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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1942ベイルート航空戦3

 この空域で日本陸軍の一〇〇式司令部偵察機が確認されたのは、今日が最初ではなかった。今年に入ってからレバノン、シリア上空を飛行する姿が何度か目撃されていた。
 だが、当初は国籍標識を示さずに、密かに偵察飛行をおこなっていたらしい。そのような場合、偵察の確実性を犠牲にしても、駐留するヴィシーフランス軍やドイツ軍の将兵たちの大部分が兵舎から起き出して、本格的な行動を開始する前の黎明時に侵入し、機影が確認される頃には早々と離脱していた。
 しかも、当時は機体の塗装も視認性が低下するよう黒っぽい色であったという。
 おそらく、その頃はイラク王国で勃発した反英派によるクーデターに、枢軸側が本格的に支援を行うかどうかを密かに監視していたのだろう。


 昨年度のイラク王国で発生した親独派の軍首脳が中心となったクーデターは、国際連盟、枢軸双方に大きな影響を与えていた。
 イラク王国の現政権自体は、強制的な参戦が明記されていたはずの英国との条約を拡大解釈してでも何とか中立を保とうとしていたのだが、国内の反英勢力は規模を拡大しつつあった。
 最近ではイラク王国領土内からの産油量の拡大によって、イラク国内の社会構造は大きな変化を開始していた。英国資本の支配下で産油業に携わる労働者は、単純作業にとどまらず各地の油井の規模が拡大するに連れて現地人の下級、中級技術者も育成が行われていた。
 また、産油地の近郊にあった都市は、大量の労働者を受け入れるために拡大を続けた。労働者だけではなく、彼ら相手の商売を始める商人達も多くが都市に流入していた。
 当然のことながら都市部人口の拡大は食料消費量の増大を意味するから、都市周辺での農業生産の増産をも招いていた。

 この都市部人口の拡大が、それまでのイラク王国、というよりもは中東では見られなかったようなある程度の教育を受けた中間層の増大を招いていたのだが、産油業関係者を中核として増大した新たな中間層は、独占的な英国資本によって一方的に設定される労働環境や原油価格などに不満をいだいており、また英国の振る舞いを許す現王室にも反感を抱いていた。


 だが、このような現状に、イラク王室はもちろん、英国も対応することが出来ずにいた。英国が中等に持つ膨大な利権を自ら手放す理由はなかったし、旧宗主国オスマン帝国崩壊後に英仏などの手でこの地に君臨したイラク王室としても、後ろ盾となる英国を完全に敵視することは自分の首を絞める事にもつながりかねなかったからだ。
 いつの間にか大きく成長していた中間層の間に浸透していた現状を変化できない現政権に対する反発が、伝統的に反英的であった軍部と結びついた結果として起こったのが、昨年度のイラク軍将校団を中核としたクーデターだったといえた。

 クーデターによって親英派の首相と摂政は追放され、新政権は明確に枢軸よりの姿勢を内外に示してこれまでイラク王国を支配してきた英国からの脱却を狙っていた。
 それまで中東を支配していた英国にとって、イラク王国の政変は大きな衝撃となっていた。新生イラク政府が独伊と同盟を結んで、石油資源の輸出を行う可能性が出てきたからだ。
 独伊を中核とする枢軸国は、勢力圏内にルーマニア王国内のプロエスティ油田以外に有力な石油資源の供給源が存在しないことが英国側に対して大きな弱点となっていた。
 これに対して英国は、中東の他にも東南アジア圏の植民地にも資源供給源を有していた。さらに東南アジア植民地の資源地帯と結びついた友好国である日本帝国やシベリアーロシア帝国の工業力の存在も無視できなかった。
 産油国であるイラク王国の枢軸国加入は、そのような資源面での枢軸側の劣位を一気に覆す可能性があったのだ。


 しかし、そのような危機的な状況であったにも関わらず、当初はこの地域を管轄する英国軍中東司令部の動きは鈍かった。パレスティナとトランスヨルダンに駐留する部隊の一部が国境を超えて進出して、クーデターから脱出してきた一部の王室関係者や首相などを救出した他は、むしろクーデター軍の監視と牽制に終始していた。
 当時はイタリア軍に加えてドイツアフリカ軍団が上陸したことで北アフリカ戦線での戦闘が激化しており、イラク王国方面に派遣できる余剰戦力が枯渇していたからだ。
 英中東方面軍主力はエジプト、つまりは海上通商路上の要衝であるスエズ運河周辺を防衛するのに手一杯であり、英国本土から輸送された戦力も主戦線である北アフリカに次々と投入されていた。

