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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1943北大西洋海戦15特設巡洋艦護国丸

 特設巡洋艦護国丸が搭載している連装20.3センチ砲塔は、本来は重巡洋艦の主砲として開発されたものだった。高雄型重巡洋艦で初採用されたこの砲は軍縮条約の重巡洋艦規約で最大限となる8インチ口径であり、それまでの日本海軍重巡洋艦が採用していた正20センチ砲よりも格段に有力な砲だった。
 しかし、有力な砲であるにもかかわらずこの20.3センチ砲を搭載した艦の数はさほど多くはなかった。高雄型四隻の他は、改正軍縮条約による保有枠の拡大をうけて1930年代後半に新たに建造された伊吹型重巡洋艦二隻と、数年前に実施された近代化改装時に古鷹、加古の二隻がそれまで搭載していた単装20センチ砲塔六基から連装20.3センチ砲塔三基に載せ替えたくらいだった。

 高雄型以前の妙高型や青葉型も機関部などの改装と合わせて連装20センチ砲塔を連装20.3センチ砲塔に換装する近代化改装が計画されていたらしいが、改正軍縮条約による帝国海軍の艦艇保有枠拡大を背景とした艦艇の新規建造や、ドイツの急速な極右化など欧州情勢の悪化をうけた出師準備体制への移行によって空き船渠や海軍工廠、民間造船所の工事量に余裕が無くなってしまったことから、改装計画そのものが消失してしまっていた。
 それにこれらのクラスのうち何隻かはすでに地中海での戦闘で喪失してしまっていた。


 しかし、20.3センチ砲塔自体は搭載艦の数よりも多く生産されていた。
 公式な記録は何も残されていないらしいが、実は三連装15.5センチ砲塔を搭載した最上型および利根型軽巡洋艦においても、有事の際に主砲塔をより大口径の連装20.3センチ砲塔に換装する計画があったらしい。
 計画ではもともと条約の巡洋艦規約が規定する最大排水量にまで達した大型軽巡洋艦である最上型やその発展型である利根型の戦力価値をさらに高めるために、より威力が大である20.3センチ砲を搭載した重巡洋艦に生まれ変わらせるというものであったという。
 たしかに、三連装15.5センチ砲塔と連装20.3センチ砲塔は、概ね同重量かつ同寸法だった。それに連装20.3センチ砲を搭載した伊吹型重巡洋艦は最上型軽巡洋艦の設計を大部分流用した準同型艦であり、両砲塔の換装は少なくとも艦型や重量からみれば不可能ではないということになる。


 だが、この改装計画は軍縮条約下ではいささかグレーゾーンに踏み込んでいた。改装時期は軍縮条約が無効化された頃を想定しているのだろうが、それでも条約時代に改装計画をたてて、実際に工事用の部材まで先行して建造していたのは条約を遵守する気がないということを喧伝することになるのではないのか。
 実際にそのあたりのことを外交筋や同盟国軍から非公式に伝えられた帝国海軍は、最上型軽巡洋艦の改装計画を放棄した。そして改装工事用に建造されていた砲塔は余剰となり、改正軍縮条約の重巡洋艦枠であらたに建造された伊吹、筑波や古鷹型の近代化改装に使用されたというのだ。
 それでも余剰の砲塔が出たため、護国丸に重巡洋艦に搭載されたのと基本的に同型の連装20.3センチ砲が搭載されたらしい。
 また、倉庫に残されていた旧式の14センチ砲が、欧州大戦への介入準備のためなりふりかまわぬ火力増強を図っていた陸戦隊によって抑えられてしまっため、残り少ない同砲を四番船興国丸にまわすためにも護国丸に船体に見合わないこのような異様な砲塔を搭載する原因となったというのだ。


 だが、この話を聞かされた岩渕兵曹はいささか違和感を感じていた。はたして帝国海軍が外務省や同盟国軍の非公式な懸念のために、既に生産されている機材を無駄にするような判断を下すものだろうか。

 伊吹型重巡洋艦が最上型軽巡洋艦の設計を流用した件や、連装20.3センチ砲塔が余剰となっていたことなどから、実際に最上型他の砲塔換装計画があったのは事実かも知れなかった。
 しかし、計画が放棄されたのは外交上の失点を覆い隠すためではなく、改装計画によって得られる利点が意外なほど少ないという事実に気がついたからではないのだろうか。

 実のところ、重巡洋艦が装備する連装20.3センチ砲塔と大型軽巡洋艦が装備する三連装15.5センチ砲塔では砲塔一基あたり打撃力という点ではさほどの違いはなかった。
 もちろん20.3センチ砲弾の方が砲弾重量は格段に大きい。しかし15.5センチ砲は三連装であるし、発射速度も高いから砲塔あたりの投射弾重量では20.3センチ砲塔よりも優っていた。


