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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1943北大西洋海戦5U-169

 ドイツ海軍のⅨ型潜水艦に属するU-169の大して広くもない発令所を重苦しい沈黙が支配していた。すでに潜航開始から2時間近くが経過していた。
 安全深度を大きく超える最大潜行深度近くにも達する海中深くを惰性による無音航行中のU-169のなかで、艦長であるグレーナー中佐は潜望鏡基部にもたれ掛かって目を閉じていた。
 別に眠っているわけでは無かった。逆にグレーナー中佐の感覚は直言まで研ぎ澄まされていた。目を閉じているのは当分は視覚に頼る必要がなさそうだったからだ。

 2時間前に敵艦に探知されたことを察した∪-169は、急接近してくる船団護衛艦から逃れるために急速潜航して無音航行を実施していた。それから深度も速度も変えずに、直前までの航行速度による惰性と潮流に流されるまま一切の推進力を切って潜航を続けていた。だから
 急に至近距離での攻撃でも受けない限り状況が急変することはなさそうだったのだ。

 そして、状況が変化するとすれば、∪-169を失探して見当違いの方向を制圧している敵護衛艦の急回頭や接近が先にあるだろうから、ソナー手からの報告が先にあるはずなのだ。
 U-169の搭載物資や酸素量にはまだ余裕があるから、この先何時間かは潜航を続けられるはずだった。指揮官が判断を下さなければならないこともないから、グレーナー中佐は目を閉じて耳を澄ませていたのだ。


 しかし、最初にグレーナー中佐の耳に最初に聞こえてきたのはソナー手の報告でも爆雷の投下音でもなかった。U-169の奥深くで唐突に大きな金属音が発生したのだ
 グレーナー中佐は怪訝そうな顔で目を開くと金属音が発生した艦尾方向を見ていた。金属音が発生した場所は発令所からかなり離れていたようだ。おそらく機関室内で異音は発生したのだろう。
 先任将校に目で合図をすると、やはり怪訝そうな顔をしていた彼はそっと発令所を離れていった。

 発令所要員もお互いに不安そうな顔を見合わせていた。もしかすると機関室で何か事故でも発生したのかもしれない。そう考えているようだった。
 現在の深度は最大潜行深度以上ではあるが、安全深度は大きく超えている。国際連盟軍が想定しているであろう潜水艦の深度よりも大分深く潜っているはずだから、爆雷の起爆設定深度は下回っているはずだった。
 それにこの大深度で爆雷が爆発しても周囲の高い水圧に押されて危害半径は小さくなるから、相当近距離でない限り致命的な損害を受けることは無いはずだ。
 ただし、損害が発生した際には状況は一気に悪化するはずだ。爆雷の効果を減少させる水圧の高さが、今度はU-169に向かって牙を向くだろう。ほんの僅かな損傷でもこの大深度では命取りとなりかねなかった。
 そのことは乗員達も分かっているから、神経が過敏になっているのだろう。
 ―――いや、本当に彼らが理解しているかどうかは疑わしい、か。
 金属音の発生が一度だけだったかことから致命的な事故ではないと悟ったグレーナー中佐は、眉をしかめたままそう考えていた。


 しばらくしてから発令所に戻ってきた先任将校の困ったような顔を見る限り、やはり深刻な事態に陥ったとは思えなかった。先任将校はグレーナー中佐にだけ聞こえるように耳元でぼそぼそとつぶやいた。
 どうやら機関室内で若い乗員がへまをして何かの金属製部材を床に落としてしまったらしい。きちんと固縛していなかった部材に不用意に触れてしまったのだろう。あるいは何かの操作を誤ってしまったようだ。
 グレーナー中佐は渋い顔で先任将校にうなずいた。無音航行中だから艦内には大きく響いたが、機関室の床面で発生した音響がそれ程艦外に響いたとは思えない。
 それに自艦か僚艦による爆雷攻撃による音響で敵護衛艦の聴音能力は低下しているはずだから、やや距離を保ったまま沈降しているU-169を敵艦が探知した可能性は低かった。

 しかし、発令所要員の不安そうな顔を見る限り、今の音響は実質的なもの以上に乗員たちに精神的な損害を与えてしまったようだ。経験が少ないものだから、グレーナー中佐のように正しく状況を判断することが出来なかったのだ。

 先任将校に各部署に戦闘行動に支障がないことを伝えるように命じてから、グレーナー中佐は周囲に気が付かれないようにそっとため息をついていた。今は指揮官であるグレーナー中佐が動揺する様子を見せるわけにはいかなかった。
 指揮官が動じない姿勢を示していれば、自然と乗員たちの不安もなくなっていくものだからだ。
 ただし、それも乗員たちに指揮官への信頼感があればの話だった。


 機関科の若い乗員の失敗は、図らずともU-169が抱える問題を表面化させたものに間違いなかった。
 U-169に限らず現在のドイツ海軍潜水艦隊には今次大戦が起こってから召集された若い水兵が多かった。英独海軍協定によって一定数の潜水艦の保持は認められたものの、開戦前には大規模な潜水艦隊をドイツ海軍が保持することは出来なかったのだから、熟練兵が不足するのも当然だった。

