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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1942東京―ローマ10

 マリーオ=ボンディーノ大佐がその男と会ったのは、ローマのとある食堂の軒先だった。


 夕刻に差し掛かった時間は、昼食をとるには遅すぎるし、夕食にはまだ早すぎた。そのせいだけではないだろうが、早くも秋の夕陽が差し込み始めた店先には、どこかうらぶれた雰囲気が漂っていた。
 オープンテラスに、ところ狭しと広げられたテーブルに座っているのは私服姿のボンディーノ大佐だけだった。店主の親父も、所在なさげに、店の奥からぼんやりと店先を眺めていた。
 昼食時に作られたのだろうポレンタは、すでに冷め始めていた。だが、以前にもこの店に来たことがあるボンディーノ大佐は、ポレンタがひどくまずいのは、冷めているからだけではないような気がしていた。
 元々、ポレンタは北方の方が柔らかいらしいから、これまで食べ慣れていた母港タラントのあたりで出されるものと、ローマでだされるものでは作り方が異なるはずだが、それ以前に何か混ぜ物がされているような気がしていた。純粋にトウモロコシだけで作られただけではないのか。
 ボンディーノ大佐は珍しく憂鬱そうな顔で、フォークの先で意味もなくべしゃべしゃとしたポレンタを突いていた。

 別にポレンタが不味いからくゆくよとしていたわけではない。ついさっきまで聞かされていた話の内容を思い出していたのだ。
 それに、ここのポレンタが多少まずかろうが混ぜ物が入っていようが、戦地で戦う将兵の糧食に比べれば遥かにましだった。
 イタリア軍の貧弱な補給態勢では、遠く本国から離れた北アフリカ戦線や、ソビエトに攻め込んだ東部戦線まで十分な糧食や弾薬を移送することが出来なかったのだ。
 北アフリカでは、多少ぬるいどころか、暖められた食事すら供給できずに、僅かな量のビスケットや泣きたくなるほど不味い缶詰だけを与えられ、しかも砂漠の寒い夜に、敵を警戒して火をつけることも出来ずに凍えながら過ごす将兵が大勢いるはずだった。
 特にマルタ島攻略が断念されたあと、マルタ島を根拠地とする国際連盟軍が強化されたことによって、これまで以上に海上補給線は脅かされるようになっていた。ボンディーノ大佐達イタリア海軍も、今では全力で海上護衛作戦に当たらなくてはならなくなっていた。


 ぼんやりと頭をあげると、赤い夕陽が目に入った。普段と変わらない夕陽に、少しばかり気を取り直すと、フォークを持ち直して、一気に残りをかきこもうとした。休暇として与えられていたのは今日一日だけだった。夜には新たに乗艦となった重巡洋艦ボルツァーノが停泊しているはずのナポリにむけて出発しなければならなかった。
 それほど時間に余裕のあるわけではなかった。

 テーブルの先に立つ男に気がついたのは、その時だった。
 かきこもうとして持ち上げかけた皿に影がさして、反射的にボンディーノ大佐は顔を上げた。そこにいたのは、ひどく特徴のない男だった。逆光になっているせいもあるだろうが、薄ぼんやりとした顔ははっきりとは見えなかった。
 ボンディーノ大佐よりも、一回りは歳若いように見えた。おそらく三十路前後なのではないのか。だが、薄い笑みの浮かんだのっぺりとした顔は、はっきりとは年齢は分からなかった。もしかすると20代ということもありうるし、ボンディーノ大佐と同世代であっても余り違和感は無い気がしていた。
 男は、曖昧な笑みを浮かべたまま、ボンディーノ大佐の向かいに座ると、手をあげて店の親父を呼んだ。

 ボンディーノ大佐は、ぼんやりと特徴のない男を見ていたが、段々と、この男が古い友人であったことを思い出していた。しかし、特徴もなく、イタリア人どころか、西欧人であるのかどうかすら疑わしいこの男と何処で知り合ったのかまでは思い出せなかった。
 ただ、古くから知る友人であるということを思い出しただけだった。


