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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1943ローマ降下戦7

 一〇〇式輸送機に乗り込む奥山大尉達が所属する挺身第1連隊は、第1挺進団とその更に上位にある挺進集団の指揮下にあった。

 前線を一挙に飛び越えて、輸送機などから落下傘を用いて敵地に直接降下する空中挺進を行う部隊としては、挺進集団は日本陸軍でも最大級の部隊だった。ただし、部隊の歴史はそれほど長くはなかった。
 日本陸軍における空中挺進の歴史が列強他国軍と比べてそれほど短いわけではなかった。というよりも従来より独特の軍事理論を有していたソ連軍が師団規模を超える部隊を有していたのを除けば、概ね各国軍が大規模な空中挺進部隊の整備を本格的に開始したのは今次大戦勃発後のことだったのだ。

 機密度が高いために奥山大尉は部隊名程度しか知らないが、日本陸軍には従来から空中挺進を行う機動連隊が存在していた。この部隊は日本陸軍では概ね機械化を意味する機動の名を冠されているにも関わらず、軽装備の歩兵部隊であるらしい。
 しかし、機動連隊は通常の戦闘に投入されるような部隊ではなかった。少人数での前線後方での破壊工作などを行う特殊戦部隊であるようだった。
 その為に機動連隊は山岳地帯や森林地帯といった踏破さえ困難な地形を利用した遊撃戦闘や、爆破用の特殊な爆薬の取扱などに熟練した下士官を中心とした通常部隊とは著しく異なる編成ともいわれており、空中挺進とはいっても高々度からの隠密潜入といった特異な手法をとるらしいとも聞いていた。

 今次大戦に於ける独仏戦で、ドイツ空軍による大規模な作戦への投入が行われるまで、空挺部隊の使用法としてはむしろそのような特殊戦への投入が主流だった。
 それがデンマーク占領やフランス戦緒戦におけるドイツ軍空挺部隊の活躍を評価した各国軍で大規模な空中挺進部隊の編成が急速に進んでいたのだ。


 イタリア王国の首都ローマに進攻するこの作戦において、国際連盟軍は各国軍の空中挺進部隊を集成した空挺軍団を編成していた。
 そのうちポーランド第1空挺旅団は別の支作戦に抽出されたものの、空挺軍団は日英が各一個師団相当の部隊を投入したのに加えて、機動連隊を含む遊撃戦を実施する部隊を配属させた多国籍編成の機動旅団、同じく特殊戦部隊である英第77旅団などで編制された大規模な部隊だった。

 これまで、ここまで大規模な空中挺進部隊を一挙に投入した戦例はなかった。ドイツ軍やソ連軍も大規模な空挺部隊を有していたが、師団規模で作戦に投入された例は確認されていなかった。
 クレタ島がドイツ軍に占拠される際には師団級の部隊が投入されたらしいが、それに先んじて守備側のギリシャ軍と英国軍が激戦となったマタパン岬沖海戦に紛れるように守備隊を撤退させていたために本格的な戦闘は行われていなかった。
 だからこの作戦は国際連盟軍に貴重な戦訓をもたらすはずだった。

 しかし、奥山大尉にはそのような戦訓が今後に活かされるのかどうか、それ自体は疑問だった。実際にはこのような空挺作戦は無謀な試みなのではないのか、そう考えていたからだ。


 空挺軍団は国際連盟各国軍から抽出された空挺部隊による混成編成とは言え、その司令部機能は貧弱なものだった。配属された部隊にしても、日英各1個師団規模の部隊を除けば、各国軍に所属する雑多な小規模部隊を集成したに過ぎなかったからだ。
 機動旅団としてまとめられたそれらの各隊は、小規模ながら破壊工作や遊撃戦を行う特殊戦部隊だから、本作戦でも独自の行動を取るために英第1空挺師団や挺進集団とは日本陸軍所属の機動連隊を含めて別行動をとっていた。
 さらに日本海軍の特殊戦部隊である特務陸戦隊は、潜水艦などから隠密潜入による偵察などを行う部隊だから空中挺進部隊ですらなかった。

 それ以前に特殊戦部隊と考えられていた空中挺進部隊の歴史はそれほど長くはないから、大規模で独立した軍団司令部を構築できるほどこういった作戦に詳細な知識を持つ高級将校は多くは無かった。
 おそらく、ローマ周辺にドイツ空軍が駐留している、すなわち海上輸送される一般部隊が早期に発見される可能性が高いと見積もられていなければ、航空撃滅戦と連動したローマ橋頭堡の確保という任務にこのように大規模な空中挺進部隊が投入されることもなかったのではないのか。
 それほど空中挺進部隊に関する関心は低かったのだ。

