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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1919シベリア遡行2

 通信筒の回収を終えて、報告のため不知火の艇長室に入った伊原中尉を迎えたのは、ケレンスキー大尉の怜悧な視線だった。
 ハバロフスクで乗り込んできたロシア帝国軍のケレンスキー大尉は、ひどく取っ付きにくい印象を与える男だった。
 乗艦してからわずか一日とはいえ、笑みどころか、表情の変化一つ見せようとはしなかった。

 だが、その視線にたじろぐ様子すら見せずに、伊原中尉は不機嫌そうな顔で睨み返した。
 両者が睨み合っていたは、僅かな瞬間だった。
 ふと気がつくとケレンスキー大尉は目線を逸らしていた。
 階級章がなければまるで山賊のような伊原中尉の軍袴に不気味なものを感じ取ったのかもしれない。

 だが、確かに伊原中尉の格好は、海軍軍人らしくは全くなかった。
 衣類は、艦隊勤務者の黒い第一種軍装や、夏季用の第二種軍装ではなく、欧州大戦への本格参戦を契機に制定された陸戦衣を艦内でも脱ごうとしなかった。
 第三種軍装と早くも俗称されている陸戦衣は、海軍が欧州での戦闘で、通常の艦内勤務用の軍装のまま陸戦に挑んだ陸戦隊があまりにも陸地で目立ったことから慌てて制定されたものだった。
 未だに海軍すべての部隊に行き渡るほど流通してはいないが、欧州での戦闘激化に伴い常設となった特別陸戦隊では、第三種軍装はすべての将兵に支給されていた。
 横須賀の砲術学校を出てから、戦艦での砲術分隊に短期間所属していた以外は、ほとんど陸戦畑を歩いてきた、伊原中尉も、勿論第三種軍装は制定された当初から支給された一人だった。
 と言うよりも、伊原中尉自身が、あまりにも陸地で目立つ艦内勤務用の軍装が、カーキ色の保護色を軍装とする陸軍に対して、陸戦隊の死傷率が、著しく高い原因の一つであると上層部に訴えかけた一人でもあったのだ。

 ただし、伊原中尉が陸戦衣をずっと艦内でも着込んでいるのは別の理由があった。ここ何年かずっと第三種軍装ばかりを着込んでいたものだから、通常の軍装をどこへやった忘れてしまっていたのだ。
 一度、欧州で乗艦が撃沈されて私物をすべて喪失したときに軍衣も仕立て直したはずだったが、その後どうしたのかをよく覚えていなかった。
 その後はずっと陸戦が続いたから、陸戦衣以外の軍装を着こむ機会などなかった。
 おそらく行李の奥にしまいこまれているはずだったが、もしかしたらしばらく前に実家へ送った荷物の中に紛れたか、横須賀の士官宿舎に届けられていたのかもしれない。
 どうせ内地に帰るまでは、陸戦衣で通しても問題はないだろう、当の伊原中尉はそう考えていた。
 陸戦畑一筋という珍しい経歴から、中尉は陸戦のエキスパートして、ある意味で恐れられていたが、戦闘以外では妙にずぼらなところのある男だった。

 最近では、陸戦隊だけではなく、艦隊勤務者でも地中海などの温暖な気候では第三種軍装を着こむのが流行っているらしいが、それらある種の伊達者は陸戦衣であっても紳士らしく、折り目がぴしりと決まっているアイロンの掛けられた状態を維持していた。
 しかし、伊原中尉の場合は折れ目どころかシワだらけで、激しい陸戦の連続ですり切れたところを、ここばかりは独身の海軍士官らしい妙にうまい裁縫で、つぎあてしてある場所も少なくなかった。
 これでは、うるさ型ではなかったとしても、まともな海軍士官の上官なら、叱責するところだろう。
 だが、陸戦畑の伊原中尉には、艦隊勤務者とは違う雰囲気を与える所があった。
 特に敵意をむき出しにするというわけではないのだが、どこか圧倒させるようなところがあったのだ。
 それに、陸戦畑の伊原中尉が上級者と会う機会はさほど多くはなかったし、陸戦隊の上級者も、さほど格好は変わらなかった。
 少なくとも、陸戦隊の中では、制服を綺麗に保ったり着こむことよりも、陸戦衣をすり切れるほど酷使するもののほうが尊敬される、海軍では奇妙な世界が広がっていた。

