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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1942東京―ローマ8

 日本帝国陸軍は、大正時代に行われた軍縮によって、日露戦争から欧州大戦までの間に拡充された師団の幾つかを廃止し、あるいは平時においては司令部事務機能のための最少人数のみを配置する予備部隊としていた。
 平時においては、近衛師団や大連に駐留する第19師団、同じく遣露軍団としてウラジオストックに駐留する第20師団などの特別な部隊を除けば、日本本土に駐留する師団は14個に抑えられていた。

 これは、永田大将ら統制派将校や、企画院の中核を占める革新官僚などが推し進める、国家総力戦態勢を実現するための政策を反映させたものだった。
 つまり、平時においては何ら生産活動に寄与しないために、国家経済に負担をかけるのみの軍事力を最低限まで抑えこむことで、国家総力戦において重要となる、経済力や技術力の向上にその分の国力を注ぐという方針だったのだ。
 平時体制の中で、軍縮によって縮小された常備兵力は、陸軍の中核を担う戦力だった。この司令部や現役兵からなる少数の部隊を核として、有事となれば、予備役将兵の動員を行うことで、兵力を大幅に拡張させる予定だった。
 だから、平時の日本陸軍では、指揮官や部隊の中核となる下級将校や下士官の比率が高かった。訓練が不足する予備役兵であっても、指揮官や下士官層がまともであればとりあえずの戦力にはなるからだ。
 こうして動員される予備役兵の受け皿として残されていたのが、予備師団として司令部機能の一部のみを存続させていた部隊だった。また、現役の各師団でも、麾下の4個歩兵連隊の平時編制は、戦時編制と比べて極端に兵員数が少ないから、有事には動員によって補充を受け取る必要があった。


 だが、その規模を縮小させたものの、平時においても陸軍予算は、ほとんど削減されていなかった。
 主に歩兵連隊を対象とした現役部隊の縮小と引き換えに、欧州大戦前後から急速に発展していた各種の機械を駆使した特殊な兵科の部隊は逆に増強されていたからだ。
 常設の戦車連隊に加えて、戦車、飛行機などの新兵器の教育を実施する学校の新設などがそうだった。

 つまり当時の軍縮は、必ずしも陸軍予算の削減を目的としたものではなかったのだ。
 実際には、大規模な機械力や砲火力の強化によって陸軍の近代化を行うのが目的であって、歩兵を中心とした師団数の削減も、軍縮を迫る帝国議会の面子を建てるための半ば偽装に過ぎなかったとも言えた。
 逆に言えば、歩兵の頭数を多少増やすよりも、砲火力を強化したほうが、最終的な戦力は向上する。それが先の欧州大戦に参戦した日本帝国陸軍が学んだ教訓だったのだ。

 帝国陸軍の、この規模の縮小と引き換えの機械力、火力の強化という基本方針は、二十年近くが過ぎた現在でも変わっていなかった。
 現在では、各師団は、完全自動車化され、装甲車や軽戦車を装備した師団捜索隊に加えて、中戦車を装備した師団戦車隊などの機械化部隊も編制に含むようになっていた。それに、一部の装備優等な師団では、一式半装軌装甲兵車の制式採用に伴って、麾下の歩兵連隊に装甲兵車による機械化に加えて、機動歩兵連隊とするとともに、師団戦車隊の増強を行って、機動歩兵師団へと改編された部隊もあった。


 山下中将率いる北アフリカ軍に配属された第5、第6、第7の3個師団は、日本陸軍の中でも特異な編制の師団だった。
 広島を中心に中国地方を師管区とする第5師団は、陸軍の兵員揚陸艦である特殊船などを指揮下に置く船舶司令部や、海軍の主要根拠地である呉鎮守府に隣接して配置されていることもあってか、揚陸戦闘に特化した部隊だった。
 実際には、揚陸訓練の実施や一部の工兵機材などが優先的に配布されていた程度だったが、それでも第5師団が揚陸専門部隊として期待されていた事実に変わりはなかった。
 ただし、迅速な揚陸を実施するためか、即応性が求められるために平時より歩兵連隊の充足率が高い一方で、重装備の機動歩兵や大口径砲などは装備していない軽装備の部隊だった。


