雨宿り
突然の雨に降られ、甚六は山寺に駆け込んだ。
弥勒堂の軒下には数段の石段があり、一番上まで昇ると、なんとか濡れずに済みそうだった。
春雨かと思いきや……畜生め、本降りになりやがる。
深い木立に雨筋が見える。境内の玉砂利に雨粒が当たり、バチバチと激しい音が鳴った。
――ピカッ!! ……ガラガラガラッ……!
「……ヒッ!」
雷が鳴った拍子に、細い女の声が上がる。
ひさしから首を伸ばすと、いつの間にか弥勒堂の角に女が震えながら立っていた。
「――ねぇさん、そこじゃ濡れるだろう。こっちに1人くらいは入れるぜ」
甚六が声をかけると、藤色の上品な小袖の陰から、面長の白い顔が覗いた。
年の頃は、22、3か――年増と呼ぶにはまだ若い。商家か武家の若女房といった風情だ。
――女独りで、なんだってこんなひなびた山寺に……?
甚六は訝ったが、とりあえず若い女と軒下で雨宿りというのも悪くない。
「ほら、こっちを空けますんで……何もしやしませんから」
鼻の下が伸びていることを悟られないよう、殊更猫なで声を出した。
「――あい、すみません……」
細い鈴の音が震えている。白百合のような華奢な手を伸ばしてきたので、甚六は武骨な浅黒い手で、引き上げた。
すぐ側に女が身を寄せる。フワリと、桃のような甘い香が匂った。
久しく女の香などとは縁がない。しかも品の良い女盛りの艶やかな色香。
――こりゃあ、とんだ果報だぜ。
下心を抑えつつ、甚六は女の細腰に腕を回した。
「……おやめくださいまし」
女は身をよじったが、甚六はがっちり抱いて離さない。
「こんな所で何もしねぇよ。もっと寄りな、濡れちまう」
着物の上から柔肌が分かる。その感触だけで、とりあえず、今は勘弁してやろう。
ビカッ……! と稲妻が夕空を走る。
「――ヒャッ!」
瞬間、女が甚六にしがみつく。
――へへっ……ありがてぇ。
女の顔が甚六の胸に押し付けられて、思わず口元がニヤケた。
「……時に、ねぇさん。こんな場所に独りで来たのかい?」
女の震えが収まるのを待ちながら、甚六は優しく話し掛けた。
雨音が沈黙を打ち消している。
「――はい。亡くなった母の命日なので、こちらに参った次第です……」
「へぇ……おっかさんの墓参りか」
「貴方様は、何故こちらに?」
甚六は、ちょっと返事に詰まった。
正直を言うと、御上の追っ手をまいて山道を越え、半ば迷った挙げ句、偶然たどり着いたのだ。
「商いの使いの帰りなんだが……どうやら迷っちまってな」
商い、などと言いながら、甚六は身一つだ。
下手な嘘だが、甚六の頭では精一杯の答えだった。
「まぁ。それはお困りでしょうね」
「いいや、ねぇさんに会えたんだ、むしろ幸運だ」
「……まぁ……ふふふ」
段々、女は甚六に慣れたのか、身を寄せたまま笑みを浮かべた。
艶っぽい仕草。うなじの後れ毛。襟元から覗く肌襦袢。
――あぁ、こんな雨なら悪くねぇな。
甚六の身体がじわりと火照るのに、女はよほど冷えていたのか、なかなか熱が伝わらない。
「――旅の方……こんな話をご存知ですか?」
雨音を押し退けて、女が静かに語り始めた。
「うん……?」
「この辺りに、古くから伝わる話です」
間近に見下ろす女の表情は、よく分からない。
薄暗い雨の宵。夜の帳がヒタヒタと広がっていく。
「昔、ある男が道に迷い、偶然たどり着いた山寺のお堂の中で休んでいると、夜半過ぎに扉を叩く音がしたそうです」
まるで今夜の自分とそっくりだ。甚六は、無言で促した。
「男が扉を開くと、月明かりの中に女が独り。招き入れ、程なく二人は契りを交わしたそうなのです」
俺も、おめぇと……などと甚六は邪な想像を巡らせる。
「……女は、近くの山中に居を構えておりました。そこに男を連れて行くと、しばらく睦まじく暮らし、やがて女は身籠りました。ところが、男は旅の者。郷里に一度戻らなければならず、泣く泣く女の元を去りました」
訥々と、女は寝物語のように続ける。
遠くなる稲光を眺めながら、甚六は黙って聞いていた。
「半年ほど経ち、やや子が産まれる前にと、男は女の元に向かったのですが……山に近い村まで来ると、妙な噂を聞かされたのです」
「――妙な噂?」
ぽつり、甚六は問い直す。いつしか、この女の話に引き込まれていた。
「ええ……。山道を通る旅人が、悉く消えてしまうというのです。村人は、もののけの仕業だから、男にも行ってはいけないと、止めるのです」
――もののけ、か。ぞっとしねぇな。
山寺の周囲が、闇に沈む。
こんな状況で怪談話とは――先刻まで震えていた女の口から紡ぎ出されることが奇妙に思えた。
「男は、村人の制止を振り切って、山中に分け入りました。女の住まいが見えて来た時――若い男の悲鳴が聞こえてきました」
思わず、甚六は唾を飲んだ。
上下した喉仏を、チラリと女が一瞥した。
「そっと……男が裏口から覗くと、女は恐ろしい鬼の形相で、若い男をムシャムシャと貪り喰っているのです」
甚六は、雨とは異なる嫌な湿気が背中辺りに滲むのを感じた。
「男は、自分が契った女の正体を知ると、夜半まで草原に隠れ――女が寝静まった頃を見計らって、自らの刀で切り殺したのです」
また、雨足が強くなってきた。
月のない夜だ。
腕に抱く、目の前の女は、やけに白く見える。
「男は、産まれてくるはずのやや子も魔の者に違いないと、事切れた女の腹を裂きました。けれども、腹に子はありませんでした」
スッ……と涼しい夜風が首筋をくすぐる。
女の静かな語り口に、思わず身震いした。
「あら……ふふふ……」
女が甚六を見上げた。切れ長の三日月のような双眸が、妖しく細められた。
――なんだってんだ……この俺が。盗賊頭も務めた『般若の甚六』様が……ざまあねぇ……!
「ねぇ、甚六さん」
女は、甚六を見上げたまま、ニイッと微笑んだ。
「あんたのお父っつぁんは、五兵衛さんという名でしょう?」
「おめぇ……なぜ、それを……?!」
油汗が、額にびっしり吹き出していた。
気づくと、女がガッチリと甚六を抱き締めている。
「――やい、離せ、この……!」
振りほどこうと腕っぷしに力を込めたが、何としても離れない。
この細腕の、どこにそんな力が――。
――ピカッ……!
その時、雷光が走った。
甚六をしっかりと捕らえる女の背後に、影がない。
「この――化け物め!!」
甚六は叫んだ。
叫んでも、誰も助けがないことは分かっていたが、声を挙げずにはいられなかった。
「五兵衛さんは、あたしのお父っつぁん。……ねぇ甚六さん――今夜は、おっかさんの命日だと言ったでしょう? きっと呼んでくれたのね……」
翌朝。
雨が上がった弥勒堂の軒先で、血だらけの着物が見つかった。
目撃者の証言で、その着物が、麓の村の油問屋で残虐な強盗殺人を働いた『般若の甚六』が身に付けていたものと確認された。
しかし、甚六の姿は、ついぞ見つかることはなかった――。
【了】