 それに、今回の空中挺進作戦に投入された輸送機の数は膨大なものだった。特殊戦部隊故に人数の少ない機動旅団などを除いた日英2個師団相当の部隊だけでも300機程度の輸送機が必要だったのだ。
 おそらく、支作戦に投入されていたポーランド第1空挺旅団が抽出されなかったとしても、輸送機不足から予備戦力として後方に残置されていたのではないのか。


 挺身集団は、部隊名に特に数字が含まれないことからもわかるように、日本陸軍で唯一の師団規模の空中挺進部隊だった。
 奥山大尉は、以前に空中挺進部隊の規模を2個師団程度にまで拡大するという計画の噂を聞いたことがあったが、挺進集団の名称が変更されなかったことからすると、結局その計画は実現すること無く廃案となったらしい。

 だが、挺進集団の前身である陸軍挺進練習部の創設時から配属されていた古参の指揮官であるにも関わらず、奥山大尉は陸軍上層部のそのような判断は間違ってはいないのではないのかと考えていた。
 師団規模換算とは言え、純粋な戦闘集団としてみた際の挺進集団の実戦力には不安があったからだ。


 日本陸軍が保有する正規師団の基幹戦力となるのは2個の歩兵旅団だった。各歩兵旅団は将官の指揮官と若干の参謀からなる旅団司令部とその指揮下にある2個歩兵連隊から編制されていた。
 この旅団と歩兵連隊の組み合わせは固定されたものだが、輜重兵連隊などの大規模な支援部隊は含まれていないから単独で長期間の戦闘を行うのは難しかった。

 実際には、戦闘時は師団直轄戦力である師団戦車隊や捜索連隊、更には工兵連隊や砲兵連隊などの配属を受けて諸兵科連合の支隊編成をとることになるのが常識的なやり方だった。
 そのような戦法であれば師団長やその参謀は師団全体の指揮や前線部隊に配属されない後方支援部隊の監督に専念できるし、支隊長となる旅団長や連隊長は逆に戦闘指揮に専念できるはずだった。

 日本陸軍には、師団全体で合計すると戦車連隊2個と重装甲の装甲兵車が配備された機動歩兵連隊2個という変則的な2個旅団からなる他国の機甲師団に相当する第7師団なども存在していたが、これも基本的な考え方は一緒だった。
 第7師団隷下の旅団は、平時は管理の容易さを優先して戦車旅団と歩兵旅団に分かれていたが、戦闘時は戦車連隊と機動歩兵連隊各一個を基幹戦力として支隊を編成するようになっているらしい。


 日本陸軍がここ最近の列強各国軍の傾向である3単位制師団、すなわち基幹戦力である歩兵連隊を3個指揮下に置くという編制を取らずに、4個連隊からなる4単位制師団に固執していたのは、3単位制師団が有する戦略的な機動性の優位や上位部隊の兵站に対する負荷の低減効果よりも、将兵の頭数が多いために打たれ強くなることや予備部隊を捻出しやすく事などによる戦術的な優位性を重視していたためだった。
 シベリア―ロシア帝国を救援するために、強大なソ連軍と長期間対峙しなければならないという日本陸軍が仮想戦場とするバイカル湖畔での想定がそのような判断を行う根拠となっていた。

 つまり日本陸軍の師団は、重装備もさることながら、その重厚な編制定数も特徴の一つだったのだが、挺進集団は師団級部隊とされてはいたものの、その例外となっていた。
 主力である挺進連隊の規模が小さく、大隊編制を欠いていたからだ。


 日本陸軍の師団内で基幹戦力となる歩兵連隊や戦車連隊は、いずれも中隊と連隊との中間結節として大隊を配置していた。

 連隊は歩兵や機甲科などの単一兵科からなる最大単位部隊であるとともに、指揮官層である将校の管理単位とある将校団を構成する単位でもあった。部隊固有の軍旗である連隊旗を授与されることからも明らかなように、伝統ある連隊は滅多なことでは消滅したりしない固有の存在とされていた。

 大正軍縮期に日本陸軍では平時に配属する将兵を減じて予備師団と呼称する予備部隊に格下げされた師団がいくつかあったが、その指揮下の連隊は廃止とはならずに、師管区内の徴兵者の訓練部隊として最低限の機能は残されていた。
 今次大戦でもそのような予備部隊とされていた連隊が召集を受けた兵員の補充を受けて現役部隊に復帰して戦地に送られていた。
 そのような措置が可能だったのも、連隊の司令部機能が維持されていたために部隊としての延命が図られていたからだ。

