挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
92/275

1942シチリア海峡海戦2

 日本海軍では、栄養学的に計算して、過酷な艦隊勤務に従事する乗組員の食事量を定めていた。その供給量は、艦内での運動量を考慮して過不足無いように計算されたものだった。
 もちろん、艦隊勤務だけではなく、陸上勤務であっても、運動量を算出する計算式が異なるだけで、基本的な考え方は同一だった。また、陸軍などとも同様に、一般の将兵よりも過酷な環境にさらされる搭乗員に対する加増食などもあった。
 だから、日本海軍の軍人がまともに隊内で食事を続ける限り、極端に栄養が足りなくなって痩身になったり、逆に肥満体となる可能性は少なかった。

 ただし、食事の量が適正なのは、課業や体操などでどうしても運動量が大きくなる水上艦や陸上勤務の者に限られていた。潜水艦勤務でも、水上艦勤務者と同じ食事量が定められていたが、これは明らかに過大だった。
 水上艦と比べると、潜水艦の艦内は狭く、また聴音手などの専門職が多いものだから、どうしても余計な運動を避けて、居住区と勤務場所を往復するだけという将兵は少なくなかった。
 それにも関わらず、定められた食事量は水上艦勤務者と変わらないのだから、油断をすれば艦内が肥満体の兵たちばかりになってしまうだろう。

 苅野中尉が見たところ、呂43号潜の潜水艦長である麻倉大尉はその典型例であるようだった。海軍軍人としてそれはどうかと思うほど丸々と肥えた体の麻倉大尉は、温厚そうな顔つきもあって、若い乗員達からどこか侮られているようなところがあった。
 その麻倉大尉は、補給中も面倒くさがって、めったに呂43号潜から下艦しようともしなかった。もしかすると艦の状況を常に把握していないと不安になるのかもしれなかった。

 麻倉大尉は、艦や戦隊の現状把握に関しては驚くほど貪欲だった。燃料や潤滑油、食料品などの物資搭載量や修理箇所などに関して、必ず自ら確認していた。時たま戦隊司令部に顔を出しては、主計将校を捕まえて戦隊の他艦の状況も確認しているようだった。
 何事も自分の目で確認するという姿勢はいいのだが、呂43号潜に篭もりきりの麻倉大尉はあまり風呂にも入らないせいか、他の潜水艦乗りと比べてもすえた臭いがするらしく、閉口した主計将校から苅野中尉が文句を言われたこともあった。
 だから、麻倉大尉の行動は、慎重というよりも、その体躯に見合わない神経質さの現れなのではないかと考えてしまっていた。物資の搭載量や、修理箇所の件に関しても、必ずしも所轄長である潜水艦長自らが把握しなければならない事象だとは思えなかった。
 というよりも中型とはいっても、巨大な潜水艦のすべてを一人の人間が把握し続けるのには無理があるのではないのか。そのような巨大な兵器や組織を効率よく運用するために指揮官の元には各科の長がいるはずだ。
 麻倉大尉の行動は、結果的に航海長である自分などの部下の職務を阻害する行為となってしまっているのではないのか、苅野中尉はそう考えてしまっていた。


 いつの間にか、士官室内の喧騒が止んでいた。その代わりに、囁くような小声で何かを言い合う気配があった。
 怪訝に思って苅野中尉が目を上げると、目の前に呂43号潜の機関長を務める倉原大尉が、煙管服姿で突っ立っていた。大尉が着込んだ煙管服は、黒鯨に接舷して補給が開始された時に母艦で洗濯されていたはずだが、何度も洗濯されても薄く残る灰色のものだけではなく、真新しい真っ黒に染められた油の付着痕も見えていた。
 そのような姿の倉原大尉が目の前に立っているものだから、こちらまで明瞭な燃料油の臭いがしてきて、苅野中尉は眉をしかめるところだった。これでは士官室の若手士官たちが、声をひそめるはずだった。

