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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1916ユトランド沖海戦

 何故、俺はこんなところにいるんだろう。
 急速に激しさを増していく艦橋の中で、特に仕事を与えられているわけでもない栗田中尉は、恐怖を紛らわせるためか、そんなことを考えていた。
 日本海軍特務艦隊の派遣以降、観戦武官の任についていたものは、そのまま日英両海軍の艦隊運用を円滑なものとするために連絡士官の任についていたが、今現在はさしあたってするべき任務もなかった。
 栗田中尉は、艦隊司令部の編成上ではビーティー中将に直率する形だったが、中将自身も艦隊に対する命令を出し終えた後は、しばらく押し黙っていた。
 旗艦ライオン個有の将兵や、司令部の幕僚らが砲撃戦を実施すべく忙しく命令を下し、受けている間、ビーティー中将と栗田中尉は共に彫像のように押し黙っていた。
 自艦の砲撃、着弾による衝撃にも微動だにしなかった。
 周囲の将兵達の少なからぬ数が、外見からは恐怖の色も見せぬそんなビューティー中将と栗田中尉の二人を見やって尊敬の目を向けていた。
 眉一本動かさぬまま、栗田中尉はそんな将兵の態度をみて、自己嫌悪に陥っていた。
 何故、みんな俺がただの見掛け倒しだと気がつかないのだろう。
 それは、栗田中尉が海軍に入ってからずっと考えていたことだった。


 栗田中尉が海軍兵学校を卒業したのは今から六年前、1910年の事だった。
 兵学校の卒業成績順位は悪いどころではなかった。クラスヘッドには程遠いが、少なくとも上の下か上の中には入る優秀と言って間違いない成績だった。
 だが、帝国海軍の重鎮達の何人かにとって当時の栗田少尉の成績はまだ不満足なものだった。
 奇妙なことに、同時にそうであっても当時の栗田少尉を彼らが特に目をかけることは間違いようのない事実だった。
 彼ら、つまり帝国海軍重鎮の中で次第に影響を薄めつつも、未だ隠然たる勢力を誇る水戸閥にとって栗田海軍少尉は期待の星であったのだ。
 水戸市に根付いた栗田家は、栗田中尉の祖父、父と二代続いた国学者の大家として知られていた。
 栗田中尉の父は、有名な大日本史が完成した時の編集員として知られていたが、むしろ個人として有名なのは祖父の栗田寛の方だった。
 水戸藩、いや日本国幕末期の偉人の一人とされる藤田東湖に栗田寛が師事していたからだ。
 元々、大日本史を編纂する彰考館に小僧として入った栗田寛は、藤田東湖らにその才覚を認められ、可愛がられていたらしい。
 武士の出ではなかったが、異例なことに藤田東湖に従って幕末期に上京し、御陵衛士の一員として活躍した話は、それから50年も経たぬのに伝説とかしていた。
 栗田寛が英雄的な活躍をしたというわけではない。もちろん少なからぬ役目を果たしたのは事実のようだったが、それよりも新政府樹立直前の京都動乱でその構成員の殆どが戦死した御陵衛士の、数少ない生き残りとして有名となった。

 だが、新政府樹立、東京への遷都の後は、栗田寛は政治の表舞台から姿を消した。彰考館に戻った栗田寛は、藤田東湖ら幕末の動乱で亡くなった者たちのあとを埋めるように、再び国学者として大日本史の編纂に従事し、また、水戸学の後継者育成へと取り組んだ。
 あるいは、水戸閥の軍人らが、栗田寛を高く評価する理由はこの行為にこそあったのかもしれない。
 政治の表舞台で何かを成し遂げ、そして本人は賞賛を受けることなく在野へと雌伏する。だが一朝事あらばふたたび立ち上がり、名を残す。
 それは彼らが信奉する藤田東湖の生き方そのものではなかっただろうか。

 だが、晩年の祖父を見ていた栗田中尉は、単に彼が歴史が好きで、政治に興味がなかったから国学者としての道に戻っただけなのではないかと考えていた。
 晩年の栗田寛は、気難しく、孫を可愛がるよりも子や孫が、自分が成し得なかった大日本史の完成へと携わることを望む、偏屈な老人としか栗田中尉には思えなかった。
 しかし、周囲はそうは考えなかったようだった。

