挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
77/275

1942エル・アラメイン砲撃戦7

 第8軍司令部の混乱は、終息する気配を見せなかった。小野田少佐は、どこか冷ややかな目で、右往左往する第8軍司令部の英国軍人達を見ていた。
 予め予想されていたとはいえ、ドイツ軍の攻撃は苛烈なものだった。
 最初の攻撃は、いつもの様な急降下爆撃機によるものではなく、砲兵によるものだった。策源地であるトリポリから主戦場が遠くはなれたことで、独伊軍の補給線は、伸びきっているものと考えられてきたが、その割には敵砲兵の射撃継続時間は長く、砲弾の備蓄量は少なくないようだった。
 おそらく攻勢の為に、乏しい輸送量を割いて移送されてきた砲弾を、事前に時間を掛けて集積させていたのであろう。

 事前に集積されていたとはいえ、やはり補給線の細い枢軸軍では十分な砲弾準備量を確保することは難しかったのか、時間が経つに連れて砲撃は弱まっていった。その代わりに、どこに隠されていたのか、いつもの様に大量の攻撃機が出現していた。
 攻撃機の大半は、主に英軍陣地を精密爆撃する急降下爆撃機Ju87だったが、今年になって確認されるようになった双発の対戦車攻撃機Hs129や爆装した戦闘爆撃機仕様のBf109なども姿を表していた。
 これまでの運動戦において、枢軸軍は高速で機動する機械化部隊を主力部隊として運用していた。そして、鈍重で機械化部隊に残置されがちな砲兵部隊の代替として、空飛ぶ砲兵として重宝されていたのが急降下爆撃機部隊だったが、今回の戦闘では、少なくとも初戦では砲兵と共に攻撃機部隊も運用されているようだった。
 もちろん、戦闘爆撃機仕様ではなく、純粋な戦闘機として出撃したBf109やフィアットCR.42なども大挙して姿が見られていた。

 急に姿を表した枢軸軍航空部隊に対して、国際連盟軍の航空部隊も続々と迎撃部隊を出撃させていたが、その動きは後手に回っていた。砲兵部隊と同様に、事前に物資を集積していた上に、それまで出撃を控えて戦力を温存していたのか、予想以上に確認された枢軸軍の出撃機数は多かった。
 Ju87やHs129の護衛として随伴する戦闘機部隊の数も少なくかったから、国際連盟軍の戦闘機部隊との間に熾烈な航空戦が発生していた。航空部隊からの報告では、戦闘機部隊は互角に敵部隊と渡り合っているようだったが、敵護衛機部隊に阻止されて、今のところ枢軸軍攻撃機部隊に致命的な損害を与えた様子は無いようだった。

 枢軸軍が前線に投入した戦力は、予想を大きく上回っていた。ここ暫くの間は大規模な戦闘は発生しておらず、補給が乏しいためか、敵陣地の弱体化の傾向すら見られていたが、実際には、物資をこの攻勢のために備蓄していたために、前線の陣地が弱体化していたように見えただけだったのだろう。
 戦闘機などに必要な機材を搭載した戦術偵察機だけではなく、前線はるか後方の敵地上空に高速、高空で侵入する司令部偵察機部隊による偵察飛行でもこの攻勢準備の様子はつかめなかったようだから、かなりの注意を払って隠蔽していたのではないのか。


 だが、この攻勢が予想されていたよりも大規模なものだったとしても、開戦当初から何度も大規模な補充を受け取った現在の国際連盟軍の戦力規模からすれば、対処は十分に可能なはずだった。
 それがこのような大混乱に陥ったのには、いくつかの理由があったが、その最たるものは、第8軍司令部の参謀達を始めとする英国軍将兵たちに蔓延する敵将ロンメルへの恐怖心にあったのではないのか。
 この一年の間、国際連盟軍の主力である英国陸軍は、一度はイタリア領リビアの奥深くまで進攻していたものの、北アフリカ戦線で巧みな機動戦を得意とするロンメル将軍の反撃作戦によって、ここエジプト領アレクサンドリア近郊にまで追い込まれていた。
 その時の相次ぐ敗北の経験が、北アフリカに展開する部隊の将兵たちに刻み込まれてしまったのではないのか。そして、その経験が枢軸軍の行動予測を曇らせたのではないのか。小野田少佐はそう考えていた。