 ただし、投射弾重量が優っていても、その砲弾が敵艦の装甲帯を貫通できなければあまり意味はない。非装甲区画をいくら破壊しても、戦艦や巡洋艦の場合は装甲で覆われた重要区画を破壊できない限り、致命傷とはならないからだ。
 非装甲区画であっても浮力や対空火力などを分担する重要な区画はあるのだが、主砲戦に限れば敵艦の装甲を抜かない限り致命的な損害を与えることは難しいだろう。つまり単純に考えれば、どれだけ投射弾重量が大きかったとしても多数の小口径砲では重装甲の戦艦には対抗できないということになる。

 もちろん小口径の砲弾でも山と打ち込まれれば非装甲区画を破壊されて戦艦でも廃艦とすることは計算上では不可能ではないが、お互いに砲撃を交わし合う戦場で実際により軽量な砲しか持たない艦艇が大口径砲を持つ艦艇に勝利するのは難しかった。
 敵艦を廃艦とする前に自艦が大口径砲弾で撃ちぬかれて撃沈されてしまうだろうからだ。

 巡洋艦の主砲戦距離である一万メートル前後では20.3センチ砲弾は150ミリ程度の装甲を貫通できるが、15.5センチ砲弾は高初速の長砲身砲であっても貫通距離は110ミリ程度にすぎない。
 つまり敵艦が150ミリから110ミリ程度の装甲を有していた場合は15.5センチ砲は貫通できず、逆に20.3センチ砲の方は貫通できるから、20.3センチ砲搭載艦の方が格段に有利となる。


 だが、実際には性能表上のこの程度の優位はさほど絶対的なものとはならなかった。対敵姿勢などから貫通距離は常に最大値を発揮できるとは限らないし、なによりも各国が建造した巡洋艦のなかで100ミリを越える装甲厚を有しているものはさほど多くはなかった。
 それに装甲帯は重要区画であっても最大厚の範囲はさほど広くはない。だから、15.5センチ砲弾であっても大抵の巡洋艦が有する装甲帯は貫通できるということになる。
 つまり20.3センチ砲弾が15.5センチ砲弾に対して持つ貫通力の優位というのは実際にはさほど意味が無いことになるのだ。これで投射弾重量がほぼ同等ということは、やはり砲塔一基あたりの打撃力にほとんど違いがないということになるのではないのか。

 帝国海軍はこれを計算や実弾砲撃演習などで把握したからこそ、打撃力の向上という点でさほど利点のない三連装15.5センチ砲塔から連装20.3センチ砲塔への換装計画を破棄したのではないか。
 外務省や同盟国に遠慮したというよりもそう考えたほうが納得できるような気がする。岩渕兵曹はそう考えていた。


 同時に岩渕兵曹は護国丸への連装20.3センチ砲塔の搭載が正解であったとは思えなかった。このような巨砲を、いくら余剰機材であったとはいえ、特設巡洋艦に搭載するのは無理があったと言わざるを得なかった。
 その時点では余剰機材の砲塔であっても将来的に修理用の部材として使用する可能性もあるはずだ。無理をしてまで特設艦艇に搭載する意義は薄いはずだ。

 実際には連装20.3センチ砲塔の搭載には砲術科将兵やこの砲の開発に携わった技術者達の執念のようなものがあったのではないのか、岩渕兵曹はときたまそう考える時があった。20.3センチ砲を搭載することになった原因があまりにも不自然だと思うからだ。
 例えば倉庫に保管されていた14センチ砲が陸戦隊に抑えられたと言うが、もともと海軍陸戦隊の規模はさほど大きなものではない。常設の部隊すべてを合わせても陸軍の編制でいえば二個師団程度にしかならないのだ。
 今次大戦において、海軍はシベリアに駐留している第1陸戦師団や各鎮守府から部隊を引きぬいて第2陸戦師団を新たに編成した。しかしその程度の部隊に必要な重砲の数はさほど多くはないはずだ。

 それに対して14センチ砲は旧式戦艦の近代化改装時などに下ろされた分や予備の砲身などかなりの数が保管されていたはずだ。報国丸型二隻の特設巡洋艦への改装などに供給した後も在庫は潤沢だったのではないか。
 そこから陸戦隊に供給しても特設巡洋艦一隻分くらいは残っていたはずだ。

 第一、元が艦砲である14センチ砲を陸戦支援用の重砲に改造するのはかなりの手間になるのではないのか。
 大容量の動力や余裕のある容積を確保できる要塞砲ならば艦砲をそのまま流用するのも難しくはない。実際、軍縮条約によって不要となった戦艦主砲をそのまま要塞砲に転用したケースもあった。