 藤田東湖が、その最後の年に御陵衛士の首領として活躍したようには、栗田寛の人生の最後は劇的なものとはならなかった。
 彼はで一人の国学者として死んだ。
 そして、その娘婿である栗田勤も国学者であった。
 だが、そうであっても水戸閥は栗田家を名家の一つとして扱っていた。
 軍人の道と同じく、水戸学の大家もまた、水戸の人間にとっては尊敬すべき家系であったからだ。
 だから、栗田寛の孫である、栗田健男が海軍軍人としての水戸を歩まんと決意した時、周囲の目は期待に満ちたものであったのである。
 あるいは、彼こそが、在野へと雌伏していた栗田家にとって、天狗党、御陵衛士をまとめ上げた頃の晩年の藤田東湖の再来となるのではないかと思われたからだ。

 だが、栗田中尉が国学者の三代目としてではなく、海軍軍人としての人生を歩むことを決意した理由は、藤田東湖のように藩だとか国だとかの為というわけではなくもっと単純なものだった。
 少年時代の海への憧れが一因であることは間違いないが、それよりも祖父や父への反発、あるいはコンプレックスであったような気がする。
 ―――要するに親父や爺さんのような学者になるにはオレの頭は悪かったのサ
 同期や後輩達に海兵への志願理由を聞かれた時には、栗田中尉は最後にはそう答えていた。
 しかし、栗田中尉がどう思おうとも、周囲はそうはとらなかった。水戸閥にとって彼は英雄の血を受け継ぐ将来の派閥首領であったのだ。

 だから、海軍兵学校を卒業した後も、栗田中尉にはそういった水戸閥の面々からの庇護や支援が絶えなかった。
 問題は、英雄になどなるつもりの無い栗田中尉にはそういった行為はありがた迷惑にしかならなかったということだった。
 おそらく、英国海軍への連絡士官としての派遣、それも本大戦において速力と砲力から有力な艦隊主力の一翼としての地位を高めつつある、ビーティー中将指揮下の巡洋戦艦艦隊旗艦への配属という抜擢を受けたのも派閥の力関係が働いたのだろう。
 第一、本来なら敵艦隊と遭遇する確率の高い巡洋戦艦部隊旗艦乗り組みの連絡士官であれば、栗田中尉よりも先任の下村少佐の方が適任ではなかったのか。
 実際、栗田中尉が着任するまでは、下村少佐がビーティー中将の連絡士官として旗艦ライオンに乗り組んでいたのだ。
 特務艦隊の増援と同時に行われた連絡士官の増大によって、栗田中尉他の士官たちが着任した。
 それと共に、それまで連絡士官が着任していなかった総旗艦アイアンデュークへと下村少佐が派遣されることとなった。

 これは、見方によっては、下村少佐は、栗田中尉の着任によって、活躍しそうな部隊から押し出されたある種の左遷となってしまうのではないのか。
 確かに総旗艦への着任は栄転に見えるが、これまでの本大戦での稼働率を考慮すれば、むしろ巡洋戦艦部隊のほうが主力になっているからだ。
 だが、下村少佐は、栗田中尉ににやりと笑みを浮かべただけだった。その目は、ほかの派閥の男たちと同様に、将来の提督候補生に勉強してこいといっていたような気がする。
 下村少佐は米沢の出身で水戸閥の人間ではなかったはずだが、幕末期の海坂藩や奥羽越列藩同盟に参加していた藩の出身者には、水戸藩による新政府へのとりなしに恩義を感じているものが少なくないという。
 だから、陸の会津閥もそうらしいが、大正の時代になったいまでも、奥羽の諸藩出身者は緩やかな水戸閥の一員であるともいえた。
 おそらく下村少佐も、派閥からの働きかけか、説明が栗田中尉の着任前にあったのだろう。
 またもや本人のあずかり知らぬところで派閥の力が動いていた。栗田中尉には面白く無い話だった。
 だからなのだろうか、いつの間にか、栗田中尉は周囲の本音を話すことなく、仮面をかぶるように表情を消していった。
 それがまた、晩年の藤田東湖の伝説に重なっているようで、栗田中尉の知らぬところで評価を上げていったのだが、本人は自分をただの見掛け倒しと判断していった。


 栗田中尉の思惑など関係なしに、事態は動き始めていた。敵艦隊の発見、砲撃戦の開始からわずか30分ほどしか経ってはいなかった。
 最初は英艦隊による命中弾の発生だった。

