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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1943久里浜―ローマ8

 予定時間からやや遅れて開始されたファシズム大評議会は、当初から大荒れの雰囲気で始まった。
 開始前後こそ唐突に現れたバルボ元帥とそれを歓迎するデ・ボーノ元帥らとの間にただよう何とはなしに和やかな雰囲気があったのだが、それに対抗するように刺々しい口調でムッソリーニ統領が独擅場で最初から話し続けてしまったのだ。

 ドイツのヒトラー総統も相当の長演説だというが、今日のムッソリーニ統領も時間だけで言えばそれに匹敵するのではないのか、一時間を優に超える演説を半ば聞き流しながらチアーノ伯はそう考えていた。
 ただし、事前に文書や書類などの資料を豊富に用意した上に、具体的な数値まで上げられた長時間の演説だったにもかからわず、演説の効果はなかった。

 演説の中身はイタリア軍の無能さを強調し、またグランディ下院議長の決議案に関しては、統帥権は自らが求めたものではなく、周囲が持ち上げたものだと責任を徹底的に他人になすりつけるものでしかなかったからだ。
 また、完全陥落は時間の問題と言っても過言ではないシチリア島の敗色濃厚な戦況への解釈も、現地守備隊であるイタリア第6軍司令官である老将グッツォーニ大将に責任を負わせようとする内容だったのだ。


 陸軍の正規師団、沿岸警備師団を問わず、シチリア駐留の全イタリア軍の指揮を執るイタリア第6軍を指揮するグッツォーニ大将は、強大な戦力を誇る国際連盟軍の上陸作戦を完全に阻止することは難しいと以前から判断しており、シチリア島を捨て駒としてもイタリア半島への敵軍上陸を可能な限り遅延するために、防戦に有利な山岳地帯に防衛体制を敷いて時間稼ぎを行うことを考えていたようだ。
 シチリア島の島内には、島の大きさからすればふさわしくないほど巨大なエトナ山が存在していたからだ。

 幾つもの神話や伝説の舞台ともなっているエトナ山は、イタリア最大の活火山であり、3000メートルを超える標高を有していたが、火山流が作り上げた為か裾野は相当に広がっており、約10個師団を数えるシチリア島駐留の前伊独軍を収容する防御陣地を構築することは、地形を利用すれば短時間で可能なはずだった。

 しかも、シチリア島第2の大都市であるカターニアを見下ろす位置にあるエトナ山の山麓には、当然のことながら島内の主要都市につながる街道が設置されていた。
 街道はカターニアとシチリアの州都であるパレルモや他の都市を結ぶものだけではなく、シチリア島とイタリア半島を僅かな距離で隔てるメッシーナ海峡方面にもエトナ山を囲むようにして伸びていた。

 つまり、ある程度の火力を有する部隊が格好の観測所ともなるエトナ山にこもっている限りはシチリア島内、さらにはイタリア半島へと至る主要街道を瞰制下においてその交通を阻止することが可能だったのだ。
 エトナ山周辺には有力な航空基地がないから防空体制には不安があったが、イタリア半島からの距離は近く、ある程度は本土に駐留する部隊による援護も可能なはずだった。


 しかし、実際には国際連盟軍の上陸直後はグッツォーニ大将の戦略が実行されることなく、上陸直後の敵部隊を目標とした反攻作戦が実施されていた。そのような事態が発生したのは、シチリア島駐留のドイツ軍部隊との調整がうまく行かなかったからだ。
 戦力の温存と防御陣地の活用による徹底的な守勢作戦を主張するグッツォーニ大将に対して、ドイツ国防軍第14戦車軍団を率いるハンス=ヴァレンティーン・フーベ大将はもっと積極的な攻勢案を主張していたからだ。

 グッツォーニ大将のイタリア第6軍司令部に連絡官として派遣されていたエッターリン中将を通してフーべ大将が主張した攻勢案は、いわば攻勢防御とでも言うべきものだった。
 上陸直後で混乱しているであろう国際連盟軍を機動性に劣るイタリア沿岸警備師団で拘束している内に、上陸に伴う支援砲撃を避けて内陸部に掩蔽されていたドイツ第15装甲擲弾兵師団やヘルマン・ゲーリング空軍装甲師団、それにイタリア陸軍の正規師団といった機動部隊を一気に海岸まで進出させて、揚陸作業中の敵部隊を海に追い落とそうというのだ。