 しかし陸戦隊はそのような固定配置の部隊ではない。元々陸戦隊とは艦艇乗組の将兵で臨時編成し、外地での邦人の保護や警備任務などにつく機動力の高い部隊だった。常設の特別陸戦隊であってもその傾向は変わらず、兵士の装備も港湾に隣接する狭隘な市街地での戦闘や機動力を重視して短銃身の騎銃や機関短銃などを装備することが多かった。

 再度の欧洲大戦介入のために編成された第2陸戦師団は、北アフリカでの戦闘に備えて重装備部隊となっているそうだが、部隊としての傾向は変わらないはずだ。
 だから重砲とはいっても分解して馬匹などで輸送されるのではなく、大馬力の牽引車によって機動力を高めているはずだ。だが元々艦砲である14センチ砲を牽引砲に改造するのは並大抵の苦労ではなかったはずだ。

 牽引砲は、単に既存の砲を車輪付きの架台に載せればいいわけではない。輸送時の衝撃は勿論、発砲時の衝撃を架台は受け止めなければならない。いくら駐退機があるとはいえ大口径砲の反動はかなりのものであるはずだ。
 常識的に考えれば、砲撃時は精度を向上させるために車輪を何らかの形で展開して地上にスパイクなどで固定するようになるのではないのか。
 つまり輸送時から砲撃時に迅速に展開する能力も架台には求められるということになる。これらの設計と製造を短時間で進めるのは難しかったはずだ。元々牽引砲として設計されていれば架台部分も同時に製造できるはずだが、改造砲では難しかったのではないのか。

 むしろ護国丸に20.3センチ砲を搭載するために、陸戦師団の新規編成にかこつけて、辻褄を合わせるために余剰の14センチ砲を押し付けたというのが真相であっても不思議ではなかった。
 そんな馬鹿なはずはないのだが、岩渕兵曹は護国丸の現役の貨客船そのものといえる周辺の艤装とそぐわない巨大な連装砲塔を見るたびにそんなことを考えてしまうのだった。


 外観上は違和感を感じさせる程度の砲塔だったが、船体内部の改設計点も大きかった。
 他の特設巡洋艦が装備する主砲は、上甲板上に弾片防御程度の装甲を載せた砲を据え付けた程度のものだった。装甲は大した厚さではないから砲を含めてもさしたる重量になるわけではない。だから上甲板に装備しても他の区画に影響をおよぼすことはあまり無かった。

 しかし連装20.3センチ砲塔はそのようなわけにはいかなかった。これまでの単装砲が30トン程度の重量しか無かったのに対して、この砲塔は200トン弱の重量があったからだ。
 これだけの重量があれば上甲板に単に載せるというわけにはいかない。もしも砲塔が有するのと同程度の面積でそれだけの重量を上甲板においてしまった場合、下手をすれば構造材が重量に耐え切れずに座屈してしまうのではないのか。
 貨客船が大重量の貨物を搭載する能力があるとはいえ、それは構造を強化された船倉に置かれ、また広い面積に貨物を配置して床面への荷重を分散させた場合であって、上甲板に大重量を一点に集中させて配置すればいずれ構造材が疲労で破断してしまうだろう。

 それに連装20.3センチ砲塔は上甲板上の構造物だけではなく、弾庫とつながる昇降機などが設置された砲塔基部が艦体内部に埋め込まれている。これまでの特設巡洋艦のように短時間の工事で実質上砲のみを載せれば良いというわけではなかった。
 実際、護国丸の改装工事は主砲塔の搭載工事が一番工数がかかったらしい。
 同型船ではデリックポストが設けられている区画がまるごと撤去され、主砲塔区画へと改装されている。元々重量物を移動させるデリックの設置場所であったから構造材が強化されていたからだろう。

 しかしその区画の内部は船倉の横壁が配置されていたはずだ。その壁は一部撤去され、代わりに砲塔基部が溶接で固定されて周囲の構造材と一体化されて配置されていた。
 横壁や上甲板のみで主砲塔の重量や発射の衝撃を吸収できるはずもないから、船倉内部には砲塔基部にむけて伸びる補強材が追加されていた。補強材は、箱状に形成された鋼材を船倉の壁材と砲塔基部に伸ばして端部では補強板を使って頑強に溶接されていた。

 もちろん補強材は一本や二本ではなく、砲塔を取り囲むように何本もの補強材が蛸足のように船倉の構造材と繋がっていた。
 補強材の一部は偏って配置されており、砲塔の真後ろの区画には存在しない。その代わりに砲塔基部の下部とつながるように、装甲材で構成された二階建ての箱状となる構造物が砲塔下部後方の船倉に設けられている。
 それは危険物を搭載する弾庫と火薬庫で、砲塔バーベットを除けば、護国丸で一番厚い装甲で覆われた区画だった。


