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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1943久里浜―ローマ10

 バルボ元帥は、落ち着いた声でムッソリーニ統領を見つめながら続けていた。だが、先程よりも声は淡々とした落ち着いた様子になっていた。

「我々は、かつてこのイタリアを救うためにローマ進軍を行いました。その結果、共産主義者による革命を警戒していた陛下より信頼されファシスト党が政権を担うことになりましたが、いまやファシスト党を束ねる統領が始めた戦争がイタリアを業火の中へと入れ込もうとしています。
 統領、あの時、ローマに向けて進軍を始めたあの時に貴方が私達に言った言葉を覚えていますか。諸派が我意を捨て、イタリアのために一つとなり国を救おうと。
 まだ遅すぎるということはありません。イタリアの統一と独立、そして自由のために再び皆が一丸となって義務を遂行するのです。我々は統領に従いましょう。
 統領がイタリアと国王陛下に忠誠を尽くす限りは……」

 ムッソリーニ統領は、落ち着いた様子のバルボ元帥を信じられないと言った様子で見ていた。
「君は……陛下に再び信を問えというのか。だが、君は私のことを……」
 問われた形のバルボ元帥は首を振りながら言った。
「統領がイタリアのために尽くす限りは、全ては陛下の御心次第かと……」

 バルボ元帥は言い終わると、チアーノ伯に視線を向けた。
 チアーノ伯も力強く頷くと、養父である人に決意を込めた視線を向けながら言った。

「ここ数年間我がイタリアはドイツと軍事的な同盟関係にありましたが、ヒトラー総統は常に統領を欺いてきたではありませんか。ポーランド、ベルギー、フランス、そしてソビエトへの宣戦布告。
 我々は軍事同盟にありながら開戦前の事前の協議も連絡すら無く、常に裏切られてきたのです。彼らが勝ち続けていればそれも座視しえたでしょう。だが、いま現実に我々は敗北しつつある。
 統領が考えておられるほど現在のイタリア軍には戦うだけの力は残されていません。ドイツは軍事援助の履行を遅らせ、拒み続けています。おそらくは彼ら自身にも余裕がなくなってきているからでしょう。
 もはやドイツに勝機は……」

 バルボ元帥に続いて、ムッソリーニ統領の女婿であり、これまで外交交渉にあたっていたチアーノ伯までもが堂々とものを言う姿に、ムッソリーニ統領は愕然とした表情を浮かべていたが、それは次第に諦観へと変わっていた。それは二人の言を聞き入れたからのように見えた。


 だが、実際にムッソリーニ統領が何を考えていたのか、それは最後までわからなかった。チアーノ伯を遮るように再びファリナッチが大声を上げたからだ。

「黙れ、黙れ。貴様らはどいつもこいつも統領を信じなかったくせに口では、はいそうです、とだけ言ってゴマをすり続けてきたではないのか。統領はこいつら日和見主義者共のせいで道を誤ったのだ。
 我が軍は臆病者ばかりで、ドイツの将軍達に恥ずかしくて顔向けできないほどだ。統領、ここで党や軍から日和見主義者や敗北主義者や臆病者を一掃してファシストが正しく進むべき道をヒトラー総統と共に作ろうではないか」

 軍への批判にデ・ボーノ元帥などが血相を変えて何かを言おうとしたが、それよりも早くファリナッチの荒っぽさに辟易したような顔でスコルツァ書記長がこれ以上ムッソリーニ統領の気が変わらないうちにとでも考えたのか、黒シャツ隊の指揮官に向けて言った。
「すでに命令は伝えたとおりだ。反逆者を拘束したまえ……ご老体、悪いようにはしませんから大人しくして頂きたいものですな」
 暴れだそうとしたのか、困った顔の黒シャツ隊の隊員たちに取り押さえられようとしているデ・ボーノ元帥をスコルツァ書記長は冷ややかな目で見ていた。

 しかし、次の瞬間これまで冷然としていたスコルツァ書記長の目が驚愕して見開かれていた。
 デ・ボーノ元帥に黒シャツ隊が掛かりきりになっているそのすぐ脇をすり抜けて、グランディ下院議長がムッソリーニ統領に向けて走り込んでいた。

 だが、スコルツァ書記長が本当に驚いていたのは、いつの間にかグランディ下院議長の両手に手榴弾が握られていたからだった。何処に隠していたのかは分からないが、衣類が膨らんでいれば警備の兵に見咎められていたはずだから、脚にでも張り付けてズボンの裾の広がりで誤魔化していたのではないのか。