 倉原大尉は、そんな苅野中尉の様子に気がついているのかいないのか、煙管服に飛び散った油が付着するのもお構いなしに、中尉の向かいの席に煙草盆を引っ張りながら、どっかりと腰を下ろした。
 士官室内で騒いでいた他の士官が、士官室内に似つかわしくない煙管服姿に眉をひそめながらこちらを見ていたが、倉原大尉が気にする様子はなかった。
「航海長ひとりだったのかい」
 煙草に火をつけながら、倉原大尉がいった。席に座ってから一人かどうかもないものだが、苅野中尉は頷いていた。

「43号潜の機関室で、今日は修理の予定はあったでしょうか。確か今回の整備はもう終了していたはずですが」
 苅野中尉が首を傾げると、倉原大尉は青白い顔で煙草を口にしながら言った。
「いや、今日は黒鯨の方だ。こいつのV型配置エンジンは気筒数を増大できる割にはエンジン高さが抑えられる利点はあるんだが、少しばかり燃料、潤滑系統に不具合が生じるようだな。黒鯨はアレクサンドリアに停泊しっぱなしで、最近ではほとんど主機を稼働させていないから、配管内で油が固まっていただけかもしれんが。配管を軽く炙って温めてやれば元通りだ」
 そこで遠い目で窓の外を見ると、倉原大尉は眩しそうに目を細めた。
「そういえば、建造中の主力戦艦には大鯨型で搭載したディーゼルエンジンが搭載されるそうですね」
「ああ、正確には改良型らしい、詳細は俺もまだ聞いていないが、おそらく大鯨型の実績を踏まえた改設計が実施されているんだろう」
 倉原大尉はそう言うと、従兵に向かって注文を出すべく片手を上げた。


 苅野中尉は、周囲の視線や態度に無頓着な倉原大尉の顔をみながら、そっとため息をついていた。呂43号潜の幹部たちには、どこか海軍士官の標準から外れた奇人変人がかき集められているような気がしていた。
 奇妙なことに、呂43号潜は潜水艦長には、外見からは全くそうは見えないが、海軍内でも一二を争うほど若手の麻倉大尉が充てられているのに、その部下である機関長には、戦隊でも一番のベテラン機関科将校である倉原大尉が就任していた。
 しかも、倉原大尉は下士官兵から累進した特務士官ではなく、機関学校で機関科士官教育を受けた正規の機関科将校だった。正規の士官にしては昇進が遅いのは、持病が悪化して機関学校生時代に入退院を繰り返していたかららしい。
 頬のこけた青白い顔をした倉原大尉は、いかにも病弱なように見えた。

 ただし、実際には青白い顔は、機関室に篭って滅多に日の当たる場所に出ないせいで、倉原大尉の体調に大きな問題はなく、艦隊勤務に支障をきたすことはないと戦隊司令部付きの軍医長は判断していた。
 兵学校卒業後、潜水艦勤務を繰り返してきた麻倉大尉と違って、倉原大尉の場合は機関学校の教官職などの陸上勤務が多かったらしいが、その頃も殆ど教材の機関の傍を離れることもなく、日中は表に出ることは少なかったらしい。
 一見病人のように見える倉原大尉だったが、教官職が長かったせいか、彼を慕う将兵は少なくなかった。病身にあった時も研究熱心で病室には専門書を重ねており、一時期は艦政本部第五部でディーゼルエンジンの開発にも携わっていたというから、機関科の将兵からすれば生き字引のような頼りになる存在なのではないのか。
 だから、今も機関分隊に招かれて、黒鯨の機関室にまで赴いていたのだろう。

 実は、倉原大尉の存在は、呂43号潜の指揮権に微妙な問題を招きかねなかった。
 先ごろ行われた制度改正によって機関科将校区分が撤廃されて、機関科と兵科の統合が行われていたからだ。つまり現在は、建前の上では機関科は、内務科や砲術科といった兵科内部のマークの違いでしか無いとなっていた。
 実際には戦闘指揮の訓練を受けていない為に、機関科将校が戦闘艦の指揮をとることは難しいが、今の呂43号潜のように機関科将校のほうが先任の場合は、軋轢を生む可能性もあるはずだった。
 正規の指揮官である麻倉大尉が指揮をとれる状態は問題が生じることはないだろうが、もしも次席指揮官である苅野中尉が指揮をとることになった場合は、軍歴も階級も下なのだから、機関長である倉原大尉が納得したとしても、部下である機関科将兵達が、いざという時に中尉の命令を大人しく聞くかどうかは分からなかった。