 それに対して、日本でも東北の師団と並んで精兵と知られる九州を師管区とする第6師団は、第5師団と比べると他の通常編制の師団に近かった。機動歩兵編制を含まない比較的軽装備の師団ではあったが、これまで師団戦車隊に配備されていた百式砲戦車を、北アフリカ派遣直前に最新の一式中戦車と砲戦車に更新していた。
 それまで配備されていた百式砲戦車も、師団捜索隊に増備される形で保有し続けていたから、これまでよりもかなりの重装備になっていた。


 そして、残る第7師団は、これら2個師団と比べてもさらに特異な部隊だった。第7師団は、日本で初めて機甲化された師団だったからだ。
 第7師団の機甲化が進められたのは、約十年前に従来の騎兵科を廃して、歩兵科の一部と合流して独立した兵科である機甲科が新設された頃にまで遡ることが出来た。
 陸軍の機械化の一環として、設立された機甲科だったが、その頃に仮想敵であるソ連軍が機械化旅団を編制したことから、これに対抗するために大規模な機械化部隊を日本陸軍でも保有する必要があったのだ。

 元々、第7師団は北海道の開拓を実施した屯田兵を母体として、日清戦争に前後して正式な師団編制とされた古豪の師団だった。他の師団と同様に師団直轄の砲兵連隊や捜索隊などと共に、主力である歩兵旅団2個とその下に歩兵連隊が各2個、計4個連隊が所属していた。
 機甲化にあたって、その2個歩兵旅団の内1個が、2個戦車連隊を指揮下に置く戦車旅団に入れ替えられるとともに、砲兵や他の1個歩兵旅団も機動化が図られていた。
 また、師団の駐屯地も旭川から、当時はまだ未開地が多く、広大な訓練場や駐屯地などの用地確保がし易かった千歳に移動していた。

 第7師団が移転した後の道北の防衛には、第7師団から転出した歩兵旅団を中核に新たに編成された独立混成第21旅団が配置されていたが、数年前に混成旅団から歩兵連隊を増設して3単位編制の第21師団となっていた。
 これは大正年間の軍縮以来初めての師団の増設だった。


 機甲化改変当初こそ、かつての歩兵師団の面影を残していた第7師団だったが、現在ではその人員構成や装備は他の師団とは全く異なる傾向を示していた。隷下の戦車旅団と機動歩兵化が完結した歩兵旅団は、砲兵が機動性を重視して比較的軽量な機動砲兵編制であることを除いても、他の師団と比べると格段に重装備だった。
 それに加えて第7師団は、決して少なくない比率の人員が特殊技能を持つ機甲科将兵であることや、機動歩兵にしても装甲兵車の操縦技能や戦車隊との連携などで特殊な訓練などが必要なことから、近衛師団等と同様に特定の師管区、連隊区からの徴兵ではなく、陸軍全体から選抜、志願した兵のみで構成されていた。
 本来の師管区である北海道から東北の一部から徴兵された兵は、第7師団に変わって、第21師団が受け皿となっていた。

 現在の第7師団のように、特定の師管区に頼たずに、日本各地から兵を選抜する師団は、他にもあった。帝都防衛や皇室の警護に当たる近衛師団や、関東州の防衛にあたる第19師団、それにシベリアロシア帝国のウラジオストックに駐留する第20師団がそれだった。
 これらの師団は、近衛部隊である近衛師団を除いて、ほとんどが帝国本土ではなく、外地に駐留して、国境紛争などに真っ先に投入される緊急展開部隊としての性質が強かった。
 日本帝国が大陸に持つ租借地である遼東半島南部に駐留する第19師団は、関東州の防衛が主任務であったが、シベリアーロシア帝国の成立と、中華民国からの満州共和国の事実上の独立などの国際情勢の変化から、本来の関東州防衛任務は重要性が薄れていた。関東州を脅かす可能性のある隣国は消滅するか、日本帝国の友好国となっていたからだ。
 一時は第19師団も解体されるか、歩兵連隊や一部支援部隊を転属させて、混成旅団編制に縮小される計画もあったが、満州共和国への直接的軍事支援及び、中華民国での国共内戦への軍事介入の可能性、さらにはシベリアーロシア帝国防衛への増援部隊として派遣される可能性を考慮して未だ師団編制は解かれていなかった。

