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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1943久里浜―ローマ2

 奥の部屋は静まり返って人の気配が感じられなかった。この襖紙の向こうに、本当に十寸穂の言ったとおりに誰かがいるのか、後藤は訝しんでいた。
 だが、先に立つ永田大将は無造作に襖を開け放っていた。

 部屋の中央にはいくつかの薄い座布団が投げ出されるように置かれていた。予めどれほどの人数が来るのか聞かされていなかったのか、数は人数と合わなかった。
 その座布団の一つだけが部屋の作りに直角に配置されて、一人の男が端座していた。細面の男は年の頃は永田大将と同じようだった。陸軍士官学校では二人は同期であったと聞いていたから、同年か精々一つ違いといったところのはずだった。


 細面の男は、陸軍中将の小畑敏四郎だった。今次大戦勃発前には待命して予備役に編入されていたが、最近になって招集を受けて元の中将に復帰していたはずだった。
 永田大将と小畑中将は陸軍士官学校以前の中央幼年学校在籍時からの同期で、高級士官の教育機関である陸軍大学校でも同期の間柄だった。それだけではなく、陸軍大学校こそ後年の入学となったが、士官学校では同期だった岡村大将を加えた三人で陸軍三羽烏などと呼ばれていたらしい。

 ただし、この三人は単に優秀であったから一纏めにされたわけではなかった。三人が明治維新以来連続して弊害となっていた藩閥体制の解消を目指して活動していた一夕会なる私的会合の中心とされていたからだった。
 一夕会にはこの三人のほか現在陸軍大臣を務める東條中将や欧州で遣欧第1軍司令官を務める山下中将といった逸材がそろっていたらしい。


 明治維新においては薩摩、長州、土佐、肥前の倒幕派の藩に加えて、幕府内の体制内異分子とも言える水戸藩が明治政府樹立の中核となったとされていたが、海軍においては水戸藩出身者などが主流となりながらも、その後は戦力整備方針による違いや兵学校の席次と言った本人の出身以外の因子による派閥が形成されていったのに対して、陸軍では大正の時代になっても以前の長州閥が幅を利かせる体制が続いていたらしい。

 だが、海軍のように方針による派閥ではなく、出身地閥によって要職を独占する体制が健全とは言えなかった。
 特に先の欧州大戦に出征して総力戦体制における火力戦を実体験として持った若手将校らは国家総動員体制の確立、軍の近代化を強く意識するようになったらしい。

 国力の全てを注ぎ込み前線での一大消耗戦に勝利を得るための国家総動員体制を構築する段階において、本人の能力や思想ではなく出身によって立身出世が決まってしまう藩閥政治は弊害しかもたらさないと若手将校らは考えるようになっていたのではないのか。
 そこで当時の永田大将や小畑中将は藩閥による派閥争いの解消を目指して、真崎甚三郎や荒木貞夫といった非長州系将官の擁立を目的として一夕会を結成していたのだろう。


 だが、その後は長州閥に属さない荒木が陸相に、真崎が参謀次長に就任するなど陸軍内は藩閥体制の解消に向かったものの、今度はその立役者であった一夕会の面々が二手に分かれて争うことになった。
 それが荒木、真崎らを中核に青年将校らが集まった皇道派と、永田大将や東條陸相らを中心にした統制派だった。
 皮肉なことに藩閥体制という派閥争いを集結させた一夕会の面々が、今度は皇道派と統制派という新たな派閥抗争を開始してしまったのだ。

 無論この新たな派閥は出身地によるものではなかった。荒木の発言や過激な青年将校らの存在から皇道という時代の掛かった派閥名とされてしまっていたが、実際には両派閥の構成員が自らを皇道派、統制派と名乗っていたわけではなく、外部の者が両派閥を呼称する便宜上のものであったようだ。
 極論すれば両者の違いは陸軍の将来軍備、ひいては戦略方針にあった。


 統制派は先の欧州大戦のような総力戦を前提とした戦略を構想していた。塹壕などの野戦築城技術の発達した中で行われた欧州大戦は、戦局を決する決戦でも、機械力を活かした機動戦でもなく、前線では国家の総力を上げた一大消耗戦が行われていた。
 さらに日本軍が西部戦線に本格的に参戦した末期の頃には、一大陸軍国家だったフランスやドイツでも動員可能な人的資源が払底して、兵力や練度の不足を機関銃や火砲の増備や準備砲撃時間の延長で補おうとする火力主義が優勢となっていた。
 そのために前線で消費される銃砲弾薬の量は限りなく増大しており、単に前線に展開する兵力の多寡よりも、どれだけ多くの砲弾を生産して前線まで輸送できるかという、まさに総合的な国力そのものが問われる戦闘が行われていたのである。

