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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1943謀略、大連―ベルリン1

 1939年にドイツとソビエト連邦がポーランドに侵攻を開始してから続く今次欧州大戦において、1943年は戦局が大きく揺れ動く転換期となっていた。
 すでに前年度よりその徴候が見られた枢軸軍の敗北、全面的な撤退という傾向が明らかになっていたからだ。

 ドイツを盟主とする枢軸軍は、開戦直後にポーランドをソ連と占領地域を分割する形で短期間で制圧し、その半年後に所謂電撃戦と宣伝された機動戦で中立国であるスペインを除く西欧諸国の大半を占領していた。
 だが、戦局の綻びは続く北アフリカ戦線と東部戦線に潜んでいた。


 独ソ不可侵条約を締結して共にポーランドを分割占領していたドイツとソ連だったが、イデオロギーが著しく異なる両国が衝突するのは、少なくともドイツを率いるヒトラー総統にしてみれば必然的なことだった。
 英国本土における航空撃滅戦が不満足な結果に終わったことで、近い将来における英国への侵攻を断念したヒトラー総統は、次なる相手としてソ連を選択し1941年春に旧ポーランド領内に引かれた分割占領線を越えてソ連に侵攻して東部戦線が開かれたのである。

 だが、これまでのように集中した戦力と機動力を持つ精強なドイツ軍によって短期間で集結すると思われた東部戦線は、ヒトラー総統らの思惑とは異なり当初から長期戦の傾向が見られていた。
 開戦時期を徹底して欺瞞していたドイツ空軍による航空撃滅戦によって前線のソ連空軍が壊滅的な打撃を被ったことや、指揮系統の混乱から包囲殲滅される部隊が続出したことなどから、開戦直後はソ連軍の全面敗走と言っても良い状況だった。

 しかし、30年代末に病を理由に予備役編入されていたトハチェフスキー元帥の現役復帰とそれに伴う体系的な遅滞戦術の徹底によって状況は変化し始めていた。
 元々、共産主義革命によって過去のしがらみから逃れたソ連赤軍は、科学的思考による先進的な軍事理論が構築されており、少なくとも戦略面では硬直した部分の少なくないドイツ軍を圧倒している側面があった。


 そのソ連軍の戦闘教義においては、遅滞戦術を含む防御は決戦において投入される主戦力を捻出するために他方面の戦力を節約するために行われるものと規定されていた。
 つまり、スターリン書記長が戦略を一任していたトハチェフスキー元帥は、最重要の防衛対象であるモスクワ周辺での決戦戦力を構築するために、ポーランドからモスクワに至る広大な領域で焦土戦術を行っていたのだ。

 東部戦線初期におけるこの焦土戦術は徹底しており、撤退にあたってソ連軍は食料や燃料は勿論のことながら、それ以上に徹底して自国領内で取り残される機関車を必ず破壊していた。
 この徹底した機関車の破壊はドイツ軍にとって想定外だった。それまでのドイツ軍は、例えばフランス国内の整備された自動車道や民間の燃料販売所といった事前に調査していた敵国領内に既存するインフラ網を、貧弱な補給態勢を補うために最大限利用して機動力を保っていたからだ。
 しかし、広大なソ連領内は一年の大半が地面全てが泥濘に覆われるような悪路ばかりであり、期待していた鹵獲機関車も破壊されていたから、自国とは規格の異なる広軌を採用したソ連国内の鉄道網を短時間で復旧させることも難しかったのだ。

 このトハチェフスキー元帥による戦略は成功を収めたと言っても良かった。ドイツ軍は一時期はモスクワから百キロほどの距離まで進出したものの、東進に従って乏しくなる補給線や、モスクワ前面で集中投入された有力なソ連戦車部隊の圧力などから攻勢は頓挫することとなったからだ。


 昨年度もその傾向は続いていた。
 ドイツ軍は南部においてコーカサス地方を狙った攻勢を開始したものの、防御を固めたソ連軍によって阻止されるどころか、攻勢に対して支とう点となるスターリングラードの奪取に失敗して1個軍が包囲される事態を招いていた。
 だが、この1個軍の壊滅はソ連軍の最初の成果に過ぎなかった。今年に入って大規模なソ連軍による一大反攻作戦が開始されていたのだ。ソ連軍の圧力は大きく、すでに黒海北岸の要衝であるクリミア半島の奪還も時間の問題ではないかと噂されていた。

 この反攻作戦は、トハチェフスキー元帥らによる純軍事的な成果だけによってもたらされたものではなかった。
 30年代を通じて、ソ連外務人民委員を歴任していたレフ・トロツキーによって米国との協調関係が進んでいたのだが、今次大戦においても米国はソ連に対して安価、あるいは戦後の返済を前提とした借款によって膨大な物資を売却していたのだ。
 あるいは、この昨年度からの反攻作戦は、開戦後に購入されて蓄積された物資が前線に行き渡った時期にあわせて開始されたのかもしれなかった。