 連隊が将校団の基本単位であれば、中隊は下士官、兵卒にとっての基本単位だった。平時においては中隊が兵営生活の基本単位となるからだ。炊事や教育、さらには連隊内の対抗競技といったことまで中隊単位で行われていた。
 兵卒の人事や経理なども中隊で行っていたから、担当下士官を監督する中隊長の権限は大きかった。


 そのように伝統のある中隊や連隊という単位と比べれば、大隊は平時における管理部隊としての性質は小さかった。歴史的に見ても、中隊や連隊よりも大隊という単位はずっと後になってから誕生していたらしい。
 だが、最近では軽量な噴進砲などに取って代わられつつあるものの、大隊は中隊単位には配備されない歩兵砲や重機関銃などの支援用重火器を装備する独立編制の火力部隊が配属されるのが常識的な編制だった。
 戦車部隊では固有の装備は有さないものの、指揮官である大隊長を補佐する幕僚や副長が付くのは変わりがなかったから、戦術面では相当に有利なはずだった。
 つまり、大隊結節は管理部隊としての性質ではなく、戦闘時にある程度の独立した行動を実施できる戦術単位としての性質が強かったのだ。

 日本陸軍も歩兵、戦車連隊以下では三単位制を取っていたから、1個連隊は3個大隊、その下の1個大隊は3個中隊を編制下に置くから、1個連隊は本部部隊などを除けば通し番号が与えられる9個中隊で編制されるのが定数となっていた。

 ただし、戦車連隊の編制が開始された当初は、日本軍でも大隊結節を設けずに連隊直下に4個から5個の中隊を配属させていた時期があった。当時は戦車部隊の主力装備が大口径榴弾を装備しながらも機動性の遅い歩兵戦車的な性格の強いものだったから、戦車隊の任務は歩兵支援に限られていたからだ。
 その場合対戦車戦闘は実質上対戦車砲である速射砲隊に任せて、戦車隊は歩兵隊の直接支援を行うはずだった。
 歩兵支援任務の場合は、戦闘時には中隊単位で分割されて歩兵部隊に配属されるのが多かったから、戦術単位である大隊を編制する必要性は薄かったのだ。

 しかし、戦車による対戦車戦闘の機会が実際には多いことが分かってきてからは、機動性と火力、防護力を高い範囲で併せ持たせた機動戦用の戦車が開発されていたから、戦車連隊も大規模化とともに歩兵連隊同様に戦術行動に有利な独立した大隊結節を含むように改編されていたのだ。


 だが、挺進連隊は落下傘による降下を行う点を除けば基本的に歩兵部隊の小銃隊に準ずる中隊編制を行っているにも関わらず、その編制内に大隊結節を置かずに連隊直下に中隊を置く現在の日本陸軍では旧式とも言える編制となっていた。
 以前の戦車連隊のように他部隊への配属を前提として中隊単位での行動を原則としているわけではなかった。単に連隊内の中隊が4個しか無い小型の連隊だったから中間結節を設けるほどの必要性が無かったというだけのことだった。

 挺進集団指揮下に4個ある挺進連隊の連隊長も中佐か少佐が宛てられていたから、挺進連隊の実態は落下傘降下する歩兵大隊という方が正確だった。
 挺進連隊はその上級司令部に挺進団があり、挺進集団は第1、2挺進団からなるから、編制上の部隊名だけをみれば歩兵師団に匹敵するようにも見えるが、実戦力で言えば挺進連隊は歩兵大隊程度の戦力しか無いのだから、計算上は挺進団で連隊、挺進集団全体で見ても歩兵旅団相当にしかならないはずだった。

 主力となる歩兵部隊以外の支援部隊となると状況はさらに悲惨だった。最近の日本陸軍では野砲の廃止とより大口径の榴弾砲への転換という師団砲兵隊の重装備化が進んでいたが、輸送機から降下しなければならない空中挺進部隊がそのような重装備を保有するのは不可能だった。
 分解して落下傘降下が可能な噴進砲や曲射歩兵砲程度が空中挺進部隊が保有できる火砲の限界だったのだ。


 だが、挺進集団の部隊規模拡大は何度も配属された将校らから上申されていたが、実際には難しかった。組織的なものや戦局によるものなど様々な理由が上げられていたが、結局それらはすべて空中挺進という部隊の性格に起因するものだったからだ。
一〇〇式輸送機の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/100c.html
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