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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1943ローマ降下戦20

 満州共和国軍軍政部の直轄部隊である特務遊撃隊は、2個小隊という小規模かつ変則的な編制をとっていた。
 流動的な状況になりやすい遊撃戦ではどうしても一度の戦闘に投入される兵力は少なくなるし、元々部隊の母体となったのはそれほど大規模ではない馬賊だったから、部隊としての性格が変わらない限り規模の抜本的な拡大は難しかったのだ。

 それに実戦では2個小隊をさらに分けて小隊単位で行動することが多かった。錯綜した市街地や森林地帯ではその程度の部隊規模のほうが機動がし易かったのだ。
 部隊を二分する場合、通常であれば金少尉の小隊は尚少佐が直卒する事が多かった。金少尉は尉官といっても促成教育を受けた下士官上がりだったからだ。
 この場合残されたもう一つの小隊は、正規の小隊長の判断で行動するのが常識的なやり方だった。仮に厨川大尉が同行していたのだとしても、大尉は配属された顧問に過ぎないからだ。
 勿論指揮官が戦術的な判断を行う際に相談や指導を厨川大尉が受けることは十分に考えられるが、大尉はあくまでも顧問であり、指揮権はないのだから決心は正規の小隊指揮官が下すべきだった。

 だが、実際には小隊の指揮をとっているのは、小隊長と特務遊撃隊の副長を兼ねている王美雨中尉ではなく、本来は指揮権の無い顧問であるはずの厨川大尉だった。美雨に指揮を任せるにはあまりに不安があったのだ。
 特務遊撃隊の副長である美雨は、隊の紅一点でもあった。しなやかな肢体と整った顔立ちの持ち主だったが、彼女の場合は美人という印象の前に狩りの前の野生動物を思わせる剣呑さがあった。しかも、それは猫科の気まぐれな野獣のそれだった。
 実際、美雨の育ちは野生児のようなものだった。幼少の頃から馬賊の一員として馬の背に揺られる生活を続けていたからだ。


 実は、馬賊としてのこの組織を本来継ぐべき人間は美雨だった。もともと彼女の兄が馬賊時代の頭目だったからだ。その兄が戦死した時、まだ美雨が若かったから、後見人として兄貴分の尚少佐が指揮官におさまったのだ。
 とても近代国家の軍隊とは思えないが、特務遊撃隊の要員は軍政部直轄部隊ということや、他に例のない特殊戦部隊という事情もあるから、何事もなければ後見人である馬占山将軍によって尚少佐の後継として特務遊撃隊の指揮官に美雨が選出される可能性は低くはなかった。

 もっとも、厨川大尉には美雨が部隊の指揮官に就任する姿がどうしても想像できなかった。理由はいくつかあった。その一つは勿論だが美雨が女性だという事実だった。
 先の欧州大戦を契機に日本でも女性の社会進出が進んではいたが、今のところ日本軍には前線勤務の女性はいなかった。友邦英国に倣って補助婦人部隊が編制されてはいたが、その任務は部隊呼称どおりの補助任務に限定されていた。
 具体的には各級司令部勤務の女子通信隊や後方地帯における輸送任務などだった。それに監視所などからの情報を集約する防空司令部も女子通信隊員の配置はアレクサンドリアの遣欧統合総軍付までで、前線近くのシチリア島に前進配置された遣欧方面軍付にはいなかったはずだ。

 英国では本土防空任務に付く部隊で高射砲を操作する婦人兵までいるらしいし、ソ連では女性だけの飛行戦隊まであるらしいという話もあったが、日本軍ではそこまでは状況が逼迫しているわけではなかった。
 日本軍以外の国際連盟軍参加国でも婦人兵を前線に配置する例はほとんどないのではないのか。現に満州共和国軍であっても厨川大尉は美雨以外には実戦部隊で女性兵士を見たことはなかった。
 だから美雨が部隊指揮官に就任した場合、特務遊撃隊全体が他隊から偏見の目で見られることがあるのではないのか。