 しかし最近では、若い水兵の中には開戦直後の基準からすれば、適正を欠いていたり訓練が不十分と思われるような者まで含まれるようになっていた。戦争の長期化によって兵員となる青年層全体の枯渇が始まっていたのだ。
 中には乗員の定数を大きく割っている艦もあるらしい。定数が揃ってはいても教育期間が短く錬度が低い水兵も多かった。むしろ定数を完全に満たした艦の方が少ないのではないのか、U-169のように大西洋を大きく南下する海域まで進出する艦には優先的に乗員が配属されていたが、それも程度問題に過ぎなかった。

 もちろん艦を指揮する将校も速成教育が開始されていた。中には二十代の半ばで艦長を務める場合もあるという話だった。
 グレーナー中佐はあまり詳しくはないが、事情は海軍だけではなく、陸軍などでも同様らしい。むしろ頭数の多い陸軍の方がこの問題は影響が大きいのではないのか。
 やはり陸軍の師団でも再招集を受けた老兵が少なくないらしいし、武装親衛隊が占領地のゲルマン系民族出身者からなる義勇SS師団の増設に取り組んでいるのも、ドイツ国内の青年層の枯渇が一因にあるのだろう。
 むしろグレーナー中佐のように、第一次大戦を潜水艦勤務の若い少尉として過ごした経験を持つ、老練な士官の方が少数派になっていたのかもしれない。

 実はもう何度もグレーナー中佐は艦を降りて潜水艦隊司令部入りするように打診を受けていた。
 傍受された無線情報や過去の統計、数少ない哨戒機の偵察情報などを元に潜水艦隊司令部では敵船団の航路を推測して、特に重要な船団を集中して襲撃できるように作戦を立案して麾下の各潜水戦隊司令部に出撃を命じていた。
 だから潜水艦隊司令部には熟練した潜水艦長経験者が多数求められていたのだ。
 グレーナー中佐の年齢に比して低い階級は現役の潜水艦艦長職に留まっているからだったから、潜水艦隊司令部に配属となれば大佐昇進は間違いないし、打診を受けた時にも将官候補の高級参謀扱いとなると言われていた。
 だが、グレーナー中佐は潜水艦隊司令部への転属を拒み続けていた。その理由は自分でもよく分からなかった。単に現場が好きだというだけではない気がしていた。
 もしかすると戦況が厳しくなる一方の今、ここで安全な後方の潜水艦隊司令部に転属となることが、若い乗員達を見捨てることになってしまうのではないのか、そう心の底で考えてしまっているかもしれなかった。
 グレーナー中佐は、若い乗員の適正や錬度不足よりもドイツ海軍の戦略的な思想が現在の苦境を招いた原因でもあるのではなのか、そう考えることが度々あったのだ


 U-169は、ドイツ海軍潜水艦隊の中で外洋型に類別される大型潜水艦Ⅸ型の改良型に属する艦だった。外洋型というだけあって約二万キロという超大な航続距離と共にドイツ海軍潜水艦隊の数上の主力であるⅦ型の倍近い魚雷搭載定数を誇っていた。
 だからグレーナー中佐はU-169の戦闘能力に関しては特に不満は無かった。しかし戦闘能力を発揮する為に、ぎりぎりまで居住性を切り詰めたような設計はより小型のⅦ型と同様であり、長時間の航海は消耗品の搭載量や士気の低下などから戦闘能力を維持し続けるのは難しかった。

 例えばⅨ型に限らずドイツ海軍が建造した潜水艦の多くは、乗員の寝台が定数の半分程度しかなかった。艦内では常に当直についている兵員がいるのだから、確かに数が足りなくとも就寝時に寝台にありつけない兵が出るわけではない。
 しかし長時間の勤務を終えた乗員がもぐりこむのは前に寝ていた兵員の臭いが染み付いている共用のベットしかないのだ。勿論個人の自由になる空間は無きに等しかった。

 また最近は国際連盟軍の対潜哨戒機が多数運用されるようになってきたこともあって、探知を逃れるために作戦行動中に潜航する時間が増えていたのだが、ドイツ海軍の潜水艦に装備された便所は汚水を艦外に排出するポンプ式の構造となっており、潜航中はポンプの吐出圧が海水圧に抗し切れずに使用できなくなってしまった。
 そのために潜航中の艦内では備え付けのバケツで用を足していたが、放置されたバケツは異臭を放ち、戦闘中の衝撃で転がって艦内に汚物をまき散らすことも少なくなかった。
 しかも、極端に悪い衛生状況にもかかわらず、ドイツ海軍潜水艦隊に所属する軍医の数は少なかった。U-169のような外洋型のⅨ型はまだ艦医が乗り込んでいたのだが、より小型のⅦ型には艦医の代わりに短期教育を受けた看護兵が乗艦しているだけだった。
 元々Ⅶ型の乗員数が少ないとはいえ、この医療体制はあまりにも貧弱だった。最近では沿岸用であったはずのⅦ型も航空哨戒などから逃れるために潜航時間は長く、より遠距離での哨戒が増えていたからだ。
 だがグレーナー中佐が聞いた話によれば、日本海軍の潜水艦はドイツ海軍とは違って居住性がかなり改善されているらしい。