 この国力の増大を重要視したのが統制派と言っても良かった。戦時における一大消耗戦に耐えうる国力や技術力を育成するために、平時においては何ら生産活動に寄与しない軍備を制限してその分の予算を工業力の増大などに注ぎこむのである。
 その一方で砲兵や工兵、さらには航空といった特殊な兵科の部隊は平時から増員を図ると共に、歩兵科などでは下士官や下級士官の比率の向上や教育を推し進めることになる。

 機械化された特殊な兵科は、教育に時間がかかるために平時から計画的に整備を行わなければならないし、主力となる歩兵部隊では平時は抑えられていた兵員数を戦時動員にて急拡張する場合に基幹となる要員の育成を図らなければならなかったためだ。
 戦時に動員される予備役兵や後備役兵、新兵の練度は低くはなるが、古参の基幹要員がいれば短時間でとりあえずの部隊にはなるし、練度の低さを補うために平時から育成された砲兵や戦車部隊による火力支援が想定されていたのだ。


 だが、平時における最大戦力単位である師団の削減をも含む宇垣軍縮によって陸軍内が総力戦体制へ指向するなかで、そのような意向に憂慮して皇道派が形成されていた。
 皇道派は統制派とは真逆に平時から大規模な兵力を維持し、その大戦力を用いて緒戦にて敵軍を包囲殲滅する短期決戦を指向していた。

 常備兵力の増大は、それを維持するために平時における軍事予算の増大を意味するから、整備に予算が掛かる戦車や航空機部隊の新設や砲兵隊の増強を行うのは難しくなる。
 しかし、皇道派の主張では、元々欧州列強に比べれて国力に劣る日本帝国には長期戦に対応した工業力も弾薬製造能力さえないのだから、軍の機械化という小手先の対応を行っても火力を長期間維持できない事になり結果的に無意味ではないのかというのだ。

 だが、短期決戦であれば工業力の大小ではなく、開戦時点でその場に居合わせた兵力の多寡や兵の練度で優劣が決せられるから、平時から常備兵力を大規模に整備していた方が有利だというのだ。


 この両者の争いは長く続き、その間に三羽烏と謳われた三人も小畑中将が皇道派に、永田大将と岡村大将が統制派に分かれてしまっていた。
 当初は、かつて一夕会として纏まっていた彼らが推していく対象だった真崎甚三郎、荒木貞夫といった将官が中核となったことで皇道派に有利な状態であったのだが、政治力や長期的な視野に彼らが欠けていた事、士官学校を出て間もない青年将校が主要な構成員であった皇道派には軍政能力に長じた中堅層となる軍官僚の数が少なかったこともあり、陸軍外の政府や他省部からの信用は低かった。

 最終的に政治的に何ら結果を出せずに次第に青年将校からの突き上げを受けた両将官は更迭され、小畑中将らの幹部も閑職に回されるか予備役編入が相次いでいた。
 一部の過激な青年将校も粛軍の対象となり予備役編入されたものもいたらしい。そして中心人物を失った皇道派は、自然と瓦解していったのだ。


 このような結果だけを見れば、派閥争いには統制派が勝利したようにも思えた。
 かつての陸軍三羽烏の三人が統制派の永田、岡本が大将に昇進するなかで、かつて皇道派に与していた小畑が中将に留まっていたのもその証拠だったのではないのか。

 だが、後藤の見る限りでは実際には事態の推移はそのように単純なものではなかった。

 確かに真崎や荒木といった皇道派将官が排斥された後の陸軍は、幾つかの師団が平時においては司令部や教育部隊のみを有する予備師団化される一方で、砲兵、戦車隊といった重装備の機械化部隊への相次ぐ新兵器の導入や、歩兵科の一部と騎兵科が統合して誕生した騎兵科の創設など、企画院とも気脈を通じた統制派の方針に従って戦力整備が行われていた。

 また、日露戦争の戦訓から砲兵、工兵部隊の増強を継続するとともに、先の欧州大戦において本土が戦場となった友邦三国同盟に代わって多くの軍需物資の生産を行っていた日本帝国の砲弾などの生産能力は増大しており、近隣にシベリアーロシア帝国や満州国、列強植民地などの資源地帯を抱える事を考慮すると日本帝国の国力は列強に匹敵するまでに成長したと考えてもおかしくはなかった。


 それらの点では日本帝国の生産力に対する皇道派の懸念は杞憂に過ぎなかったわけだが、統制派の構想が全てうまく行ったわけではなかった。特に戦時体制への移行は望むようには進んでいなかったとも言えた。