 ただし、厨川大尉自身は女だから美雨が軍人には適していないとは全く考えていなかった。むしろ戦闘員としての技能であれば特務遊撃隊の隊員の中でも群を抜いていたのではないのか。
 特に美雨が得意だったのは射撃術だった。しかも彼女は拳銃から狙撃銃まで獲物を選ばなかった。幼い頃から馬賊の一員として荒野を疾走する馬にまたがっていた程だから、馬上や単車の上からでも安定した射撃が出来た。
 また、選抜射手用ではなく、特殊戦部隊向けに特注された長距離射撃が可能な狙撃銃をほとんど私物化して愛用もしていた。経歴からすると、美雨が系統だった長距離狙撃の訓練などを受けたことは無かったはずだが、天性の勘の良さでほとんど本能的といってもよい射撃術を独学で身につけていたのだ。

 だが、逆に言えば美雨が別の誰かにその射撃術を教授することもできなかった。本人にとっても他人に説明できるほど体系立てて考えたことがないからだ。無理に説明したとしても、妙に飛躍したり、感覚的な言葉しか出てこないのだから、他人が理解できるはずもなかった。
 要するに天才肌ということなのだろうが、指揮統率も同じように感覚で行おうとするのだから始末に負えなかった。


 美雨は三八式歩兵銃を原型にした特別製の狙撃銃を与えられていたが、最近は英国製の対戦車銃をお気に入りにしていた。
 特務遊撃隊が配属された機動旅団は、更に上位の空挺軍団に配属されていたが、同軍団の指揮下には英国陸軍の特殊戦部隊である第七七特殊旅団があった。厨川大尉が知らない間のことだったが、その対戦車銃は機動旅団内でも名前が知られていた美雨が第七七特殊旅団の英国兵から巻き上げてきたものらしい。
 一部始終を見ていた隊員が言うには、姐さんと射撃勝負なんぞするから悪いんだ、ということらしいから何かの賭け事ででもしてきたのだろう。

 その対戦車銃の採用時期は五年ほど前だと言うから、制式年度だけ見ればそれほど旧式化したとは思えなかった。だが、実際には開発時の想定とは異なりその種の火器を有力な対戦車兵器として使用するのは難しくなっていた。
 実は日本軍でも同時期に対戦車銃である九七式自動銃を制式化していた。万能機としてもてはやされた双発戦闘機などと同様に、開戦前の1930年代後半は安価で少人数での運用が可能だと言う触れ込みで同種の対戦車銃の開発が各国で進められていたのだ。
 ソ連では同種の対戦車銃の採用は今次大戦の開戦後になったと言うから他国よりもやや遅れていたようだが、試作そのものは30年代から盛んに行われていたことが確認されていたから、これは世界的な傾向だったと言っても良かったのではないのか。


 だが、そのような対戦車銃が実際に戦車に対して有効だったのは、今次大戦開戦前後のほんの数年のことに過ぎなかった。
 それらの対戦車銃の貫通能力は、有効射程と考えられた100メートルから500メートルで30ミリ程度だった。これは当時の主力戦車に対しては概ね十分な能力だと言えた。
 例えば、日本陸軍で自動砲と同時期に正式採用された九七式中戦車は最大装甲厚で35ミリとなっており、この数値は列強各国の主力戦車としてはやや上位といった所だった。

 つまり、対戦車銃が各国軍に争って制式化されていた当時は、対抗する戦車を正面から貫通できる可能性のある実用性の高い兵器だったのだ。
 通常は対戦車銃の銃手は塹壕などの低い位置で掩蔽された状態から射撃を行ってくることを考慮すれば、戦車部隊にとって対戦車銃はより大掛かりな対戦車砲と並んで厄介な存在だったはずだ。


 しかし、現在では対戦車兵器としてはその種の兵器は完全に時代遅れの代物になっていた。対抗する戦車の進化が急速に進んでいたからだ。
 日本軍では九七式中戦車に続いて一式中戦車、三式中戦車を相次いで制式採用していたが、これらの中戦車の備砲は、短砲身の57ミリ砲から長砲身57ミリ砲、野砲弾道の75ミリ砲から高初速の高射砲弾道の75ミリ砲へと大威力化が図られていた。
 勿論これに対応するように装甲も強化されていた。最近の戦車では重装甲のものであれば最大装甲厚が100ミリを超えることもあったから、対戦車銃の有用性が大きく低下していたのは間違いなかった。
 このような新鋭戦車に対して対戦車銃で有効打を与えようとすれば、側面、それも車体下部などの脆弱な部位や外部視認用の覗窓などを狙うしか無かったが、最近の戦車は従来と比べて機動力も高かったから、選抜された射手であってもそのような弱点を狙うのは難しいのではないのか。