 どうやら複数の敵艦に命中弾がほぼ同時に発生したらしい。見張り員からの報告は抑制されてはいたが、喜色を完全に隠すことはできていなかった。
 これまでほぼ同時に発砲を開始したにもかかわらず、一方的に叩かれていた英国艦隊の士気はあがっていた。
 ライオンの艦橋でも、複数の将兵がお互いに笑みを見せ合っていた。ビーティー中将はわずかに頷いただけだった。
 しばし起きた喧騒のなか、栗田中尉は僅かに眉をしかめていた。
 一方的な展開は脱したものの、英独海軍艦艇の命中率に差が出てきているのは間違いなかった。
 英国海軍式の優秀な射撃指揮装置を背景とした射撃誤差修正方式よりも、独海軍の光学観測を重視しているらしい砲撃法の方が有効なのだろうか。
 だが、二年前の開戦以後、幾度か行われた海戦では、彼我の命中率にさほどの違いは出ていない。
 とすれば、これまで敗北を喫していない英海軍のほうが、どちらかと言えば負け続けている独海軍よりも戦訓やそこから得られた新戦術、新手法の取り入れに熱心ではないということなのかもしれない。
 いずれにせよ、この海戦後に、この彼我の命中率の違いを数値化し、その理由を明らかにする必要があるだろう。
 戦況をどこか他人ごとのように感じながら、栗田中尉はそう考えていた。
 今は連絡士官としての任に付いているが、英国海軍本国艦隊に編入された日本海軍艦艇が比率から言えばごく少ない事を考えれば、栗田中尉達の任務が、連絡士官と同時に、観戦武官のように戦訓を調査することも求められているのは間違いない。
 だが、栗田中尉が考えていられたのはそこまでだった。

 背後からの轟音と同時に、これまでとは比べものにならない衝撃が艦橋内を襲った。
 これまで不動だった栗田中尉とビーティー中将も床へと投げ出された。二人は同時に立ち上がろうとしてお互いに顔を見合わせた。
 床が傾斜していたり、艦橋構造が破壊している様子はなかった。ライオンへの命中弾があったようだが、致命的なものではなかったようだ。
 背後からの衝撃があったということは、機関部か、後方に向けられた砲塔に着弾したのだろうか。
 疑問への回答はすぐにもたらされた。艦橋に詰めている見張り員からの報告だった。
 彼らもかなりの衝撃が襲ったはずだが、いち早く職務に復帰しているのは見事だった。
 だが、見張り員の声は内心の衝撃を表すかのように震えていた。どうやら着弾はQ砲塔に命中したらしい。
 栗田中尉は、ビーティー中将に素早く視線を向けた。中将がわずかに頷いたのを確認すると、中尉は素早く艦橋後部へと向かった。
 見張り員の目で見るよりも、自分の目で確かめたほうが正確だった。栗田中尉は、艦後部を見てわずかに眉をしかめた。
 艦中央部に位置するQ砲塔は上部装甲がかち割られていた。装甲には着弾のあとらしい大穴が開いていた。
 ただし、煙や閃光は見えなかった。おそらく砲塔内部での応急処置がスムーズにいったのだろう。
 この時期の英国海軍では、発砲間隔を短縮するため、弾庫から危険なほど多数の砲弾を持ちだして、予め薬室の近くに準備する傾向にあったから、着弾から即誘爆へと至る可能性すらあった。

 栗田中尉は再びビーティー中将の元に戻った。手短にQ砲塔の状況を伝達すると同時に、伝令がQ砲塔長との連絡が途絶えたことを伝えた。
「どうやらハーヴェイ少佐は勇敢に働いてくれたようです」
 チャットフィールド艦長がビーティー中将に言った。砲塔長が、艦長が何かしらの命令を下す前に、自己判断で弾庫への注水を実施したのだろう。
 中将は頷いた。だが、それ以上の命令を下そうとはしなかった。現状は我が不利であったが逃げ出すわけには行かなかった。
 それに、ビーティー中将直率の六隻の巡洋戦艦の後方には有力な艦隊が追随していた。彼らが戦闘に加入すれば戦況は一変する、筈だった。

 しかし、ライオンの艦橋を、再び衝撃が襲った。
 今度は物理的な衝撃はさほどのものではなかった。むしろ最初はドロドロという低い音響が聞こえた。この艦に被弾したわけではないらしい。
 再び見張り員からの報告が入った。
「最後尾、インディファティガブルが離れます」
 栗田中尉だけではなかった。何人かの司令部要員が双眼鏡を艦隊後方へと向けた。
 たしかに、最後尾をいくインディファティガブルが傾斜しながら戦列を離れようとしていた。
 緊急回避などの命令のない戦術行動をとっているにしては不可解な光景だった。角度が悪くてよく見えないが、おそらく艦後部、舵機付近へ命中弾があって舵が効かなくなてしまったのだろう。
 そして、インディファティガブルを見守っていた数人の士官は、その瞬間を目撃することとなった。