 ポレンタだけの貧弱な食事をしていたボンディーノ大佐に遠慮することもなく、あまり期待していない顔で近づいてきた店の親父に、男はザンポーネとニョッキに加えて、日も沈んでいないのにリキュールを頼もうとしていた。
 店の親父は、ちらりと仏頂面のボンディーノ大佐と、妙な笑みを浮かべた男を面白くもなさそうな顔で見比べてからいった。
「ザンポーネとニョッキは今から煮込むことになるから少し時間がかかるよ。あとストレガはどうだったかな、在庫があればいいんだが……」
 ひとりごとのようにつぶやくと、愛想のない店の親父は店の奥へと引っ込んでしまっていた。

 男は、店の親父をにこにこと見送りながらいった。
「この店のニョッキは何で作るんですかね。ローマらしくジャガイモではなく、小麦粉で作られているものなら良いんですがねぇ……」
 ボンディーノ大佐は、つまらなそうな顔で視線をそらしていた。
「あまり期待せんほうががいいぞ。この店も随分と質が落ちたような気がするからな」

 男は、それを聞いても笑みを陰らせることもなかった。
「この時期は、ローマでも物資統制が強まっていますからね。ところで昼に起こった騒ぎはご存じですか」
 ボンディーノ大佐は、怪訝そうな顔でとらえどころのない男を見つめた。今日は朝からずっと室内に居たものだから、外の様子は何一つ分からなかった。男は、表情を変えること無く続けた。
「アンナ・マニャーニがそこの大通りを大八車で走り回ったんですよ。大八車には生まれたばかりの息子を乗せていたそうですが」
 ボンディーノ大佐は首を傾げていた。
「確か、アンナ・マニャーニというと女優だったか。だが、何で女優が大八車に子供を乗せて走っていたんだ。戦争で気でも触れたのか、可哀想に」

 男は、わずかに苦笑すると、ボンディーノ大佐の誤りを正そうとした。
「自家用車を軍に挑発されたのを恨んで、抗議のつもりでそんなことをしたらしいですよ。少しばかりタイミングが早い気がしますが、これも物資統制が強まっているからでしょうね。しかし、あれは見ものだったと思いますよ。いや、大八車のアンナ・マニャーニがというわけではありません。ローマ市民の反応が、です」
 ボンディーノ大佐は、わずかに眉をしかめてみせた。何となくその時の様子がわかったような気がした。おそらく、長く続く戦争に飽いたローマ市民達は、軍やファシスト政権に奇妙きてれつなやり方で抗議する女優に喝采を送ったのではないのか。


 思わずため息をつくと、ボンディーノ大佐は苦々しい顔でいった。
「ファシスト共がどうなろうと俺の知ったことではないが、最近では随分と軍も嫌われているようだな」
 口にしてから、一瞬だけなぜこの男にそんな本音を言っているのか、疑問に思った。だが、何故かその疑問はすぐに脳裏で雲散霧消していった。
「それにしても貴様、この時勢にそんなによく喰うな。物資統制が強化されてるんじゃないのか」
 前線で飢える兵たちのことを考えながら、ボンディーノ大佐は憂鬱そうな顔で思わずそう言っていた。

 男は、笑みを消すこと無くいった。
「まぁ、何時の時代でも、何処にでも、抜け道というものはあるものですよ。それよりも大佐はあまり食べられないのですね」
 そう言いながら、男はボンディーノ大佐の皿を無遠慮に覗きこんだ。ボンディーノ大佐は一瞬、言葉に詰まったが、陰鬱な声でいった。
「前線で腹をすかせているだろう兵たちを思うと、あまりがつがつと喰う気にもなれなくなってきた。ただそれだけだ」
 言い終わるとボンディーノ大佐は、暗い表情で皿に目を落としたが、男は不思議そうな口調で返していた。
「ならば大佐は、何故バルボ元帥の終戦工作に積極的に関わろうとされないのですか」

 思わず、ボンディーノ大佐は顔を上げて、目を見開きながら、まだ不思議そうな表情を浮かべている男の顔を見つめていた。
 自分でさえ、今日まで全く知らなかった終戦工作を、何故この男は知っているのか、それが分からなかったからだ。