 だから、折り目のはっきりしない陸戦衣を着込んでいても、伊原中尉があまりとやかく言われることは少なかった。
 それに伊原中尉が異装なのは軍衣だけではなかった。


 伊原中尉は、陸戦衣の上に、大型の拳銃を吊っていた。
 マウザーというドイツのメーカーで生産されたその拳銃は、重量が一キログラムを超える重量級の拳銃だった。
 陸海軍とも士官が所持する拳銃は、9ミリの回転式拳銃や、8ミリ南部式大型拳銃などが主に使用されていた。
 これらの拳銃は、近距離での護身用というべき位置づけがなされていた。
 士官が自ら銃を撃つよりも、指揮に専念させ、兵員が保有する火器の威力を発揮させたほうが部隊全体の戦力は向上するはずだからだった。

 しかし、伊原中尉は、少人数の陸戦隊では、別の考えもありうるのではないかと考えていた。
 陸戦隊が保有する火器の大半は、陸軍の歩兵部隊が使用する歩兵銃よりも、取り回しのし易い反面射程の短い騎銃を使用していた。
 また、陸戦隊は市街戦に投入される機会も多く、自然と交戦距離は短くなる傾向があった。
 そのような短距離での交戦では、大口径の拳銃も小銃とさして変わらない威力を発揮することができるはずだ。
 そう考えて伊原中尉は、ドイツ軍からの鹵獲品であるマウザー拳銃を使用していた。
 ドイツ軍ではこの拳銃が広く使用されているのか、銃本体や弾薬の鹵獲品は多く、使用弾薬や消耗品の入手もさほど困難ではなかった。

 護身用の拳銃よりも大型ではあるが、グリップは細長いから、小柄な日本人でも発砲体勢を安定させるのは難しくなかった。
 南部式拳銃などよりもずっと大きいのに、グリップが細い理由は、グリップ内の弾倉を納めていないからだ。
 と言うよりも使用弾薬が大きすぎてグリップ内に納められなかったのではないのか。
 マウザー拳銃が使用する弾薬は、ボトルネックされた高初速の銃弾で、拳銃弾としては威力は格段に大きかった。
 初速が速いから、近距離では弾道は良く安定することになる。
 だから、グリップ後部に木製のホルスター兼用ストックを取り付ければ、近距離限定とはいえ、狙撃銃のような使い方も出来た。

 このように主力火器に準ずる威力を発揮するマウザー拳銃だったが、ホルスター兼用ストックまで揃えればかなりの図体と重量になる。
 だから、伊原中尉のように、この拳銃を愛用する士官の数はそれほど多くはなかった。
 この大型の拳銃にホルスター兼用ストック、さらには、ホルスターを固定するためのハーネスまで付けた伊原中尉は、かなりの異様となった。


 さらに、伊原中尉はモーゼル拳銃に加えて軍刀まで吊っている。
 その軍刀は海軍制式の長剣ではなかった。
 陸軍ならともかく、海軍士官はほとんど儀礼用としての価値しかない短剣を帯びるくらいで、コンパスが狂うといってその短剣すら嫌うものも少なくなかった。
 それに、銃火器が未発達で、射程や発射速度が大したものではなかった前世紀ならばともかく、機関銃や戦車のような機械化が進んだ現代戦において軍刀が活躍する場は急速になくなりつつあった。
 欧洲大戦においては、幾つかの戦場で騎兵部隊による白兵突撃が敢行されたというが、そのほとんどが塹壕や機関銃を駆使した防御側によって衝撃力を発揮することが出来ずに、いたずらに戦力を消耗させる結果に終わったという。

 日本軍がどうなるかはわからないが、各国軍では近い将来には軍刀は制式武器から外れるのではないのか、そう予測するものは多かった。
 ステレオタイプなサムライのイメージからなのか、欧州人からは刀に異様なまでにこだわると言われる日本人ではあったが、実のところ、日本軍においても軍刀の価値は下がっていた。
 塹壕戦では、防御火器の機関銃の威力が高すぎて接近戦の機会は少なかったし、白兵戦になった場合に最も活躍したのは意外なことにスコップや銃床だった。
 この時期の軍刀は、実質上、指揮刀としての価値しか発揮していなかったといってもよかった。