 そのような事情から、苅野中尉は倉原大尉と向き合うたびについ身構えてしまっていたが、大尉の方は全くの自然体で接していた。というよりも艦内どころか、戦隊内部を探しても、倉原大尉が身構えなければならない相手などいないのではないのか。
 もちろん上級者は数多いが、機関の専門家である倉原大尉はある意味で職人のようなものだから、知識や技量の方を階級や指揮権継承順よりも重視しているのだろう。


 倉原大尉は、窓の外から苅野中尉に視線を戻すと、ぼそりとつぶやくように言った。
「艦長は今日も艦から降りて来なかったのか」
 苅野中尉は眉をしかめながら頷いていた。
「食事は黒鯨でとられたようですし、戦隊司令部に顔を出して情報を集めていたようですが、あとは艦内にこもりきりです」

「ようです……か。航海長、あんた艦長を避けてないか」
 あまりに自然体であったので、倉原大尉が何を言ったのか分からずに、一瞬苅野中尉は呆けたような顔を向けた。やはり、倉原大尉は大して感情の篭った様子もない表情を苅野中尉に向けていた。
「避けるも何も……艦長は同行を命じられませんでしたし、自分が気がついた時にはもう行動しておられましたから」
 ぎこちない笑みを浮かべながら、苅野中尉はしどろもどろになっていた。倉原大尉は、そんな苅野中尉の心底を見抜くかのように、しわを寄せて目を細めた。
 その鋭い視線に気後れして、苅野中尉は思わず顔をそらしていた。

 倉原大尉は、しばらく無言で煙草をふかしていた。苅野中尉は気まずそうにしていたが、席をたつことは出来なかった。なぜか、そうしてしまうと倉原大尉から今後は相手にされなくなる。そんな気がしていた。
「機関学校から、艦隊に転属して一番困ったのは、煙草が自由に吸えんことだな」
 煙草盆に灰を落とすと、倉原大尉はボソリといった。苅野中尉はおずおずといった。
「それは…機関室は火気厳禁ですから。ですが、航行中も艦橋に出れば喫煙出来ないわけではありませんよ」
「艦橋に出ればの話だ。浮上中は、いつディーゼルを停止して潜航しなければならんか分からんから、機関室を離れるわけには行かんからな。潜航すれば素早くクラッチを切り替えねばならんから、機械も電機も大わらわになってしまう。それに急停止させたエンジンの面倒も見なければならんからな。
 実際の所、機関にしてみれば、潜水艦というのは無理の多い使い方だな。そういえば、オランダの亡命政府から水中充電装置とか言うのが提供されたらしいが、あっちはうまく行っているのかな」
 機関の話になるとすらすらと言葉が出てくる倉原大尉の様子に圧倒されながら、苅野中尉は戦隊司令部で聞いた話を思い出しながら言った。
「第三潜水戦隊の伊号潜では装備が開始されているらしいですが、今のところ充電用の補助発電機への使用に留まっているようです。どちらにせよ三戦隊の方が潜航時間は長いようですから、そちらが優先されたのでしょう」
「そいつはどうかな……呂号潜では艦内の余裕が無いから装備できないだけかもしれんぞ。思うんだが、このクラスの潜水艦が行動できるのは地中海のような狭い内海や沿岸部が限界なのかもしれんな。いずれにせよ、艦内で煙草が吸えないのは悲しいことだ」
 冗談なのか、本気なのか分からなかった。倉原大尉は残った煙草を盆に押し付けながらいった。
「しかし……同じ呂号潜でも、艦内での喫煙を許可している艦もありますが。最近では二酸化炭素吸収剤なども進化していますし、火気厳禁の個所でもない限りそう神経質になることはないのかもしれません」
 倉原大尉は、煙草盆に名残惜しそうに煙草を投げ入れていた。
「例えそれが可能であったとしても、きっと艦長は艦内での喫煙を許可せんよ。あの人には石橋を叩きに叩いてからも、同時に他の橋を探索するような慎重さがあるからな」

