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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1942氷海戦線1

 夜が明けたばかりの海上の天候は、浮上前にヘーファーマイアー少尉が予想したとおりだった。
 浮上直後からドイツ海軍潜水艦、U-88は、いつものように北大西洋の荒波によって揉まれていた。
 眉をしかめながら、勢い良く砲雷長のヘーファーマイアー少尉はハッチから見張り所へと飛び出していた。
 これからしばらくは、夜間の内に暗号電で連絡をとっていた補給船と邂逅するために、浮上航行を行う予定だった。

 海上のうねりは高かったが、小型とはいえ航洋型潜水艦に類別される7C型の一隻であるU-88にとって、航行が極端に難しいほどの海面状況ではなかった。
 艦長であるブロッホ少佐は、そのことを潜望鏡で確認してから直ちに浮上を命命じていた。
 波は荒いようだが、海面下での重苦しい待機状態が長く続いていただけに、浮上によって新鮮な空気を吸えるという期待が艦内に満ちているようだった。
 少数の見張り員以外は実際には洋上を見ることもなく、薄暗い艦内での作業が続くのだが、それでも薄汚れたな生暖かい異臭のする空気が海上の空気で僅かでもかき回されれば、それだけでも兵員らの士気は目に見えて上がるものだった。


 艦橋ハッチからいち早く飛び出した見張り員達やヘーファーマイアー少尉達にやや遅れてのっそりと現れたブロッホ少佐は、油断のない目つきで周囲を見渡した。
 もっとも、ヨーロッパ大陸と北アメリカ大陸のほぼ中間点に位置するこの海域には、注意すべき対象は少なかった。

 カナダからイギリス本国へと向かう航路からは十分な距離をとっているから、本来ドイツ海軍潜水艦が標的とすべき輸送船団や、その護衛艦と遭遇する可能性は少なかった。
 それに国際連盟諸国軍が運用する対潜哨戒機の拠点となるカナダおよび英国本土の両方から遠く離れてもいるから、陸上を発進する哨戒機の存在も気にする必要はなかった。

 航空母艦から発進する艦上機の存在だけは無視できないが、貴重な空母部隊がこの海域で単独で運用されることは少なく、通常は輸送船団の護衛部隊に編入されていた。
 艦上機の哨戒範囲は、陸上を発進する大型哨戒機と比べると格段に狭いから、航路帯を遠く離れればその脅威は格段に低下する。

 それに通信傍受や諜報によって得られたらしい輸送船団の日程表を信じる限りでは、付近の海域を航行中の船団は存在しないはずだった。
 だから、実質的には艦上機の存在も無視出来るはずだった


 国際連盟軍の諸隊が滅多に訪れることのないこの海域は、ドイツ海軍潜水艦隊に所属する潜水艦にとって、安全に浮上航行することの出来る貴重な休息場所であり、また商船に偽装した補給艦と安全に邂逅できる補給拠点でもあった。
 このような陸地から遠く離れた海域を利用しているのは潜水艦ばかりではなかった。最近では国際連盟軍の哨戒網の充実によって運用数が減ってしまっていたが、通商破壊作戦に従事する仮装巡洋艦や、正規の戦闘艦といった洋上艦艇も、この安全地帯を活用して長期間の作戦航行を行なっていた。

 カナダとイギリス本土を往復する船団を襲撃するために出撃したU-88が、この海域で航行しているのも、補給艦と邂逅して燃料の補給を行うためであった。


 だが、安全が保証されているはずの海域を航行中であるにもかかわらず、U-88の艦橋につめる見張り員達の警戒態勢は厳重なものだった。北大西洋の極寒の中で、艦橋に飛び込む波飛沫によって外套を濡らしながら、双眼鏡から目を離そうとするものはいなかった。
 当直の哨戒長であるヘーファーマイアー少尉も、見張り員と共に双眼鏡を周囲に向けていた。U-88が厳重な警戒態勢をしいているのは、ブロッホ少佐が特に命じていたからだった。

 実は、最近になって、今のU-88のように、カナダとイギリス本土を往復する船団を攻撃するために出撃したドイツ海軍潜水艦が、相次いで消息を絶っていた。おそらくは国際連盟軍に撃沈されてしまったのだろう。
 開戦から今までドイツ海軍潜水艦の喪失は少なくなかったが、限られた作戦海域で短時間のうちにこれだけの数が失われた例は無かったはずだ。
 しかも、喪失した全ての艦が、作戦行動中にこの海域で補給を受けていた点は見逃せなかった。だから、ブロッホ少佐は見張り員に特に警戒態勢を厳とするように命じていたのだ。