 それならば、少人数の陸戦小隊を指揮する伊原中尉が軍刀を持ち歩く必要はあまりないはずだ。
 やはり上官からそう指摘されたこともあったが、伊原中尉は、欧州で戦友となったフランス軍騎兵士官の形見だといって所持を許されていた。
 もっとも、形見という話はかなり誇張されたものだった。
 実は伊原中尉は、その騎兵士官が本当に戦死したのかどうか確認していかなかったのだ。

 その軍刀の元の持ち主である、騎兵士官が所属する部隊が全滅したのは事実だった。
 しかし、部隊が全滅したといっても、その士官が戦死したという確証はない。
 伊原中尉が知っているのは、実際には、その部隊が主戦線への迂回機動に失敗し、大損害を受けた後に再編成のために後方に送られたということだけだった。
 そして、戦友というのも怪しい話だった。
 譲られたのは、友情のためではなく、休養中だったパリ郊外の士官クラブで興じたカードゲームのツケを、その士官が払えなかったためだ。
 実のところその士官とは初対面だった。

 その士官はかなり強情な性格の男だった。
 別にカードゲームのツケなど次にあった時に返してもらえばいい。
 珍しく勝ち続けていた伊原中尉は苦笑いしながらそう言ったのだが、その士官はそれを聞くなり、渋い顔でほとんど押し付けるようにして軍刀をツケがわりに渡してきたのだ。
 おそらく、損耗の激しい騎兵部隊にいた士官には、本当に次の機会があるのかどうか不安だったのだろう。
 だから、今の借りを残したくない、その一心だったのではないのか。
 それを理解したものだから、伊原中尉も黙って受け取ったのだ。
 本当に次の機会にでも返せば良い、その時はそう考えていたのだが、その士官の部隊が全滅したことでそれも不可能になった。

 もっとも、伊原中尉はその軍刀のことをさほど深く考えていたわけではなかった。
 欧洲大戦に従軍した将兵にとって戦友達の戦死は、好んでのことではなかったが、さして珍しいものではなかった。
 自軍あらばともかく、いちいち他国軍の一度しか会ったことのない人間のことを覚えてもいられない。
 さすがに経緯が経緯だから、軍刀を捨てるわけにも行かなかったが、普段は、行李の中に放り込んだままだった。

 モーゼル拳銃に加えて、ほとんど忘れていたような軍刀まで帯びる様になったのは昨日、ハバロフスクをたってからのことだった。



 ふと、気配を感じて、伊原中尉は顔を上げた。
 一瞬、ケレンスキー大尉がどこか居心地が悪そうな顔をしていたが、伊原中尉と目線が合うと、とたんに不機嫌そうな表情になってそっぽを向いた。
 もっともそれは伊原中尉も大して変わらなかった。
 だが、伊原中尉の目線は、通路側に向けられていた。
 程なくして、一人の陸軍士官と談笑しながら、不知火艇長の大賀大尉が入ってきた。
 艦橋指揮を若い航海長に任せてきたのだろう。
 もう一人の陸軍士官は、不知火乗艦者のうち、唯一の日本陸軍軍人である水野大尉だった。
 陸軍からのオブザーバーである水野大尉は、ケレンスキー大尉と共にハバロフスクから乗り込んで来ていた。

 水野大尉は、シベリア派遣軍司令部からの正式な命令書を持ち込んでいた。
 その命令書の出所は、元をたどれば、東京の陸海軍中枢からのものであるらしかった。
 それだけでもすでに異様だが、いま、不知火と陽炎をハバロフスクから更に上流へと遡行させる作戦の内容は、更に奇妙なものだった。

 その作戦は、不知火と陽炎が、高崎と共にニコライエフスクからハバロフスクへと遡行する間に急遽立案されたものであったらしい。
 作戦命令書の慌ただしい文面がそれを物語っていた。
 おそらく、不知火と陽炎は途中からその作戦に組み入れられたのだろう。
 当初からこの作戦に従事することが決まっていたのであれば、鈍足の高崎を置いて、二隻だけでハバロフスクへの急行を命じられていたのではないのか。
 だが、実際には、高崎とともにハバロフスク郊外に設けられた河川港に入港した二隻に慌ただしく補給と、連絡将校の派遣が行われたのだ。