 これは厄介な問題だった。フーべ大将の指揮下にある第14戦車軍団には2個師団の兵力しかなく、常識的にはイタリア第6軍を指揮するグッツォーニ大将の方が強力な指揮権を有するはずだったが、先任順はともかく階級では両者は並んでいたし、イタリア軍の多くの部隊は定数をかなり割り込んでいたから、有力な戦車部隊などを有する第14戦車軍団の意向は無視できなかったのだ。

 だから、シチリア島内の戦闘は当初はフーべ大将らの考案した作戦案通りに進められていたらしい。未だ詳細まではわかっていないが、一時はシチリア島の南東及び南西海岸に上陸したばかりの国際連盟軍の防衛線を突破して海岸線が望める地域まで進出した部隊もあったようだ。
 だが、その後は戦線後方を連絡のために移動中だったエッターリン中将の行方不明や、それに乗じたグッツォーニ大将の戦略方針転換によって、当初のイタリア第6軍の作戦案通りにシチリア島中央部のエンナを経由したエトナ山防御陣地への撤退が行われていた。


 ムッソリーニ統領の非難は、グッツォーニ大将のそのようなドイツ軍への協力関係の不足を指摘するものだった。作戦途中で攻勢防御を断念せざるをえなかったフーべ大将はこの方面のドイツ軍の総指揮を取るケッセルリンク元帥を通じてかなり強力な抗議を行ってきたようだった。
 おそらくムッソリーニ統領の非難は、そのフーべ大将の言い分に則ったものなのだろう。

 だがチアーノ伯の知る限りでは、客観的に見ても一方的にドイツ軍の言い分を信用することは出来ないと考えられていた。というよりも、フーべ大将らの主張する攻勢防御案は、実際には現地部隊では実行することが困難だったのだ。
 ドイツ軍が最近になって東部戦線で多用しているとされる攻勢防御を実施するには必要な条件が2つあった。1つは前線で敵部隊を拘束する部隊が、作戦実行期間中に崩壊しない程度の防護力を保有すること。
 もうひとつは火消しともいわれる逆襲部隊が後方まで進出してきた敵部隊の動向に対応可能な機動力と火力を有することだった。


 しかし、シチリア島に駐留する部隊はそのどちらもが不足していた。機動力が無いことから敵部隊の攻勢を支えて拘束する金床の役割を期待されていたイタリア沿岸警備師団の実態は、その名の通り警備部隊でしかなかった。
 実際、シチリア島現地では攻勢作戦に転用された沿岸警備師団が短時間の戦闘で壊滅的な損害を被ってしまったようだった。

 その一方で、機動力を有する火消し部隊の実情も理想とは程遠い状態だった。ドイツ軍の2個師団は連隊規模の戦車隊があったが、イタリア軍は戦車どころか歩兵を輸送するトラックすら不足していた。
 どちらも両軍の一線級の師団であるはずだったが、北アフリカ戦線で大きな損害を被った部隊を再編成する途上にあったから、実働の戦力は大きくなかったのだ。

 自軍の貧弱さに加えて、海軍力において遥かに枢軸軍に勝る国際連盟軍には有力な艦隊による支援砲撃まで用意されていた。
 同時に行われたヴィシー・フランス海軍の高速戦艦部隊による襲撃作戦で大部分の水上砲戦部隊を誘引出来たと枢軸軍中枢は主張していたのだが、現地イタリア軍部隊からの報告によれば、フランス艦隊襲撃の渦中に行われていたはずの反攻作戦時においても、複数の戦艦級艦艇による艦砲射撃が継続していたらしい。
 そのような強力な支援砲火のもとでは、急増の沿岸陣地では長時間耐久することはできなかったのではないのか。


 上陸した国際連盟軍は、日本軍と英国軍を主力とした2方面に分かれていたが、その数は合計して約10個師団相当と見積もられていた。
 この数は防御側の枢軸軍の立場で見ると微妙なところだった。師団の数では敵味方で拮抗しているように見えるものの、その内実は大きく異なっていた。

