親方、あっしも伊勢詣りに連れてっておくんなさい」
「あっはっは、お伊勢さんまで行って水芸を見るのか?」
「親方、何でそれを?」
「顔に書えてあるよ。まァ待て。親方たちの集まりにおめえを連れて行くわけにゃいかねえ。代わりに菊之丞を見て来てやるよ、あっはっは」
 何か含みのあるような笑顔の師匠だった。

 富三は世帯が持ちたかった。
 江戸の庶民は自由意思で同棲するのが相場だとしても、そう簡単には行かない。相手は芸人だ。富三を知る周囲から、浮草稼業の女が富公の所に落ち着けるはずがない、これまでに例がない、旅芸人なんぞはいい噂は聞かない、遠くなく棟梁になろうという男が芸人の女房ではまずい、と口々に反対された。その中で師匠の寅五郎の意見だけが違った。
「親方、皆はお菊が芸人だってだけでなんで反対するですかい?」
「おめえを心配してのことさ」
「さあ切れろ、やれ別れろで、あっしの言い分なんか聞いちゃくれねえ。それが心配だってんですかい?」
「それなりに心配してんだよ。俺だっておめえが小僧の時分から預かっててよ、やっと目鼻がついて来ようてえときだ。後々揉()めるようなことがあっちゃなんねえと思う。周りもただ反対するのもいけねえがな」
「何とか手はねえもんで?」
「こっから先ふたりの気持ちが変わらねえなら、手もなくはねえさ。俺もおめえの性分はわかってるよ」
「お願え致しやすッ」
 富三は両手をついて頭を板の間に()りつけた。
「菊之丞は俺の顔であずかって女中奉公させる。二年だな。その後で後見になっておめえらを添わせる。会ってもならねえ口をきいてもならねえの二年を過ごしてからだ。どうだ、富よ、おめえにできるかい? その気はあるかい?」
 当時、身分の異なる二人が一緒になるには、受入れ側に信用を築かなくてはならない。土地の有力者や職人の親方などが身元を引受け、双方もしくは片方を地域から隔絶した環境で一定期間を過ごさせ、それを全うした者を受け入れる例はあった。
 二人には寅五郎師匠の言う通りにする外に方法がなかった。有難いことだが一時(いっとき)たりともそばを離れたくないふたりには長い二年だった。座長に吹っかけられた出費のことも師匠は富三に何も言わなかった。老師匠は弟子に恥をかかせまいと親方衆を集めて披露めの席を設けた。二人が所帯を持ってからも、女房が芸人だったと蔑まれることがただの一度もなかったのは師匠のおかげだった。面子ばかりの親方だったならとうの昔に破門されていたろう。富三はどれだけ有難いと思ったことか。師匠のような親方になりたいと富三は心から思った。
 菊之丞は大工の女房お菊になってお花を産んだ。お菊は甲斐がいしく立ち働いたし、出しゃばることがなかった。寅五郎師匠の下の世話もした。町内で、人を身分や経歴やで見るものではないとお菊の評判が見直され始めた頃、長の旅暮らしが(たた)ったのか周囲に気遣いする疲れが出たのか、お菊は床について三日目にあっけなく死んでしまった。今はの際に菊は、お花の先に男の子を産んだが、どこでどうしているとも知れないと喘ぎながら富三に告げた。
「お花を産めたのはうれしかったよ。ありがとよ、おまいさん……」
 富三の恋女房は息を引取った。

 今のお小夜は、しょげかえって腑抜けになった寡男(おとこやもめ)を見るに見かねた年寄りたちが世話した出戻りで、器量も気立ても十人並みだ。
 富三はお花の他に子を欲しがらなかったし、お小夜が離縁された経緯も聞こうともしなかった。子を産まないかもしれない身体を恨めしく思いながら小夜は富三に尽くした。亭主がお花にかまけるのも内心、跡取りが欲しいのをごまかしているせいであろうと、子安神社でお百度を踏んだのも二度三度ではない。淋しい小夜には富三に嫁いで十五年が過ぎていた。


 六 お小夜の嫉妬


 お花はお内儀さんの子じゃない、との源次のことばに慌てて転ばした湯飲みを拾いながらお小夜が言った。
「まさか、ひょっとしてあんたはあの……」
「乾物屋の婆ァが言いやしたんで……『その女義太夫なら、父なし子を産んでっから腹に力が入らなくなっちまってね、評判落として水芸の太夫になったんだ。鶴屋菊之丞。そりゃあ、いい女だったさ……』
 くっくっくっ──。
 源次は叫び出したいのを両拳を握りしめてこらえていた。
「じゃ、やっぱりおまいはお菊さんの……」
「どっ、どうなってるんでいッ!」
 富三は煙管で長火鉢の縁を叩いて何度も繰り返し、そう(わめ)いた。考えられないのだ。誰が誰を(なだ)められるでもなかった。やがて別人のような虚ろな眼になった富三が口を開いた。小さな声だった。
「お小夜、お花はまだ清元の稽古かい?」
「もう追っ付け帰るころじゃあるけどねえ」
「こんな酷い話があるもんか。このこたァお花には内緒だ」
「おまいさん、いっそ兄妹の名乗りをさせてやっちゃどうだろね? お花とは添えなくてもおまいさんさえ我慢すりゃ源さんに跡目は継がせられるだろ?」
「なにをッ。てめえには血のつながりってもんがわからんねえのかッ。お花が源次を見る眼つきに気がつきもしなかったかッ。てめえの子じゃねえから、そんなことも判んねえってのかッ、バカ(あま)ッ。源公を婿にしようってのはお花がしあわせになれてのことじゃねえかッ!」
 あまりの罵られようにお小夜は唖然とした。次にお小夜を襲ってきたのはかつて知らない怒りの感情だった。
 源次は(うつむ)いたまま夫婦のやり取りを聞いていた。
 ……うっ。か、勘弁しておくんなせえ。親方ァ、お内儀さん、源次めはお嬢さんとはもう夫婦どころか兄妹でもなくなっちまったんで……。源次は心のうちでのたうちまわっていた。