 しかし、ヘーファーマイアー少尉は、内心でブロッホ少佐の判断に疑問を抱いていた。
 U-88乗員は50名にも満たなかったから、もしも砲雷長が艦長の判断に異論を唱えれば、乗員たち全てに混乱が生じるはずだ。だからヘーファーマイアー少尉は何も口にしなかったのだが、艦長の判断は杞憂である気がしていた。

 確かに消息を絶った潜水艦の作戦中の行動計画をみれば、この海域を航行していたことは、ほぼ間違いないはずだ。しかし、それを持ってこの海域で潜水艦が相次いで撃沈された証拠とはならないはずだった。
 戦闘航海中の潜水艦から陸上に連絡をとることはめったにないから、消息を絶った潜水艦がどの海域で撃沈されたのかは判然としなかったのだ。

 確かにこの海域は、潜水艦隊に所属する各艦が頻繁に航行する海域ではあるが、輸送船団が通過する海域ではないから、国際連盟軍側の戦力が展開しているとは考えづらかった。
 航続距離の点から陸上機部隊の存在は無視出来るから、考えられる戦力としては対潜艦艇の存在が疑われるが、守るべきものの居ない海域に次々と潜水艦を撃退できるような有力な部隊を展開させるほど国際連盟軍の戦力が豊富だとは思えない。

 やはり消息を経った潜水艦は、航路上の輸送船団を襲撃する過程で護衛艦艇と交戦して撃沈されたと考えるのが自然ではないのか。
 緊張感が失われるのは危険ではあるが、航行中ずっと緊迫状態にあれば乗員の疲労は増大するばかりだった。安全な海域では少々の休息を取らせるべきではないのか、熱心に周囲を警戒する若い兵たちを見ながら、ヘーファーマイアー少尉はそう考えていた。
 特に輸送船団の護衛が強化されているのだとすれば、実際に全力をあげるべきは船団への襲撃時になるはずだった。

 だが、ブロッホ少佐の命令を聞いた兵たちは、逆にいつも以上に真剣に見張りを続けていた。あるいは、特に命令は必要なかったかもしれなかった。
 ブロッホ少佐自身が艦橋に出て、真剣な目つきで警戒しているものだから、自然と周囲の兵たちも緊張感を抱いているようだったからだ。
 特に根拠があるわけではなかったが、ブロッホ少佐はこの海域がすでに安全地帯ではなくなっているのではないのか、そのように考えているようだった。


 緊張しながらも、単調な状況が続いた見張り態勢が変化したのは、浮上して洋上航行に移ってから一時間ほどしてからの事だった。

 ヘーファーマイアー少尉は、見張りの合間にU-88の危険なほど下がっていた喫水線を睨みつけていた。
 周囲の海面状況を見る限り、さほど大きなうねりではないはずなのに、思ったよりもU-88の揺れが大きくなっていたからだ。
 どうやら、この海域までの長い航海によって大量の燃料を消費したものだから、艦の質量が減少して浮力が過大となって、僅かな波でも大きく浮かび上がってしまっているらしい。それが揺れの増大となって現れているのだろう。
 ―――補給船と邂逅してはやいところ燃料補給をうけないと転覆もありうるか。
 ヘーファーマイアー少尉は、青白い髭面をしかめながらそう考えていた。


 見張り員の一人が声を上げたのはその時だった。
 水平線の向こうにマストらしきものを見たらしい。だが、この揺れでは見張り員が発見したマストを見失っても不思議ではなかった。ヘーファーマイアー少尉は、他の見張り員に周辺警戒を怠らないように命じながら、双眼鏡を最初に声を上げた見張り員が監視している方向へと向けた。

 次の瞬間、うねりによってU-88は波の頂点へと持ち上げられた。一瞬だけ大きく広がった視界の中で、ヘーファーマイアー少尉も何か棒のような物を見たような気がした。
 一瞬だから判別はつかなかったが、見張り員は今度は自信有りげに、マストの特徴や向きを報告した。
 ヘーファーマイアー少尉が、発令所に戻っていた艦長に報告しようとする前に、艦橋の様子が変わったのを感じたのか、ブロッホ少佐が音もなく艦橋へと姿を表していた。
 ブロッホ少佐はヘーファーマイアー少尉の報告を遮ると、直接見張り員から説明を受けながら双眼鏡を発見されたマストの方に向けた。