 完全に戦列を離れたインディファティガブルに再び独艦からの砲撃が着弾した。
 命中弾は複数あったらしい。それに戦列から離れたことで敵艦からの砲撃距離も伸びていたから、砲弾は、舷側装甲ではなく、垂直に近い落角をもって水平装甲へと命中していた。
 インディファティガブルの脆弱な水平装甲は、独艦から放たれた砲弾に耐えられなかった。
 栗田中尉は、上空から何かがインディファティガブルの水平甲板に突き刺さった、様な気がした。実際には弾速からいって、視覚で捉えられる速度だったとは思えない。
 だが、弾着による影響は、着弾の次の瞬間に現れていた。ライオンと比べても小さな、角張った艦橋と、その後方の三本マストで支えられた射撃指揮所が消滅していた。煙突も中央部がかけているような気がする。
 さらに、次の瞬間にインディファティガブルに破局が訪れた。
 巨大な、数百トンもある連装砲塔が爆発によるものだろう赤い火炎と共に拭き上げられた。だが、砲塔を吹き飛ばしても、誘爆で艦内に生じた爆圧は十分に低下しなかったらしい。
 吹き飛ばされた砲塔が、ふたたびバーベットへと戻るよりも先に、船体を構成する鋼材が爆圧によって折り曲げられ、破断していた。
 誘爆はまだ続いていたが、インディファティガブルの運命はすでに決していた。
 栗田中尉たちが見守る中で、巡洋戦艦インディファティガブルは海底へと没していった。

 ライオンの艦橋をひどく沈んだ雰囲気が襲った。
 今のところ、艦数で見ればむしろ優勢であったはずのドイツ艦隊に対して、さしたる損害を与えているように見えないのに、一隻が撃沈され、隻数で同数へと並ばれてしまった。
 これで意気消沈しないほうがおかしかった。
 だが、彼らを率いるビーティー中将は無言のまま、艦橋の窓から彼方を見つめていた。
 こちらに向けて砲火を放つドイツ艦隊を見ているのではなかった。ドイツ艦隊のさらに後方を見ていた。
 なにがそこにいるというのか。栗田中尉は怪訝に思ってその方角を見た。
 一帯を覆う靄に邪魔されて、一万五千ほどの距離にあるドイツ艦隊は視認性が低下していた。
 だから、そのさらに後方から放たれた砲撃を示したのは発砲による赤い閃光だけだった。
 砲声が聞こえてきたのはそれから一分半ほど経ってからだった。
 それよりもずっと早く、ドイツ艦隊の周囲に弾着によって巻き上げられた水柱が立ち上がっていた。
 そして、砲声が聞こえたのとほぼ同時に、伝令からの弾んだ声がライオンの艦橋に響いた。
「通信室より連絡、現在友軍艦艇よりの通信を受信中。本文…ワレヒエイ、ワレヒエイ…日本艦隊です」
 ビーティー中将は、栗田中尉の方を見て満足気に頷いた。
 どうやらようやく味方艦隊、日本海軍第三特務艦隊が戦闘に加入したようだった。




「これは、どうなっているんだ…」
 戦艦比叡の狭苦しい艦橋から、高倍率の双眼鏡で敵艦隊の様子を観察していた小杉少将が思わずつぶやいていた。
 36センチ主砲の連続射撃中にもかかわらず、そのつぶやきを聞きつけた参謀長の一条大佐が表情を変えぬまま僅かに首をかしげながら言った。
「九割九分、敵ドイツ海軍艦隊です」
 少将は眉をしかめ、不機嫌そうな声で言った。
「そんなことは分かっている…我が艦隊は巡洋戦艦四隻、ビーティー中将指揮の艦隊は…一隻減っているようだがまだ五隻が健在だ。これに対して敵艦隊は五隻、ほぼ倍の戦力なのだから敵に勝ち目はない…そうだな?」
「理性的な指揮官であれば、誰でもそう判断するしかありません」
 それを聞くと、小杉少将はさらに表情を不機嫌にさせていった。
「ならば、何故奴らは脱出せずに漫然とビーティー中将達と砲撃戦を続けているのだ」