 もちろん、第8軍司令部の判断の誤りだけが、現状を招いたとは思ってはいなかった。実際に枢軸軍の攻勢は、友軍としては最悪の場所で行われたといっても良かった。
 枢軸軍の攻勢作戦において、主攻部隊となっているのは4乃至5個師団であると判断されていた。おそらくその主力となっているのはドイツアフリカ軍団の中でも最精鋭の機甲化部隊である第15装甲師団と第21装甲師団であるはずだった。これに加えて側面防護のために、ドイツアフリカ軍団の残りの軽師団か、イタリア陸軍のアリエテ戦車師団、リットリオ戦車師団あたりの機械化師団が加わっているのではないのか。
 その他にも前線となっている陣地群全線で動きが見られたが、大規模な火力戦闘が開始された個所はなかった。おそらく他の個所で戦闘が起こってもそれは陽動でしか無く、枢軸軍の火力支援、航空支援は友軍前線の突破を図る主攻部隊に向けられているはずだ。

 もしも、この攻勢が海岸近くのエル・エイサ丘陵周辺に陣を構える第30軍団に対して行われたのであれば、ドイツアフリカ軍団といえども容易に突破する事は出来なかったはずだ。第30軍団には現在軍直轄の重砲兵連隊などの増援部隊も配属されていたし、各隊も膠着状態にあった期間を利用して、砂漠地帯に構築するものとしては驚くほど堅固な陣地を構築していたからだ。
 それに、第30軍団だけではなく、国際連盟軍による逆襲作戦を控えて、3個機甲師団からなる第10軍団が支援のために後方に配置されていた。
 名前すら明かされていない、近日中に発動するという噂がある逆襲作戦においては、陣地に篭もる第30軍団を超越して、機動力に優れる第10軍団が敵陣へと侵攻することになるのではないのか、そう言われていた。


 しかし、枢軸軍の攻勢作戦は、両軍が対峙する前線の中央部分で開始されていた。航空支援も、砲撃支援も、この箇所に集中して行われていた。実はこの箇所は、国際連盟軍側では、部隊配置の転換が行われている最中だった。
 第10軍団が逆襲作戦の主力として抽出されたものだから、同軍団の一部の部隊が配置されていた陣地群には、後方で再編成をこなっていた第58師団が代わって配置される所だった。
 第58師団は、開戦当初から北アフリカ戦線で戦い続けた部隊だったが、それだけに損耗も少なくなく、後方で補充を受け取りつつ再編成を行っていたのだが、それも十分とはいえなかった。
 北アフリカに到着したばかりの新兵達は、まだ砂漠の環境に慣れてもいなかったし、開戦以来の古参兵は、相次ぐ敗北の結果、敵将ロンメルの名前に震え上がっていた。

 第58師団の現状は、上級司令部である第8軍司令部でも一応は把握してはいた。だからこそ、比較的安全なはずの戦線中央部に配置したはずだった。
 逆襲作戦では、海岸沿いに第10,第30軍団による攻撃が開始された後、これに呼応して日本帝国陸軍北アフリカ軍の3個師団を主力とする部隊がカッターラ低地沿いに西進を開始する予定だった。
 これによって補給線が伸びきって弱体化しているはずの枢軸軍主力を両翼包囲するつもりだったのだ。

 この作戦において、戦線中央部に配置された部隊は包囲網の一環を担うことにはなるものの、大した機動を行う必要もなく、二線級の部隊でも十分耐えうると判断されていた。
 それに、枢軸軍の反抗があるとすれば、いつもの様に主戦線をすり抜けるように、カッターラ低地に接する最南部の突破を図るものと考えられていた。ここに配備されるのは、北アフリカに展開する国際連盟軍の中でも最も重武装といえる日本帝国陸軍第7師団だった。
 今のところ、アレクサンドリア港での荷役作業に手間取っているのか、前線には師団の半数程度の戦力が支隊として展開しているだけだが、それだけでも戦車、機動歩兵各1個連隊を基幹とする有力な戦力であるはずだった。
 この重裝備の新参師団相手では、歴戦のドイツアフリカ軍団といえども迅速な突破は困難ではないのか。そう考えられていた。