 軍部や政府の想定以上に急速に進んだ工業化は、海外への移民を停止させるだけではなく、これまで有力な兵士、下士官層の供給源だった農村部の余剰人口を吸収するに至っていた。
 これにより戦時において軍需物資の生産に転用可能なものを含めて、日本帝国は国際連盟軍の最終的な兵站拠点としての機能を満たすほどの生産力を発揮できることを意味していたのだが、その一方で動員計画を立案する企画院の提言によって召集される予備役の審査が行われた結果、予備師団の充足率は低いままになっていた。

 本来であれば参謀本部などでは欧州に派遣された遣欧軍を強化するために、予備師団の現役化を図って一挙に師団単位の増援を送りたかったようだが、戦時における生産体制の強化を優先する企画院や統合参謀部は、この数十年で地方にも分散された各種工場や下請けなどで勤務する工員や技師の召集を見送っていたのだ。


 戦前に立案されていた動員計画では、平時から充足率が高く緊急即応部隊とされていた第5師団や、機甲化されたことで職業軍人である特殊兵科の比率が上がっていた第7師団の派遣で時間をかせぐ間に、予備師団を含む他師団を召集された兵員で充足させて戦時編制とする予定だった。

 しかし、生産力の低下を防ぐということに加えて、全面的な動員体制への移行が、シェリーフェン・プランに従ったドイツ帝国の動員開始が先の欧州大戦開戦の切っ掛けの一つになったとも言われるように、友邦シベリアーロシア帝国と敵対しながらも今次大戦においては国際連盟軍と敵対する枢軸国と交戦する敵の敵とも言うべき曖昧な立場にあるソ連を過剰に刺激するのではないかという懸念もあり、意図的に招集率は低められていた。

 結果的に、戦闘機や戦車といった兵器や弾薬、被服などの消耗品といった軍需物資の生産や輸送能力の拡大が図られ続けた一方で、これまで欧州に派遣された日本陸軍の兵員数は少なかった。

 最近になって高田の第13師団が予備師団から現役化されて前線に送られたものの、本来の動員計画では師団司令部のある新潟県を管轄区域とする仙台師管区から召集された兵員で師団を充足させるはずだったのだが、実際には特定の師管区から集中的に招集するのが難しかったために日本各地から召集された兵員や予備役召集を受けた士官をかき集めて編成されていた。
 他の師団も前線に送られた師団の損害を回復させる為の兵員の充足で手一杯であり、歩兵部隊の抜本的な増強は現在の状況では難しいようだった。


 最も、企画院で動員計画に関する数値を日々確認している後藤は、遣欧軍の幹部が催促するような悪戯な召集体制の増強、師団の増設や動員の強化は必ずしも国際連盟軍全体の強化にはつながらないことを確信していた。
 ソ連への警戒と言った側面を無視するとしても、もしも強引な動員を行ってしまえば、日本帝国の生産力が大きく低下することは間違いなかったからだ。

 戦前の計画ではそれこそ女性などの生産現場への進出を促して、その分の工員を前線に送るという基本原則であったのだが、もはや前線で消耗される増大する一方の各種物資の供給量を確保するためには、熟練工の招集など実際には不可能であり、女性や若年層の工員の増員は焼け石に水に過ぎなかったのではないのか。

 かつての皇道派やそれに近しい立場にあった将校の中には、この召集の遅れをもって統制派やそれに繋がる企画院を批判するものも少なくなかったが、後藤にはそれは筋違いとしか思えなかったのだ。
 もしも彼らの思惑通りに事態が進んでいれば、今頃は戦車や戦闘機もなしに多くの兵士が日本から遠く離れた地で銃剣で敵と渡り合う羽目になっていたのではないのか、


 彼らが入室してから、瞑目して端坐する小畑中将の目がゆっくりと開かれていた。その頃にはもう永田大将も座布団の一つを掴んで中将の前に陣取っていた。位置を直すこともなく長谷も座布団に座ってしまったので、後藤も慌てて自分の分を確保していた。
 後藤が音を立てて座り込んだのを呆れたような目で見てから、永田大将が親しげな様子で口を開いていた。

「今日は正式な場ではないから、貴公も楽にしてくれ。すでに予備的な話はきていると思うが、貴公が現在欧州に派遣されている遣欧第1、2軍を統括する遣欧方面軍の司令官に親補されることになったのだが、その前に方面軍の補給や状況を説明する必要があってな。
 特に今日は兵站に関しての情報があるために企画院からも来てもらった」
 永田大将は、古い付き合いのせいなのか珍しく親しげな口調だったが、小畑中将は表情を固くしたままだった。

 その様子を後藤は重苦しい思いで見つめていた。皇道派の中核であった小畑中将が現状をどのように捉えているのか、それがわからなかったからだった。
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