 小杉少将の言うとおりだった。リッツォーと思われる巡洋戦艦を先頭としたドイツ艦隊は、比叡を始めとする第三特務艦隊主力の金剛型巡洋戦艦四隻からの砲撃を浴びながらも、英巡洋戦艦部隊との同航砲撃戦を続けていた。
 命中弾こそないが、比叡から順に敵一番艦から四番艦までを射撃している第三特務艦隊の中には、すでに挟叉を得ている艦もあった。
 ふと小杉少将は何かに気がついて、一条大佐に振り返った。
「九割九分で敵艦隊…残りの一分は何だと考えている?」
 大佐は無表情のまま、さして迷いもせずに言った。
「ドイツ海軍の光学的な欺瞞。全ての見張り員の集団幻覚。この海域特有の未知の自然現象、あるいは蜃気楼。あるいは味方艦隊の誤認…」
「もういい。いくら靄に包まれているとはいえこの距離で敵艦隊を誤認などするものか」
 一条大佐が抑揚のない声で続けるのを小杉少将が遮った。最後の可能性にだけ反応したのは、それ以外があまりにも馬鹿馬鹿しく思えたからだ。
「あれが敵艦隊であることは間違いない…だとすれば、奴らがあのまま砲撃戦を続行している意味をどう見る」
「第一に、敵が勝てると判断している場合」
「勝てる?兵力差が倍近く…いや、トマス少将の戦隊が合流すれば三倍近くにもなるのにか」
 呆れたような声で小杉少将が言った。やはり一条大佐は淡々と答えた。
「敵艦の性能が我軍の予想をはるかに超えている可能性も」
「そのようなドイツ海軍の技術力を英国情報部がつかみそこねていたというのか」
 小杉少将は首をすくめたが、その動きは精彩を欠いていた。

 第三特務艦隊を含む日本海軍遣欧艦隊は、英国主導で行われたガリポリ上陸作戦の終盤において、英国情報部や参謀部の甘い判断のつけを払うためにかなりの損害を被っていた。
 その経験から、特に遣欧艦隊の上級指揮官は、英国海軍はともかく、英国諜報部からの情報を常に疑うようになってしまっていた。
「もっとも、私は英国情報部をもう少し高く評価しています。この可能性は殆ど無いでしょう。もし敵が自らの勝利を信じているのならば、それは敵指揮官の精神状態に原因を求めるべきかもしれません」
 小杉少将は、半ば呆れたような表情になった。
「事前情報を信じればだが、敵高速艦隊の指揮官はヒッパー提督だ。ヒッパー提督が指揮した今次大戦の幾度かの戦闘を見るかぎり、彼は冒険的ではあっても狂人であるとはとても思えん」
 まるで小杉少将の言うことを全く聞いていなかったかのように、一条大佐が続けた。
「第二の可能性として、敵艦隊が高速の、彼らの分類で言えば、偵察艦隊であることに留意すべきかもしれません」
 怪訝そうな顔で小杉少将が向き直った。
「どういう意味だ、あれが敵主力ではないことはわかるのだが…」
「後方には戦艦を中核とした敵主力艦隊が航行中であると思われます。おそらく、あの敵艦隊は我が方をそこまで誘引するつもりなのでしょう」
 それを聞くなり、小杉少将は、これまでの精彩を欠く表情を消し払ってニヤリと笑みを浮かべた。元々、少将は攻撃的な指揮官として知られていた。
 海上護衛を主任とするであろう第一、第二特務艦隊ではなく、巡洋戦艦を主力とする第三特務艦隊の指揮官に選ばれたのも、その果断な性格を考慮されてのことではないのか、艦隊内ではそういう噂が飛び交っていた。

「それだな、そうに違いない。相手の艦隊を主力艦隊で各個撃破する。見事に決まればこれほど効果的な作戦はあるまい」
 一条大佐は、やはり表情を変えぬまま今後の艦隊軌道を尋ねた。もっとも、小杉少将の判断はすでに予想していた。
 艦隊指揮官である小杉少将や参謀長一条大佐だけではなく、第三特務艦隊の司令部要員は遣欧艦隊に編入された当時からほとんど変わっていない。
 すでに、相手の考えを読み取ることくらいはできていた。
 だからこそ果断な判断を下す指揮官の元に、慎重すぎる性格の参謀である自分が配属されたままなのだろう。一条大佐はそう判断していた。

「迂回挟撃準備!最大戦速で敵艦隊を一旦追い抜かす。その上で単縦陣のまま敵前で丁字を描いてこれ以上の南下を阻止する。我が艦隊とビーティー中将、トマス少将の三個艦隊で敵を揉み潰すぞ」
 小杉少将が、目を輝かせながら、勢い良く言い終わるのと同時に制止の声が2つ上がった。
「反対です」
「それは危険です」
 制止の声を上げた二人は、顔を向け合った。ほんの僅かに面白そうな顔になった一条大佐は、相手に先に話すように促した。
 カナンシュ英国海軍サブルテナントは、日本人ばかりの比叡艦橋で、臆す事無くキングスイングリッシュで喋り始めた。
 英国海軍から派遣された連絡士官であるカナンシュは、艦隊司令官と参謀長の掛け合いをどこか馬鹿馬鹿しそうな目で見ていた。
 自国の諜報部を侮辱されていると感じていたからだ。
 カナンシュは連絡士官としてこの司令部に配属されてからずっと、司令部人員に馴染めないものを感じていた。