 独伊両軍が定数を大きく下回る再編制中の状態であるのに加えて、元々機械化率でいえば国際連盟軍に比べればそれほど高くはなかった。
 対して日本軍は列強他国と異なり未だに基幹戦力となる歩兵連隊を師団内に4個保有する規模の大きい4単位制師団を保持しており、さらに日英ともに砲兵火力では砲弾の蓄積量も加えると枢軸軍を大きく上回っていたようだった。
 これに加えて上陸前後には複数の戦艦による艦砲射撃まで用意されていたのだから、余程頑丈に構築された陸上砲台でもない限りは対抗することすら陣地構築の難しい海岸地帯では難しかったのではないのか。


 だが、最初から脆弱な水際陣地での防衛策を捨てて、山麓部の険しい地形を利用してエトナ山周辺に全軍が立てこもるとなれば事情は変わっていたはずだ。
 先の欧州大戦までの戦訓によれば、地形や陣地を駆使して防御戦闘を行う相手に対しては、攻勢側の兵力が三倍は必要であるらしい。その法則に従えば、定数割れや火力不足を考慮してもまだ防御側の枢軸軍のほうが戦力的に優位なのではないのか。

 それに、内陸部にまで敵部隊が進撃すれば艦砲射撃の射程からも逃れられるから、こちらが相手にするのは上陸部隊固有の砲兵部隊だけで済むはずだ。
 後方に枢軸軍から見れば無尽蔵と言っても良い物資を蓄積している国際連盟軍に対して、守勢から攻勢転移を行うのは難しいかもしれないが、当初から戦略的な持久体制を取っていればかなりの長期間シチリア島を保持できたのではないのか。


 軍や政府機関などに幅広く存在する反ムッソリーニ派閥の細胞経由でそのように正確なシチリア島内の戦闘に関する情報を入手していたチアーノ伯は、ドイツ国防軍のフーベ大将の一方的な言い分を完全に信用してドイツ軍への協力姿勢の見られないイタリア軍をなじるムッソリーニ統領を危惧するような目で見ていた。

 ムッソリーニ統領はあまりにも現状を認識していなかった。あるいは、正しく把握していたとしても、自分の中で事実を捻じ曲げて解釈しているのではないのか。
 だが、そのような自分勝手な解釈で現状に対応しようとする姿勢が長続きするとは思えなかった。やがて致命的な破綻をきたすのではないのか。


 案の定、ムッソリーニ統領が喋るのに疲れたのか腰を下ろした瞬間に、怒りで顔を真赤にしたデ・ボーノ元帥が勢い良く立ち上がると、隣りに座るムッソリーニ統領に向かって、現地イタリア軍に代わって悲憤慷慨するように強い口調で抗議の言葉を上げた。
「このような会議室にこもる我々とは違って、現地のグッツォーニを始めとする将兵は一丸となって国土を守るべく連盟軍と正々堂々戦っておる。全イタリア軍の指揮をとるべき統領が軍人の名誉を貶めるようなことを発言するとは何事か」

 ほとんど感情の赴くままに叫んだようなデ・ボーノ元帥に続いて、党元老のデ・ヴィッキが流石に落ち着いた口調だったが、元帥に完全に同調するような意見を述べていた。
 だが、デ・ヴィッキの発言が特徴的だったのは、ムッソリーニ統領に対して敬称を廃して同格にたった口調だったことだった。
 20歳近くも年の離れたデ・ボーノ元帥はともかく、これまで同世代のデ・ヴィッキなどがムッソリーニ統領に対して少なくとも形式上は敬意を無視してきたことなど無かったのだ。
 デ・ヴィッキがそれを意識していたのかどうかはチアーノ伯には分からなかった。

 ただ、デ・ボーノ元帥とデ・ヴィッキの二人の発言がきっかけとなって、ファシズム大評議会が開かれているオウムの間が完全にムッソリーニ統領攻撃の場になってしまったのは事実だった。
 グランディ下院議長を始めとする反対派が次々と立ち上がって発言の機会を得ると、ムッソリーニ統領を強い口調で批判し始めていた。


 チアーノ伯は、そのような反対派の発言を冷やかな目で見ていた。反対派の多くから結局は、ムッソリーニ統領を蹴落として自分たちが後釜に座ってファシスト党政権を継続しようとする浅ましい本音が見え隠れしていたからだ。
 つまり、このファシズム大評議会は突き詰めてしまえばファシスト党首脳陣による戦争責任のなすり合いに過ぎなかったのだ。
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