 英国がアジア圏に持つ植民地やオーストラリア、ニュージーランドなどから兵力を派遣するのも難しかった。当時は未だヴィシーフランスの指揮下にあったフランス領インドシナには無視できない兵力が駐留していたからだ。
 陸上、航空兵力こそ治安維持を目的としたものであったが、フランス海軍がインドシナだけではなく、太平洋に散らばる仏領を哨戒、防衛するために展開していた艦隊を集結させれば、戦力の過半を大西洋の海上護衛戦闘やドイツ海軍への警戒に投入しなければならない英海軍がアジア方面に展開出来る戦力だけでは対処できないかもしれなかった。
 それにドイツに短時間で撃破されたオランダの植民地などでは、宗主国の権威が大きく低下したことで独立派民兵などが蠢動していたから、それらへの警戒も必要だった。
 もしもこの時点で有力な同盟国が参戦していれば状況は変わっていたかもしれないが、昨年度初頭は一時的にせよ英国が単独で枢軸軍と退治しなければならない最も困難な時期だった。


 だが、このように有利な条件があったにも関わらず、枢軸軍はイラク王国の新政権への本格的な支援を実施することはなかった。
 先の大戦での被害があまりにも大きく、今次大戦では中立を決め込んだトルコと、ヴィシーフランス支配下のシリアを経由して若干のドイツ、イタリアの航空機などの兵器がクーデター政権に輸出されていたが、大規模な兵力の派遣などはまったく行われなかった。
 当時はアルジェリアに駐屯していたからプレー軍曹も詳細は把握していないが、ドイツやイタリアがイラク王国に将兵を派遣していたとしても精々が少数の軍事顧問団程度だったはずだ。
 その理由は明らかだった。英国と同じく北アフリカ戦線にイタリアはほぼ全力を注いでいたし、イラク王国のクーデターに前後して開始された対ソ戦にドイツ軍主力は向けられていたからだ。
 両国ともイラク王国で算出される石油資源は大きな魅力だったが、この時点で予期していなかった地方まで戦域を拡大できるほどの余裕は存在しなかったのだ。
 むしろ、英国が植民地やオーストラリアなどに確保した予備兵力や、日本、シベリアーロシア帝国などの安全地帯にある友好国を有していたのに対して、枢軸国のほうが不利だったかもしれなかった。


 英独双方の陣営から半ば放置されていたイラク王国だったが、新政権の権威も盤石なものではなかった。王室関係者の多くはクーデター政権に非協力的であったし、英海軍による海上封鎖によって石油の輸出量が大幅に減少して外貨の獲得が途絶え始めた時点で、共産主義者などが煽り立てた飽きやすい中間層は早くも手詰まり感のあったクーデター政権に対して手のひらを返したように不満を上げ始める始末だった。
 クーデター政権の一部は、隣国のイランとの協調路線を図ろうとしていたが、イラン政府の方からにべもなく断られていた。それどころか精強なイラン王国軍の一部はクーデター政権を警戒して国境地帯に集結を開始していた。
 イランの場合、産油業の無計画な拡大が政府の予想を超えた急速な近代化と中間層の離反を招いたイラク王国とはやや事情が異なっていた。


 産油業を始めとする工業労働者の増大が発生したのはイラク同様であったが、イラン政府は予めそれを予想していたかのように企業体への労働者の待遇改善命令や段階的な参政権の付与、今世紀初頭に一度は放棄されていた憲法の改正と再公布などの新たに誕生した中間層への対策を矢継ぎ早に打ち出していた。
 それと同時に国家体制の転覆などを企む国事犯を取り締まるために、いつの間にか規模と練度を向上させていた秘密警察が全土で活動を開始していた。
 飴と鞭を使い分けた国民への懐柔策であったが、効果は少なくなかった。現在のイランの中間層は、イラク王国のように大きな体制への不満を抱いていないようだった。

 巧妙なことに、世俗化を意味するそれらの改革と同時にイラン政府は保守派の中心であるイスラム法学者達とも接触し、近代的な学校教育と並行して、マドラサへの寄進などイスラム法学体制の拡大強化など、彼らへの懐柔策をも同時に行なっていた。
 だが、これらの政策はイラン政府関係者が立案したものではなく、日本人の顧問団が提案したものであるらしい。実際にイラン政府の最近の政策の中には、急速な工業化と中間層の拡大による社会構造の変化を先発して経験していた日本帝国のそれと類似したものが見られていた。