 富三はがっくりと肩を落とした。
「源次、おめえ本当に左官になるのか?」
「……」
「銀の字んとこでも何処へでも行きな。頃合いを見てお花には俺から話しとく……」
 源次にはもうどうでもいいことだった。
 その日、腹の虫を抑えようと富三は昼間から飲みだした。飲んでも飲んでも怒りがおさまらない酒に富三の眼が異様にすわって来た。
「やだよォ、おまいさん、そんなに飲んで」
「うるせえッ。跡継ぎ一匹ひり出しもしねえくせにッ。ふざけるねい、この女っちょがッ!」
 富三は徳利をお小夜めがけて投げつけた。
「ぎゃっ」
 徳利の当たった眼のふちが見るみる腫れあがり、膨らみのまん中から赤い血がつっとひと筋流れ落ちた。
 小夜は終わったと思った。
 ……この人はお花にしか見えちゃいない。忘形見のお花がいる限り、お菊さんと生きている。それでもあたしはこの人を有難いと思っちゃあいた。しかし、こうまで言われちゃあ。もっと早くにあたしなんっか要らない女だと言ってくれりゃよかったのさ。おまいさんにはあたしなんか(はな)っから要らなかった。あたしだってもうおまいさんなんか要らない。要りゃしないさ、もう何もかも……。
 大の字で高いびきをかき出した富三を小夜は血の気のない顔で見おろした。
 遠くで浅草寺の暮れ六つが鳴った。
 
 小夜は富三の道具箱から細身の(のみ)を一丁取り出した。両の膝で頭を挟むようにして、それを力まかせに富三の喉元に突き立てた。鑿を抜くと温かい血が噴き出した。
 ……どうだい、水芸だ。あっははは……。
 小夜の顔は泣き笑っていた。気が触れたのだろう。
 ……おまいさんがお花を可愛がればかわいがるほど、あたしゃお菊さんが憎かった。死んでるのにおまいさんを取上げやがって。それも十五年だ、あたしもよくもったもんさ、あははは。いいや、あたしはお花を殺しゃしないよ。いっしょに死なしてやるもんかね、為さぬ仲の子なんかと一緒に死んでたまるもんか、あははは。女はきれいだと言われるよりゃ、一言かわいいと言ってもらえるだけで生きられるもんをさ。その一言がなくてあたしを十五年も抱いたんだからね、間違ってたのはおまいさんさァ……。
 小夜は台所に子安神社のお札を一枚、一枚と十五枚並べると亭主を刺した(のみ)で喉を突いた。小夜はためらわなかった。お札は小夜の血で赤くなった。


 七 兄妹地蔵縁起


 激しい雷雨の中をずぶ濡れで大川土手を急ぐ男女がいた。女は手拭いで顔を隠しているが、時おりの稲光りに照らし出される顔はこの世のものとは思えない形相をしていた。男も女とそっくりの眼付きだった。二人は駒形の渡し辺りに来て立ち止まった。
「源次、この世の名残りにも一度抱いておくれよ」
「あゝ、抱いてやるとも」
 男女は泣いている。浅ましいと言われようともこと切れるまで身体の中に生きているものをどうして先に殺せよう。人間はしょせん哀しい畜生なのだろう。
「お花、いいな……」
「もう、だれもいないものねえ。地獄に落ちる道中でも離れたかぁないから、これでもっとしっかり結わいておくれね」
「お花、俺ァ畜生になっても虫けらになってもおめえを忘れねえよ。後にも先にもおめえしか知らねえ」
「なにがどうでも今さら何でもないやね。好きになったのが(あに)さんだったってだけだもの。どうにもならなかったんだもの。今だって好きでしょうがないんだもの……」
「なら、未練はねえな」
「あい……」
 富三夫婦の死後三日めのこと、大川をずっと下った寺島の渡しに男女の水死体が浮いた。二人の足首を解けることなく結んでいたのは女持ちの手拭いと男の下帯だった。

 心中を禁じたのは徳川吉宗だったか。土左衛門は身内といえども引取れないし、埋葬すれば罰せられた。田原町のと大川の中ほどの伝法院の裏路地に、風雨に晒されて鼠色した一尺ほどの、五寸角の柱の切れ端が二本並んで立っている。子供の遊びのようなそれを、今は誰も見向きしないが、地元の古老の話ではこの二本の短い柱は、お上の罰を恐れて地蔵を(まつ)れなかった昔の人が二体一組の地蔵に見たてたもので、兄妹地蔵と呼ばれていたという。二本柱は過って恋に落ちた兄妹を地獄から救い出す能化(のうげ)であるとも言う。(了)














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