 本来であれば、不知火と陽炎は、支援艦艇の高崎と共に、乗組員の休養を兼ねて、しばらくニコライエフスクで、日本本土からの回航による艦体への影響を調査することになっていた。
 当初の目的地がニコライエフスクからハバロフスクに変わっても、その予定は大筋では変わらないはずだった。
 そのために、不知火と陽炎の改造にあたった艦政本部の宮本造船少尉が不知火に同乗していた。
 魚雷や缶室を撤去し、兵員室などに改造した不知火と陽炎は、船体のバランスが原型から大きく変化している。
 だから、本格的な行動の前に、徹底した調査を行う必要があった。

 この調査が終了した後は、不知火と陽炎は、ハバロフスクを拠点としたボルシェビキパルチザンの索敵殲滅作戦に従事することになっていた。
 高崎とその搭載機は、陸戦隊を展開させて、直接パルチザンへの索敵殲滅を行う二隻を支援することになっていた。
 飛行機による広大な索敵範囲と、高い機動性をもつ艦艇による兵員の急速展開は、これまでの対ゲリラ作戦とは次元の異なる機動性と柔軟性を発揮するはずだった。
 陸戦隊は、軽装ではあるが、支援火器として重砲替わりに艦砲を使用できるし、場合によっては飛行機による空襲も可能だった。

 だから、この行動には、海軍だけではなく、当然のように陸軍も注目していた。
 今回は、アムール川を行動範囲とした限定的なものになるが、手法自体は広大な大陸の海岸線でもさほど変わらないはずだ。
 つまり、陸軍としては、将来的に起こりえる大陸への軍事介入作戦のモデルとして今回の行動を見ていたのだ。

 陸軍の興味はかなり大きいらしく、海軍が不知火と陽炎、それに高崎の派遣を決定した直後から接触を始めていた。
 日本本土からの回航には間に合わなかったが、連絡士官の名目でオブザーバーを派遣することも早々と決定していた。
 しかし、そのオブザーバーである水野大尉の任務は、本来のオブザーバーではなく、陸海軍中枢の意思を伝達するクーリエとなった。


 水野大尉が持ち込んだ命令書に記載されていた作戦は、奇妙なものだった。
 作戦自体が奇妙と言うよりも、命令書の内容自体が奇妙だった。
 不知火と陽炎の二隻は、アムール川をハバロフスクを超えて五百キロほど遡行し、そこに展開するロシア人部隊から目標を入手し、ハバロフスクまで持ち帰ることとされていた。
 だが、命令書自体には、その「目標」が一体何であるのか、ロシア人部隊とはどのような戦力なのか、予想される敵集団はあるのか、そもそもロシア人部隊と合流する具体的な地点さえ不明だった。
 ロシア人部隊の正体に関しては、ある程度は伊原中尉たちにも予想はついていた。
 現状のロシアで日本軍と接触しようというのだから、白衛軍の一派であるのだろう。
 あるいは、有力な貴族や金持ちがボルシェビキを恐れて、日本軍を始めとする連合軍側に庇護を求めてきたのかもしれない。
 「目標」というのはその庇護の保証となる財宝か何かなのではないのか。
 予想される敵集団は不明だが、これは到着したばかりの部隊が現地の情勢に暗かったためだ。

 しかし、これらは伊原中尉達による推測に過ぎなかった。
 水野大尉やケレンスキー大尉は作戦の子細を承知しているらしいのだが、現地の情勢などは詳しく説明したものの、「目標」やロシア人部隊に関する情報は、最期まで秘匿するつもりのようだった。
 言い換えれば、彼らを含む軍中枢は、作戦の主目的などに確信を抱いていいるようだが、現地の実行部隊には、作戦立案の経緯や、情報を伝達しないつもりだったのだ。