 皮肉なことに、グランディ下院議長が手にしている手榴弾は、彼が罵ったドイツで作られたものだった。特徴的な細長い木製の柄の先と先端に付けられた小さな缶詰のような弾頭部が手榴弾を握りしめたグランディ下院議長の手からはみ出していたのだ。
 イタリア軍で制式採用されている手榴弾は衝撃により信管が作動する方式だから、このような場で使用するには適していなかったし、信頼性も低かった。
 だから、信頼性の高い着火式の遅延信管を持つドイツ製の手榴弾を使用したのだろう。


 だが、チアーノ伯がそのことに気がついたのはずっと後になってからのことだった。
 グランディ下院議員の手に握られた手榴弾の柄からは、すでに着火したことを示すように引き剥がされた信管着火用の紐が垂れ下がっていたのだ。
 咄嗟のことだったから、そのことに気がついたものは地球の間でもそれほど多くはなかったはずだ。真横からムッソリーニ統領を見つめていたチアーノ伯やバルボ元帥、それにグランディ下院議長が走り込むのに最初に気がついたスコルツァ書記長ぐらいだったのではないのか。
 部屋の隅の方にでもいたものは、大柄な柄付手榴弾を見間違えて、グランディ下院議長が何か鈍器のようなものでムッソリーニ統領に殴りかかったと勘違いしたものもいたはずだ。

 それに、室内にいるものでドイツ製の手榴弾に対して知識があり、なおかつ実戦経験があってこのような場合の対処方法に長じたものはほとんどいなかった。
 さんざん威勢の良い事を叫んでいたファリナッチなども今次大戦前に従軍経験があっても、演習の事故で負傷して実戦には出ていないし、その時の従軍もファシスト等による宣伝に過ぎなかっただけだった。

 だから、チアーノ伯が咄嗟に頑丈そうな会議卓の影に体を躍らせることが出来たのは、バルボ元帥があのよく通る声でただ伏せろとだけ叫んだからだった。
 体を折り込むようにしてしゃがみこんだ次の瞬間、グランディ下院議長が叫ぶ声が聞こえていた。
「私がイタリアを救うのだ」
 後から思えば、チアーノ伯が本当にその言葉を聞いたのかどうかはわからなかった。グランディ下院議長が何かを言うのと、ひどく乾いた破裂音が鳴り響いて衝撃でチアーノ伯が気絶したのは、ほとんど同じタイミングだったような気がするからだった。


 気絶していたチアーノ伯を我に返らせたのは、誰ともつかない男の苦悶の声だった。軋むように痛む体を起こしたチアーノ伯は、声の持ち主が養父であることに気がつくと無我夢中で擦り寄っていった。
 ムッソリーニ統領までの距離は僅かだった。だが、傷ついたチアーノ伯にはその距離は無限に広がっているように思えていた。

 地球の間には他にも傷ついて声を上げる評議員達がいたはずだが、その時のチアーノ伯には全く視界に入らなかった。
 ムッソリーニ統領まで這うように進む間、チアーノ伯はこれまでのことを思い出していた。幼かった時の父との思い出、そしてその父親が支援していたファシスト党とそれを率いるムッソリーニ統領やその娘エッダとの出会い。
 チアーノ伯の妻となったエッダはムッソリーニ統領の娘だったが、決して政略結婚ではなかった。チアーノ伯は彼女を愛していたし、彼女もそうだった。そして、最後に二人の間に生まれた子供を穏やかな慈愛の表情で抱き上げる養父の姿が思い浮かんでいた。


 ようやくたどり着いたムッソリーニ統領は、記憶の姿と違って苦悶の表情を浮かべていた。どういった作用があったのかわからないが、統領の体は五体満足なままだった。
 しかし、おそらく手榴弾の炸裂による衝撃波で臓物に損傷を受けたのだろうムッソリーニ統領は真っ赤な血を激しく吐いていた。

 もう眼前に顔を見せたのか誰なのか、それもわからない様子だったが、暗くなって顔の前に誰かが姿を見せたことには気がついたのか、何処に隠されていたのかわからないほど強力な力でチアーノ伯の袖を掴みながら言った。

「こんなはずではなかったのだ。私はただ愛するイタリアを救おうとしたのだ」
 それがムッソリーニ統領の最後の言葉となった。


 チアーノ伯は、呆然としながらゆっくりと冷えゆくムッソリーニ統領の遺体を見つめていた。皮肉にもムッソリーニ統領と彼を倒したグランディ下院議長の最後の言葉は同じだった。
 ―――狂ってやがる。皆が同じことを考えているのに、どうして争わなければならないのだ。

 ぼんやりと座り込んでいたチアーノ伯だったが、唐突に肩を揺さぶられる感覚に驚いて振り返っていた。
 そこにいたのは相変わらず軋むような音を立てる車椅子を引き摺るようにしているバルボ元帥だった。