 苅野中尉は怪訝そうな顔になっていた。
「機関長は、以前にも艦長と同じ艦で勤務されたことがあるのですか」
「実は最初に乗り込んだ艦が一緒でな、俺は機関中尉で機関士、麻倉さんは任官したての少尉で水雷士だったよ。体重は今よりもう少し軽かったと思うがね」
 そう言いながら、倉原大尉は懐かしそうな顔になって笑みを浮かべた。そういえば機関長の表情を見るのは初めての気がする。苅野中尉はぼんやりとそう考えていた。

「航海長、お前さん達、若いのには艦長の行動が臆病に見えるのではないかな」
 唐突にそう言われて、苅野中尉は慌てて否定しようとしたが、それよりも早く、倉原大尉は淡々とした口調で続けた。
「俺に言わせれば、お前さん達のような若い潜水艦乗りはまるでがろうのようだよ」
「がろう……」
 苅野中尉が意味がわからずに首を傾げると、倉原大尉は面白くもなさそうな顔になっていた。
「いつも腹をすかせた狼だ。攻撃性は十分だし、勢いもあるが、獲物と見るとすぐに跳びかかっていってしまう。もしも獲物が強力だとしても、反射的に攻撃してしまうのではないのか」
 眉をしかめながら苅野中尉は押し黙って聞いていた。餓狼と言われて、不快なわけではなかった。独海軍の潜水艦は狼に例えられることが多かった。だから潜水艦の例えとすればそう奇妙なものとも思えなかった。
 だが、倉原大尉は、あっさりとそのような考えを切って捨てた。

「これが独海軍が英国を締め付けるような場合は話が変わってくる。彼らにすれば通商破壊作戦は、対英国の主作戦であるからだ。なんとしても攻撃を成功させて英国の経済を崩壊させなければ、英国本土に直接侵攻できないドイツ軍に勝機はあり得ない。
 だが、この地中海の通商破壊作戦は、北アフリカ戦線を支援するための支作戦に過ぎない。極論すれば、我が潜水艦の脅威を独伊仏に知らしめて、過大な護衛戦力を吊り上げるだけでも戦果と言える。
 確かに餓狼の攻撃は強力で、しつこいものに見える。だが、そこに慎重さはないし、持久性もまたない」
 苅野中尉は、反論しようと口を開きかけた。確かに地中海の通商破壊作戦は北アフリカ戦線の支援のために実施されているものだが、敵輸送船を撃破することは、直接陸軍を助けることになるはずだ。
 だが、やはり倉原大尉は、苅野中尉の反論を許すこと無く続けた。

「もしも、餓狼の目の前に獲物がなくなれば、やがて腹をすかせたまま死んでしまうだろう。あるいは空腹で行動できなくなったところをあっさりと猟師に仕留められてしまうかだ。だが、麻倉さんの場合は、同じ潜水艦乗りでも少し違うな、あれは冬眠を控えた熊だな」
 苅野中尉は、これは冗談なのだろうかと真剣に悩んでいた。確かに横幅のある麻倉大尉の様子は熊に見えなくも無いかもしれないが、どちらかと言うと豚の方が適切な気がしていた。
「腹には栄養をたっぷりと蓄えているから、少しばかり獲物がなくとも体力が低下することはないし、安全に獲物を狩るために慎重に長期間の追跡行動を取ることも難しくない。それでいて、いざというときは、猟師に対して反撃を実施することも出来る。
 どうだ、そう考えれば、餓狼よりも、冬眠熊の方が危険な気がしないか」
 にやりと笑みを見せた倉原大尉にどう対処すればいいのか分からずに、苅野中尉は戸惑った顔をしていた。倉原大尉は、困惑した様子の苅野中尉を黙って見つめていた。
呂33型潜水艦の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ssro33.html
大鯨型潜水母艦の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/astaigei.html
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