 東部戦線においてドイツ軍が攻勢限界に達したことを察知したソ連軍は、遅滞戦術を伴う防御態勢から攻勢転移に移行していたが、枢軸軍にとって本来補助的な戦線という位置づけであったはずの北アフリカ戦線はより戦況が悪化しており、全面的な崩壊と言っても良い惨状を晒していた。

 この北アフリカ戦線は、ドイツの相次ぐ軍事的な成功に影響を受けたムッソリーニ統領によって開かれたものだった。
 イタリア領リビアから出撃したイタリア軍は、エジプト領内で頑強に抵抗するイギリス軍に敗退するが、ドイツ軍の増援もあってアフリカ大陸で唯一大軍を機動可能な街道が広がる北アフリカ沿岸を舞台にまるでシーソーゲームのように両軍は東西に行き来する奇妙な戦場を構築していた。

 両軍による一進一退が続く戦局が一変したのは、昨年末にエジプトの首都であるカイロの郊外にあるエル・アラメインを巡る攻防戦において枢軸軍が敗退したためだったが、実際にはそれを遡ること数か月前に勃発したマルタ島沖海戦の結果でもあった。
 地中海のほぼ中央部に位置する戦略上の要衝である英領マルタ島は、イタリア本土から百キロほどしか無い事もあって絶え間ない空襲にさらされていたが、駐留英国軍は現地市民と共に頑強に抵抗を続けており、同島を根拠地とする通商破壊部隊は枢軸軍の地中海を縦断する北アフリカへの補給線に絶え間なく圧力をかけ続けていた。
 そのマルタ島を奪取するために出撃した枢軸軍との間で起こったのがマルタ島沖海戦を含む一連の攻防戦だったが、この戦闘はこれまでとは様相を一変させていた。

 日本帝国の正式な参戦と共に、地中海方面でも有力な戦力を保有する遣欧艦隊が設立されて、これまでの英国と自由フランスなどの亡命政府だけではなく国際連盟軍という多国籍軍が編成されていたのだ。
 これに対する枢軸軍も、国際連盟軍によるインドシナ植民地の占領と独立の宣言に反発した世論を受けて参戦したヴィシー・フランスを加えた独伊仏三カ国連合艦隊を編成していた。

 マルタ島に対する独伊空挺部隊の投入で始まった一連の攻防戦は、英国海軍地中海艦隊の増援を受けた日本海軍遣欧艦隊と独伊仏連合艦隊による戦艦同士の夜間砲撃戦ヘ突入していた。
 この実質上の艦隊決戦は戦果だけを見れば相打ちか遣欧艦隊がやや有利といった程度に終わったが、予定されていたマルタ島への航空機材の緊急輸送には成功し、強行された夜間飛行による空挺部隊による増援にも失敗した枢軸軍はマルタ島に降下した部隊の大部分を残して撤退せざるを得なかった。

 この一連の戦闘によりマルタ島周辺の制空、制海権を確立した国際連盟軍は地中海中央部の通商破壊戦を有利に進めることが出来ていた。
 ある意味で、エル・アラメインを巡る攻防戦は、マルタ島の奪取が叶わなかったことから、これ以上の補給体制の向上が望めない枢軸軍による破れかぶれのものに過ぎなかったのだ。


 ヒトラー総統らドイツ首脳陣がドイツアフリカ軍団を派遣した理由は、北アフリカにおいてイタリアが敗北して枢軸から離脱した場合、独伊国境のみならず今や枢軸軍の一翼を担う南仏が無防備な姿を晒すからというものだったが、エル・アラメインでの敗北の後、北アフリカ戦線は西進する一方だったから、彼らの抱いていた危機は現実のものとなろうとしていた。

 だが、このような局面にも関わらず、ヒトラー総統は強気の姿勢を崩そうとしなかった。それどころか国際連盟軍との講和を主張するゲーリング国家元帥を更迭して党首脳部に強力な挙国一致体制を作り上げていた。
 ジェット戦闘爆撃機や誘導爆弾、弾道弾と言った画期的な新兵器の開発や新型戦車の実戦投入によってまだ戦局を一変させることが可能だとヒトラー総統は考えていたのかもしれなかった。


 ヒトラー総統個人に権力が集中したドイツに対して、国王より組閣を命じられていたムッソリーニ統領の権限は制限の大きなものだった。
 しかも、北アフリカでの戦闘をほぼ終了させていた国際連盟軍の次の攻勢目標を絞りきれずに枢軸軍側が防衛戦力を分散させてしまったこともあって、ついにイタリア本土と言っても良いシチリア島が戦場となる事態が発生していた。