「現在、我が戦隊は、ビーティー中将指揮の巡洋戦艦部隊主力と敵艦隊を挟んで砲撃戦を行なっております」
 カナンシュは第三特務艦隊をフリートではなくスコードロンと言った。
 当初、英国海軍は、第三特務艦隊を、金剛型巡洋戦艦四隻の第四巡洋戦艦戦隊とその他の軽快艦艇戦隊とに分離して英国海軍本国艦隊に組み入れようとしていた。
 しかし、日本海軍は、ガリポリなどでの英国軍上層部の稚拙な戦争指導に危機感をいだいており、あくまでも第三特務艦隊はビーティー中将の指揮を受ける独立艦隊として分派を拒んでいた。
 英国海軍本国艦隊に正式に組み入れられて、勝手な指導のもとで損害を被りたくなかったのだ。
 もちろん、多くの英国海軍軍人はこのような曖昧な措置に反発していた。
 指揮系統の単純化は組織編成の基本であるというのが彼らの理屈だった。
 だが、遣欧艦隊の将兵たちは、論理的な英国海軍士官たちの言葉の影に、人種差別的な、決して論理や理屈だけでは説明できない暗い感情を感じ取っていた。
 おかしなことに、第三特務艦隊の権限の怪しいところのある上級指揮官となったビーティー中将自身は、第三特務艦隊に比較的好意的だった。
 ビーティー中将は、まだ20代のシナ艦隊若手士官であった頃に義和団の乱に接している。その時の何らかの経験によるものかもしれない。

 しかし、多くの英国海軍軍人、いや英国人はいまだ日本や極東アジアを未開の蛮人と考えているものも多いようだった。
 下級ながら貴族の生まれで、これまで欧州を離れたことのないカナンシュも、典型的な欧州人らしく多少の人種差別的意識を持っているようだった。
 それにもかかわらず、英国にとって、強大な戦力を備えつつある日本国軍は、無視できない同盟国軍になりつつあった。
 本来であれば、その日本艦隊の旗艦司令部への連絡士官として着任しているのが、他国海軍であれば、中、少尉にしかすぎないサブルテナントのカナンシュ唯一人というのが不自然だった。
 だから、連絡士官として、カナンシュが抱える仕事量は一人のサブルテナントに与えられるものとしては多かった。
 このような矛盾した立場や、日本人への無意識化の反発などが手伝って、カナンシュは更に周囲と相容れない壁のようなものを創り上げてしまっていた。
 日本海軍の名称である艦隊、フリートではなく、英国海軍が与えようとした、戦隊、スコードロンと表現したのも、その表れなのかもしれなかった。

 一条大佐は、戦隊との表現にも眉ひとつ動かさなかった。英語がさほど得意ではない小杉少将は、次にカナンシュが何を言うかに集中していた些細な単語は聞き逃していた。
 艦橋の隅に控える作戦参謀の高野少佐は、僅かに眉をしかめたが、小杉少将に正体していたカナンシュはそれに気が付かなかった。

「もしここで我が戦隊が最大戦速での航行を行えば、砲撃戦の継続は困難か、命中率の著しい低下をもたらすでしょう。その間に本隊が被害を被る可能性があります。第一、ビーティー中将からの命令がないではありませんか」
「中将閣下からは、事前に独自の判断で裁量と思われる行動を為せと命じられている。閣下からの命令がないことは理由にならん」
 カナンシュが思わず鼻白むほどぴしゃりと小杉少将は遮った。
 果断な判断をくだす一方で、小杉少将は政治的とも言える発言を嫌っていた。
 あるいはカナンシュの人種差別主義者的な傾向に内心面白く思っていないのかもしれない。
 それとも英国海軍への不信をカナンシュ個人にぶつけているのか。

 小杉少将は鋭い視線を保ったまま、次に一条大佐に顔を向けた。
 司令部内部の不協和音に懸念を抱きながらも、そのような感情を表に出さないまま、一条大佐がいった。
「現在、敵艦隊との距離が不明です」
 それまで押し黙っていた高野少佐が、参謀長を補足するように尋ねた。
「つまり迂回挟撃のための時間がないかもしれないということですか」
「その通りです。もしも我々の予想よりも敵主力艦隊が至近にあった場合、我が艦隊は、有力な敵主力の前に無防備な側背を晒すことになります」
 小杉少将は、忌々しそうな表情で頷いた。
 敵単縦陣の前方を塞ぐ形で単縦陣を航行させる丁字戦法は、自艦隊の火力を最大限発揮することのできる有力な陣法ではあったが、もしもこの時反対側から敵艦隊が出現すれば、丁字を描いていた単縦陣は挟撃され、最後は分断されて各個撃破されてしまうだろう。
「結局このまま同行砲戦を続けるしかない、ということか」
「自分も参謀長に同意します。すぐにトマス少将の戦隊も戦闘に加入できるでしょう。このまま同行砲戦で敵偵察艦隊主力を叩ききるまでビーティー中将主力が耐久するのを期待すしかありません」
 高野少佐は言外に自分たちだけが危険を背負うことはないと匂わせていた。
 小杉少将に伝えるためか、高野少佐は日本語で言ったが、カナンシュもその微妙な意図は感じ取ったようだ。