 先程の爆風で傷を負ったのか、額に一条の血のあとを残したバルボ元帥は、険しい表情でムッソリーニ統領を見つめていた。
「グランディの奴め。まさかあそこまであいつが追い詰められているとは思わなかったぞ。自爆までするとはな……統領は最後に何か言っていたのか」
「こんなはずではなかったのだ、と。統領もグランディも同じことを言い残して死んでしまった」

 チアーノ伯が反射的に答えると、バルボ元帥は大きなため息を付いていた。
「馬鹿なことを……」
 それだけを言うと、バルボ元帥は車椅子から手だけを使って降りると、満足に動かない体を引きずってムッソリーニ統領の躯の前に跪いてそっと彼の顔に手を当てていた。
 呆然としたままのチアーノ伯が見つめる前で、バルボ元帥が祈るかのように手を胸に当てると、いつの間にかムッソリーニ統領の目が閉じられていた。


 チアーノ伯は唖然として養父の表情を見つめていた。目を見開いていたときは苦悶の顔にしか見えなかったのだが、目を閉じただけで以前孫息子を抱き上げたときのような、人間が自然と作り上げる穏やかな笑みになっていたのだ。
 そのようなチアーノ伯を一瞥すると、バルボ元帥は何とか車椅子に体を戻しながらいった。

「ガレアッツォ・チアーノ、死者に囚われ過ぎるなよ」
 慌ててチアーノ伯はバルボ元帥に顔を向けた。達観した表情の元帥は、あちらこちらで混乱して悲鳴を上げたり呆然としている評議員や黒シャツ隊隊員達が散らばる地球の間の様子を眺めていた。
 それに、地球の間の外からはまた物騒がしい気配がしていた。地球の間に押し入って反ムッソリーニ派の評議員達を拘束しようとしていたもの以外に待機していたか、建物外の警備についていた黒シャツ隊隊員達が爆発音に気がついて集まろうとしているのではないのか。


「死者は死者だ。その想いを忘れることは出来んが、必要以上にこだわると、君も死にとりつかれるぞ……今の君は昔俺が見たアルプスで死んだアルピーニそっくりだ。
 だが、君も俺も生き延びたのだ。ここで諦めずに精一杯生き延びて最善を尽くさねば、ムッソリーニ統領にもグランディにも地獄で顔向けできまいよ」
 チアーノ伯は、バルボ元帥の乱暴な言に呆れたような顔を向けた。
「随分と乱暴なことを言うな。俺も君も地獄行きは決定か」
「何だ、まだ天国に行きたかったのか。それならもっと人を救ってみせろよ」

 バルボ元帥はにやりとチアーノ伯に自棄になったような笑みを見せると、次の瞬間、表情を一変させて、地球の間どころか扉の外にまで聞こえるようなよく通る大声を出していた。
「統領は事故死された。繰り返す、統領と下院議長は不発弾の事故により亡くなられた。よってこの場は空軍元帥たる私、イタロ・バルボが指揮をとる。
 統領の戦死によって徒に市民に動揺を与えるはイタリアのためにならぬ。これより参内するチアーノ伯を除き、ヴェネツィア宮より一切の人間の退出を禁ずる。
 黒シャツ隊は全ての門を封鎖せよ。治療のため医療関係者は宮殿への立ち入りを許可するが、治療後はそのまま宮殿にとどまってもらう」
 そういうと、バルボ元帥は有無を言わさない鋭い視線で周囲、特に黒シャツ隊の隊員達を睨みつけるようにした。


 バルボ元帥の刺すような視線に圧倒されたのか、地球の間に入ってきたばかりの黒シャツ隊の指揮官らしき士官が慌てて敬礼しながら復唱していた。
 その指揮官を無視するように、バルボ元帥は視線をチアーノ伯に戻していた。

「今言ったとおりだ。君はすぐにアックロワーネ公と連絡を取って陛下方に事の次第を報告してくれ。宮内大臣であればこの時間でも宮内省に誰か詰めているだろうから連絡がつくのではないかな。
 それと、間違えるなよ。陛下に拝謁する前に、最初にアックロワーネ公と二人で殿下と連絡を取ってその指示を仰ぐのだぞ。出来れば、俺がヴェネツィア宮を抑えていられる間に海軍の部隊を展開させてここを包囲してこの場の動きを外部に悟られないようにしてくれ」

 チアーノ伯は、バルボ元帥に大きくうなずきながら、そっとムッソリーニ統領の躯を一瞥していた。
 やはり、目を閉じた養父は穏やかな表情に見えていた。その表情が亡くなった実父にも重なって見えたチアーノ伯は、死んだ彼らが自分を後押ししてくれているのだと考えて勢い良く立ち上がっていた。
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