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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1943川南工業香焼島造船所1

 そこはまるで廃墟のような場所だった。岩崎技術大尉は、まだ船名どころか運用する船会社すらも決定されていない戦時標準型貨物船二型の中で、周囲を見渡しながらそう思っていた。実際にはこの船は廃墟どころか建造中の段階なのだが、未塗装の多い周囲には工員たちの姿が見えないからそう思えるのかもしれなかった。
 ただし、遠くからは工事に伴う大音響が聞こえていた。この工場では電気溶接が多用されているから、鋲打ちの音こそ無いが、何かを修正しているのかハンマーが鉄板を叩く音が規則的に聞こえていた。
 それなのに船底近くまで降りてきた岩崎技術大尉には、工事音が余計にこの船を廃墟のように感じさせる結果になっていた。理由は自分でもよくわからないが、しばらく放って置かれた溶接痕の錆や無塗装の鋼板に無造作に工員によって書き込まれた注意書きなどの施工中の雰囲気と無人の船内の落差がそう思わせているのかもしれなかった。

 妙に寒気を感じて、岩崎技術大尉は無意識の内に防寒外套の襟をかきあわせていた。工員の姿が見えず、熱源となる工事も行われていないことから船内は冷えきっていた。それにも関わらず先日降った雪は、太陽に照らしだされてすでに溶け出しており、開口部や工事口を通じて容赦無く船内深くまで入り込んでいた。
 水中では電気溶接は不可能だから、工事中の船では工員によって雪かきやポンプによる排水が行われているはずだが、この船は工事が中断されているから、雪解け水も放置されているようだった。
 艤装用桟橋に係留中の本船の僅かな揺れにしたがって、水たまりはゆっくりと揺れ動いていた。岩崎技術大尉は一瞬ぼんやりとその水面を見つめていた。

 防寒外套を新調しておいてよかった。岩崎技術大尉は真剣にそう考えていた。普段大尉が勤務している艦政本部がある東京よりも、ずっと南の長崎県にあるのだから、この造船所はもっと暖かいかと思ったのだが、予想以上に船内は冷え込んでいた。
 まだ1月も半ばに達していないせいもあるのだろうが、普通、この段階の船内では多くの工員達が溶接作業を行なっているはずだから、船内の温度が思ったよりも実際に低いのだろう。

 だが工事が中断されているこの船を除けば、まだ松の内も開けていないが工場の稼働率は高かった。この船に来る前に立ち寄った事務所建屋でも事務員や設計士達が大勢働いていた。
 そんな忙しない工場内を見てから、この動くものとていない船内に入り込んだものだから、色々とよけいなことを感じてしまったのだろう。岩崎技術大尉はそう結論付けていた。


 この川南工業香焼島造船所は、軍民を問わずこれまでに多くの造船所を見てきた岩崎技術大尉の目から見ても相当に奇妙な工場だった。使用される工具や設備の世代に大きな断絶が見られるのだ。
 最新鋭の電気溶接機を船内に移送するのに、主要部材が木製の年代物の吊具が使用されていたりするのだ。他の造船所でも使用機材の年代がばらけていることは少なくないが、香焼島造船所の場合はその断絶期間が長すぎた。まるで腰蓑一つの原始人の横にシルクハットで洋装の紳士を並べているようなちぐはぐさがこの工場にはあった。

 単に使用する間に消耗材が姿を消して、一部の耐用年数の長いものだけが残ることで結果的にそのような姿になったというわけでは無かった。実際に使用機材の更新が行われていなかった時期がこの造船所にはあった。だから最新機材と旧式機材が入り乱れることになっていたのだ。
 ちぐはぐなのは使用される工具類だけではなかった。工場敷地の配置も近代的とは言いがたい妙に古臭く合理的ではない部分があった。もちろん何の理由もなしにこの香焼島造船所にそのような奇妙なところが出来ていたわけではなかった。
 工器具類の更新が途絶えていたのも、工場敷地の配置が近代的ではないのも、この香焼島造船所が大正年間の造船不況期に倒産して十年以上もの間閉鎖されていたためだった。