 小杉少将や高野少佐を無視するようにそっぽを向いたカナンシュを横目で見ながら、一条大佐は思わずため息を付きそうになって慌ててそれを隠し通した。
 第三特務艦隊は、沿岸防衛型として歴史が始まった日本海軍にとって、実質上初めての主力艦の対外派遣だというのに、すでにその司令部内には不協和音で満ちていた。
 外見や喋り方とは全く違って、常識的な人間を自称する一条大佐にとって、これは困惑すべき事態だった。
 今は、司令部要員同士の個人間の問題で住んでいるが、いずれはこれが外交的な問題となる可能性も否定出来なかった。
 相変わらず、周囲からは無表情に見える顔で、一条大佐は視線を敵艦隊の彼方にあるビーティー中将本隊に向けた。
 旗艦ライオンには連絡士官として、日本海軍から栗田中尉が乗り組んでいるはずだ。
 彼はこのような苦労を背負い込んでいるのだろうか。
 そうであれば若い彼がその重圧で押しつぶされなければよいが、そう考えていた。
 同航砲撃戦は続いていた。




 栗田中尉は再び轟音を聞いていた。
 やはり旗艦ライオンの後方からだった。
 見張り員は音が聞こえるよりも早く視認しているはずだが、その報告は轟音が消えさってからとなった。
 今度はインディファティガブルよりもライオンに近い位置の艦に被害があったのだろう。
 栗田中尉の推測は、見張り員からの報告によって肯定された。
 撃沈されたのはクイーン・メリーだった。弾薬庫に直撃弾を食らったのか、轟沈のようだった。
 クイーン・メリーよりも後方を航行する艦は、その残骸を回避するために転舵していた。
 その結果一時的に砲撃は中断し、静寂が支配していた。
 司令部には重苦しい雰囲気が漂っていた。表情を変えずにいるのはビーティー中将と栗田中尉だけだった。
 どこか自嘲的とも思える、この場には似つかわしくない声音が響いたのはその時だった。
「今日の我が艦隊血塗れじゃないか、何かがおかしいんじゃないかね」
 まるで他人事のような台詞だった。唖然として司令部要員はその声の持ち主、ビーティー中将を見つめた。
 中将は、周囲からの視線に臆することなく、僅かな笑みさえ浮かべながら、チャットフィールド艦長個人に言うかのように顔を向けていた。
 チャットフィールド大佐と栗田中尉は、他の司令部要員と違って唖然とした表情を浮かべたりはしなかった。
 ビーティー中将の態度が演技であると見破っていたからだ。もちろん二人共その演技を邪魔するようなことはしなかった。

 ただし、栗田中尉はなぜか一人足を踏み出した。
 それが何故であったのか、栗田中尉は最後まで思い出せなかった。あるいは彼も演技をしていたからかもしれない。
 ビーティー中将とは違って、ずっと前からだった。だから栗田中尉は変わらぬ無表情でこう告げていた。
「だとすれば閣下、我が艦隊の行動はひとつしかないかと思われますが」
 ここから逃げ出すつもりなのか、そうとでも思ったのか、あるいは連絡士官にすぎない栗田中尉が発言するのを諌めようとしたのか、色をなして詰め寄ろうとした他の司令部要員をビーティー中将は手で制した。

 再び轟音が響いた。ただし今度は敵艦隊の方角からだった。
 見張り員が敵二番艦、おそらくデアフリンガーが沈没しつつあると報告した。
 英艦隊か、日本艦隊か、どちらによる戦火かはわからなかった。
 見張り員からの報告を聞くとビーティー中将は笑みを強くしていった。
「よろしい、クリタ君もそういっている。日本人にできて、英国人に出来ぬはずはないな」
 次にビーティー中将が何を言うつもりなのか、完全に把握している栗田中尉は深々と頷いた。
 ビーティー中将は、チャットフィールド大佐に向き直るといった。
「チャットフィールド君、今日はどうも我が艦隊の命中率が優れないようだ。左舷二点に転舵して距離を詰めたまえ」