 イラク内の産油業を英国資本が独占しているのに対して、イラン内の石油利権の多くには日本帝国の商社が、政府の指示で資本を投入していた。イラン政府が登用した顧問団は、その日本帝国の商社が送り込んだものらしい。
 イランの石油利権を日本帝国が有しているのは、先の欧州大戦における中東戦域において、強大なオスマン帝国と退治する英国を支援するために日本帝国がメソポタミア戦線に師団級の戦力を派遣したことへの露骨な論功行賞といえた。

 イランの閉鎖的な体質のせいで、外から政府の体制をうかがい知ることは難しいが、彼ら顧問団が重用されているのは相次いで出された政策からも明らかだった。
 表向きは石油利権を有する商社が派遣した民間人の顧問団だというが、実際には日本帝国の内務官僚経験者や退役軍人が大半であるらしい。
 もちろん書類上は政府機関からの退職や、軍からの除隊は行われているだろうし、実際に老年で定年退職したものもいるだろうが、実際には上層部の命令で表向き退役とされた現職の官僚や、現役の軍人で顧問団は構成されているはずだ。
 つまり商社が派遣したとはいっても、顧問団の実態とは日本帝国の政府正規職員に他ならないのだろう。だが軍隊だけならばともかく、植民地でもないのに統治機構に外国人を大っぴらに受け入れることも出来ない。
 だから顧問団が政府機関からではなく、民間商社によるものだと表向きは偽装しているのだろう。


 日本帝国がイラン国内の安定にそこまで介入しているのには理由があるはずだった。先の欧州大戦に前後して急速な工業化を成し遂げた日本帝国は、その代償として膨大な石油資源を必要としていたが、その安定供給のためだけに内政干渉という諸外国からの非難を受ける危険を犯してまで肩入れするとは思えない。
 おそらく日本帝国は、イランの北方国境をソ連と接するという地勢的な面を重要視しているのではないのか。つまりシベリアーロシア帝国や一時期のドイツ同様に共産主義国家との防波堤としての役割を期待しているということだろう。

 イラン国内の宗教家との接触まで日本帝国が関与しているかどうかは分からないが、彼らの説得の内容には関わっているのではないのか。よほどの原理主義者でもない限り、異教徒よりも共産主義者のような無宗教を掲げる人間の方を嫌悪するはずだ。
 ましてやソ連では信教の自由どころか、宗教の存在そのものを否定しているのだから、イスラム法学者たちにとっては不倶戴天の敵なのではないのか。
 それまで声高に主張していた世俗化を続けるイラン政府に対する批判を多くの法学者達があっさりと取りやめたのもそれが原因なのだろう。強大なソ連に対抗するには世俗化を伴っていたとしても富国強兵策を取るしか無いからだ。

 このようにここ二十年近くの政策もあって、現在のイラン国軍は、石油の輸出によって獲得した外貨によって買い付けられた豊富な欧州や日本製の近代兵器を装備した中東最強の軍隊に成長していた。
 おそらくイラク王国のクーデター政権はその強大なイラン国軍に期待したのだろうが、それは逆効果だった。クーデター政権の一部勢力に中産階級労働者たちを焚き付けた共産主義者が含まれていることが、イラン秘密警察の外事部門によって察知されていたからだ。
 その結果がイラン-イラク国境線へのイラン軍部隊の展開だった。


 イラク王国のクーデター政権にとって手詰まりの状態はあまり長くは続かなかった。日本帝国の正式参戦とフランス領インドシナへの侵攻によってアジア方面に関しては概ね後顧の憂いの無くなった英国が、余剰戦力をイラク王国南東のバスラに上陸させたからだ。
 それまでの膠着状態が嘘のように、マダガスカル島へのユダヤ人移送計画の護衛にあたっていたはずの日本海軍空母部隊の援護のもとに、上陸したインド師団は恐ろしいほどの速度で首都バクダットへの進撃を開始していた。
 有力な航空兵力を欠いたイラク王国クーデター政権軍は、ヨルダン方面からも新たな部隊が進出し始めたこともあって、約一ヶ月でイラク全土を追われて残存勢力は散り散りになりながらヴィシーフランス領シリアへと逃れていた。

 レバノン、シリア上空を偵察飛行していた日本陸軍の一〇〇式司令部偵察機は、当初はその脱出したイラククーデター政権の残党が再武装してイラク王国に進行してくるのを警戒していたのだろう。
 ただし、堂々と日本機である国籍標識を機体に描いた頃から偵察飛行の目的は変更されていたはずだ。

 プレー軍曹は、嫌なほど流麗な一〇〇式司令部偵察機の機体を睨みつけながら考えていた。間違いなかった。この偵察機は自分たちヴィシーフランス軍への攻撃のために必要な情報を得るために飛来しているはずだった。
一〇〇式司令部偵察機の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/100sr2.html
+注意+
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