 軍隊では、命令は絶対とは言うが、実際に作戦を遂行する部隊が、作戦内容の理解を曖昧なまま実施するケースはあまりないはずだ。
 伊原中尉は、作戦の子細を説明しようとせず、のらりくらりと正式な命令を盾に説明を拒否する水野大尉や、ケレンスキー大尉に憤りを感じていた。
 一体、何故自分達が戦わなければならないのか、それを理解しないまま戦う兵の士気がどうなるのか、彼らは考えたことがないのではないのか。
 末端の将兵たちに、戦争の理由を説明しろとか国家戦略を語れと言っているわけではない。
 兵達をただの駒扱いしてしまえば、彼らは指揮官たちを信頼しなくなる。
 ただそれだけの話だった。
 それ以上に、指揮官である伊原中尉ですら「目標」の詳細を知らないというのは、作戦を実施する上で大きな危険性をはらんでいた。
 もしも、この時点で水野大尉やケレンスキー大尉の身に何かが起こっても、作戦内容を周知していない現状では、大賀艇長や伊原中尉が為す術は何もないからだ。

 だが、伊原中尉は、過去にも子細が説明されないまま強行された作戦のことを聞いたことがあった。
 作戦の詳細は覚えていないが、その部隊は訳がわからぬまま戦果を上げて、無事撤収に成功していた。
 その後、伊原中尉は気になる噂を聞いていた。
 その作戦は、諜報によって得た情報を元に立案されたというのだ。
 それも敵軍支配地域に潜ませた密偵などではなく、政府中枢に食い込んだ大物スパイからの情報だというのだ。
 だから、実行部隊に対して、情報源を特定させるような説明をすることが出来なかったというのだ。

 もしかすると、今回の作戦も、後ろめたい手段で入手した情報に基づいているのかもしれない。
 あるいは防諜のために、情報に接する人間を極端に絞り込んでいるかだ。

 だが、どちらにせよ、伊原中尉達が信用されていないことに変わりはない。
 すでに不知火はハバロフスクを離れているのだから、兵たちの口から機密が漏れる心配もないはずだった。
 だから、伊原中尉は、水野大尉や、ケレンスキー大尉への反感を隠そうともしなかった。


 その水野大尉は、伊原中尉の異様な重装備に、一瞬目を見開いたが、次の瞬間には、愛想よく笑みを見せた。
「寒いなか、通信筒の回収ご苦労でした」
 伊原中尉は、黙って頭を下げた。
 実のところ、水野大尉の腰の低さには、逆に胡散臭いものを感じていた。
 水野大尉は、シベリア派遣日本陸軍の参謀部に所属する士官だった。
 欧州大戦当時は、駐在武官補佐官として東部戦線を形成するロシア帝国に派遣されていたらしい。
 帝政が崩壊するよりも早く、教育の関係で国内に戻されたが、ロシア語には堪能であったので、シベリア派遣軍の参謀部に配属されたという。

 だが、伊原中尉は、水野大尉のその経歴を少々疑っていた。
 ロシア帝国に派遣されていたのは事実だろうが、単純な駐在武官の補佐が任務であったとは思えない。
 実際には、十年前の日露戦争時に、明石大佐によって構築された反帝政組織などとも接触する情報将校だったのではないのか。
 愛想の良い笑みの向こうに、どこかそのような想像をかきたたせるような胡散臭さが水野大尉にはあった。
 にこやかな表情をしながらも、その目は凍り付いているようにも感じられた。
 そのようなことを伊原中尉が考えていたのは、根拠のない推測というわけではなかった。
 シベリアへの出動前に、シベリア派遣軍司令部付というのは、情報収集や宣撫工作、更に踏み込んだ諜報活動に従事する機関員の表の顔と聞かされていたからだ。
 そんな組織に身を置いているのだから、恐らく、水野大尉は、陸軍入隊当初から情報将校として、諜報活動に従事していたのではないのか。


 表向きは日本国と、ロシア国内の反帝政組織とのつながりは、日露戦争の終結と同時に絶たれたことになっている。
 平時に、他国の反政府組織と接触するなど、内政干渉以外の何者でもない。
 相手が半植民地のような後進国ならまだしも、日本が勝利したとはいえ、ロシア帝国が列強の一翼を占めることに違いはない。

 しかし、実際には組織との接触ルートは、地下に潜って維持されていたのではないのか。
 終戦に合意したといっても、ロシア帝国の南下政策が容易に変化するとは当時の日本政府も思っていなかったはずだ。
 再戦の可能性は決して低くはないとも考えていたかもしれない。
 だから、万が一のために、反政府組織との繋ぎは欠かさなかったはずだ。
 だが、新たにルートを開拓するわけではないのだから、明石大佐のような大物を使う必要があるわけではない。
 水野大尉が、さして経験があるとは思えない中、少尉の頃からロシア帝国大使館に配属されていたのは、そのような思惑があったからではないのか。