 だが、枢軸軍の攻勢は、元々他隊に比べて戦力にあやしい所がある上に、陣地への進入途上であった第58師団の守備範囲である15キロ程度の戦区に集中していた。
 半ば移動途中に、敵精鋭機甲師団の襲撃を受けた第58師団の前線は、ごく短時間で崩壊していた。残存する部隊は、順次隣接する戦区に展開する他師団の陣地に収容されつつあったが、まともに戦力を残している部隊は少ないようだった。
 第58師団の戦線を安々と突破した敵主力をなす機甲師団は、突破口の確保を側面援護の部隊に任せると、国際連盟軍前線の奥深くへ侵攻しつつあった。

 敵機甲師団に対抗できる戦力は付近には存在していなかった。元々こちら側の攻勢準備のために前線近くに戦力を密かに集結させていたものだから、第8軍司令部が存在するアラム・ハルファ付近は一時的にせよ戦力の空白地帯となっていたのだ。
 第8軍司令部が自在に動かせる予備兵力は、再編成中であった1個歩兵師団のほかは、集結中の日本陸軍第7師団の残余と第5師団、全て合わせても3個師団にも満たなかった。


 卓上に置かれた地図を確認していた小野田少佐は、ふと強い視線を感じて視線を上げた。少佐を睨みつけるような目で見ていた参謀がいたが、一瞬目があうと、戸惑ったような表情になって顔を背けた。
 小野田少佐は鉄面皮を通して、無表情のまま周囲を見渡したが、何人かの参謀が好意的とはとても言いかねる表情で少佐を見ていた。睨みつけるように鋭い視線を向けるものもいたし、白けたような顔もあった。
 正確には、少佐個人ではなく、小野田少佐が第8軍司令部に連絡将校などとして在籍している日本軍の軍人で最上位であるから、日本軍の象徴として少佐にこのような視線を向けるものが多いのだろう。

 実は、第8軍司令部要員の中には、日本軍の軽率な行動が、枢軸軍の過剰な反応を招いたのではないのか、そう考えるものが少なくないようだった。もちろん、複数の師団を同時に行動させるような大きな作戦が昨日今日の準備で出来るはずもないから、それだけが原因であるとは思えなかった。
 だが、攻勢のきっかけとなったのは、日本軍の威力偵察ではないのかと考えているものは多いはずだった。証拠があるわけでもないから、面と向かって言うものはいなかったが、それだけに小野田少佐も逆に反論の機会を封じられて閉口していた。

 無表情を保ちながらも、小野田少佐は内心ではため息をついていた。
 ――また、辻井中佐の独断か…あの人もいい加減おとなしくしてもらえんかな
 陸軍士官学校の上級生だった辻井中佐は、行動力あふれる参謀だった。幼年学校から士官学校に進み、どちらも首席で卒業して、その後も華麗な軍歴を誇っていたが、行動力と同様に強い野心も持ち合わせていた。
 また、平時の軍事力を制限することで国力の増強をはかり、総力戦時における継戦能力を高めようという統制派の有力な若手将校でもあり、統制派の首領とされる統合参謀部総長の永田大将や現陸軍大臣の東條大将といった陸軍の重鎮とも気脈を通じているらしかった。


 辻井中佐は、約十年前に独立兵科として、騎兵科と歩兵科の一部を統合して機甲科が設立された際に、歩兵科から転科した将校の一人だった。だが、そのころから当時はまだ大尉だった辻井中佐の転科には裏があると噂が流れていた。
 歩兵科から新たに機甲科へと転科した将兵は、当然の事ながら八九式戦車やルノー軽戦車などを装備していた戦車隊に所属するものが多かった。だが、機甲科に転科した当時の辻井大尉の場合は、機甲科設立直前に戦車隊に転属となるまで、ほとんど戦車隊に関わってこなかったのだ。
 だから、実際には歩兵科から機甲科に転科した辻井中佐は、新兵科の実権を握りたい歩兵科の将官らが、騎兵科の影響力を排除するために送り込んだいわば間諜なのではないのか、そう考えるものも少なくなかった。

 実際、機甲科設立当初の辻井中佐は、概ね歩兵を支援するために鈍足でも重火力を指向する歩兵戦車の採用に関して政治力を発揮するなど、歩兵科の意向に沿った行動が目立っていた。
 一式中戦車以前の陸軍主力戦車である九七式中戦車の開発時には、旧歩兵科と旧騎兵科出身者の間で熾烈な隊内闘争があったと言われていた。
 この時は旧歩兵科出身者や参謀本部が推す鈍足だが、比較的軽量安価で数を揃えやすいだろう軽歩兵戦車とも言えるチニ車と、旧騎兵科などが推す機動力に優れるが大型で高価なチハ車との競合試作となったが、九七式中戦車としてチニ車が制式採用される際に、辻井中佐の政治的な暗躍があったとされていた。