 実は日本海軍の潜水艦も技術的には当初はドイツ海軍と同一であったはずだった。先の欧州大戦で戦勝国側となった日本海軍に賠償艦として割り当てられた当時のドイツ製巡洋潜水艦が現在の日本海軍潜水艦の技術的な基礎を形作ったらしい。
 その後もドイツ国内で潜水艦を建造していた実績のあるゲルマニア社の技術陣が日本国内の造船所から招かれていた時期もあったから、少なくとも初期の日本海軍潜水艦はドイツ製の模倣から始まったと言っても良かっただろう。

 しかし現在のドイツ海軍と日本海軍の潜水艦には大きな差が生じていた。おそらく広大な太平洋が予想戦場となる対米戦を想定した日本海軍の思想が現在の潜水艦整備に反映されているのではないのか。
 彼等の潜水艦は航続距離や偵察能力を向上させた大型の潜水艦が多かった。中には偵察用の小型水上偵察機と射出機まで積んだものもあるらしい。兵装も豊富らしく、哨戒中の空軍機が対空砲火を放つ日本海軍の潜水艦を目撃していた。
 勿論大型の艦体は居住性にも優れており、消耗品の搭載量も少なくないはずだった。また今次大戦開戦前の軍事交流などによる情報によれば、日本海軍の潜水艦には必ず専任の軍医が乗り込むことにもなっているらしい。

 日本海軍の潜水艦は、ドイツ海軍のように通商破壊作戦に従事するのではなく、主力艦を補佐する偵察活動や主力艦への襲撃を主な任務としているようだから、そのような大型艦の少数整備という方針につながっているのだろう。
 潜水艦の使用法そのものが異なるのだから、整備方針が違ってくるのが当たり前だったのだ。乗員の衛生環境への配慮もドイツ海軍よりも長期間の航海を前提としているからなのだろう。


 しかし、ドイツ海軍潜水艦隊の少なくない将兵達は、そんな日本海軍の潜水艦を大型過ぎて騒音が激しい欠陥品だと嘲っていた。確かに日本海軍の潜水艦はドイツ海軍のそれに対して大型であるからより航走時の騒音は大きく、ドイツ海軍の潜水艦建造思想からすれば不要とも思える構造や空間も少なくなかった。
 だが、グレーナー中佐は彼らの考えに同調することは出来なかった。

 日本海軍の潜水艦がドイツ製よりも大きいのは、設計思想が違うからであり口の悪いものがいうように無駄に大きいわけではない。むしろ彼らの任務にとって必要な艦体寸法が現在のものであったと考えるべきなのだ。
 それに最近では日本海軍でもⅦ型よりもやや大きいぐらいの中型の潜水艦を建造しているらしい。地中海戦線で何度か確認されたその中型潜水艦の寸法は沿岸用とされたⅦ型よりもⅨ型に近いようだった。
 日本海軍では中型となるのだろうその潜水艦は数を増やしつつも積極的な通商破壊作戦に従事しているらしく、地中海を縦断する北アフリカ戦線向けの補給船団の損害が増大しつつあるという。
 おそらく狭い欧州周辺海域の枢軸国に対する通商破壊作戦に用いるには大型の潜水艦では効率が悪いことに日本海軍も早くから気がついていたのだろう。それで戦時量産型である中型潜水艦を投入してきたのではないのか

 むしろドイツ海軍も彼らから見習える部分は見習うべきだ。特に設計時の予想をはるかに越えて長期間の航行を強いられるドイツ海軍潜水艦の居住性向上は必要だとグレーナー中佐は考えていた。
 本来ドイツ海軍潜水艦隊の予想戦闘海域は英国本土に向かう航路が最終的に集約されるアイルランド西方の海域だったはずだ。だが対水上見張りレーダーを装備したハドソン哨戒爆撃機などによる陸上機による航空哨戒が厳重になった現在ではその海域に侵入するのも難しかった。
 だから航空哨戒から逃れた海域で船団を襲撃するためにドイツ海軍潜水艦隊は装備機材に当初見込まれていた性能を超えた長距離哨戒を余儀なくされていたのだ。

 だが、おそらくグレーナー中佐の考えが実行に移されることは無いだろうとも確信していた。主力であるⅦ型よりも居住性を向上させたⅨ型などの大型の潜水艦を建造するくらいならば、海軍は多少の不都合には目をつぶっても現在の艦を量産させるだろう。
 すでドイツ海軍には日本海軍のような大型で居住性がよく、また高価になるであろう潜水艦を量産する余裕は失われていたからだ。
呂33型潜水艦の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ssro33.html
九六式陸上攻撃機(ハドソン哨戒爆撃機)の設定は下記アドレスで公開中です
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