 その、反政府組織との連絡役でもあった水野大尉が、シベリアへと派遣された。
 伊原中尉は、その意味に気がついた時、愕然としていた。
 おそらく水野大尉は、再び組織と接触しようとしているはずだ。
 それも今度は、接触ルートの維持などという消極的な行動ではないから、陸軍の機関を上げての支援を得ての行動だろう。
 勿論、その目的は組織を支援することではない。
 シベリア派遣軍の目的はロシア帝国の維持、あるいは、ボルシェビキ政権との緩衝地帯となる傀儡国家の樹立だからだ。
 つまり、水野大尉は、今度はロシア帝国を存続させるために、十年前は味方であったはずの組織を壊滅させるつもりなのだろう。
 そこに、かつての友を裏切るという後ろめたさや、逡巡は全く感じられなかった。


 そのような、剣呑さを隠しもつ水野大尉に対して、ケレンスキー大尉はむしろ分かりやすい男だといえた。
 ケレンスキー大尉が、周囲に対して壁を作り、ことさらに不機嫌そうな表情を作っているのは、不安の裏返しとしか思えなかった。
 周囲を、かつての敵国人である日本人に囲まれているからか、戦闘への恐怖なのか、あるいは作戦そのものへの不安なのか、それは分からない。

 ケレンスキー大尉は、ロシア遠征軍に所属する歩兵士官であったらしい。
 少なくとも昨日の自己紹介ではそう名乗っていた。

 西部戦線のフランス軍への支援として派遣されたロシア遠征軍は、最盛期には二個師団基幹の一個軍団を数える一大戦力となっていた。
 自国内の東部戦線に投入する膨大な戦力に加えて、日本陸軍が派遣した遣欧軍とほぼ同規模の大兵力を、ロシア帝国は西部戦線に派遣していたのだ。
 そもそもは、フランス軍が、人口比から言えば、西部戦線よりも東部戦線の兵力はもっと大規模で有るべきだと抗議したところから、ロシア遠征軍は編成されたらしい。
 この兵力派遣要請は、殆どフランスの言い掛かりに等しかったが、ロシア帝国は、フランス軍が構築する西部戦線を強化せざるを得なかった。
 東部戦線では、強力なドイツ帝国軍によって、ロシア帝国は圧迫されていた。
 この時点でフランスが単独でドイツ帝国と講和でもされれば、ドイツ軍は、後背を憂うことなく東部戦線に全力をできるだろう。
 ただでさえ、政治的な不安を抱えていた当時のロシア帝国は、そのような大攻勢に耐えられなかったのではないのか。

 こうした弱みにつけこまれる形で、強引に編成されたロシア遠征軍だったが、意外なほどその戦意は高く、兵力不足に喘ぐ英仏を中核とした西部戦線において慈雨となった。
 しかし、ロシア帝国軍は、兵員こそ十分に送り込んだものの、ロシア遠征軍の装備、特に重火器の類は貧弱極まりなかった。
 ロシアの工業化は、他の欧州諸国と比べて遅れて始まったから、この当時でも、自国内の東部戦線で消耗する装備を生産するので手一杯だったのだ。
 それどころか、自国産だけでは銃火器の生産が間に合わずに、日本国から小銃の大量輸入も行なっているほどだった。
 だから、欧洲大戦終盤のロシア遠征軍の装備品は、大半が日本製に切り替わっていた。

 実は、ロシア遠征軍は、西部戦線への輸送過程から、日本軍と共同で行動していた。
 というよりもロシア帝国や他の連合側参戦諸国には、海上輸送される大部隊を護衛出来るだけの海上戦力を展開させるだけの余力がなかったのだ。
 だから、ロシア遠征軍本隊の輸送は、日本軍遣欧軍の第二陣とタイミングを合わせて、同時に行われることとなった。
 むしろ、日本軍の輸送に、ロシア遠征軍が便乗したという方が正確だった。