 相次ぐ敗北に求心力を失っていったムッソリーニ統領に対して、王室関係者などが中心となったグループによって逮捕計画が立案されていたが、事態は彼らの予想を超えて急変していた。
 ファシスト党内の内紛によって、ムッソリーニ統領を含む党幹部の多くが爆殺されてしまったのだ。

 思わぬ事態に対して、国王の意向を受けた反ムッソリーニ派グループはパドリオ元帥を首相に推して、国内に有力なドイツ軍が駐留するため一応は枢軸側にたっての戦争継続を表明して時間を稼ぐこととしていた。
 しかし、盟友ムッソリーニ統領を喪ったヒトラー総統はイタリアの変節を警戒して、ロンメル元帥率いる軍集団に貴重な装甲師団を含む有力な部隊を配属して、旧オーストリア領内の国境近くに配備させてその日に備えていた。

 国際連盟軍との単独講和を目論む反ムッソリーニ派グループは、そのようにイタリア国内外にあっていざという際にイタリア王国に対して牙を向けるであろう有力なドイツ軍や、単純にムッソリーニ統領の不在によって平和が訪れると呑気に構える国内の一般市民、それに和平工作が偽装である疑いを捨て切れないであろう国際連盟側の英日といった全く思惑の異なる集団を相手に困難な交渉を余儀なくされることとなった。

 彼らの理想はドイツ軍が行動を起こすよりも早くイタリア国内、それもイタリア半島中部に位置する首都ローマ近郊に強力な国際連盟軍を引き入れてドイツ軍を分断してしまうことだった。


 だが、彼らとの思惑とは関係なく、未だに政権与党であるには違いないはずのファシスト党の分裂は国内外に周知の事実として知れ渡ろうとしていた。
 ムッソリーニ統領亡き後、現役に復帰したイタロ・バルボ元帥が党統領代行を務めていたのだが、元々開戦前から国際協調派として知られていたバルボ元帥はドイツ側から危険人物としてマークされていた。
 それに加えて、党中央部の指導力が低下していることが明らかとなりつつあったのだ。

 その切欠となったのは、シチリア島に続いて国際連盟軍の進攻にあったサルディーニャ島の陥落にあった。
 単にサルディーニャ島が制圧されたことが問題となったわけではなかった。

 本土であるイタリア半島に隣接するために駐留ドイツ軍と合わせて有力な部隊が配置されていたシチリア島とは異なり、本土から距離のあるサルディーニャ島に配備された戦力はそれほど多くはなかった。
 だから枢軸軍上層部でも、熾烈な航空撃滅戦に続いて行われた国際連盟軍による上陸作戦にも長時間抵抗するのは難しいと冷徹に判断されていたのだ。

 いわば見捨てられた形のサルディーニャ島だったが、枢軸軍全体で見れば同島が陥落したとしても、その北方に位置してヴィシー・フランス政府の支配下にあるコルシカ島まで戦線を交代させれば、本土からの距離が縮まって補給線の維持も容易だったから、抗戦は未だ可能であるとされていたのだ。
 問題となったのは、現地に留まっていたサルディーニャ州知事によって州都カリャリを含む島内の大都市がハーグ陸戦法規に基づく無防備地域であることが宣言され、それを国際連盟軍が承認する事態が発生したことだった。

 法解釈から言えば、このサルディーニャ州知事による無防備地域宣言は意味を成さないはずだった。ハーグ陸戦法規の条文では無防備地域を宣言する対象者や条件は曖昧ではあるが、通常は中央政府であるとされていたからだ。
 つまり、パドリオ元帥を首相とするローマ政府が曲がりなりにも機能している状態ではサルディーニャ州知事の権限で宣言できるようなものではなかったのだ。

 だが、内外への宣伝効果を重視した国際連盟軍はサルディーニャ州知事による宣言を承認する旨を公表していた。このサルディーニャ州知事がファシスト党員であり、ムッソリーニ統領自らが任命したことが知られていたからだ。
 州知事は直後に本来はローマの陸軍司令部の指揮下にあるはずの現地沿岸警備師団に解散するように命じていた。
 これも明らかな越権行為だったが、やはり実質的には効果がなかった。この時点で現地民の予備役兵たちを招集して臨時編成されていた沿岸警備師団零下の部隊の多くは国際連盟軍に投降するか離散してしまっていたからだ。


 このサルディーニャ州知事の変節はヒトラー総統に警戒心を抱かせるのに十分なものだった。すでにファシスト党にはムッソリーニ統領が政権を取ったときのような強力な指導力は無くなっていたのだ。
 今、古都ローマを舞台としてイタリア王国、ナチス・ドイツ、そして国際連盟軍を演者とする化かし合いが行われていた。
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