 しかし、男の顔を見つめている間に、驚きは次第に消え去っていった。もしかすると、このタイミングでボンディーノ大佐とあって話が出来たということは、この男もバルボ元帥の関係者なのではないのか、そう考え始めていたからだ。
 この男の名も思い出せない不自然さは、何故かボンディーノ大佐の中ではさしたる疑問にもならないでいた。


 ボンディーノ大佐をローマ郊外の別荘地に呼び出したのは、かつての直属上官であるサンソネッティ中将だった。ヴィットリオ・ヴェネトが停泊しているラ・スペツィアからナポリまでボンディーノ大佐が移動することを知ったサンソネッティ中将は、移動中にローマに立ち寄ってほしいとわざわざラ・スペツィアを離れる直前の大佐に電文を打ってきていたのだ。

 先のマルタ島沖海戦までタラント駐留艦隊の司令長官職にあったサンソネッティ中将は、海戦直後に海軍最高司令部に転属していた。そして、サンソネッティ中将の転属に前後して、タラント駐留艦隊は往時の面影を失っていった。
 タラントから出撃した大多数の艦艇がマルタ島沖海戦で損害を受けた上に、沈没した艦艇も少なくなかった。それに前線に程近いタラント軍港は、すでに悠長に多数の艦艇を同時に修理を行えるほど安全な場所ではなくなっていたからだ。

 海軍が独自に保有する防空戦闘機隊によって防衛されているとはいっても、頻繁に国際連盟軍の重爆撃隊の襲撃を受けるようになってしまったタラント軍港に傷ついた状態の艦隊主力を駐留させ続けられるほど、イタリア海軍最高司令部は豪胆ではなかった。
 だから、海戦後にタラント軍港に駐留し続けている艦艇は、数少なくなった完動状態の、それも最大で軽巡洋艦となる軽快艦艇に限られていた。小規模で軽快な艦隊であれば、空襲を受けても損害は少なくなるし、場合によっては空襲を避けて洋上に退避することも難しくなかった。
 しかし、そのように小規模となった艦隊の司令官職として中将クラスの高級将官を配置できるほどイタリア海軍に余裕はなかった。サンソネッティ中将の転属にはそのような理由もあるはずだった。
 すでに、タラント軍港は、イタリア本土にあるにも関わらず最前線であると判断されていたのだ。


 長くタラント軍港を母港としていた戦艦ヴィットリオ・ヴェネトも、マルタ島沖海戦による損害復旧を兼ねて、ラ・スペツィアに母港を変更されていた。マルタ島沖海戦の損害も少なくなかったから、設備の整ったラ・スペツィア工廠で修理を行う必要があったのだ。
 ヴィットリオ・ヴェネトは、開戦からずっと最前線で戦い続けていたから、損害復旧工事だけではなく、機関や主砲塔も本格的な整備が必要だった。

 だが、ラ・スペツィアに移動してからも、中々ヴィットリオ・ヴェネトの整備が本格的に開始される様子はなかった。
 半世紀以上の歴史を持つラ・スペツィア工廠は、イタリア海軍で最も大規模で、設備の整った修理施設だったが、相次ぐ海戦で生じた損傷艦は工廠の修繕能力を超えていたから、修理待ちの艦が何隻も蓄積されている状況だった。
 自力での航行が可能で、最低限の戦闘能力を保持していたヴィットリオ・ヴェネトは、損傷艦群の中ではまだましな方だったのだ。

 あるいは、すでにイタリア海軍最高司令部は、減少する燃料油蓄積量などを考慮して、戦艦のような大型戦闘艦の活動を諦めていたのかもしれなかった。
 マルタ島沖海戦に敗北した結果、国際連盟軍のマルタ島防衛態勢は盤石のものとなっていた。そして、息を吹き返したマルタ島から出撃する敵航空戦力によって北アフリカへの補給路は脅かされていた。
 現在のイタリア海軍にとって主任務は、敵艦隊の撃滅、あるいは撃退ではなく、北アフリカで戦う友軍への海上補給路の維持に他ならなかったが、海上護衛作戦では海上砲雷撃戦能力に優れる大型戦闘艦よりも、ここ最近になって相次いで就役し始めた護衛駆逐艦や水雷艇のような、打撃力には劣っても数を揃えやすく、対潜、対空戦闘能力のバランスと乗れた艦艇の方が有効だった。
 ラ・スペツィアの工廠の修理工事も、護衛駆逐艦などの軽快艦艇を優先して行われているようだった。