 しかし、辻井中佐が歩兵科の意向を汲んで行動していたのは、その時までだった。九七式中戦車の制式採用後に日本陸軍の仮想敵であるソ連軍の次期主力戦車が火力と機動性に優れた高速戦車であるとの情報が入ってきたことで、歩兵戦車として開発されていた九七式中戦車の生産体制は見直されることとなった。
 このソ連軍次期主力戦車に対抗するために開発された高速戦車が、現在の日本陸軍最新鋭戦車である一式中戦車だったが、この開発段階においては、辻井中佐はそれまでとは逆に、歩兵支援用戦車の開発継続を求める歩兵科の影響力を排除する姿勢に変わっていたらしい。
 この頃には、それ以前の旧兵科の壁を乗り越えて、ようやく機甲科としての将兵たちの意識が芽生え始めており、騎兵科将校として辻井中佐もその流れに逆らえなかったのではないのか、そう考えるものもいたが、中佐をよく知るものは、自信に満ちたあの男が周囲の環境でそう安々と自説を曲げるとは信じられなかった。
 実際には歩兵科の軛から逃れて、機甲科独自の判断を始めた辻井中佐の変化に何があったのかを知るものはいなかった。いずれにせよ、変節したといってもよい辻井中佐は、一部の歩兵科将兵からは蛇蝎の如く嫌われているとも聞いていた。

 歩兵科の将兵達からの隔意にもかかわらず、統制派重鎮とも懇意な辻井中佐の政治力は大きかった。あるいは決戦兵科としての歩兵科の影響力が薄れているのかもしれなかったが、辻井中佐の被害を被ったのは歩兵科だけではなかった。ある意味で、小野田少佐達砲兵科も辻井中佐の影響を受けていた。
 現在の陸軍主力戦車である一式中戦車は、機甲本部などからすれば、あくまでも次期戦車の採用までのつなぎでしか無かった。予想されるソ連親衛戦車に対抗するには、長砲身57ミリ砲を装備する一式中戦車でも荷が重いと考えられていたからだ。
 だから、そのような一式中戦車を支援するために、砲塔を廃するかわりに大口径砲を搭載する一式砲戦車が同時に制式採用されていた。

 実は一式砲戦車の採用時には、同時期に砲兵科が主体となって進めていた自走砲との共用化も一考されていた。一式自走砲として制式採用されたその自走砲は、七五ミリ野砲を一部開放式の防盾と共に車体に搭載したものだった。
 搭載した九〇式野砲は、野砲としては初速が高く、徹甲弾さえあれば、大口径の対戦車砲として使用することも可能だった。だから支援射撃用であれば一式自走砲を中戦車の支援として採用する可能性も少なくはなかったはずだ。

 そこをひっくり返したのが辻井中佐であった。中佐は、操砲の為に上部、後部が開放式となった自走砲形式では対戦車戦闘の際に損害が少なくなく、あたりどころが悪ければ榴弾一発で無力化される危険性を指摘した。また、九七式中戦車を原型として開発された一式自走砲の車体では鈍足過ぎて、支援するはずの一式中戦車の足を引っ張ることになるのは必然と辻井中佐は論じて、結局は一式中戦車と共通の車体を持ち、分厚い装甲で固定式戦闘室を覆った一式砲戦車を別個に開発することを陸軍技術本部に認めさせていた。


 そのようにいつの間にか根っからの機甲科将校となっていた辻井中佐は、現在では機甲科参謀として日本陸軍北アフリカ軍司令部に在籍しているはずだった。
 しかし、何故か今は北アフリカ軍主力の第7師団先遣隊に同行して戦線南部のエル・タカ高地付近にいるらしい。
 そして、命令権のない参謀であるにも関わらず、第7師団の先遣支隊と第5師団の作戦を指導している様子があった。どうやって機甲科将兵の少ない第5師団にまで影響力を及ぼしているのかはよく分からなかった。
 辻井中佐は、先遣隊に参加していた第7師団と第5師団の捜索隊を指導して敵陣地に対して威力偵察を実施していた。
一式自走砲の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01spg.html
一式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01td.html
一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