 そして、西部戦線に到着した後のロシア遠征軍への補給も、ほとんどが日本軍経由で行われることとなった。
 実は、ロシア遠征軍の編成規模は当初はもっと小さかったらしい。
 師団にも満たぬ、旅団規模の部隊が幾つか編成される程度でお茶をにごすつもりだったらしい。
 ところが、日本軍の輸送に便乗できるということが判明したものだから、その規模を拡大させるようにフランス側がねじ込んだのだ。
 その結果、二個師団級という大兵力が一度に輸送されることとなった。

 しかし、ロシア帝国には、帝国ドイツをまたいだ、戦線の反対側に位置する自軍に対する、長大な補給線を維持する能力も、また意思もなかった。
 本来であれば、フランス軍がその代わりに補給を実施するはずだったが、彼らも自軍への補給で半ば手一杯だった。
 その結果、ロシア遠征軍の補給の面倒は、ほとんど一手に日本軍に任されることとなった。
 拡大された国内の工場を総動員させて、兵器や消耗品を大量生産している日本国ならば、ロシア遠征軍への補給も可能だった。
 書類上は、ロシア遠征軍への補給物資は、ロシア帝国から日本国へ発注され、現地にて売却されたことになっていたが、当然その代金は、今も未回収のままだった。
 あるいは、そのように日本軍に依存していたからこそ、シベリア出兵への同道を求められたロシア遠征軍は、シベリア派遣軍への随行を拒否出来なかったのかもしれない。


 ほとんど成り行きでシベリアへと舞い戻ったロシア遠征軍だったが、シベリア派遣軍にとっての価値は非常に大きかった。
 チェコ軍団の救出という名目で開始されたシベリア出兵だったが、これに先陣をロシア遠征軍のロシア人にきらせることでさらなる大義名分を得ることが出来たからだ。
 それに、当たり前の話だが、ロシア語を母語とする数万の将兵は、言葉の壁に行き詰まりがちな住民の宣撫工作に威力を発揮することができた。
 もしも彼らの存在がなければ、これだけ早期にハバロフスクへ進出することも出来なかったのではないのか。

 当初は、ロシア遠征軍自体がボルシェビキに寝返って反乱を起こすのを警戒する声も上がったらしいが、少なくとも日本軍と長期間行動を共にした将兵が裏切るとは心情的な問題を抜きにしても考えづらかった。
 それに、ロシア遠征軍の高級士官達は、母国を遠く離れての長期間の戦闘行為を考慮して、皇族に近い貴族出身の士官が多く、革命側につくとは思えなかった。
 ロシア遠征軍の将兵の中には、日本軍との行動の中で、片言ながらも日本語を取得したものも少なくなかった。
 そういった将兵は、語学力の高いものから、日本軍の各部隊が競いあうようにして、通訳として出向させられていた。
 彼らの多くは、自発的に協力していた。
 日本軍の対ゲリラ部隊と、住民との間の軋轢を彼ら通訳が解消させることが出来れば、それだけ自国民の被害は少なくなるからだった。


 実は、長期のボルシェビキゲリラとの索敵殲滅戦を有利に展開させるため、捕虜や住民との通訳のために不知火にも、ロシア遠征軍から出向していた少尉が乗艦していた。
 彼は補給将校で日本軍との接触も多かったせいか、流暢な日本語を話すこともあって伊原中尉も期待していた。
 しかし、水野大尉とケレンスキー大尉が乗り込んできたせいで手狭となった不知火から追い出される形で、そのロシア人の少尉と、艦政本部から派遣された宮本造船少尉は、陽炎への移動を余儀なくされていた。

 その少尉が、不知火を離れる前に、怪訝そうな顔になって、伊原中尉に気になることを告げた。
 彼はケレンスキー大尉を、フランスで、つまりはロシア遠征軍の中で見たことがない、そう言っていた。
 ロシア遠征軍は、二個師団にもなる大戦力だったから、士官の人数も膨大なものとなっていた。
 だから、彼が一人の士官を見たことが無かったといっても、そう不自然ではないように思える。

 しかし、補給将校だった彼は、他隊に訪れる機会も多かったはずだ。
 その言葉には、十分な信頼性があるような気がした。

 伊原中尉は、そのことを思い出しながら、ロシア遠征軍所属を自称する、眼の前でむっつりとしているこの男の正体は何者なのか。
 ハバロフスクを発って以来ずっと、得体のしれない不安感が、伊原中尉を襲っていた。
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