 その結果、ヴィットリオ・ヴェネトを始めとする大型戦闘艦は、応急修理のみで泊地に係留されたまま、半ば放置されていたのだ。それでも多くの乗員の配置が解かれる様子がなかったのは、ラ・スペツィア工廠を守るための対空砲台として使用するつもりなのかもしれなかった。あるいは、単に工廠の身代わりとなる囮なのかもしれなかった。
 ヴィットリオ・ヴェネトがそのような状況にあるなか、ふてくされ始めていたボンディーノ大佐は、転属の命令を受け取っていた。それがナポリへの移動と、現地で停泊しているボルツァーノの艦長への任命だった。


 だが、その命令は、ボンディーノ大佐を困惑させるものだった。普通は戦艦艦長職にあったものが、格下の巡洋艦艦長へと任じられるケースはなかったし、そもそも重巡洋艦ボルツァーノは、昨年のマダパン岬沖海戦で損害を受けて大破状態にあったはずだ。
 それに加えて、ボンディーノ大佐の後任となる新しいヴィットリオ・ヴェネト艦長についての情報が何もなかったものだから、大佐だけではなく、周囲も困惑するしか無かったのだ。

 重巡洋艦ボルツァーノや、ヴィットリオ・ヴェネトの艦長にあらたに就任する指揮官に関する情報は中々集まらなかったが、それでもボンディーノ大佐がラ・スペツィアを離れる頃には大部分は判明していた。

 ヴィットリオ・ヴェネトの新艦長の情報が集まらないのも当然だった。そのような人事が全く存在しなかったからだ。ないものを探そうとして、無駄な努力をしただけだった。
 少なくとも損害復旧工事が終わるまでは、新たな艦長が就任することはないようだった。これはかなり異例のことだったが、イタリア海軍の高級指揮官不足の影響がここまで出てきているようだった。
 もちろんこれはラ・スペツィア工廠で停泊している間だけの特例措置だった。実際にはボンディーノ大佐を他艦に引きぬいたのは良いが、代わりにヴィットリオ・ヴェネトの艦長職に収まる適当な士官がいなかったのだろう。
 修理工事が完了して実働状態になれば、大佐クラスの適当な指揮官が正規の艦長として任命されるのではないのか。

 だが、ヴィットリオ・ヴェネトがラ・スペツィア工廠で係留されている間は、副長のラザリ中佐がそのまま艦長代行として指揮をとることになっていた。だから引き継ぎは楽だったが、釈然としない思いは残っていた。
 このままかつての栄光と共に、ヴィットリオ・ヴェネトは人々の記憶から忘れ去られて、鉄屑とかしてしまうのではないのか。そう考えてしまったからだ。
 代理指揮官として艦に残るラザリ中佐も同じ思いを抱いていたようだった。中佐は、ボンディーノ大佐が艦を離れても、艦長公室を使用するつもりはないと公言していた。
 そして、ラザリ中佐は、こうも言っていた。ヴィットリオ・ヴェネトの乗員はみなボンディーノ大佐の帰りを待っていると。


 重巡洋艦ボルツァーノの情報は、ヴィットリオ・ヴェネトの新艦長に関するものに比べればすぐに集まってきていた。というよりもヴィットリオ・ヴェネトと入れ替えになってラ・スペツィア工廠でボルツァーノも工事を終えていたものだから、工廠関係者から容易に詳しい話を聞くことが出来たのだ。
 だが、ボルツァーノが行った工事の詳細は、ボンディーノ大佐を困惑させることになった。どうやらボルツァーノは、ラ・スペツィア工廠で単なる修理工事ではなく、大規模な改装工事を行っていたらしかった。
 ボンディーノ大佐は、ラ・スペツィア工廠の管理棟に残されていたボルツァーノの改修工事用艤装図をどこか呆れたような顔で見ていた。
 そこには、後部甲板の連装砲塔二基と引き換えに、水上機を係止させるための広大な飛行甲板を備えた姿が描かれていた。
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