 だが、その命令が実行されることはなかった。チャットフィールド大佐が復唱するよりもはやく伝令からの声が響いたからだ。
 前方に偵察に出ていた巡洋艦戦隊から電信が入っていた。伝令はそのまま、電信の内容を読み上げた。
 第二軽巡洋艦戦隊を指揮するグットイナフ代将の旗艦サウザンプトンが、別動の敵艦隊を発見したらしい。
 敵艦隊の規模や編成は不明だが、戦艦クラスが含まれているのは確実らしい。
 グットイナフ代将は、敵弾を交わしながら、詳細を掴むべく敵艦隊に接近するつもりらしかった。
 電信の二報目が入った頃から、彼方から発砲音が聞こえてくるようになった。どうやら敵艦隊は予想よりも近くにいるらしい。
 また、次々と入電するグットイナフ代将からの報告によれば、十隻以上の弩級戦艦や数隻の旧式戦艦が含まれるとのことだった。

 再び押し黙っていたビーティー中将は、敵艦隊が主力であることを確信したらしい。
 打って変わって険しい表情になると、司令部要員に向き直った。
「今度はこちらが本国艦隊に敵を誘引する。180度回頭し、北上する。以上を各戦隊に連絡せよ」
 通信参謀が頷くと復唱しようとした。栗田中尉は僅かに首をかしげながらビーティー中将に言った。
「意見具申。閣下、通信は連続して行うべきではないでしょうか」

 復唱を遮られた形になった通信参謀は、嫌そうな顔で栗田中尉を見た。
 ただし、意見そのものは最もだとでも思ったのか、遮ったりはしなかった。
 むしろ周囲の、他の司令部要員の方が栗田中尉を睨みつけていた。
「十年前の日露戦争における海戦において、日露両艦隊が通信妨害を行った戦訓があります。それに日本人は英語が得意なことでは知られていません」
 もちろん、英語がどうこうというのは大した意味を持たなかった。どのみちモールス電信では、言語はさして影響しない。
 それよりも、情報の伝達が不十分になってしまうことを恐れていた。
 英国艦隊は、巡洋艦艦隊主力と第五巡洋艦戦隊との交信に支障をきたし、緻密な艦隊行動を取れなかったように、電信の性能に不安があった。
 もしも、また電信を受信しそこねれば、今度は有力な敵艦隊直前でばらばらな行動をとってしまうかもしれなかった。

 ビーティー中将は、栗田中尉の意見を取り入れるつもりだった。
「命令を訂正する。180度回頭し北上、各隊我に続け。以上を継続発信」
 通信参謀はこんどこそ復唱すると手早く文面を書き込み伝令に渡した。


「クリタ君」
 艦橋の窓から敵主力がいるであろう方向を見ていたビーティー中将は、ふと振り返ると栗田中尉に向き直った。
「只今の具申は見事だった。いずれまた海の上で君を見るときがあっても、君がそのことを忘れずにいることを願う」
 栗田中尉は戸惑いながら、答えた。あれは戦訓から導きだされたものだった。
 日露戦争において英国は観戦武官を派遣していたが、通信妨害のことまで戦訓としていたのかはわからなかった。
 だが、よく考えると、連絡士官としては越権行為であったかもしれない。
 落ち着いて考えれば、あれが連絡の徹底を欠いていた英国艦隊司令部への批判と取られても不思議ではなかった。

 しかし、ビーティー中将はほんの僅かニヤリと笑みを浮かべた。
 中将の目は、そうではないといっていた。
 今の電信に関する具申ではないとすればなんなのか。
 怪訝そうな顔の栗田中尉に、ビーティー中将は、小声で言った。
 おそらく砲声や命令、復唱の騒音で栗田中尉以外の誰にも聞き取れなかったはずだ
「誰もがシェークスピアを上手く演じられるというわけではないしな」
 栗田中尉は一瞬目を見開いた。
 意見具申とは、電信のことではなかった。
 敵艦隊への接近命令、というよりもその時の中将の演技の事のようだった。
 ビーティー中将は、一瞬だけ栗田中尉に照れくさそうな顔を向けると、ふたたび険しい顔になった。
 この表情も演技なのかもしれない。そう思いながらも、栗田中尉も同じような表情を創り上げた。

 あるいは指揮官の孤独を、はるか上位にあるはずの中将と共有したような気がしていた。
 もう少しばかり、この創り上げられた、あるいは創り上げられようとしている英雄という演技を続けてみるのも悪くはないのかもしれない。
 そう考えていた。
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