 この長崎県香焼島に造船所が最初に設立されたのは今世紀の始めの頃というから、日本帝国の近代的造船所としてはかなり歴史が長いところだった。その当時は松尾造船所という名前であったらしい。
 日露戦争時にはすでに石造りの船渠内で数千トン級の艦船を建造する能力があったというから、民間資本の造船所としてはかなり規模の大きいものだったのではないのか。
 しかし、独立資本の松尾造船所は先の欧州大戦における海上輸送量の増大を背景とした急速な造船業の発展にともなって経営を拡大していったが、大戦終結後の不況期に耐えることが出来なかったようだ。

 大戦の終結によって海上輸送量は減少し、逆に戦時中に喪失分を見越して大量建造された貨物船によって船腹量は過大になっていた。日本帝国は経済不況に陥る欧州諸国を尻目にシベリアーロシア帝国の建国や国共内戦による兵器輸出などで近海輸送量はそれなりの量を保っていたものの、用船料の折り合いがつかずに係船されたままの貨物船は少なくなかった。
 そのような状況下だから造船所に新規建造船が発注されることも少なくなっており、昭和の初め頃には造船所の数は半減してしまっていたのだが、松尾造船所もこの時期に倒産してしまっていたのだ。

 もしも松尾造船所が三菱や川崎といった財閥下の造船所であれば、親企業からの支援で生き延びることが出来たかもしれなかった。技術力を確保するための最低限の工員を除いて従業員数を削減して支出を抑えるとともに、削減された工員数で建造できる程度の受注を何とか確保することで守りの姿勢に徹するのだ。
 造船不況の原因の一つは大戦時に大量建造された貨物船が中古船となって出回っているために、船会社が新規建造船よりも安価な中古船の取得に走ってしまったことにあった。欧州航路のような超長距離航路ならばともかく、日本本土から大陸への輸送であれば、そのような中古船でも十分こなすことが出来たからだ。
 ただし、完全に新規建造船の需要が消失したわけではなかった。大戦時に大量建造された貨物船の中には、戦時建造だからこそ許容された粗製乱造に近い船もあったから、耐用年数はさほど長くはなかった。つまり、いずれは中古船の在庫も消滅して船会社も新規建造船を取得しなければならなくなるのだ。

 それに、欧州大戦前後の技術革新はこれまでよりも格段に大型で高速の商船の建造を可能にしていた。
 今世紀初頭から中盤にかけての軍拡を背景とした軍用艦の大型化と高速化には著しいものがあった。欧州大戦勃発頃には、すでに列強各国では数万トン級の大型艦を建造する能力と、その大型艦を高速で長時間航行させられる主機関の量産を可能とする造機能力があったのだ。

 欧州大戦後に締結された軍縮条約の制限も、技術革新の停滞を招くものではなかった。確かに量的な規制はされていたものの、その制限化で性能の優越を図るために各国は兵装や主機関の技術開発を継続していたのだ。
 それらの軍用に開発された技術がすべて民間に開示されたわけではないが、大型化した船渠や造機能力は商船の建造にも転用することができた。かつての帆船のように軍用艦の商船の境目が曖昧であった時代ではなくなって、船種ごとの構造上の専門性が上がってはいたが、基礎技術は同一といってよかった。
 もちろん、軍用艦の大型化によって既存の港湾施設もその一部が拡大されていることも無視できなかった。それにより大型の貨物船を受け入れることも出来たからだ。
 だから、目端の利く大手船会社の中には、他国列強の大手に対抗するためにも大型貨客船の取得を計画するものもあった。潜在的な新規建造船の需要は小さくなかったのだ。
 ただし、大型化した商船の建造が可能なのは大手造船所に限られていた。その中でも財閥系の船会社であれば、同系列の造船所に優先して発注するから、その時点で独立資本の造船所が生き残るのは困難だったのだ。