 ウランジオストックに駐留する第20師団も同様だったが、第20師団は事情が少し異なっていた。
 平時においては第20師団は、各連隊ともに大隊レベルで欠員があった。これは財政上の事情から、大兵力を帝国本土から遠く離れた外地に駐留させるのが難しいという理由の他に、第20師団が戦時に動員された内地の師団から抽出された兵力の受け皿としての性質が強いためでもあった。
 シベリアーロシア帝国駐留部隊は、この第20師団の他にも砲兵や兵站などの軍直轄の支援部隊があったが、その勢力は、基幹戦力が平時編制で陸軍1個師団と旅団規模の海軍陸戦隊の混成部隊でしかないシベリア派遣軍の規模からすると不釣り合いなほど大きかった。
 それも、戦時において内地から派遣されてくる師団を指揮下に収めて規模を拡大するためのものだった。将兵などと比べて移送が難しい重機材を多数運用する砲兵や兵站部隊は、予め大規模に備えていたのだ。

 元々、第7師団も、シベリアーロシア帝国とソ連が開戦した場合には、速やかにウラジオストックまで移送されて、シベリア派遣軍指揮下に収まる予定だった。
 その際に、移送に時間のかかる重装備の機甲師団だからこそ、即応力を高めるために平時から充足率を他の師団と比べて格段に高めていたのだ。
 もっとも予備役をおかずに充足率を高めているのは、即応力の問題のためだけではなかった。特殊な技能を持つ戦車兵や機動歩兵を中核とする機甲師団では長時間の訓練を施すことを前提とした職業軍人が中心とせざるを得なかったのだ。だから、第7師団は、他の師団と比べても下士官層の比率が高くなっていた。


 今回北アフリカ軍に配属となった他の2個師団も、第7師団と同様に平時から充足率が高い部隊だった。揚陸専門部隊として訓練を受けていた第5師団は南洋や大陸などで大規模紛争が生じた際は、短時間で戦地に派遣される可能性があったからだ。
 第6師団は、第5師団と比べると予備役の比率が高かったが、やはり日本本土で最南端に配置されていたことから、他の師団と比べると第5師団の後詰めとして派遣される可能性が高いことから、充足率を高めていたのだ。

 日本陸軍の師団の場合、主力である歩兵旅団以下の指揮命令系統の結節点は、平時編制では中隊以下は内務班を置くのみで、戦術レベルの基本となる小隊も指揮官となる下級将校が中隊付として配されているのみだった。
 また、平時に営内の内務班に所属するのは中隊定数の半数程度であり、、平時編制から戦時編制に移行するには、動員が開始されてから、中隊付将校を小隊長として、平時の内務班を解いて、さらに召集された補充の予備役兵を含めて各小隊に配属させるにはかなり長時間の編成期間が必要だった。

 実のところ、北アフリカ軍に配属された3個師団のうち、即応力の高い第5師団が真っ先に北アフリカに到着したのは当然だったが、最も重装備で輸送に時間のかかる第7師団ではなく、第6師団の方が、遅れているのも、戦時編制に移行するのに手間取っているからではないのか。
 おそらく第6師団の先遣隊とは、平時においても戦時編制のままであった、というよりも兵科の関係から召集された予備役兵を多数配置するのが難しい砲兵や機甲科将兵が配置された捜索連隊が中核となっているはずだ。


 だが、他の師団と比べて即応性が高められているはずの第6師団でさえ、戦時編制の完結がここまで遅れているというのは異様な気がした。正式な宣戦布告からまだ間もなかったが、国家としての正式な参戦よりはるか前から、英国本土に派遣された義勇航空隊が英国空軍に所属して迎撃戦闘に加入していた事など、実質上は日本帝国はこの大戦に何年も前から参加していたはずなのだ。
 その間に動員が進められていなかったとは解せなかった。

 実際、海軍では主力である戦艦は後回しではあったが、空母や巡洋艦クラスの使い勝手のよい艦から優先して、予備艦指定にあったものもふくめて出師準備によって戦時体制に移行していた。
 同時に航空隊の増強や、特務艦の徴募と改装工事なども行われていたから、現在の日本海軍は平時よりも大きく戦力を増加させていた。
 平時体制から、戦時体制への移行に伴う各種作業の手順などが予め定められていたのが海軍の出師準備計画だったが、当然陸軍にも平時から戦時に移行する動員計画があった。
 海軍の出師計画の方が大規模で、一度開始された場合は全軍に影響が及ぶが、概ね陸海軍の戦時移行計画は大同小異というところだった。

 ならば陸軍の出足の遅れの背景には、いったい何があるのか、遣欧艦隊司令部要員はまた怪訝そうな表情を浮かべていた。
一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html
一式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01td.html
百式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/100td.html
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