 ブロッホ少佐が双眼鏡を覗いていたのは、一瞬のことだった。次の瞬間、素早く艦橋ハッチに腰をかがめて、発令所に向かって大声で進路変更を告げた。
 主機ディーゼルエンジンで勢い良く航行していたU-88は、荒波に逆らうかのように回頭を始めた。ヘーファーマイアー少尉は意外そうな顔で、針路が変更されていくのを波と風の方向から感じ取りながら、無言で海上を睨むブロッホ少佐を見つめた。

 新たな針路は、発見されたマストに直線的に接近するものだった。海上のうねりに逆らうような針路だから、今よりも揺れが激しくなって転覆の可能性は高くなるが、短時間であれば耐えきれるはずだ。
 だが、何事も慎重なブロッホ少佐にしては拙速な行動ではないか。普段であればもっと時間はかかるが、より安全に波に逆らわずに補給船に緩やかに接近する針路を選択していたはずだ。

 いまは補給開始までの時間が惜しいのだろう。予想通り揺れが激しくなってきたために手すりを強く握りしめながらヘーファーマイアー少尉はそう考えていた。
 艦体中央部の艦橋でさえここまで揺れるのだから、艦体前後区画の魚雷発射管室や機関室はひどいことになっているのかもしれなかった。

 幸いなことに、補給船の方もU-88のことを発見してくれていたようだった。
 すぐにU-88よりも力強そうに見える補給船が接近してくるのが見えるようになっていた。


 U-88に接近してくる補給船は、それといった特徴のない三島型の貨物船だった。排水量は五千トン程度ではないのか。外板の塗装には、ドイツ海軍に所属していることを伺わせるものは全くなかった。
 中立国船籍を装って、国際連盟軍の哨戒網をくぐり抜けながらこのような海域で補給船兼情報収集艦として活動するためだった。
 補給船として運用されているから、仮装巡洋艦としての本格的な艤装は施されていないものの、敵哨戒艇ぐらいとならば自衛戦闘が可能な程度の備砲は有しているはずだが、角度が悪いのか、それとも擬装がよほど優れているのか、U-88の低い艦橋からは兵装は全く確認できなかった。

 やや減速しながら接近すると、補給船はゆっくりと波に逆らわないような角度に転舵した。同時にU-88もそれに寄り添うように転舵していた。
 外洋型貨物船としては大して大型とも言えない補給船だったが、排水量で800トンに満たないU-88に比べれば十分に巨大だった。
 補給船の影にU-88が入ると、大分波風が遮られるような気がした。波に沿うような針路にしたせいかもしれないが、先ほどまでの無理に横風を受ける姿勢と比べると、揺れは格段に小さくなっていた。


 すでに補給船との間隔はお互いの顔が見分けられるほどまでに近づいていた。舷側にはU-88を接舷させるための防舷物も降ろされていた。
 補給船の外舷には、もやい取り作業には多すぎるほどの乗員が群がっていた。あれでは非直の乗員のほとんどが集合しているのではないのか。
 乗員の顔には緊張感はさほど感じられなかった。どうやら長い航行中に邂逅した潜水艦を見物しに来ただけのようだ。

 そのような様子にヘーファーマイアー少尉は、そっと安堵の溜息をついていた。
 この海域で長く活動を続ける補給船の乗員たちが、さほど厳重な警戒態勢をとっていないのだからやはりブロッホ少佐の心配は杞憂だったのではないのか。もしもこの海域で異常が発生しているのであれば、ここで航行している補給船の乗員たちが真っ先に異変に気がついているはずだ。

 ヘーファーマイアー少尉は僅かばかりの興味と皮肉感をいだいて、ブロッホ少佐に目を向けた。このような補給船の乗員たちの態度を見て、どのように状況を判断しているのか、それが気になっていた。
 だが、ブロッホ少佐は、補給船の様子など全く見ていないようだった。補給船と自艦との行き足を確認しながら、航行速度を同調させるべく操舵性のさほど良くないU-88を操艦している最中だった。
 慌ててヘーファーマイアー少尉はブロッホ少佐から目をそらすと周囲の警戒に戻っていた。ひどく生真面目そうなブロッホ少佐の顔を見た後だと、なぜか補給船の乗員たちのどこかだらけた態度に腹が立っていくような気がした。


 見張り員の声が再び上がったのは、U-88の前甲板に兵員が出て、補給船からもやい取り用の索が投げ込まれようとする直前だった。
 上空に航空機と叫ぶ見張り員の声に、ヘーファーマイアー少尉は、最初にこれは誤認ではないのかそう考えていた。
 あるいは補給船の搭載機なのかもしれない。
 この海域に到達可能な航空機は存在しない。そのはずだった。
+注意+
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