 だが、日本帝国政府もこのような造船不況と中古老朽船になる余剰船腹を無視していたわけではなかった。大手民間造船所の労働組合や経営者団体からの支援陳情の声も上がっていたし、それ以上に陸海軍が抱く危機感は小さくなかった。
 他国軍同様に、日本帝国陸海軍も有事に必要となる軍隊輸送船や特設艦艇は、商船を徴用することでその数量を確保する計画だった。しかし、特設哨戒艦艇などを除けば、いずれも大型の貨客船、貨物船が徴用対象であった。
 例えば日本海軍は欧州有事の際に、日本本土から欧州に向かう船団護衛任務に用いるのに、徴用された貨客船に応急の兵装を施した特設巡洋艦の活用を想定していたが、その徴用対象の下限は八千総トン程度だった。
 船団護衛部隊に所属する特設巡洋艦は、戦闘能力よりも余裕のある船内容積を活かした哨戒用水上機の運用や司令部要員を収容する旗艦能力、さらには戦時建造される小型の護衛艦艇の母艦としての機能を期待されていたのだが、そのような多目的な機能を詰め込むには、最低でもその程度の規模は必要と見込まれていたのだ。

 陸軍の軍隊輸送船も似たようなものだった。長距離、かつある程度まとまった一個大隊から連隊程度の戦力を一隻で輸送出来ないと輸送先での部隊集結などに時間が掛かってしまって効率が悪いと考えられたのだ。
 だから、陸海軍も日本船籍の商船はある程度大型船であることを望んでいたのだ。

 造船所や軍の要望を受けた日本政府と議会は、1930年代初頭に中古船の解体と大型高速商船の新規建造に補助金を交付させる船舶改善助成施設法案を成立させていた。
 これにより船会社は老朽化した中古船の代船として、陸海軍の徴用対象となる新鋭の大型高速商船を造船所に次々と発注していたから、造船業界に再び好況が訪れていた。

 船舶改善助成施設法案の対象となったのは大型商船を建造できる大手造船所に限られていたが、日本帝国にはそれ以外にも千総トン級程度を建造するのが手一杯という中小の造船所も少なくなかった。
 そういった中小造船所に向けては、やはり補助金交付のある標準規格船の建造が推奨されていた。海軍艦政本部と逓信省管船局によって企画された標準規格船は600総トン程度の海上トラックと俗称される貨物船だった。
 大型商船の需要が伸びていたとはいえ、地方の港湾は設備が貧弱なままなところも少なくないから、このクラスの小型貨物船には一定の需要があったのだ。
 また、標準規格船の補助金は、中小造船所に対して半強制的にブロック建造法や電気溶接などの新技術を導入させることも目的の一つだった。

 現在日本本土では八千総トン級の大型戦時標準規格船の建造が続々と行われていたが、中小造船所でも大手造船所からの下請け工事として大型高速の戦時標準規格船二型などのブロック建造の一部を請け負っていた。
 そのような曲芸じみたやり方で大手造船所の建造能力を嵩上げする方法が可能だったのも、平時において標準規格船の建造経験があればこそだった。


 松尾造船所の様に体力が足りずに不況期に倒産してしまった造船所も少なくなかったが、1930年代初頭から政府の補助金を受けてにわかに起こった造船好況に対して新規に造船業界に加入した企業も少なくなかった。
 その内の一つが缶詰業で名を上げた川南豊作が経営する川南工業だった。川南は造船所の新規建造のリスクを避けて既存造船所の買収を企画したが、その対象となったのが閉鎖して十年以上が経っていた松尾造船所だった。
 だから、この川南工業香焼島造船所は松尾造船所時代の旧式化した設備と、補助金を受けて新規に購入された最新鋭の設備が入り乱れている奇妙な工場となっていたのだった。


 自分を呼ぶ声に岩崎技術大尉はわれにかえって振り返った。ここまで案内してくれた篠原工場長が怪訝そうな顔で岩崎技術大尉を見やっていた。目的地まであと少しのはずだった。
戦時標準規格船一型の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji.html
戦時標準規格船二型の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji2.html
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