 護国丸の改装工事は、特設巡洋艦の改造工事としてはかなりの工数を消費したらしいが、その大半は船倉内部の各種構造物建造と溶接取り付けに使われたらしい。だがこの工事のおかげで護国丸の貨客船としての機能は大幅に削がれていた。
 これまでの特設巡洋艦は兵装を搭載してはいるものの、船倉にはほとんど手を付けていないから貨物を運ぶことも可能だった。一部の特設巡洋艦はその搭載能力を活かして艦隊司令部を泊地で展開させる旗艦や魚雷や燃料などの補給物資を供給する潜水艦母艦として運用されているものもあった。

 護国丸にはそのような搭載能力は失われている。船倉が砲塔などの構造物で占められているというだけではない。それ以上に迅速な重量物の積み下ろしに必須のデリックさえ撤去されているのだから当然だった。
 いまの護国丸で貨物を運ぼうとしたら、大した搭載量でもないのにもかかわらず積み下ろしの殆どを港湾施設の能力に頼らざるをえない。これは余り現実的なやり方ではなかった。

 だから、護国丸は特設艦艇であるにもかかわらず、実質上戦闘のみを目的とした歪な艦艇となっていた。そのせいかもしれないが、主砲塔の搭載工事と並行して新装備である指揮所や電探の設置工事も行われていた。


 護国丸に設けられた指揮所は、同型船である興国丸とは規模も設置目的も異なっていた。興国丸では艦橋後部の船長室などに用いられていた区画を隔壁を取り払って指揮所としていた。
 興国丸の指揮所は、区画面積も大きく配置につく将兵も多く船のリソースをかなり消費するものだったが、その分だけ機能は高かった。
 それは本来、艦隊レベルの指揮に特化した設計であり、各級の参謀や司令官、司令長官に混乱しがちな敵味方の情報を出来るだけ冷徹に、第三者的な視線で提供することを目的としていた。


 これに対して、護国丸では指揮所は個艦レベルの指揮中枢として配置された。船橋構造物最下部のプロムナードデッキ最前部にある客室となるはずだった部屋の隔壁を幾つか撤去して各種機材やそれを扱う将兵が勤務する空間を確保してある。

 だが、興国丸に装備されたものほど配置される将兵は多くないから、艦隊周辺の情報を表示する大型の海図盤などを設置することは不可能だった。もちろん艦隊司令部のような多数の要員を収容することも難しかった。

 護国丸の指揮所は電探表示面や見張り所からの伝令を配置して、その艦が得た情報を集約するための空間に過ぎない。周囲の状況を把握するのも樹脂製の戦況表示板に頼っていた。
 しかしその成果は絶大だった。当初対空見張り用のもののみが設置されるはずだった電探は対水上見張りや射撃管制、それに逆探なども設置され、その表示面と担当の将兵が指揮所に配置されるようになった結果、指揮官は見張り員の肉眼に頼ること無く指揮所ですべての戦闘、航海指揮をとることが可能になっていた。


 ただし、現在のところ、すべての指揮官が指揮所を活用できているとは言いがたかった。居ながらにして全ての情報が得られるという利点はあるものの、未だ信頼性が高いとは言えない電探よりも自分の肉眼で確認できる艦橋で指揮をとろうとする艦長たちも多かった。
 それどころか闇夜に提灯だといって電探そのものの使用を嫌うものさえいた。

 しかし岩渕兵曹はそれも過渡期ゆえの評価であると考えていた。電探が装備されるようになってからわずか数年で性能は格段に向上しており、探知範囲や対象はどんどんと広がっていっている。
 今は未だ肉眼と競り合うような探知範囲しかないが、いずれ電探は高精度で肉眼など到底追いつかない範囲まで見渡せるようになるはずだ。
 その時は、指揮所こそが艦橋に変わる指揮中枢となっているだろう。あるいは平時の航海でしか艦橋は使用されなくなるのかもしれない。そして、その時はさほど遠い未来ではないはずだ。

 電探表示面に映る敵艦らしき目標が次第に近づくのを睨みながら、岩渕兵曹はそう考えていた。思考とは関係なしに、兵曹は電探表示面から得られた情報を樹脂製の表示板に書きこむ水兵へと伝達していく。
 だからそのようなことを考えてしまうのが迫り来る戦闘の恐怖からの逃避であることに気がついていなかった。
特設巡洋艦興国丸の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/hskkoukokumaru.html
特設巡洋艦護国丸の設定は下記アドレスで公開中です
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伊吹型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です
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