 戦車の進化に対して、これ以上の対戦車銃の大威力化を図るのは原理上難しかった。現状の対戦車銃でさえ歩兵が運用するには限界に達していたからだ。
 日本陸軍の九七式自動砲は、その名称の通りに半自動方式が図られていることもあって、約60キロとこの種の兵器としても重量がある方だったが、他国の同種銃でも20キロ程度の重量はあった。
 これは歩兵が個人携帯する小銃どころか、分隊を支援する為の軽機関銃などと比べても破格の重量だった。現在でさえ複数人での運用が基本なのに、大威力化によってこれ以上の重量になれば、もはや歩兵が携行できる範囲を超えてしまうのではないのか。

 しかも、これだけの重量があっても対戦車銃の反動は大きく、連射は難しかった。
 戦車の場合は、分厚い装甲や大出力エンジンの搭載によって自重も増大していったから、大威力の火砲を搭載してもその反動を車体で吸収する事ができたのだが、対戦車銃の場合は操作する人間の重量を増やすことは出来ないのだから、大威力化には制限があったのだ。


 しかし、増大する一方の戦車の脅威を考慮すれば、歩兵部隊にとって簡便な対戦車兵器は必要不可欠だった。勿論、それは車載が前提の対戦車砲などではあり得なかった。
 最近になって、そのような需要に対応するために各種対戦車兵器が制式化されていた。例えば日本陸軍ではロケット砲弾を使用する三式噴進砲が採用されていたし、同時期に英国軍では特異な擲弾筒の一種であるPIATの運用が開始されていた。
 これらの最新の対戦車兵器は、無反動砲や噴進弾の使用など手法は様々ながらも、何らかの方法で反動を抑制しながらも砲弾を大口径化したことに特徴があった。

 いずれにも共通するのは、砲弾に成形炸薬を使用していることだった。成形炸薬弾は、漏斗上に形成された炸薬を着弾と同時に爆発させ、その際に発生する超高速の金属流によって敵装甲を貫通させようというものだった。
 原理上その威力を左右するのは金属流の形成具合ということになるから、威力を向上させるには砲弾を大口径化することや炸薬の形状の最適化が必要だったが、逆に通常の徹甲弾のように砲弾の高速化は重要ではなかった。
 それ故に反動の抑制によって初速の低下した無反動砲などの弾頭には最適だったのだ。

 砲弾飛翔速度の遅さによる散布界の増大などから、成形炸薬弾を用いたこれらの対戦車兵器の有効射程は100メートルを超えれば良い方だったが、装甲貫通力は大きかった。
 また、大口径化が図られたことから一発あたりの砲弾の重量は大きかったものの、通常の砲と異なり機関部にかかる圧力が小さいことから砲本体は簡略化されており、運用は砲手と弾薬手の最低二名での運用ができるものも少なくなかった。


 従来の高初速の徹甲弾を使用する対戦車銃は、実際にはこれらの新技術を用いた対戦車兵器によって取って代わられてしまったと言っても良かった。それどころか噴進砲などはより大規模な速射砲や歩兵砲の代替としても使用されるほどだった。
 ただし、対戦車兵器としての運用が難しくなっていたとしても、対戦車銃の有用性が完全に失われたわけではなかった。
 他の対戦車兵器とは異なり、対戦車銃は、原理上単なる大型の小銃といっても良かったのだが、一般的な小銃弾と比べると弾薬の重量が格段に大きいために、直進性などの弾道特性に優れており遠距離における命中精度は高かった。
 それに、肝心の貫通能力にしても、重装甲化の進んだ戦車には対抗できなくなっていたものの、相手が軽装甲の装甲兵車やトーチカであれば未だ十分な威力をもっていた。

 実のところ、美雨が対戦車銃を持ち出したのも、今までの狙撃銃では弾道の関係から難しかった超長距離狙撃を行うためのようだった。
 だが、皮肉なことに特務遊撃隊が投入されたのは、結果的にローマという錯綜した市街地での遭遇戦になっていた。このような状況下では長射程の対戦車銃は宝の持ち腐れになってしまっている。厨川大尉はそう考えていた。
九七式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/97tkm.html
一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html
三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/03tkm.html
三式噴進砲の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/3atr.html
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